私はこの街を信じています。
この街で、私は富を得ました。
そして私は娘達をこの街に相応しく育てました。
彼女達には自由を与えましたが、恥を知り、誇りを失うことなかれと教えました。
そのうち、下の娘が一人の男と付き合い始めました。どこの馬の骨とも解らないような優男です。娘は彼と出かけました。映画を見に行きました。遅くまで一緒のデートもしましたが、私は文句を言いませんでした。
数年前、彼に珍しい病気が見つかりました。私達は娘のために悲しみました。そして、あの日。私はあの日のことを忘れたりはしません。あの日、おお、何ということでしょう。
娘は手術で一命を取り留めやがったその女男と結婚してしまったのです!
彼女は私の光でした。美しい娘でした。それをあんな男がっ!
すみません。
私はもう一人残った娘のことが気がかりでしょうがなかった。幸い、彼女はその純潔を守り、淑女として恥ずかしくなく、今では人様のお子様の面倒を見る、立派な仕事に就いております。しかし、ああしかし……!
何と言うことでしょう。ある日娘はそれこそ人間かどうか微妙な男を家に上げて、「パパ、あたしこの人とつき合うことにしたから」と宣言しました。妻は泣きませんでした。ただ「あらあら」と微笑んだだけでした。「杏ちゃんも、とうとういい人が見つかったのね。春原さんでしたっけ?杏をよろしくお願いします」「えへへへ」という会話が流れる中、私は心の中で泣きました。何故泣いたのでしょう?彼女は私の希望だからです。
私は妻と話しました。いい父親として、いい夫として。しかし妻は取り合ってくれませんでした。そしてある時、あの野郎は私に向かってこんな、恥知らずなことを言ったのです。
お義父さん、と。
それを聞いた時、私は誓いました。「正義のため、坂上さんに会いに行こう」、と。
教えて!坂上さん!
ありのまま、今起こったことを話そう。
私が静かにほうじ茶を啜っていたら、いつの間にか藤林という御仁の娘に関する悩み事を聞かされていた。
無論、これだけでは何を言っているのかわかるまい。しかし私自身事態を掌握しかねているのも事実だ。
眩暈がする。
どうもこの人が危険な薬に手を出しているとか、私の家の前に「恋愛相談所」という看板が立てかけてあるとか、そういう安易な間違いではないようだ。
もっと摩訶不思議な物の片鱗を、ひしひしと感じる五十三歳の春だった。
「取りあえず、なぜ私のところに?」
すると藤林氏は言い辛そうに目を伏せ、そして決意して言った。
「あなたの娘さんは、とても優秀だと聞きました。実は私の娘の親友の一人であるそうです。彼女は高校二年生の頃に私の娘の高校に編入し、そして生徒会長にまでなって桜並木を残したという偉業を成し遂げた、立派な方だとお聞きしております」
いや、そこまで娘のことを褒められると、照れるな。まあ事実智代は綺麗で品もよくて、頭も気立てもいい子に育ってくれた。おまけに朋也君とも仲良く行っていて、幸せそうにしている。うん、素晴らしいことだ。
「しかしその伴侶の男は街の電気工をしているとか……」
「まあ、そうですな。今では指導する側に回っているようですが……」
すると藤林氏は私の手を握って目を潤ませた。
「心中、お察しします。可愛い娘をとんでもない男に奪われる痛み、この藤林敬一よおっくわかります」
おいおい、何だか変な話になっているぞ。私は別に朋也君をそんな風に思っているわけではないのだがな……
するといきなり襖が開き、妻の伽羅が顔を出した。
「藤林さん、お心遣い、どうもありがとうございました。こちらこそ、心痛お察しします」
するするする。襖が閉まる。
何だったんだろうな、あれは。
「つまりまあ、先例というわけですね」
「えー、あー、身も蓋もない言い方をしますとそうなります」
「なるほど。それで私に何をしてほしいんですか?」
「あなたにお話を伺いたかったんです。私は一体どうしたらいいのでしょう?私の大事な娘を、杏ちゃんを幸せにするにはどうしたら……?」
私はため息を吐くと、しばし考えた。
「まず、あなたはどうしたいんです?」
すると、すっと藤林氏の顔に影がさした。
「そうですね……まず最初にあの春原とかいう男。五体を切り刻み、それを目の前で酸で溶かした後、胴体だけをドラム缶に詰めて首を残してコンクリート漬け、東京湾に入れて溺れかけたところを引き上げ、そのまま三原山の火口にどぼんで許してあげましょう。勝平とかいう、私の椋ちゃんから藤林の名字を奪った野郎はナイフで傷を付けた後、サメのたまり場に突き落として三分、もしそれでも生きていたらこの手でゴルフクラブの錆にしてくれよう。くくく、脳漿を噴き散らして私の怒りをその身に刻みつけるがよいわっ」
却下。そんなことを勧められるはずも
「藤林さん。素晴らしいアイディアですね。参考にさせていただきます」
するするする。伽羅が言った後、いつの間にか開いていた襖が閉まった。
一体全体何なのだろうか。
「あー……おほん、藤林さん、下の娘さんの件ですが」
「は、はいっ」
「彼女は今どうしておられますか?」
「看護学校を出て、今では隣町の病院で白衣の天使として活躍しています」
「なるほど。そして彼女は今、幸せですか?」
すると藤林さんは面食らった顔をした。
「それは、まあ……あまり不自由な暮らしはしていないようですが……」
「あなたは娘さんとよく話されますか?電話とかで?」
「いや、お恥ずかしいながら家内が電話で話しているのを聞いたり、後で家内に聞いたりという始末です」
「お忙しいでしょうからな、まあ仕方のないことです」
「何分、娘の勤務時間が週末を含めたりしますので、休日がいつなのやら……」
「ふむ。では、彼女が泣いて帰ってきたり、奥様からそのような様子を聞かれたことは?」
「ない、ですね。むしろ惚気話ばかりで困る、と言っておりました」
ふっ、と知らず知らずのうちに笑みを漏らした。
「客観的に申しますと、巷ではそれを幸せ、というそうですよ」
「なっ!し、しかし椋ちゃんがあ、あんな男と……」
「ちなみに勝平さん、でしたかな?義理の息子さんは何をなされているのですか?」
「一応、ジャーナリストということになっております。柊勝平、という三文記者にも劣る男ですが」
柊勝平。はて、どこかで……あ
「この方ですかな?」
私は邪魔をされる前に読んでいた雑誌の一面を示した。「ほしのささやき」。うん、間違いない。この雑誌のメインは彼の記事だ。
「何だ、立派な仕事をされているではないですか。いやあ、うらやましい限りですな」
「……し、しかし」
「藤林さん」
諭すように言った。
「娘とは、えてしてそういうものです。いつかは、父親を離れていくもの。ですから、要はそれで幸せでいてくれればいいんです」
「……そういう、ものですか」
がっくりと項垂れる藤林氏。
「まあお気持ちはわかります。私も娘が岡崎姓を名乗った時……」
「おっ岡崎だとぉ!!」
急に憤怒の表情を顕わにして仁王立ちする藤林氏。
「は。何か」
「い、いや、すみません。昔娘の友人で岡崎朋也なる男がいまして」
「ほう」
「娘を二人とも取られそうになりました」
何だと?!
「それ以来岡崎と聞くと憎悪の発作に駆られてしまい、また岡崎朋也などという名を聞いた日には例え同姓同名の者でもこの手で……っと、ああすみません」
「い、いえ」
その時するすると襖が開き
「藤林さ……」
ぴしゃり。
伽羅が何か言う前に襖を閉めた。いくら何でも朋也君をむざむざ飢えた虎に手を縛って放り出す真似はしたくはない。
「ちなみにその岡崎朋也という者ですが……」
「ええ、今では結婚して、近所では有名なバカップルだそうですが、何か?」
「いえ」
浮気はしていなさそうだった。しかし朋也君にもそういう面を持っていたとは……智代一人で一杯一杯かと思っていたがどうしてなかなか。男たるもの、女の一人や二人ぐらいげふんげふんげふん。いや、家庭内の平和のために浮気だけはいけません。
「さて、その杏さんでしたが、その春原さんとはいかなる若者で?」
「ええ、聞いて下さいよっ!もうこいつはさっきの三文記者のパパラッチよりもひどいんです!進学校に行ったものの遅刻や無断欠席の常習魔。挙句の果てには進学せずに就職とは……全く杏ちゃんは何を考えているのかっ!これで血縁関係が破綻でもしていたら、家の近くに来ただけで必殺ホールインワンを炸裂させるところです!」
その全ての項目を満たしていた青年が義理の息子とはとてもじゃないけど言えない。はっはっは、考えてみればとんでもない奴に惚れたものだな、智代。
「ふむ。しかし杏さんはその春原という青年に?」
「……好きなんだそうです」
堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、汚らわしくもおぞましいものを形容するかのような口調だった。
「なるほど」
私は腕を組んだ。そしてしばし思い出に耽ると、また「なるほど」と呟いた。
「いやすまない。懐かしい記憶を思い出したのでね」
「そうでしたか……」
「藤林さん、あなたは恋人の間で一番重要なのは何か、御存知ですか?」
「恋人、ですか?それは……」
「そう。互いに想う気持ちです。どちらかが依存するのではなく、またどちらかが利用するのでもない、お互い自分の足で立って、そしてそれでも互いを必要とすることです」
「自分の足で立って、そして互いを必要とする、ですか」
矛盾しているとは思う。しかし本当のことでもある。
「そうです。例えばドラマで『お前なしでは生きていけない』と男が言うとします。その時、もし何らかの不幸が起こって、恋人の一人が死ぬとします。もう一人は、自動的に死にますか?」
「そりゃあ、死にませんよ」
「ですよね。また、自分の足で立っているのならば、恋人の死は経済的な危機を及ぼすのでもなく、客観的に見ればそのままいつも通りの暮らしを続けていけるわけです」
「しかしそういうもんじゃあないでしょう。そこまで想っているのなら、次の日からケロリと生きていけたら……ああ、なるほど」
「そういうことです。生きていても、心が死んでは意味がない」
実は一度だけ、そんな智代を見たことがある。智代が生徒会長になれた年の夏だっただろうか。急にとんと笑顔を見せなくなってしまった。徐々に元通りになっていったようだったが、それでも影の残る笑顔だったと記憶する。娘がまたいつもの笑顔で笑えるようになったのは、次の年の三月になってからだった。
私がその件に関して聞く勇気を持てたのは、智代が結婚して一年ほどした時のことだった。何気ない様子で聞いてみると、はにかみながらも教えてくれた。
あの時、私達は別れていたのだ、と。
「無論いつまでもそれが続くとは限りません。しかし心の傷が癒えるまでには、結構な時間を要します。藤林さんは、杏さんにそんなに辛い思いをそれほど長い間感じさせる原因を作りたいとお思いですか?」
「……いいえ」
全体から吐き尽すような溜息を吐くと、藤林氏は答えた。
「ここはまあ、娘さんの男を見る目を信じてあげましょう。春原さんは今でも定職に就いておられるのですか?」
「ええ、高校の頃からの会社に勤めているとのことですが……」
「それは結構なことです。それならばさほど悪い男ではありますまい。今、我々父親のできることと言ったら」
そう言いつつ、私は智代の結婚と同時に買っておいたゴルフセットに目をやった。もしもの時のための、本当にあってはならない時のために買った一式。伽羅には「何、孫の顔を見るまで健康でいようと思ってね」とか何とか言ったが、実は智代が何らかの理由で実家に戻ってきた時のためだった。
「娘が泣いて帰ってきたら、不心得者をどうしてくれようかと策を講じることだけですから」
具体的には朋也君を逆さ吊りにしてさんざんゴルフボールの的にした挙句、頭を空の彼方まで……おっと。まぁ、今聞いた通り、恐らくあれを買った本来の理由で使う機会など、ありはしないが。むしろこのままでは本当に孫の顔を拝むまで健康でいるための品になってしまいそうだ。ううむ、まさか朋也君、種無しではなかろうな?あるいは智代のほうが?ううむ。なぁ朋也君、「お義父さん」は聞き飽きたから、そろそろ「おじいちゃん」とか「じっちゃ」とか、「お祖父様」とか、そういうのが聞きたいな。
「……坂上さんは強いですね」
「いえいえ。ただ長い間の経験です。無論、これは娘夫婦がうまくいっているから言えることでね。私もまあ藤林さんと同じ立場だった時はハラハラドキドキしましたよ」
「そう言ってもらえると、何だか救われた気分になります。何分、親馬鹿の暴走でして」
「藤林さん」
私は藤林氏を見つめ、そして微笑んだ。
「この世の中に、親馬鹿ほど崇高且つ気高い馬鹿はいませんよ」
こうして、私と藤林氏の対談は終わった。願わくば藤林氏の御子息とその良人達が幸せであらんことを。
と、締めくくりたかったのだが、これまたある日のことだ。
「すると娘が言ったんです。『パパ、あたし陽平と結婚するの』、と。それを聞いて私は誓いました。『正義のために、坂上さんに会いに行こう』と」
勘弁してくれ。