「ただいまー」
俺がそう言って扉を開けると、三者三様の答えが戻ってきた。
「あ、朋也」
「だぁ」
「よっ、岡崎!」
……
……
「あ、すいません、部屋間違えたようです」
急いで扉を閉めた。
な、何だ今の光景は?
確か、俺の嫁で相違ないはずの智代が、赤ん坊を抱いて春原と一緒にいたぞ?
ははは、疲れちまってるんだな。そんなはずねえよな。
俺はいったん廊下の階段を下りて、そしてまた昇り、俺の部屋の前で鍵と扉の番号を確認した。
よし、今度こそ。
「ただいま」
「いきなり行ってしまったから、驚いたぞ」
「あだ」
「全く、薄情だよねぇ」
目を擦ってみた。
頬をつねってみた。
それでも、目の前に智代が(少なくとも俺のじゃない)赤ちゃんを抱いて、春原の隣であやしているという光景は変わらなかった。
「うそだぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
走った。とにかく逃げ出した。目から迸る涙もぬぐわずに、ひたすら世界を否定したかった。
赤ちゃんと私
「まったく、そそっかしいんだから」
智代がため息をつくのに対して、俺は頭を掻くしかできなかった。
「いや、まぁ、ぐうの音も出ねえ」
そう苦笑いをして、智代の腕の中ですやすや眠る赤ん坊を覗き込んだ。
こういうことだった。
俺の高校の頃からの知り合いで、智代の親友に古河渚という女性がいる。
つい最近古河は娘の汐を授かったのだが、もともと体が丈夫ではなかった上に、出産の時は体調を崩していたという。母子ともに無事、という話を聞いた時、智代は泣いて喜んでいた。
とにかく、古河は医者に体調が良くなるまで養生するように言い渡されており、汐の面倒は古河の両親であるオッサンと早苗さんが見ていた。しかし、今日は残念ながら二人とも外せない用事が入っていて困っていたところ、面倒見のよくて優しくてついでに美人な智代が今日だけ汐を預かろうと申し出たのだった。
そして俺たちの家で汐をあやしていると、春原が週末だからということで電車に揺られて遊びにきた、と。本来なら俺はもう家に戻っている時間だったが、今日は帰りがけにちょいと買い物をしてきたので俺はいなかった。取りあえず家に上がってもらって応対しているところに俺が帰ってきたということだった。
「俺は一瞬、すげえやべえ想像をしちまったぞ」
「想像?」
「あのな、春原」
「どうしたの、智代ちゃん?」
「……この頃、お前のことをたくさん考えるようになったんだ」
「へぇ……どんなこと?」
「……朋也と一緒のときは、考えもしなかったようなことだ」
「少しは誇れる友達になれたかな?」
「そういうのじゃなくて……その……いけないこと」
「智代ちゃん……だめだよ」
「すのは……陽平」
「やっべぇ、すげぇむかついてきた」
「何を想像したのか、あまり知りたくない気がする」
「それにしても、早苗さんも大変だよねぇ。パン屋を切り盛りしながら、姪っ子の面倒だもんね」
すやすやと眠る汐の顔を覗き込みながら、春原が笑う。確かに、智代の腕の中ならどんな子供でもすぐに安心して寝入りそうな気がした。
「姪?」
「だって、汐ちゃんは渚ちゃんと悠馬さんの子供じゃん?」
「ああ、そうだが……」
「じゃあ、早苗さんにとって姪っ子じゃん」
「それは違うだろ?」
へ、と春原が眉をひそめる。
「ちょっと待って。早苗さんは渚ちゃんのお姉さんだって岡崎は」
「俺はみたいだ、とは言ったけど、言い切ってはいないぞ?」
「え?じゃああの二人の関係って?」
『親子』
春原は石になった。そして
「ぇぇぇえぇぇえええええええぇぇぇええぇぇぇぇええええええ!!?」
ジャンプをしながら大声を出した。
ぱちくり
目を覚ます汐。
「あ」
「ふぇ、え、え」
大声でびっくりしたのか、汐の顔が歪む。
「びゃえええええええぇぇええええええんんぇえええええええええええあぁえええええええん」
春原に負けないくらいの声で泣き始めた。
「おおよしよし、ほら、泣くな。汐、頼むから泣かないでくれ」
「ほらほら、汐、おじさんの顔見てみ?ばぶばぁ」
二人で必死になってあやすと、汐はしゃくりあげながらも口をつぐんでくれた。
「……」
「……」
雪女も身震いするほどの視線を春原に向ける。
「い、いや、まぁ、ごめん」
「全く、赤ちゃんが寝ているのに大声を出すんじゃない」
「うん、ほんと、すみませんっす……にしても」
「にしても?」
「岡崎も智代ちゃんも、何だか子供を甘やかしそうだよねぇ」
苦笑する春原。
「二人とも子供好きでしょ?」
さて、どうだろう。智代が子供好きっていうのは、ともを預かった時の反応でわかるが、俺は自分が子供好きだと自覚したことはない。まぁ、そもそも子供と触れ合うこと(というより、他人と触れ合うこと自体)があまりなかったし、ともの時は智代にかんっぜんに独占されてしまったから、認識する機会に乏しかったということは認める。しかし、今のとっさのあやし方は、いったい何なんだろう?やっぱり子供好きなんだろうか。
「しかし元気な子だな。あれだけ泣ければ、丈夫に育つ気がするぞ」
「泣く子はよく育つって言うしね」
「じゃあ何だ、お前を泣かせれば、いい子に更生できるかもしれないのか?」
「僕、もう成人してるって!」
「うっそだぁ。お前が大人なんだったら、世界中の幼稚園の先生が職をなくすぞ?」
「む、それは困る。それでは杏の仕事がなくなってしまうじゃないか」
「いや、そこでまじめに対応しないでよね、智代ちゃん」
しっかし、と言って春原はちゃぶ台のそばに置いてあった一升瓶を手に取った。
「汐ちゃん来てるんだったら、これはさすがにないよねぇ」
「それ、どうしたんだよ?」
「お土産。三人で飲もうかなって思って持ってきたんだけどね」
「すまないな、春原。でも、少しぐらいなら朋也と飲んでもいいんじゃないか?」
「岡崎だけと飲むとねぇ……」
少しばかり渋い顔をする。
「だってさ、最初はいいけどね、結局行き着くところは惚気話になるし」
ならない自信はなかった。まぁ、智代が嫁なら、当然の成り行きだと思う。
「あたかも正当な権利であるかのような顔しないで欲しいんだけど」
「お前もこんな可愛い奥さんができたらわかるさ。ああ、無理だな。智代ほどの美人なんていねえしな」
「朋也、そんな恥ずかしいことをいうなっ!」
智代が顔を真っ赤にして言うと
「えぐ、っぇっぇええ」
『あ』
三人で汐の顔を見た。あちゃあ。
「ええ゛え゛え゛えええええ゛えむんんんうぇぇええええええええええん」
「私が悪かった……」
少ししょげかえって智代が言う。ちなみに汐はさすがに疲れたのか、古河家から持ってきたゆりかごの中ですやすやと寝ていた。
「でも、ま、安心するよね、やっぱ」
「安心?」
少し翳りの射した顔で春原が笑う。
「だってさ、あの時、すごい心配したからねぇ。こんなに元気な子でよかった」
あの時、というのは、やっぱり汐の出産時のことだろう。さすがに分娩の場に立ち会ったりすることはなかったけど、古河のお見舞いには何度も行ったし、陣痛が始まったと聞いた時は他人事ながら緊張した。俺や智代や春原だけなじゃない。杏、椋、田嶋。恐らくは古河を知っている全ての人が、あの時ばかりは何かに祈ったりしたんじゃないかと思う。
「そう言えば、渚ちゃんは今、どんな感じなの?」
「順調だぞ。まだ起き上がっていろいろすることはストップを喰らっているが、話したりするのには問題ない。早く汐を抱いてお散歩したい、といつも言ってる」
「そっか……いやぁ、安心したよ。でさぁ、さっきの話なんだけど」
「さっきの話?」
「冗談とかじゃないよね?」
「冗談?」
「早苗さん、ホントに渚ちゃんのお母さん?」
「んな嘘ついてもしょうがねえだろ。だいたい、もし違うんだったら、オッサンのまいどーたー発言云々と早苗愛してる発言は、併せたらやばいことになるぞ」
「……でもさぁ……渚ちゃんのお母さんってことは、汐ちゃんの、その、ね」
「言うな、いくらなんでもその現実は厳しすぎる」
「あの人、何歳なんだろ」
「具体的な数字も聞いちゃだめだ」
「でもさ、お隣の磯貝さんだっけ?」
「比べたら絶対にだめだ」
いろいろと理不尽さを感じた二十代前半だった。
「なぁ朋也、あいつは何をやってるんだ?」
「考えたら負けな」
二人の冷え冷えするような視線の先には、揺りかごに向かってあれこれ言う春原がいた。
「はーい、汐ちゃん、春原陽平、春原陽平をよろしく」
お前は選挙に出る議員か。
「春原のおじさんはね、ごっつクールで格好いいんだよ?大きくなっても覚えていてね」
デマを教えるなデマを。
「汐ちゃん、作文とかで人生に影響与えた人のこと書かなきゃいけなくなったら、僕のこと書いていいからね」
どんな酷評を汐がするのか、一度読んでみたい。
「でさぁ、汐ちゃ……ぐぎゃ」
「ぐぎゃ?」
春原は固まると、ゆっくりと俺のほうを向いた。
「あ」
「ナイスだ汐」
「あんた、めっちゃくちゃひどいっすね!!」
汐は、自分に近づいてくる変な物を凝視して、それに興味を持ったのだろう。特に、あちこち動く、少し濡れ光りする二つの物が何なんだろうと考えたに違いない。そしてこういう赤ちゃんにとって、興味の対象となるものは触れてみなきゃいけないわけで。
で、結果として、汐の両手の人差し指が、春原の両目とファーストコンタクト、と。
「将来が楽しみだな。こいつ、古河の子なのに、もうすでにお前がやばいと知覚してるぞ?」
「僕のどこがやばいのさ!」
「まぁ、いろいろ?」
「そんな適当に答えないでよ!」
「そんな大声を出すな、二人とも。汐が泣いたら……」
『あ』
智代に言われて、はたと止まる俺たち。しかし当の汐はというと
「あだぁ……だ!」
結構ご機嫌のようだった。
「だ!なんだそうだ」
「どういう意味だろ、それ」
「『キショいぞこいつ!』とか?」
「どうしても僕を貶したいのかよ!」
くわっ、と春原が目を剥く。
「あうぁ、やばぁ」
きゃっきゃ、と汐が手をたたいて喜ぶ。
「やっぱその顔が気に入ったようだな」
「そうか……その顔か」
「いや、二人で頷かれてもリアクションに困るんすけど」
一転してむす、とした顔になる春原。その肩をぽんぽんと叩く。
「やっぱ春原だな、さすがだぜ」
「え?何のこと?」
「だってさ、もうすでにこの子のハートをゲットしちまったんだからな。俺じゃあこうはいかない」
「そ、そうかな?あはは」
「やっぱあれ?顔がおっとこ前で、超女の子受けいいし、超マルチ機能だし、超薄型で夜も超安心な春原くんだからか?」
「まーねっ!!」
ウインクしながら親指を立てた。何て扱いやすい奴。
「つーわけで、その顔を維持してくれな」
「え?どういうこと?」
「いや、だからそのイケメンなくわっ、を、汐に存分に見せてやってくれ」
「わかったよっ!さぁ汐ちゃん、くわっ!」
春原が例の顔を作っていると、智代がつんつん、と俺をつついた。
「朋也、いいのか?」
「ん?」
「あれでは、汐が大きくなった時にトラウマができたりしないか?」
天然ながらも酷な智代さんのお言葉。
「大丈夫だ。それより智代、ごにょごにょごにょ……」
俺は智代の耳にささやいた。
「そういう悪戯はどうかと思うが……」
「汐が大きくなった時に、この時のことを思い出したら笑える子にしてあげたいんだ」
それなりにもっともらしい理由を言ってみると、智代は意を決したように頷いて、押入れから箱を取り出した。
「これだけあれば十分だろうか」
「ああ。オッケーだ」
俺はそろりそろりと春原に近づいていく。
「ほらほら汐ちゃん、こんな顔もできるんだ……いだぁあああ!」
「そのままそのまま」
「ちょっ、おか、まっ、やめっ、おねがっ、ひぃぃいいいいいいいいいい」
「だぁっ!」
一瞬にして出来上がったそのオプジェに、古河汐嬢が手を叩いて喜んだ。
題名「ひぃ」。
材料:春原陽平x1、洗濯ばさみx20。
作者のコメント「あの決定的な『ひぃ』の瞬間を、永久保存してみたかった」
某フルメタルな高校の美術教師になら、わかってもらえる気がした。
「で、春原は今夜どうするつもりなんだ?」
時計をふと見て言った。
「わ、やっべ、ホテル確保するの忘れてたよっ!」
『馬鹿だろお前』
とても大事なことだったので、二人同時に言った。
「仕方のない奴だな。朋也、確か客用の蒲団はあったな?」
「ああ」
「え?」
「ま、終電ももうないだろうし、泊まってけ泊まってけ」
「いいの?わ、マジごめんね」
「その代り」
不意に自分の周りの大気が急激に冷えて行くのが、自分でも自覚できた。
「寝ぼけていようが何だろうが、智代に指一本でも触れた場合は、痛覚神経をもって生まれてきたことを嫌というほど後悔させてやるからな」
「し、しないってそんなことっ!!」
「ったく、美人の奥さんを持つと、これだからなぁ」
「つーかあんたが惚気馬鹿なだけっすよね、それっ!!」
「言うなよ、褒められてる気がしないって」
「褒めてないよっ!!」
「……うぅ……」
不意に揺りかごから不機嫌そうな声が聞こえた。
「ほら、大声出すから」
急いで智代が揺りかごに寄り、汐を抱き上げる。
「よしよし、馬鹿が二人も騒いだら、落ち着かないな。ほら、もう大丈夫だ」
ゆさゆさ、と汐を揺すってあやしていたが、しばらくして少し不安げな顔を俺に向けた。
「……朋也」
「うん?どうした?」
「汐が、まだ不機嫌なんだ。お前も手伝ってくれないか?」
見ると確かにしかめっ面をして、不機嫌そうに足をぶらぶらさせていた。
「よし春原、洗濯ばさみだ」
「いやだよっ!」
「いいじゃんそれぐらい。けちけちすんなよな」
「そういう問題じゃないでしょっ!……あ」
「あ?」
「ほら、この時間ってさ、みんな寝る時じゃん?だったらさ、歌とかあるんじゃないの?」
「子守唄か……どうだ、智代?」
うん、と智代がうなずく。
「♪ねんねん、ころ〜りよ、おころ〜り〜よ〜♪」
うっわ、惚れ惚れするような声だ。
「そこで惚気ないでよ」
「……だめだ。歌には反応するが、それじゃないみたいだ」
「じゃ、僕が……♪眠れ〜や眠れ〜、かわい〜い汐ちゃ〜……」
「えっ、ええっ、うあっ」
しゃくりあげる汐。
「……何だか、僕まで泣きたくなってきちゃったよ」
「……あれじゃないか」
ふと、思いついた。
「あれ?」
智代がきょとん、として俺を見る。古河だったら、あれな気がする。
「……♪だんご、だんご、だんご、だんご、だんご、だんご、大家族〜♪」
はた、と汐が泣く準備をやめた。
『♪だんご、だんご、だんご、だんご、だんご、だんご、大家族〜♪』
智代も一緒に歌い出し、やがて二重奏は三重奏になった。
「♪やんちゃ〜なや〜きだ〜んご、やさしいあ〜んだ〜んご♪」
「♪少しゆ〜めみ〜がちな月見だ〜んご♪」
汐が頭をこくんこくんと頷かせながら拍子を取り出した。そしてそれにつられてまだ小さい手も上下に揺れる。
♪「あかちゃんだんごは、い〜つ〜も、しあわせ〜のなかで、としより〜だんごは、め〜を〜ほそ〜めて〜♪」
一拍子。
♪ 仲良しだんご 手をつなぎ 大きな 円い輪になるよ
町を作り だんご星の上 みんなで 笑いあうよ
うさぎが空で 手を振って見てる でっかいお月さま
うれしいこと かなしいことも 全部 丸めて ♪
だんご、だんご、と繰り返すと、いつの間にか汐はすやすやと寝息を立てて寝ていた。
「……そんなこと、あったんですか先生?」
汐が恥ずかしげに私を見て言った。
「ああ……しかし時の経つのは早いな」
「ですね……あ〜、ふにふにしてる〜」
つんつん、と汐が巴の頬をつつく。
「この子、絶対に先生に似ると思うなぁ」
「どうしてだ?」
「巴ちゃんはですね、頬をつつくと、こっちを見てるんです。興味津々なんです」
「ふむ」
「で、朋幸君はですね、頬をつついたらこっちを見るんですけど、すぐ、ぷい、ってしちゃうんです。照れてるんですね」
ああ、なるほど。確かに朋也によく似た仕草だ。
「そうすると朋幸君は岡崎さん似かぁ……大変ですね」
「うん、まあな。だけど、そこがまた可愛いんじゃないか」
「そうですか……よしっ!」
和んでいた汐が立ち上がって宣誓した。
「智代先生、私、決めました」
「ほう?」
「私、この子たちのお姉ちゃんになります。で、いっぱい遊んだり、勉強したりします」
それはすごくありがたい申し出だった。特に巴はもうすでに汐を気に入ってるらしく、汐が家に遊びに来ると始終ご機嫌だ。
「いいのか?でも、面倒をかけると思うぞ?」
「いいですよ。なんだか、母性愛?それをくすぐられる気がしますし。あ、これって女の子らしいですか?」
少しいたずらっぽく笑う汐。全く、弟子にまで口癖がうつってしまったか。
「ああ、とても女の子らしいと思う」