襖が開く音がした。
畳を踏む音、靴下が微かに擦れる音。
それが止まり、小さな溜息。
「朋也、起きろ」
しかし俺は聞こえないふりをする。もうそろそろ優しく揺さぶる手が
しなかった。
「ふむ」
ふんふん、と納得したような声が聞こえる。
「朋也、起きてるだろ」
ぎくっ
「私を驚かそうという魂胆だな?全く、仕方のない奴め」
……
「しかもご丁寧にもう洋服は着ているんだな。手の込んだことを」
何でだ?何でばれている?
「……」
「だが、よほど焦っていたようだな。パジャマが脱ぎ捨ててあるままだぞ?」
「何っ!!」
がばっと蒲団から出ると、そこには得意顔の智代が腰に手を当てて立っていた。
「おはよう、朋也。詰めが甘かったな」
「くっ」
「しかし週末だと下手をすれば昼まで起きない朋也が、朝起きてくるなんて不思議だな」
「あ、ああ。そうだな」
「さてはそんなに私とのお出かけが楽しみか?ん?」
「……悪いか?」
少しばつが悪そうに返事をすると、智代は顔をほんのりと赤くして、「馬鹿」と呟いた。
「は、早く朝ごはんにするぞ。全く、ずるいんだから」
何で馬鹿と呼ばれなきゃならんのか、どこがどうずるいのか、指輪を薬指につけた今でもわからないことばかりだった。
智代さんの衣替え
ことの起りは、一週間ほど前。
「例によって」クマそぼろの弁当を食べていると(後の初期型智代弁当である)、親方が困ったような溜息をついた。
ちなみに、どこのどいつがやっているのかは知らないが、事務所の掲示板には少し困った落書きがある。本日のその落書きは「クマそぼろ」と書いてあるが、場合によっては「紅ハート」やら「TO☆MO☆YA」やらになったりする。つまり、どこかで誰かが俺の弁当のパターンをご丁寧にも掲示板に書いてくれているわけだ。
「あ、悪いね。いや、どうもしないんだけどね」
今まで読んでいたと思われる雑誌を俺に見せた。
「もうそろそろ秋だからねぇ。娘に何か買ってあげなきゃと思うんだけど、何がいいもんかねぇ……」
「娘さん、確か中学生でしたっけ」
「今年の春から高校生になったんだよ。あれ、すると岡崎君の後輩かな?」
「光坂、ですか?」
「いやぁ、第二。そっかぁ、違ったんだね」
すると芳野さんも話に入ってきた。
「しかし親方、その雑誌は、むしろ大人向けじゃないか」
「え?そうなの?」
確かに高校生というよりは、若い女性、というような客層を念頭に置いた雑誌だった。
「でもねぇ、近頃の高校生もすごいらしいからねぇ……僕の知り合いの娘さんなんか、カバンがグッチとか何だとか……」
「似合わないっすね、それ」
「でも親御さんの気持ちもまあわからんでも……ないかねぇ」
ほう、と親方がため息をつくと、芳野さんが腕組みをした。
「残念ながら俺にはそこら辺のことはわからない。あの人と会った時はすでに成人していたからな……そして」
「そして?」
「風子ちゃんはいくら自分ではそうは言っていても、その、何だ、なぁ?」
「はぁ」
前に会った時、確か「あたい、もう大人の女なんだよ?岡崎さん、あたいに惚れたら怪我するよ」とか言っていたのを思い出す。そして智代がいるからんなわけねえだろだの嘘ですっ岡崎さんは口ではそう言っていても体は大人の危険な時間をエンジョイしたがってますだのとケンカしたこともまぁ、思い出してしまった。
「すると、ここらへんでうちの子と一番年が近いのは……」
自然と俺に目が行く。
「どうなんだ、岡崎?智代さんは高校生のころ、どういうのを着ていた?」
「そうだった。岡崎君、そこらへんはどうなんだい?」
「いや、あいつってそんな派手なブランド物とかは身につけてませんでしたけど」
そもそも派手な智代、というのが想像できない。杏とは違ってシンプルなデザインの服が好きで、アクセサリーはほとんどなく、全体の印象からして「落ち着いた」という形容詞がぴったりくる。唯一高そうなのが仕事のスーツだが、それだってブランド物というわけじゃない。
「そうだよねぇ。うちの子は髪の毛染めたり香水がどうのとか言ってるけど、少しは智代さんを見習ってほしいよねぇ」
その時はそれで終わったけど、帰り道、ふと考えた。
やっぱり、興味あるんだろうか。あるんだろうなぁ。
シンプルな服が好き、というのは建前じゃないだろうか。高校生の頃から俺の家計簿を握ってる智代のことだ、もしかすると絶えず俺の財布を気にしてそう言ってたんじゃないだろうか。
あれ?今俺、自分の事甲斐性なしって呼んでないか?
そうだよな、やっぱそうだよなぁ。俺みたいに嫁にちょっと小粋で洒落た服やバックの一つや二つ買えない奴ってのは、甲斐性なしにはいるよなぁ……恐らく智代も会社で「あらぁ?岡崎さん、旦那さんがいるのにグッチも買えないのぉ?」「今年はあたし、ハニーとワイハに行ってくるのよ。ヨーロッパには飽きたしね。岡崎さんは?」「だめよ、岡崎さんにその手の話をしちゃあ。ほら旦那さんが……」「苦労するわよねぇ……」だのといじめられたりしてるんじゃないだろうか。綺麗でかわいくて仕事のできてみんなから好かれる智代のことだからなおさら嫉妬とかが向けられるんだろうなぁ。そんなのを助けてやれない俺ってさぁ、やっぱり駄目だよなぁ……そもそもなぁ……
(ただいま朋也君は自分の黒フラグを立ててしまっております。自己診断・自動解決するまで、秋の幻想世界の風景をお楽しみください)
「というわけでどっか出かけないか」
その晩、智代に切り出してみた。
「……」
結構微妙な顔をされた。
「私は、その、そんなに着飾ったりするのは趣味じゃないんだが……」
「そうなのか?」
「ああ。大体、華奢なデザインのものは、壊れやすいだろ。高価になればなるほどそんな傾向がしてならない」
「まあな」
「そんなものを例えば朋也が私にプレゼントしてくれて、万が一壊してしまったら、どうなるんんだ?」
「どうなるって……」
「あれ智代、俺のプレゼントしてあげたあのネックレスはどこに行った?うん、あれか、すまない、こわれてしまった。何だってっ!ああ、俺の心からのプレゼントが……そうか、お前はそんな奴だったんだな。ま、待ってくれ、誤解だ朋也っ!智代にとって、俺からの贈り物は、その程度のものだったんだな、そうか、そうかよ畜生。話を聞いてくれ朋也っ!とまぁ、こんな具合で二人の間に亀裂が入り、正式に離婚。お前のいなくなった部屋で一人寂しく私は輝かしい日々を思い返し、涙を流しながら練炭を……」
「ストォップ!たかが首飾り一つで何が悲しゅうて最愛の妻と別れなきゃならんのだ」
「でも、私は時々うっかりしてしまうから……」
俯く智代。
「お前がうっかり者だったら、俺なんか世界に冠する粗忽キングだぞ。自慢じゃないけど」
「自覚はしてたんだな」
ああっ!智代の言葉がてんだあはあとに刺さるよ。
「でもまぁ、秋になってきたしな。秋物の服だってあった方がいいんじゃないか」
「それはそうだけど……」
「それにまぁ、俺だってお出かけしたいし」
そう言うと、智代は俺をはっと見て、顔を真っ赤にして俯き、そしてちらちらと俺を見た。
「わ、私とお出かけしたい、だと?」
「ああ。何も買わなくったって、お前とどっか行ったりぶらぶら歩いたりしたい」
むぅ、と呟くと、智代は顔をそむけて、そして言った。
「ま、まぁ、そうだな、うん、その、私だって、そう言われると、その気にならないわけでもないな」
「ははは……ところで智代、ツンデレって知ってるか?」
「ツン……何だそれは」
おお寒ぃ。
空は真っ青に晴れて、太陽がぽかぽかと照らしていると思いきや、風が容赦なく俺たちの間を通り過ぎて行った。
「しかし晴れてて良かったな」
「ああ、そうだな」
目指すは商店街。そこの女性ブティックがセールなのだという。
「そうだな……秋用のコートとかあればいいけどな」
目の前から歩いてくる女性を眺めながら、そう呟くと、
「痛っ!」
なぜかよくわからないが、智代側の腕が痛い。まるで何かに抓まれたような感じだ。智代の方を見ても、なぜかつーん、と澄まし顔でいる。
「な、なぁ智代、今俺の腕がちょっと痛いんだが、知らないか?」
「さあ……私みたいなあまり可愛くなくて女の子らしくない女にはわからないだろうな」
「は?いやちょっと待てよ」
「ぷい」
「え?あれ?ともぴょん?智代さん?何でご機嫌斜めかな?」
「私はご機嫌斜めなんかじゃ、ないもん」
いや、そこでことみの真似をされてもなぁ……
「なぁ、もしかしたら何か誤解とかしてないよな?」
「誤解だと?誤解なものか。今朋也は絶対にさっきの女性に釘付けだった」
やっぱりそれか。
「違うって。あのコートを見て、ああ、あれなら智代にぴったりだろうなぁ、美人でおしとやかで良妻の鑑たる智代なら絶対に似合うだろうなぁ、と思ってたって」
「またそんな調子のいいことを」
「いやいやいや。俺は智代一筋智代命、ともぴょんらぶで一月に何度かはスーパーサイヤになれるぜ」
「ま、まぁ、時々激しいのはわかっているが、そんなことを公道で言うな」
「そっちの話はしていないぞ」
「いーやしてた。今、目が嫌らしかった」
「そうか?」
「そうだとも」
そうは言いつつも、先ほどの「私は不機嫌です。サッサと弁解しろ、馬鹿」といった雰囲気は霧散した。
「全く、仕方のない奴だな。ん」
「ん?」
見ると、少しぶっきらぼうな感じで手が突き出されていた。
「お前みたいな奴は、目を離すとどこか遠くに行ってしまいそうだからな。迷子にならないよう手をつないでやる」
「……はいはい」
手をつなぐ。智代の手は、少しばかり冷たかった。
「朋也の手はあったかいな……ふふ」
一転したゴキゲン奥様を引連れて、俺は件のブティックについた。
「いやぁ、やっぱセールってすごいな」
「そうだな……」
ここは駅前の小さなカフェ。無事買いたかったものも買ったし、少し休憩、といったところ。
「でも結構良さげなものがあったな。またあの店に行こうな」
「そうだな……」
「ん?どうかしたのか」
「……なぁ、朋也。これは何かの罰ゲームか?」
「はぁ?何が?」
「だ、だって、こんなに女の子らしい服、その、女の子らしすぎて私に似合わないんじゃないか」
黒のムートンブーツに、グループドチェックの、少し厚めのスカート。茶色の薄手のトレンチコート。
どこをどう見ても似合いすぎて、むしろ困っているんだが。その、理性さんが。
「似合うも何も、大体お前は立派な女の子だろ」
「そ、そうなんだけど……」
「お前の方こそどこぞの退院したばっかりの体は子供頭脳も子供な某ヒトデよりもよっぽど大人の女性だって」
「誰のことだ?」
「まあ待ってな、今……」
「風子っ!参っ上!!」
「ほらきた」
どこからかは見当つかないが、俺の頭痛の種がやってきた。
「今、岡崎さんの風子に対する悪口が聞こえました。岡崎さん最悪です!」
「出会い頭に最悪を連発されたら、誰だって悪口の一つや二つも言いたくなるわい」
「はっ!これってもしかすると巷で噂のツンデレですか?実は悪口とかを言うのも、風子に気のある証拠なんじゃ・・…」
ぴくりと反応する智代。
「そうなのか、朋也?」
智代がアザラシすらも身震いするような声で聞いてきた。ああ、風子って何もないところから問題起こすの得意だよなぁ……
「そういう寝言は、せめて智代の足元に及ぶ程度の家庭主婦スキルを持って、クレオパトラや楊貴妃すらも哀れに思えるほどの美女に生まれ変わってから言え。話はそれからだ」
「な、何だ、照れるじゃないか……」
「失礼です!風子だって、近所じゃ可愛さの代名詞になっています!見てて下さい」
そして風子は俺に上目遣いで、俺に精一杯の可愛さを込めたらしいセリフを口にした。
「風子だぴょん」
沈黙。
「ベシは去年卒業したぴょん。今の流行はぴょんだぴょん」
「そ……そうなのか……すまない、流行に疎くて」
冷や汗を流しながら、己の無知を詫びる。そんな天然な智代が大好きだ。
「どうですか岡崎さん、ときめきましたか?」
「いや全然。お前、あの名作汚すんじゃねえよ」
「汚してなんかないです、リスペクトです」
「大体、そんなので俺が萌えると思ってたのか?お前の頭の中じゃ、俺は一体どんな人になってるんだ?!」
「岡崎さんは終身名誉変な人です」
「よっしゃああ!光栄だぜっ!ってをい!」
終身で変な人なのかよ、俺。
「岡崎さんみたいな話のわからない人とこれ以上崇高な議論を交わしても時間の無駄なので、風子これで失礼します。変なことで呼び出さないでください」
「呼び出してないからな」
言い終わる前に、風子はどこかに消えてしまった。
「とまぁ、言いたかったのは世の中には変な自称や自画像を持つ連中がいるから、その中でも自分の夫の言葉ぐらいは信じてほしい、ということだ」
「……そんなに似合うのか、この服装は?」
足をぶらぶらさせ、コートの袖を引張ってみた。
「もう完璧と言うのも足りないくらいだ」
「……ほんとに?」
「可愛い女の子だからな、智代は」
すると、智代は素直に笑って頷いた。
「うん、そうだなっ!私は、可愛い朋也の奥さんだからな」
「あの、芳野さん」
次の日の昼休み。
後輩の山萩が、芳野さんをつついて囁いた。
「岡崎さん、何かあったんすか」
「ん?何でまた?」
「いや、午前中一緒だったんすけど、にやにやのし通しで」
「そうか。まぁ昨日何かあったんだろ。聞いてみたのか」
「無理っすよ。あの顔、絶対智代さん関係っす。聞いたが最後、もう砂糖吐くまで惚気になるの目に見えてますって」
思い当たる節がないわけでもない。一晩してから服をまた着てみると、印象が変わったのか智代がものすごく喜んだこと。そしてその喜ぶ仕草がすげぇ可愛かったこと。んでもって、出かけるまでの間さんざん甘えてきたこと。恐らく俺の顔がゆるゆるなのは、まぁそのせいだ。
しかし、俺に聞かなかったのはまぁ及第点だが、芳野さんに聞くのはちとまずい。
「そうか、智代さんか……山萩、人は何で生きるか、わかるか?」
ほら始まった。
「愛だ。いくら強かろうとも、いくら猛ろうとも、人は愛をなくしては生きていけない。生とはかくも崇高なものなんだ。お前にもわかる時が来る。大切な人、命をかけて守らなきゃいけない人。そんな人に巡り合えることの幸せとは、そもそもだな……」
「うげ……」
心の中で山萩のために木魚を鳴らしながら、俺は秋の青空に向かって笑いかけた。
追記。本日の落書き「ケチャップそぼろでLOVE」。恥ずかしい。