「田嶋さんなら大丈夫ですよ」
そう言って、彼女はいつものように笑いかけてくれた。
俺はしかし、その日ばかりはそれを直視することができなかった。
「というより、今まで私がお荷物だったくらいですから」
「そ、そんな事ぁねえぞ有紀ねぇ!俺達は今までどんなに有紀ねぇに救われてきたか……」
「そういうことはありませんよ。私はただ、微力ながらお手伝いをさせていただいただけです」
違う、と思った。
和人さんがいなくなってから、俺達は荒れた。佐々木の連中と意味もなく張り合い、結果的に俺達だけじゃ埋め切れない深い溝を作った。
このままいけば潰し合いだな、とはわかっていても、それはそれでおもしれえ、和人さんへの手向けだ、と思っている自分もいた。
そんな中、一人の女に会った。和人さんの妹の、有紀ねぇ。
彼女と会って、俺達は自分を取り戻せたんだと思う。彼女が笑って接してくれたから、俺達は自棄にならずにすんだんだと思う。彼女が支えてくれたから、俺達は佐々木の連中と手を握ることができたんだと思う。
それは彼女が和人さんの妹だとか、そういうことじゃない。彼女は、宮沢有紀寧は、そういう女性だった。それだけの話だ。
「ですから、私がいなくなっても、皆さん仲良くしてくださいね」
有紀ねぇは、いつもの笑顔で、俺にそう告げた。
珈琲店の女
「どうした、そんなシケタ顔して」
佐々木が酒を舐めながら、聞いてきた。俺達は今、いつもの馴染みの店で飲んでいた。後ろでは合併前から俺達とつるんできた小僧っ子と、佐々木と一緒に仲間になった青年が、それぞれ仲間に囃し立てられながら腕相撲をしていた。
「どっちが勝つと思う、兄弟?」
「さあな。あの小僧、確か勇、とか言ったか、中々強そうだが」
「あっちの正樹とかいう奴のガタイは、ちょっと無視できねえぞ」
「ガタイが全てじゃないのは、お前がよく知ってるだろ」
「言いやがって」
苦笑して俺はグラスに口をつけた。
「なあ、ここだけの話な」
「何だよ」
佐々木が腕相撲から目を離さずに、低い声で囁いた。
「三日前、有紀寧さんに店に呼び出されたんだ。話があるって」
有紀ねぇは高校を卒業して短大に通いがてら、バイトの紹介で喫茶店のマネージャー補佐になり、そしてつい最近マネージャーに抜擢された。俺達は夕方はそこで落ち合って、その後ここに来るのを習慣としていた。
「……それで?」
「お前の力になってほしいそうだ。お前、何か大変なヤマでも踏んでるのか?水臭いな」
「俺?」
心当たりはない、とは言えなかった。しかし、それは佐々木が考えてるようなものじゃなかった。
「お前には、まあ話さなきゃいけねえとは思ってたんだがな……」
そう前置きをして、辺りを見回した。
「これぁ、俺とお前だけの話だ。須藤にだって、言えやしねえ」
「わかった。何があった?」
「有紀ねぇが、俺らと縁を切る」
佐々木は、目を細めただけだった。こういうところはやはり見習うべきなのだろう。
「親御さんにお見合いを勧められてるそうだ。で、ここからは俺の勘なんだが、縁を切った原因は俺達だ」
「……親御さんが動くか」
「そういうこった」
有紀ねぇの実家は結構な資産家で、そこの令嬢として育った有紀ねぇにはよく見合いの話が来た。本当は家督は長男である和人さんが継ぐはずだったんだが、和人さんは数年前、俺達の仲間をかばって交通事故に遭い、逝っちまった。だから尚更親御さんとしては有紀ねぇにはまともな相手と付き合ってほしいだろうし、俺達みたいな連中を憎むんだろう。そして恐らく有紀ねぇに親御さんが最終通告をしたんだろう。
あの連中と縁を切るか、あの連中を刑務所行きにするのか、どっちにする?
「……全く有紀寧さんらしいな。俺達に被害が及ぶよりも、勝手に自分で辛い方選んじまった。相談の一つもしてくれればいいのにな」
「しても結局同じ結果になっただろうがな。畜生」
俺は苛立ちを紛らわせるために、ウィスキーを呷った。喉が焼けた。
「で、兄弟、お前はどうするつもりだ」
不意に佐々木の口調が変わった。いつも一緒に話をしている佐々木はどこかにフケちまって、代わりにこの町の若者連中から「黒豹」と恐れられている男がスツールに座ったような気がした。
「指咥えて黙って見ているタマか、お前は」
「……だろうな」
「いずれにしろ、今のままじゃ何もできない。俺達は不良のままで、有紀寧さんは宮沢家のお嬢さんだ。遊び相手としては少し立場が違いすぎる」
「何が言いたい」
「立場が変わるしかないだろ。どうする、俺達は解散してみんな足を洗うか?」
「……そんなことができるんだったら、とっくにしてるさ」
俺や佐々木、須藤はいい。佐々木は車の整備工場の先任技師になって、うちの連中の数人を指導している。須藤は板前の修業をしていて、俺は昼は黒いチョッキにエプロンでバーテン兼店のシェフをやっている。しかし、若い連中のなかには、職が見付らない奴なんてざらにいる。そいつらを捨てて俺達だけお天道さんの下を呑気に歩くわけにはいかなかった。
「そうだろうな。じゃあ、残された選択肢は一つしかないだろ」
そう言うと、佐々木は残りの酒を飲み干して立ち上がった。
「気持ちの整理ぐらいつけとけ。有紀寧さんに言いたいことがあるんだろ」
「なっお前……」
「安心しろ。気づいているのは俺と須藤ぐらいのもんだ。まあ長い目で見させてもらおう、と思ってたんだが、どうもそうは言ってられないようだな」
ぽん、と肩を叩かれた。
「尻込みするな。勝負に出てみなきゃ、丁も半も出ないぞ」
そう言うと、佐々木は店を出て行った。少し遅れて若い奴が数人後に続く。
「けっ、気取りやがって」
悪態をついては見るものの、それ以上言葉は継げなかった。
不意に歓声が響いた。どうやら、優の奴が勝ったらしい。
あの後、どこをどう歩いたのかは知らない。
ただ気づけば俺は路地裏にいて
「てめぇが田嶋か」
よくわからない若造三人に囲まれていた。
「好き勝手してるようだが、今日という今日は落とし前つけさせてもらうぜ」
「お前さえいなけりゃ、田嶋組はぶっつぶれらぁ。覚悟しやがれ」
「当分入院するつもりでいろ、コラ」
随分とまあ突っ込み所満載なセリフだ。俺はこの頃仕事に精を出して時たま佐々木と酒を飲むことしかしていない。若い者が見上げる組織の重役が好き勝手に喧嘩をやっていては示しがつかない。俺を潰しても佐々木がいるから田嶋組は潰れない。そして何より、こんな奴ら三人で俺が入院するはずもないだろう。
「なあ」
俺は肩を鳴らして言った。
「こんな話知ってるか」
「ああ?」
一歩前に踏み出す。明らかに警戒する三人。
「昔ここらにゃ伝説ってのが二人いてな。俺が話すのは女の方なんだが……」
もう一歩。余裕の笑みは見せたままで、口調も若造に昔の経験を言い聞かせる感じだ。
「てめえらのダチに聞いてみな。きっと知ってるぜ、その女の話を」
別名、満月の狩人。
別名、処刑人。
別名、路地裏の制裁屋。
「そいつぁ、青い鬼火と共にやってくるって話でな、蹴る時本当に青い光が見えるって、うちの連中が口そろえて言うんだよ。そうだよな、坂上?」
俺の視線を追うように、三人が後ろを振り向く。その一瞬を突いて、肉薄し
「ったく、よそ見するんじゃねえよ」
一人目には顎に拳を叩きこむ。力はあまり入れていないが、それだけで相手は足をふらつかせて壁に寄り掛かってずり落ちた。残った二人が反応するより早く、もう一人の胸倉を攫むと、思い切り残った一人に向かって突き飛ばした。重なり合って壁に激突する二人。そのまま
終わらせようと思ったが、面倒になりそうだったのでそのまま路地裏を後にした。
この頃じゃ本当に喧嘩を売られても、適当にいなして中途半端なまま抜け出すことが多くなった。無論仲間を置いてというわけではなく、こちらにまだ危険が迫る間はやり抜くが、いわゆる止めを刺すところまではいっていない。俺もヤキがまわったもんだな、と心の中で呟く。少なくとも昔だったら、あの三人は当分病院暮らしだっただろうに。
ビルの間に青白い満月が浮かんでいた。そういや、坂上はどこで何やってるんだろうな。ふと、そんな質問が頭の中に浮かんだ。有紀ねぇによると進学校の生徒会長を務めた後、遠くの大学に通っているということだったが……
「は。何変なこと考えてやがる」
そう自嘲すると、俺は夜の町を歩いた。
夢を見た。
有紀ねぇも俺も、まだガキで、有紀ねぇは親父さんに手を引かれて歩いていた。
「有紀ねぇ、ちょっと話があるんだ」
俺がそう言うと、有紀ねぇは不思議そうに笑った。
「今日は私、お父さんとお出かけなんです」
「有紀ねぇ、その、俺は……」
ふと有紀ねぇの親父さんを見上げた。逆光になって黒い影にしか見えなかったけど、それは天を突くような異形で、なぜか俺には抗えないかのような存在だった。
俺はあんたが好きだ。口から出かかっている言葉。しかし有紀ねぇが親父さんに手を引かれて幸せそうに笑っているのを見て、そして親父さんのでかい影を見て、何も言えなかった。
「じゃあ、私行きます。さようなら」
そう言うと、有紀ねぇは歩いて行って、俺だけが残された。
「なぁ、噂を聞いたんだが……」
須藤がそのいがぐり頭をがりがりと掻きながら、憔悴しきった顔で俺に話しかけた。
「それがそのぉ……」
「何だ、はっきり言いやがれ。女々しい野郎だな」
すると須藤は俺を睨んで、絞り出すように言った。
「有紀ねぇが、お見合いするんだよ……」
恐れていた物が、とうとう来た。今まで見合いの話を持ちかけられたことは何度もあったが、有紀ねぇがそれを承諾したのは今回が初めてだった。
「……そうかよ」
「何だよお前、もうちょっと何か言うことあるだろうが」
「ねえよ」
胸倉をいきなり掴まれた。
「てめぇ、惚れた女奪われて、言うに事欠いて『そうかよ』だと?気合い見せやがれよ」
「放せ」
三白眼で睨みつけて、低い声で言った。須藤は渋々という感じで手を放した。
「おい兄弟、何か言ってくれよ。これじゃあ俺、お前も有紀ねぇも不憫でならねえ」
「有紀ねぇは関係ねえだろ」
「関係ないわけないだろ、この朴念仁。有紀ねぇはな、俺らの中じゃお前が一番好きだったんだよ」
喉に渇きを覚えた。胸がギシギシと痛む。にわかには信じられない話だった。
「有紀ねぇはお前も知っての通り誰にも優しいけどよ、俺とたぶん佐々木もだけどな、お前を見る目だけは違うなって気づいてたんだよ」
不意に須藤の声に湿り気が混じる。
「切ねえじゃねえか。相想いの二人が何だってぇこんな変な別れ方しなきゃなんねえんだ。このまま終わっちまったら、俺はあの世で和人さんに合わせる顔がねえ」
「大の男が泣くんじゃねえ」
違う。俺だって泣きたい。もしこいつの言うことが本当なら、俺はどうしていいのか解らなくなるほど悲しくなる。こいつは、泣くに泣けない俺の代わりに泣いてくれてるんだ、と気づいた。
有紀ねぇが好きだった。あいつの笑顔で、俺は今までやってくることができた。あいつの言葉で、優しさを素直に感じることができた。あいつがいてくれたおかげで、俺は人並みに恋に落ちた。そして、今でも好きだ。
だけど俺達の距離はもう手を伸ばしても届かないほどになってしまった。あいつは、俺達から抜け出て、真っ当な道を歩いてきた男と一緒に、真っ当な幸せを掴むんだ。それが、誰もが納得する話のオチってもんだろう。
「おう須藤」
「何だ」
俺はぐっと奥歯を噛みしめ、涙を流す代わりに思い切り睨みつけた。
「惚れた女の幸せを見届けるのが、男の本懐ってもんじゃねえか。どんな野郎が会いに行くにせよ、嘆くのぁそいつと有紀ねぇが楽しそうに笑ってるところを見届けてからにしねえか」
襖越しに人の動く気配が感じられた。恐らく男の方の一行が部屋に入ったんだろう。
見合いの場はこの町から少し離れた高級料亭だった。有紀ねぇとその両親がスーツ姿で入った部屋のふすま越しに、俺と佐々木、須藤の三人は待機していた。もし有紀ねぇが幸せになれたら、そのまま黙って店を出るし、もしダメだったら三人で有紀ねぇを慰めてやろうと思った。それが当初の打ち合わせだった。
「お待たせしました」
「いえ、どうぞお気になさらずに」
畳をこするような音が聞こえ、そして床が微かに鳴るような音がした。全員が座ったということなのだろう。
見合いの世話人が挨拶をすましたところで、紹介を始めた。俺達は男の紹介に聞き耳を立てた。
「宮沢さん、こちらは沢郁製薬に勤めていらっしゃる沢郁一さんです」
「どうぞよろしくお願いします」
「こちらは沢郁さんの叔父様の倉橋敦さんです」
「倉橋です。本日は、あ、どうぞよろしく、ええ、お願いします」
しばらくは有紀ねぇと一とかいう奴の取り留めのない会話が進んだ。
「宮沢家は光坂市に代々住んでおりまして、少しばかりは顔見知りもございます。もし何かの折に訪問されることがございましたら、いつでも言って下さいまし」
時々有紀ねぇの付添人である母親が会話に口を出す。
「沢郁製薬ですか?今年はまあいい方ですな、はい。できればこの辺りにも支部を、え、設けたいとは思っておりますが、え、いろいろとまあ、はい、事情がありましたが、あ、今年は何とかなりますでしょう」
先ほどからの付添人の話を聞いて、須藤が歯ぎしりした。家柄がどうの、家業がどうのという、本人とはあまり関係ない話が進んでいく。
(もう我慢ならねえ。これじゃあ有紀ねぇが不憫でしょうがねえ。あの連中の了見違い、とくと説き示してやらあ)
須藤がとうとう低く唸った。すると佐々木が肩を掴んだ。
(落ち着け兄弟。お前がカッカしてどうする。我慢しろ)
(けどよ)
(辛いのはお前じゃないんだ。お前よりも辛い思いをしてるやつが我慢してるんなら、そいつよりもお前が手を出したら男が廃るってもんだろう)
俺はそんな二人の会話を、どこか遠いところで聞いているような気がした。
(なあおい、妙じゃねえか)
(妙?)
(何だって野郎の方は何も喋らねえんだ?さっきから聞いてりゃ、有紀ねぇの一方通行だぜ)
言われてみれば、という顔をして、二人は耳を一層澄ませた。いや、喋る事は喋っているんだが、どうも「はぁ」とか「まぁ」とか、そういう一言をぼそっと漏らすようだった。これは会話とは言えない。
「では、もうそろそろ私たちは別室に移動しましょうか、ね?」
世話人が手をぽんと叩いて言った。なぜかその時に野郎の方の付添人が「えぇ……まぁ」と歯切れの悪い返事をした。
「では後ほど」
「有紀寧、失礼のないように」
「一、しっかり、しっかりやるんだぞ」
野郎の叔父の声が妙に切羽詰っていた。不自然に感じながら、俺達は脇役達が舞台裏に引っ込むのを聞き届けた。
「一さんは、どういった仕事をなされているんですか」
「……」
「えっと……一さんは、何か好きなこととかありますか」
「……え」
「えっと、その、趣味とかはありますか」
「……いえ。別に」
不意に殴りたくなった。この野郎は有紀ねぇがこんなに頑張ってるのに、何でこんな不機嫌そうな答えをぼそぼそ小声でしか言えないんだろうか。
「……あの、一さん」
「……何」
「もし違っていらしたらすみません。あの、一さんは実はこの話に乗り気じゃないのでは?」
「……ええ、まあ」
「そう、なんですか。もしかするとご家族の方に是非に、と?」
「……ああ」
「そうでしたか」
「そうだよ。僕だってこんなことはしたくないよ。だけどパパが……パパがどうしてもって」
「わかりました。一さん、落ち着いてください」
「……」
一の野郎が立ち上がりかけた気配を感じ取って、一気に立ちあがった俺達だったが、有紀ねぇの声で野郎が座ると、ホッと胸をなでおろした。
「すみませんが、この話はではなかったことにしましょう」
「……え」
「お互いに強制されて合わせられても、お互いを傷つけあうだけですもの。もし一さんが望まないのであれば、無理に付き添う女性を探すべきじゃないと思います。一さんが心から好きな女性を見つけたら、その時こそ迷わずに想いを伝えてくださいね」
なぜかその言葉に俺は動けなくなった。それは有紀寧がこぼした、俺に対しての愚痴だったんじゃないだろうか。相想いだと気づいて、ずっと待っていて結局何も言わなかった俺への想いじゃないだろうか。
「頑張ってくださいね」
有紀ねぇがほほ笑むのが、襖がなかったかのように目に浮かんだ。俺たちの心に沁み渡るような、あの笑顔。
俺は何で有紀ねぇに好きだと告げなかったんだろうか。何で臆病風に吹かれたままだったんだろうか。情けねえ野郎だ、と今更ながら思った。てめえはそこでカッコつけてねえで、てめえが好きでてめえに惚れてくれてる女に、告白するべきだったんじゃねえか。
「……いだろ」
「え?」
「できるわけないだろ、そんなことっ」
野郎の怒鳴り声で俺はハッとなった。何だか不穏な空気が向こうの部屋から滲み出ていた。
「一さん?」
「パパは絶対に成功させろって言ってるんだっ!なかったことになんてできるか」
「そんな……それは間違ってます!あなたはそんな気持で、何でもかんでもお父様の言いなりになるんですか」
「あんたに何がわかる!あんたは黙って肯いていりゃいいんだよっ!」
はたして野郎が立ち上がって有紀ねぇに駆け寄る音がした方が先だったのだろうか、それとも後だったんだろうか。
気づけば野郎は佐々木と須藤に組み伏せられていて、俺は有紀ねぇの前で体を張っていた。
「さっきから聞いてりゃ、ずいぶんな物言いだな、てめえ」
「だ、誰だよあんたら」
「誰でもいいだろ。こっちだっててめえが誰だろうがあまり関係ねえんだ。誰だろうと有紀ねぇに狼藉働くやつがいたら」
佐々木がぐっと顔を近づけて野郎に言った。
「どこにいようと何してようとぶち殺す」
「何の騒ぎだっ」
襖を開けて、スーツ姿の恰幅のいい男がやってきた。そして俺達を一目見ると、顔を強張らせた。
「貴様ら、娘の縁談をぶち壊しおって……許さんぞっ」
「お父さん、止めて下さい」
「いいやならん。今日という今日は」
「お父さん」
有紀ねぇが一層強い口調で言った。正直、ここまで強い口調で有紀ねぇが何か言うのを、俺は聞いたことがなかった。
「な、何があったんです」
有紀ねぇの親父さんの後ろから、小柄で如才ない男がひょこひょことやってきた。恐らくこの野郎の叔父とやらだろう。
「取り合えず佐々木さんも須藤さんも、その人を放してあげて下さい。私なら大丈夫です」
渋々という感じで須藤と佐々木は野郎から離れた。野郎はふてぶてしく鼻を鳴らすと、乱れた服装を直した。
「は、一、お前もしかして、この人に無礼な事を……せっかくわしがお前のために何とか纏めようとしてたのを、ぶち壊しちまったのか」
ああ、と呻いて頭を抱える叔父に向って、野郎は言い放った。
「違う。こいつらがいきなり僕を押し倒して乱暴したんだ。パパに言いつけてやる。お前ら全員、まともに生きれなくしてやる」
「貴様ら、やはり……」
有希ねぇの親父さんが顔を真っ赤にして、プルプルと小刻みに震え出した。
「おっと、勘違いなさんな。俺達はこの野郎が有紀ねぇに乱暴しようとしたんで止めただけだ」
「ああ。有紀寧さんが危険だったんで、止む無く飛び出しただけだ。そうでもなきゃ、有紀寧さんが幸せになろうとするのを止めるわけがない」
「で、でたらめだっ!僕は何もしていない!何もしていないぞ!」
野郎がみっともなく喚き始めた。それに反応して先ほどから堪えに堪えていた須藤が殺気を漲らせた視線をそいつに向けた。
「な、何だよ、何で睨むんだよ、僕は悪くないぞっ!そ、そうだ、僕は悪くないっ!」
「沢郁さん」
有紀ねぇが静かな声で野郎を遮った。
「な、何だよ」
「私をよく見て下さい」
きっかりと有紀ねぇは野郎を見据えていた。それに対して野郎は気まずそうに視線を逸らした。
「私の目を見て、私をしっかりと見て、もう一度今の言葉を言ってもらえませんか」
「……くっ」
沈黙に耐えきれずに、野郎は部屋を逃げ出して行った。気の毒な付添人の叔父はおろおろと有紀ねぇと有紀ねぇの親父さんとを見比べていたが、頭を下げるとそのまま転がるように退室した。
「あなた……」
有紀ねぇのお袋さんが、ちら、と親父さんを見た。
「……どうやら今回の件は、その、間違いだったようだ」
渋い顔をして、親父さんが言った。
「だから君達の行為に関しては不問にする。それでいいな?」
居丈高な物言いだった。佐々木の目がキッと細くなった。そして有紀ねぇの手を握って背を向けた親父さんに、低い声で言った。
「親父さん、そっちの用事は終わったかもしれねえが、こっちはまだやらなきゃいけないことがあるんだ」
「何だと」
「ここにいる田嶋って野郎には、有紀寧さんにどうしても言わなきゃいけないことがあるんだ。二人の問題が終わるまで、ちょっと待ってくれ」
「ふん、私が君達にこれ以上関わる必要はないはずだ。今回だけは許してやる。しかしこれ以上娘とは関わらんでくれ」
「必要?おいおい親父さん、ちょいと筋が通ってねえんじゃねえか?あんたが見つけてきた馬の骨のせいで、有紀ねぇは怖え思いをしたんだ。俺達がいなくて、大事な有紀ねぇにもしものことがあったらどうするんだ?」
「黙れ若造。私は有紀寧のことを思って」
「一つ言わせてくれや、親父さん。それにしちゃあ家柄がどうの、家業がどうのと本人には関係ねえ話ばっかり聞こえてきたんだが、もしや見合いってのはこの部屋で行われてたんじゃなくて、隣の間で親御さん同士の話し合いのことじゃねえのか?」
親父さんが目を見開いた。
「よしんば違ったにせよ、娘さんの恩人と娘さんとの話、間に入るのは野暮天もいいところじゃねえか。ここは一つ、無粋な真似は止して、話ぐらいさせてもいいじゃねえですかい」
親父さんは須藤の言葉に歯軋りをして、俺達をじっと睨みつけたが、しばらくしてため息を吐き、吐き捨てるように言った。
「いいだろう。さっさと済ませたまえ」
おい、と須藤と佐々木が俺の肩を押した。そして俺は有紀ねぇと向かい合った。
正直怖かった。結果がある程度解っているとは言え、いい慣れない言葉を、しかも今まで怖くて言えなかったことを言うには勇気が必要だった。
喉が渇いた。声がかすれる。
「田嶋さん。勇気を出して下さい」
その一言で、俺の中で何かが、長い間俺の枷となっていた何かが壊れた。
「有紀ねぇっ!」
気づけば有紀ねぇの小さな体を抱きしめていた。
「俺ぁ……この通り図体ばっかでかくて、器用じゃねえし、気も利かねえけどよ……」
「……田嶋さん」
「一つだけ、どこのどの野郎にも負けられねえもんがあるんだ。それぁ……」
「それは?」
言い淀んでいるところを、有紀ねぇにまた後押しされた。
「それぁ……有紀……寧を大事だと思うことでよ。突然ですまねえけど、俺、頑張るからよ。いつでも有紀寧が笑っていられるように頑張るからよっ!一生懸命頑張るからっ!」
だからっ、と俺はぐっと抱きしめた。
だからお願いします。
俺と一緒になって下さい。
「田嶋……さん」
「……ああ」
「田嶋、有紀寧って、おかしいですか」
「……おかしいかな」
「田嶋有紀寧ですか。ちょっと慣れるのに時間がかかりそうな気もします。でも、いい名前です」
そう言うと有紀寧は俺から離れた。
「ごめんなさい」
「……え」
「すぐ、片付けます。待ってて下さいね」
笑顔でそう言ってくれると、有紀寧は親父さんに向きなおった。
「どういうことだ有紀寧。何の真似だ」
その時の有紀寧は、俺の知っている誰よりも凛々しく、強く見えた。
「お父さん、ごめんなさい。私、私の好きな人の傍で暮していきたいです」
親父さんが顔を真っ赤にして吠えた。
「有紀寧っ!何を言っているんだ!わかっているのか?このままだとお前は、あいつのような道を辿ることになるんだぞっ!」
その一言で、俺達の頭に血が上った。おぼろげに有紀寧のお袋さんの顔も強張るのが見えた。俺達を止めたのは、有紀寧の静かな声だけだった。
「そう……そうかもしれません。私も、和人兄さんのように普通の生活は送れないかもしれませんね。でも」
そこで有紀寧は言葉を切って、親父さんを見据えた。
「でも和人兄さんは優しかった。この人達のように、少し不器用だけど、優しくて、強くて、最高でした。そして和人兄さんのお友達も、今では私の最高の友人です。私はこの人となら、誠一さんとなら、幸せになる自信があります。どこで何をしていようと、それだけは自信があります」
それは、有紀寧が初めて俺の名前を呼んでくれた瞬間だった。有紀寧が、俺を名字で呼ぶのを止めた時だった。
「……今更警察を呼ぶと聞いても、後には引かん……か」
諦めたかのように、親父さんが呟いた。
「ええ。どうしてもそうなさるのなら、自分の娘を懲役者の嫁にする覚悟でなさって下さい。私はこの人と一緒なら、それすら耐えて笑って見せます」
すると、有紀寧のお袋さんがクスリと笑った。
「淑江、何がおかしい」
「いえ、あなたももうよろしいでしょう?」
「何の話だ」
「もう決まっちゃったようですよ、あなた。この子にはいつの間にか私にはない強さを持ったようです。これ以上何を言っても、無駄だってこと、あなた自身がよくご存じでしょ?」
そう言うと、お袋さんは俺を見据えた。
「田嶋、誠一さんでしたね」
「は、はいっ」
「娘を宜しくお願いします。どうか幸せにして下さい」
そう言うと、お袋さんは腰を折って頭を下げた。俺もすぐにそれを見習う。
「あ、頭をあげて下さいっ!頭下げなきゃなんないのは、こっちの方だ」
「あらあら、落ち着いて下さって結構ですよ」
「一生懸命、有紀寧さんを幸せにしてみますっ!絶対に泣かせたりしません!」
しばらくすると、親父さんの重いため息が聞こえた。
「田嶋君」
「……はい」
「娘が泣くようなことがあったら、何が何でも腕を引っ張って連れ戻すからその気でいろ」
「は、はいっ!」
その返事を聞き終えないうちに、親父さんは部屋を出て行ってしまった。お袋さんも会釈をすると、後に続いた。
その後は須藤と佐々木の野郎にもみくちゃにされながら、何をどうしたのか覚えていない。
「さてと」
俺は肩を鳴らすと、真っ白な半袖の作務衣とエプロンを軽く叩いた。
「ゆで卵よし、トーストよし、クロワッサンよし……おし、準備完了」
「速いですね、あなた」
会心の笑みを浮かべている俺のところへ、有紀寧がやってきた。
「まあ有紀寧のコーヒー目当ての客がほとんどなんだろうが」
「そんなことないですよ、あなた。みんなおいしいおいしいって言ってます」
あれからいつの間にか時間が過ぎてしまって、気づけば俺と有紀寧は俺達だけの喫茶店を持っていた。人並みの苦労はしたはずだったんだが、どうにもよく覚えていない。なぜかずっと前だけ見ていて、ふと辺りを見回してみたら有紀寧と一緒に店を構えていた。
「へへへ……っと、もうそろそろ時間だな」
「はい、じゃあいつものおまじないです」
「おう」
そう言うと、俺達は両手の小指と人差し指をくっつけた。
「キョウモマンインキョウモマンインキョウモマンイン」
よし、今日も頑張るか。
収録後談
田嶋:ハッハハ、俺の時代!
須藤:てめっ抜け駆けしやがって!
佐々木:有紀寧さん、何でこんな筋肉バカなんだ……やっぱりリーゼントが短すぎたのか?
田嶋:おう、すまねえな兄弟。やっぱり何だ、人格?人望?そういうものの差だったみてえだな。カッカッカ
沢郁:あのう……
須藤:どうした
沢郁:何だか僕の役、すっごくカッコ悪くないですか?これじゃあどっかのヘタレと大差ないような……
佐々木:まあそうだな
沢郁:不公平ですよぉ、有紀寧さん可愛いし、どうせなら僕シナリオだってあったって……
田嶋・須藤・佐々木:あァ?
沢郁:……何でもないです
田嶋:つーわけで今日から田嶋組な。ま、しょうがねえわ。お前らASのEDにも出てねえし
佐々木:あ、あの時面接さえなければ……
須藤:くっそう、くっそう!
佐々木:ま、お前には勇の姉貴とやらがいるしな、兄弟
須藤:あ?ああ?ち、ちげーよっ!
有紀寧:あ、そうだったんですか
須藤:有紀ねぇ、ち、違うんだ!な、何だその「はいはい、聞くだけ聞いとくよ」みたいな目はっ!夫婦そろってニヤニヤしやがって!お、おい待ちやがれっ!