九月九日。この日が、私にとってどういう意味を持つ日か、わかるだろうか。
この日こそ福音。一昔ほど前、私はこの日を境に、世界一幸せな男となったのだった。
そして二十年前、成長していく娘たちを見て、私の幸せは日増しに広がり、日毎堅固になっていったのだった。
元気一杯で、少しやんちゃなところがある、でも優しい杏ちゃん。
少し奥手だけれども、乙女らしいところのある椋ちゃん。
二人は、私の宝物だった。二人とも見事に香織の美しさを引き継いでくれた。そして年を重ねるとともに、その美貌は磨きがかかっていった。
しかし、私は幸せに浸りすぎて、愚かな間違いを犯してしまったのだった。
知人の紹介で、私は娘たちに光坂高校に通うことを勧めてみた。光坂高校は家から近い上に全国でもそれなりに名の知られた進学校。杏ちゃんや椋ちゃんの夢を叶えるにはぴったりの場所だと、その時は思っていた。
迂闊だった。私はかわいい娘たちを手元においておきたいがために、全寮制の女子高に通わせるという正しい選択をしなかったのだから。その結果が
「あらあら、柾子ちゃん、お父さんが大好きなんですねぇ」
「柾子は勝平さん子だからね。でも、勝平さん、忘れないでください。私、勝平さんのこと、愛してます」
「忘れるわけないじゃないか、椋さん。僕も、椋さんを心のそこから想ってるよ」
「いいなぁ……ねぇ、陽平、もうそろそろあたしたちも、ほら、その」
「あ……ええと……ああ」
この有様である。
娘たちにファッキン野郎が二匹もついて誕生日もおちおち祝えないSS
そもそも、何でこうなった。
まず、九月になった。二年前までは私と香織、そして杏ちゃんが住んでいたこの家も、去年の夏に杏ちゃんがあの下等生物に奪われてからは静かになった。いや、空しくなった。そしてその空しさ寂しさは九月に入ったとたんに増大した。原因不明の侘しさに、私はげんなりとしていた。
「二年前は、杏ちゃんと一緒にお誕生日を祝ってましたものね」
そんな私を見かねてか、香織が何気なく核心をついた。そうだった、九月といえば杏ちゃんと椋ちゃんの誕生日。小さい頃はトンガリ帽子をかぶって歌を歌っていた、そして近年では小洒落たアルコール飲料で乾杯していた記念日。本当に楽しい日々だった。遅く帰ってくると二人揃って私の足に抱きついた時もあった。プレゼントを開けた途端に目を丸くして感嘆の声を上げ、そしてその後「パパ大好きっ」とほっぺにチューしてくれたこともあった。そんな輝かしい記憶が蘇ってくると、目頭が熱くなってきた。
「あらあら、敬一さんたら。そんなにみんなに会いたいんだったら、お呼びになられたらいいのに」
「呼びたいのは山々なんだけれど、杏ちゃんたちが来るとなると、変な虫も付いてくるからなぁ」
そう。
私の幸せは、凡そ十五年前に突然崩壊を始めた。まず椋ちゃんに彼氏ができた。どこの馬の骨ともわからない優男で、私は正直椋ちゃんがたぶらかされているのではないかと思った。少なくとも、ふらりとこの町にやってきて、定職にも就かない男が娘の彼氏だったら、普通はそう思う。これは秘密だが、実際私は椋ちゃんが目を覚ましてくれるよう近くの神社に百日間願をかけにいった。そしてその願いが成就したかと思ったのは、その男 − 柊勝平 − が骨肉腫だとわかり、また手術に対して渋っていると聞いたときだった。病気にかかると、人はあらゆる側面を見せてくる。優男にも醜い側面はあるだろうに、それを目の当たりにして椋ちゃんが男をフッてくれれば、と願った。
しかし、結局は足を切断しなくてもいいという手術があると聞き、その男は手術に同意、九死に一生を得たのだった。そして椋ちゃんはその優男と結婚、苗字も柊に変わってしまった。
神は死んだ。正直、私の賽銭代十二万五千九百十四円を返せと思った。
だが、私にはまだ望みがあったのだ。そう、杏ちゃんである。幼稚園の先生という職業柄、杏ちゃんの職場には若造がいない。杏ちゃんを毒牙にかけるような奴はいないと踏んでいた。杏ちゃんなら、パパがパパの眼鏡にかなうような好青年を見つけ出すまで独身でいてくれる、と信じていた。ぶっちゃけずっとパパの傍にいてほしかった。(注:敬一さんの眼鏡にかなうような好青年は未来永劫現れません。 香織)
しかしそこで誤算である。よりにもよって杏ちゃんは高校時代の知り合いというただそれだけの接点を持った人とも化物とも区別のつかないモノと付き合い始めてしまったのだ。こればかりは計算外だった。今更杏ちゃんを女子高に送らなかった己の浅慮を恨んだ。最初はそんなモノ、杏ちゃんにさっさと愛想をつかされるだろうと踏んでいた。しかし一年経ち、二年経っても破局の予兆はなかった。いても経ってもいられず、似たように最愛の娘をどこぞの馬の骨に奪われた坂上氏のもとに相談を持ちかけたが、色よいアドバイスはもらえなかった。そうこうするうちに杏ちゃんが、杏ちゃんが、あんなことを言うとは。
「パパ、あたし陽平と結婚するの」
正義は死んだ。この世に光はない。
「んんっ、ごほごほっ」
訂正しよう。この世に香織以外の光はない。
とまぁ、以上の出来事で私は最愛の宝を二つとも奪われてしまったのだった。そして奪っていった奴らは私の娘をそう簡単に返してはくれない。だから杏ちゃんと椋ちゃんを家に呼ぶと、決まって有象無象共も金魚の糞みたいにくっついてくるのだった。いっそ「優男・化物立ち入り禁止」と看板でもかけようかと思ったが、香織に体裁を考えるよう叱られた。
「あらあら、いいじゃないですか。勝平さんも陽平さんも、いい方ですし」
「いい方、だと?ふん。私の杏ちゃんと椋ちゃんをさらっていった泥棒にいい奴もヘチマもない」
鼻を鳴らすと、香織がくすくすと苦笑いをした。そして笑みを浮かべたまま、ぽつりと呟いた。
「柾子ちゃん」
「なにっ、どこだどこだっ、私のぷりちーぐらんどどぉたぁの柾子ちゅわんは、今いずこっ!!?」
反射反応だった。パブロフの犬だった。
「椋ちゃんが来るとなると、柾子ちゃんもおじいちゃんに会いたいでしょうねぇ」
「もちろんだ。柾子ちゃんの自慢のじぃじだからな」
がははは、と仁王立ちして笑うと、香織が更に笑みを浮かべた。
「それにしても杏ちゃんも、先生のお仕事がすっかり板についてきてますよね」
「そうだな、うん。杏ちゃんはもともとやってできる子だったからな」
「柾子ちゃんをあやす杏ちゃんのまなざしといったら、もうそれはそれは母性愛に満ちたものですものね」
「うむ。願わくば杏ちゃんも早くママになって自分の子にそういう表情をだな……」
「ええ。ところで敬一さん、赤ちゃんは母親のみでできるものかしら」
「何を馬鹿な。父親が……」
そこで私はようやく香織の意図に気づいた。クモの糸に気づいた。
「勝平さんも陽平さんも、それなりに容姿は悪くないですものね。ああでも敬一さんが最高ですけど」
「む、ま、まぁそうだな、私と比べてしまったらかわいそうだろうに」
「ですから、柾子ちゃんもかわいいし、将来会うであろう杏ちゃんの子供もかわいいでしょうねぇ」
「……」
「というわけで、家族みんなをお呼びするということでFA?」
「……むぐぅ」
それを是と取ったのか、香織は笑いながら電話を取りに行った。
しかし、それでも天は私を見放さなかった。
「それでね、椋ちゃん、みんなで一緒に……あらあら、それは残念ね。お仕事が入っちゃってるなんて……そうね……モテる男は辛いですものねぇ……わかったわ、そう伝えておきます」
そう言いながら香織が帰ってきた。
「困りましたね……勝平さんも陽平さんもお仕事が忙しくて当日は難しいらしいですって」
キタ━━━━━━━━━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━━━━━━━━━!!!!!!
「そ、そうか……ざ、残念だな、ふわっはっはっはっは」
「……敬一さん、残念といいながらその豪快な笑い声は何ですか?」
「ふはは、むわはは、まぁ気にしなくていい。ぃやっほぉぉおおおおおおおおうっ!!」
その日、私は改めて思った。そう、神道で願いが通じる訳がなかろう。時代は今やキリスト教。教会に通って祈ったのは正解だったか。
当日。
私は上機嫌な自分を隠しきれずに、鼻歌を歌いながら家の中をスキップしていた。ああ、妻香織に娘の杏ちゃん椋ちゃん。そして孫娘の柾子ちゃん。私は、私は幸せ者だっ
そう思っていると、ドアのチャイムがなった。いつも聞きなれているそれが、その時は天使の奏でるハープのように聞こえたから不思議だ。
「はいはーい……じゃなかった、うぉっほん、さあどうぞ」
声をソプラノからテノールに変えると、私はドアを開けた。
「ちっす。新聞いかがっすかぁ?今なら洗剤にシャンプーも……」
最後まで聞かずに私は靴箱に隠してあった仕込み丈を取り出すと、鯉口を切った。
「え、あ、洗剤が嫌なら、読買ビッグメンのチケットを……」
「うちは先代のころからティーゲルズのファンだぁぁぁあああああっ」
あろうことかライバルチームのチケットを差し出すとは。差し出されたチケットの束を一閃すると、新聞屋は悲鳴をあげて逃げていった。まったく、何たることだ。
「あらあら、敬一さん、怒るところが違う気もするんですが」
苦笑する香織。その傍を通って私は再度鏡に向かった。むぅ、今の狼藉者のせいで、髪の毛が少し乱れてしまったではないか。
「少しぐらいの乱れなら、大差ないと思いますけれど」
「むぅ、それはどういう意味だね」
「つまりそんなんじゃ杏ちゃんも椋ちゃんも敬一さんが大好きであることには変わりがないということです」
「そうだろうっ?!なっ、そうなんだよ、私は杏ちゃんにも椋ちゃんにも愛されている幸福な男なのだよっ」
「はい。二人の心の中では、現在第二位を同時に占めていますよね」
「……一位は誰だというのだ」
「もちろん、陽平さんに勝平さん」
「ぬぉぉおおおおおおおおおおお、じぇ、じぇらすぃいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
頭を掻きむしって絶叫した。うぉおのれ小童共。私の、私の娘たちを返せっ!!
「あらあら、敬一さん、髪の毛セットしなおしですね」
「む」
カンコーン
「あらあら、杏ちゃんかしら。椋ちゃんかしら」
ぱたぱたと香織が玄関に駆けていった。その間に鏡を見ながら髪の毛を直す。
「やっほー、お久しぶり、ママ」
「こんにちは、お母さん」
「あらあら、二人一緒に来たの」
「ばぁば、こんちゃ」
「あらあら、こんにちは、柾子ちゃん」
全身の神経が音を立てて研ぎ澄まされた。あの声は杏ちゃん、椋ちゃん、柾子ちゅわんっ
いや、待て待て。ここは一つ、父親の威厳を見せるためにも落ち着いて、深呼吸。よし。ではレディーズを紳士らしく迎えに行こう。
「杏ちゅわぁああんっ!椋ちゅわぁあああああんっ!!しょぉおおおこちゅわぁあああああああああああああんっ!!」
「わっ、パパ」
「お父さん」
「じぃじ」
「みんなよく来たねぇっ!会いたかったよもぉ。ここんところすっごく、あ、ものすっごくさびしかったんだからぁ」
三人をひっしと抱きしめ、そして頬ずりをした。くすぐったそうに笑う杏ちゃん。
「まったくもう、大げさなんだから」
「でもお父さんが元気そうでよかった」
「じぃじ〜」
それぞれに異なる反応を見せながらも、三人とも私への愛情を湛えてくれている。ああ、至福なり。このまま死んでもいいと正直思った。
「あらあら、敬一さん、それではみんなが窮屈ですよ」
「そうね……パパ、ちょっと放して。今あがるから」
「あ、ああ、そうだね、ごめんね杏ちゃん」
私はレディーズを放すと、照れ隠しに笑った。
「にしても、みんなこれたわね」
杏ちゃんはリビングのソファに座るなりそう言った。
「そうだね。勝平さんや春原君がいないのが残念だけどね」
ああ椋ちゃん、あんな奴らのためにそんなに残念がる必要はこれっぽっちもないよ。
「ぱぱ、これないの」
柾子ちゃん、いいんだよ。じぃじがいるから寂しくないよ。
私がそう言って膝の上に座る可愛らしい孫娘に笑おうとしたその時
「待ってなさい、柾子。パパ、後で来るからね」
……
…………
………………………………
「はい?」
「あ、勝平さん、昼間は忙しいけど、早めに仕事を切り上げてくるから、あとで合流するって」
「あ、そうなんだ。陽平もちょっと遅れるけどくるって言ってたし、これでみんな揃うわね」
「ぬぅぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
私は絶叫した。光り輝く光景に、ひびが入ったかのように見えた。くそっ、キリスト教でもだめだとは、あやつらは化物か?次はイスラム教にでも改宗すべきだろうか。
「わっ、パパ大丈夫?」
「お、お父さんが壊れた……Amazonで新しいの買わなくちゃ……」
「じぃじ、ないてる」
「あらあら」
きんこぉぉん、とおどろおどろしくチャイムが鳴り響いた。私は重々しい足取りで玄関まで行くと、覗き穴に目を当てた。くそっ、二匹まとめてやってきたか。
私はドアを開けると、短く言い放った。
「のー・さんきゅう」
バタン。
沈黙
「ふぅ、これで邪魔者は去った。さ・て・と、杏ちゃんたちのいるリビングにいこっと♪」
「ちょっ、いくらなんでもそれはないですよねぇえっ?!」
化物が吠えた。扉の向こうなのでよくわからなかったが、優男も頷いている気配がする。しぶしぶ私はチェーンをかけたままドアを開けた。
「む、何だというのだ。貴様ら私の家の敷地内に足を踏み入れて、無事で帰れることがいかに運のいいことかわからないのか」
「あたかも僕たちを悪漢であるかのように言わないでください」
「黙れ小僧。そもそも貴様が私の椋ちゃんを奪わなければ、二人とも私の元にいたままだったのだ」
「いやぁ、椋さんみたいにきれいな人がいたら、そりゃあ恋にも落ちますよ」
「む。わかっておるではないか」
「そうそう、お義父さん、杏があまりにも美人だからって独占したくなるのもわかるけどさ」
「なにおう、知った風な口を利きおって……」
と、私が仕込み丈をたぐり寄せた時
「もぉ、陽平ったら……そんな大きな声で言ったら近所に聞こえるでしょ」
「っ!!杏ちゃんいつのまにっ!!」
ふと見れば私の後ろで杏ちゃんが顔を赤くして笑っていた。
「だって、ねぇ?陽平にそんなふうに言われたりしたら反応するわよね」
「……そういう、ものなのかな、杏ちゃん」
「そーよ」
ううむ、どこか違うような気もするが。気配を隠していきなり現れるところとか。こんな奴にぞっこんなところとか。
「で、あんたたち、何玄関で集まってるのよ。入らないの」
「あ、そ、そうだね。じゃあ、お邪魔します」
「ちっす。やー、遅れちゃって悪いね」
「早くしなさいよ。いろいろと手伝ってもらうこととかあるんだから」
そう言われてバカと優男はいそいそと私の家に入っていった。
そして冒頭に戻るわけである。娘たちは野郎どもの傍にいるし、柾子ちゃんは優男にべったり。ああ、私の至福の時は一体どこに行ってしまったんだろうか。
「あらあら、もうそろそろケーキの時間じゃないかしら。杏ちゃん、手伝ってくれる?」
「あ、うん、わかった」
そういって香織と杏ちゃんが食卓から離れた。ここぞとばかりに人外をにらみつけた。
「春原君」
「は、はひっ」
「春原君みたいな脳みその容量が哀れすぎて具体的な数字を出すことすらもはばかれるようなバカでも、椋ちゃんが母親として幸せだということはわかると思う」
例えそれがどんな馬の骨でもな、と心の中で毒づいた。椋ちゃんの機嫌を損ねるのはまずい。
「……今、何だかすごく失礼なことを言われたよね、僕」
「おっと失敬、理解できるとはおもわなんだ」
「理解できるよっ」
「ところで、君はいつまでその幸せを杏ちゃんから奪うつもりなのかな、ん?」
ぎろり、と目を光らせた。
「ええっと、それって……杏ちゃんに手を出してもいいってことですよね」
「娘に手を出したら殺す。すまないが、私はそう誓っているんだ」
「ムチャクチャ物騒っすよね、アナタ!!」
「すまんな、前世からの因縁なんだ」
「絶対に違うよね?ただの親馬鹿ですよねぇ?!」
すると、柾子ちゃんが頬をふくらませて言った。
「じぃじ、すのぴーいじめちゃ、めっ」
……
「さっきからじぃじ、すのぴーのことこわいめでみてる。すのぴーかわいそう」
…………
「じぃじがすのぴーきらいなら、しょーこ、じぃじきらい」
……………………
「春原君、これは一体どういうことだね」
私はツンドラもあったかく感じるような温度の声で問いただした。
「え、どういうことって……」
「何で貴様のせいで私が孫娘に嫌われなきゃならないのかね」
「え、それって普通に……」
「貴様、いつのまに柾子ちゃんに手を出した?いつのまに柾子ちゃんをたぶらかした?」
人外が見苦しく「してませんよそんなことっ」と言っている間に、私は仕込み丈を手に取った。
「貴様という奴は……貴様という奴はっ!!」
抜刀すると、人外に切りかかった。ひぃっ、という悲鳴をあげて、奴は辛くも私の一閃をよけた。
「待て、逃げるかっ」
「逃げますよね普通っ?!つーか、銃刀法はどこいったぁあっ」
ちょこまかと逃げる人外。優男と椋ちゃんはいそいそとテーブルの下に避難していた。柾子ちゃんにおいては椋ちゃんが目隠しをしていた。
「おのれよくも……よくも私の柾子ちゃんを……!!」
「一応僕も柾子ちゃんの伯父なんですけどねぇ?!」
「うるさいだまれっ!娘に手を出す奴は……私のレディーズに手を出す奴は、こうなる運命なのだっ!!」
すると、人外が足を止めた。
「ほう……覚悟は決まったか」
「……杏に、手を、ね」
「むぅ?」
「つまり、何?あんたに認められるには、あんたの一撃を受けなきゃいけないとか」
「む、むぅ?」
人外が私を射すくめるように見た。馬鹿な、私がプレッシャーを感じている、だと?
「貴様正気か?それとも私の腕を舐めてるとか」
「ん。痛いよねぇ、それで切られたら。でも、おかげさんで今まで杏の撃ったり 燃やされたり いたぶられたり埋められたり せがまれたり辱められたり、終いには『それってあたしの愛なの』とか言われたりな撲殺天使人生に耐えてきましたから」
ふふん、と人外は笑うと、私に人差し指を突きつけた。
「僕のギャグキャラ人生は伊達じゃないっ!!」
何だ。
何なんだこの自信、このオーラは!
く、これが人外の力なのかっ
「お、脅しと思っているのか、貴様ぁ」
「脅し?さあね。だけどひとつだけ言わせてもらおう」
人外はそこで一旦切ると、息を吸った。
「あんたに切られる痛みより、杏の傍を離れるのがずっと痛いんだよっ」
「よく言ったわ、陽平」
急に手に鋭い痛みがしたので、私は仕込み丈を取り落とした。
「なっ……ぐぅっ?」
みると、ちょうど私の手に当たったら落ちているだろう位置に、ミニ辞典が転がっていた。ポケットサイズのものだ。戸口のほうを見ると、そこには不敵な笑みを浮かべた杏ちゃんが立っていた。
「その言葉、その覚悟……全部聞いたわ。それでこそあたしの……」
杏ちゃんの笑みが、不敵なそれから、誇らしげな、晴れ晴れしいそれに変わった。
「あたしのペットよ」
「ペットじゃねえよっ!!」
今までの雰囲気が台無しになった。
「え」
「何、その『え』は?何でそんなに意外そうなのっ?!」
「あ、ごっめーん。陽平はあたしのペットじゃなかったわよね……それでこそあたしの奴隷よっ」
「あんたの旦那だよっ!!」
「ええっ」
「だからその驚いたリアクションは何っ?!」
「てっきりうちに住んでる居候かと」
「……もう、何だかすっごく悲しくなってきちゃったよ……」
「と、ここまでドッキリ」
「それで全部説明しちゃうんだっ?!」
杏ちゃんと人外がぎゃーぎゃー騒いでいるのをみて、私は激しい脱力感に襲われた。
「あらあら、切った張ったという感じじゃないですね、敬一さん」
「……」
どうでもいい。そんな自分に支配されていく私を尻目に、ケーキが分配されていった。
「くそっ、くそっ、くそっ」
その夜。
私はしきりに寝返りをしたりイノシシの子供を数えたりしていたが、一向に寝付けなかった。それもこれも、同じ廊下にある部屋で寝ている杏ちゃん椋ちゃん柾子ちゃんアンド付属物のせいだった。
「もう我慢ならん」
私は起きると、ガウンを羽織ってベッド下に隠してあったゴルフクラブを手に取った。婿殿二人を打ち殺さんことには、この憤りは収まりそうになかった。
「今なら、いくら何でも寝静まっているだろうな」
寝ていなければ殺す。夜伽などしていたらなお殺す。寝ていたら計画通り殺す。
「くっくっく……謎の殺人事件。朝になってみたらすでに死んでいました。くっ、一体誰がこんな酷いことを」
「あなたを、犯人です」
「ぬおっ」
私は背後からかけられた声に驚いた。くすくす、と香織が笑った。
「い、いやぁ、どうしたんだい?私はこれからちょっと打ちっぱなしに行ってくるが……」
「あらあら、私に隠し事をできると思ってらっしゃるんですか」
無理だった。儚い抵抗だった。
「それに、敬一さんだって、陽平さんと勝平さんが嫌いだから焦っているんじゃないでしょう」
「む、それは聞き捨てならんな。どういう意味だ」
そう返すと、香織はおかしくてたまらない、という具合にくすくす笑った。
「あの二人を受け入れ始めてるのに戸惑ってらっしゃるんじゃなくて?」
私は仰天して香織の顔を見た。月明かりがいたずらっぽそうな笑顔を浮かび上がらせる。
「立ち止まって啖呵を切った陽平さんを見て、ほっとしたんじゃありません?」
「い、いや、そういうわけでは……」
「テーブルの下で勝平さんが椋ちゃんと柾子ちゃんを抱きしめていたのを見て、安堵なされたとか」
「むぐ」
「杏ちゃんと陽平さんの掛け合いで、杏ちゃんがあんなに笑ってるのを見て、いきおいが霧散しちゃいましたね」
「うぅ……」
「いいんですよ、それで」
返す言葉も見つからず、私はベッドに倒れこんだ。
「……しかし、しかしなぁ、香織。私は寂しいんだよ」
「私もですよ。でもね、それが娘を持つものの宿命じゃないですか。男の子だったらもっと厳しかったかもしれませんよ」
「だけどなぁ……」
「まぁまぁ。私たちには柾子ちゃんもいますし、杏ちゃんと陽平さんに子供ができたら、またかまってくれる相手も増えますよ」
「む、むぅ」
香織はそれだけを言うと、寝入ってしまった。私はしばらく考えていたが、小さく呟くと寝返りを打った。
「杏ちゃん椋ちゃんを泣かせたら、ただじゃおかないからな」
それからしばらくたったある日のこと。
「貴様、そこにいたかあっ!!」
「普通会社まで追っかけてきますかねぇっ!!」
「だまれっ!!この人外め、杏ちゃんに何をしたあっ!!」
「何って……ナニだよね……って、ひぃいいいいいっ」
「杏ちゃんに手を出しおって、万死に値するっ!!」
「僕はただ母親の幸せって奴を……うわっ……聞いてませんよねえっ!?」
「聞く耳持たんっ」
「理不尽もいいところだよっ!!ひぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ」
藤林家の義理の息子ちの受難は、まだしばらく続くようである。