春も過ぎ、初夏の日差しが廊下を照らした。
一学期も半ばほど過ぎ、新入生も光坂高校の雰囲気に馴染み始めた頃、二人の生徒が昼休みの廊下を歩いていた。
一人は四角い縁なし眼鏡をかけ、独特の髪型で顔の右半分を隠していた。立派な体躯の持ち主とは言えないが、その身にまとった鋭さを感じる雰囲気は、彼なりの威厳を醸し出していた。その足取りは確たるもので、例え教師にぶつかっても「失礼」の一言で済ますような風があった。
その男子生徒の後ろを歩くのは、ショートヘアのよく似合う女生徒だった。自信満々に目の前を歩く生徒を訝しげに見ながら、その女生徒はとことことついていった。美人、というよりは可愛らしい、という形容句の似合う少女で、この二人の組み合わせは珍妙且つちぐはぐしかしどことなくぴったり、という、微妙なコンビだった。
「……本当に大丈夫、末原君?」
女生徒が声をかける。
「何がだよ、安倍。こんなの楽勝楽勝」
「楽勝、ね。役員会議でもそんな大見得切ってたよね」
「ま、坂上が欠席だったんだから、そこは副会長の僕がカリスマを示すべきじゃないか」
「……誰もそこまで期待していないと思うけど」
ぼそりと女生徒、安倍千春が漏らした。実はこのコメントは誠に的確で、生徒会のカリスマやリーダーシップと聞いて生徒が思い浮かべるのは、末原悠仁生徒副会長ではなくて、坂上智代生徒会長の方だった。彼女の人格と論理、決断力とその後ろに見える優しさが、現生徒会の人気を保っていた。では副会長の価値は、と聞かれれば、綿密且つ整然としたサポートだった。坂上生徒会長の行動パワーを精密な打ち合わせなどで完璧にして、書類や手続きを以てして実行するのが末原副会長、というわけで、これまた機能上は問題のないコンビである。しかし、その綿密性を買われた末原副会長がカリスマを示す、というのは、吉野家でスパゲティーナポリタンを頼むような、ファッションブティックにて仙台平袴を注文するような、あるいはテニスラケットでホームランを打てと指示するような歪さを感じる。
「いいんだよ。今日から僕のイメージは変わる。坂上には悪いけど、これからは僕が時代の人さ」
「そうはいうけどさ、私達の任期ってもうそろそろ終わりだよね?時代も何もないんじゃないかな……」
「甘い、甘いね安倍君。だからこそここで僕の威厳を示さなければならないわけだよ。言うなれば最後のチャンスさ。ここで決めれば、この資料室問題を解決した男として、未来永劫光坂高校の歴史に残るだろうね」
資料室問題。
それの最初の記録は、今から二年前になる。とある生徒が資料室に本を取りに行くと、見慣れない巨漢二人が立ちはだかっていたという話だった。それから後、資料室に入った者はコーヒーを淹れてもらったり、他校の不良に睨まれたりと「怪奇現象」が続いており、光坂高校七不思議になりかねない勢いで噂が立った。一部では去年卒業した校内でも熨斗付きの不良二名が出入りしていたという話も聞く。
「ちなみに何で君は僕の後について来ているんだ?僕一人で充分だと言ったはずだけど?」
「……何ででしょーね」
「待て、どうしたんだ、今の不機嫌そうな声は?」
「べっつにー。末原副会長様の高貴にして壮大な遠征のお邪魔してすみませんでしたー」
「いや、邪魔とかそんなことは言ってないんだけどさ……」
「いいでしょ私が偶然こっちの方向に歩いてたって、偶然末原君に話しかけたりしたって、ぐーぜん末原君の後についてってるように見えたって!」
「……さっきから偶然という言葉を繰り返しているようだけどさ、何つーかあれだ」
「あれ?」
安倍はそっぽを向いたままちらりと末原副会長を見た。
「そういう風に連呼してると、ボキャブラリーが少ないって思われるぞ?」
証人:野球部員谷口
「また俺かよ……とにかく、昼休みの間にブラブラ歩いてたらさ、『余計なお世話じゃい、ボケェエっ!!』『ぬぉおっ!!』って声が聞こえてさ。次の瞬間、ばりばりーん、てな音がしたから見てみると、副会長が廊下の窓を突き破って、あと少しで落ちそうになるところを会計の安倍さんが足掴んで引っ張り上げようとしててさ。何だかよく見えなかったけど、そう言えば副会長の頬っぺたに真っ赤な跡があったような……まあいいや。で、安倍さんがうんうん唸ってたら、乾が駆けつけてきて事なきを得たんだけどさ、誰も何が起こったのか教えてくれないんだよね。せいぜい会長が『全く、仕方のない奴らだ』ってコメントしたぐらいでさ。あ、あとさ、あの最初の『余計なお世話じゃい』って、誰の声だろ?安倍さん……?まさか。あんな怒気の孕んだ野太いボイスを安倍さんやるはずないし。でも、じゃあ誰だろ?」
がんばれ末原副会長!
「……死ぬかと思った」
僕は眼鏡をくい、と指で押し上げると、そう呟いた。頬がまだずきずきと痛む。
「末原君が悪い。どー考えても末原君が悪い」
事件の加害者であり、生徒指導室にて大上から大目玉をくらった仲間でもある安倍がそう言い切った。
「何言ってんだよ。君が僕を張り飛ばさなきゃ、あんなことにはならなかったんじゃないか」
「そうなる原因を作った末原君が言う?!」
「廊下は静かに歩けよー、お前ら」
振り返るといろんな教材を抱えた斎藤が職員室に入っていくところだった。
「見ろよ、斎藤にまで注意されたじゃないか」
「わ、私のせいにするの?」
ぷん、と二人でそっぽを向く。
「……早くしないと、昼休み終わっちゃうよ」
「……わかってるよ。ったく」
ポケットに手を突っ込むと、僕は資料室に歩きだした。かつんかつん、と上履きが音を立てる。するとその音に合わさるように、もう一組の足音が響いた。
「だから、何でついてくるんだよ」
「末原君、口で大層な事言ってても、結局チキンって逃げるかもしれないしー」
「何だよ、僕がそんな姑息な真似するわけないじゃないか」
「どーだか。そう言えば誰かが言ってたんだけど、末原君、他人の恋路の邪魔したんだってね?」
「ぶはっ」
僕は盛大に吹き出した。何というか、心臓を鋭利な爪を持つ手に鷲掴みされたような気分だった。何だ、何で知ってる?
「……誰がそんなことを」
「誰だっていいでしょ。しかもさ、それってもしかするといろんな理屈を取ってつけてはみたものの、結局は横恋慕が動機だったりして」
ぶんぶん、と僕は首を横に振った。眼鏡がどっかにすっ飛んで行きそうな勢いだった。
「そそそそんなことことここことないさうんないとも」
「ほんとぉに?嘘だったら、私怒るよ」
「だから嘘じゃないって」
話を打ち切るように僕は廊下を歩き進んだ。
「ねぇ」
「何だよ」
「末原君てさ、誰か好きな人、いる?」
「はぁ?!」
我ながら素っ頓狂な声が出たと思う。だけど、そんなの素っ頓狂な質問をした安倍が悪いに決まってる。
「何でそんな話になるんだよ」
「いや、何となく。で、いるの?」
「……いないよ」
何となく、気になるというか気に障るというかくそムカつくくせに(しかも先ほど暴力的な側面発見)何となく一緒にいることの多い奴は一名いるけど。
「……あっそ。あ、資料室」
資料室につけてよかったと思った。微妙な空気が流れる前に、こういうことは早く決着をつけておきたい。
「……ホント一人で大丈夫?何なら空手部の人、呼んでこよっか?」
「いや、いいさ。ここからは僕のテリトリーだ」
時々自分の才能が怖くなる時がある。特に自分の本音と言っていることを見事に分離させる才能とか。くっそぉ、空手部の連中を副会長権限で「懲らしめておやりなさい!」とか顎で使えたらいいのにな。そう思いながら資料室の扉に手をかけた時
ピンピンポンパーン
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「しょうがないな。放課後出直してくるとするか」
「……………………」
僕はヤレヤレと肩をすくめて教室まで歩いて行った。その間ずっと刺さっていた安倍の視線が、物凄く痛かった。
「……がみさん。坂上さん」
それより少し前。三年生の教室では、仁科りえとその親友(?)である杉坂が、まじまじと坂上智代の顔を見ていた。杉坂が智代の目の前で手を振ってみたが、反応がない。
「すごいねりえちゃん。本当に違う世界に行ってるみたい」
「坂上さんも、まだ生徒会長だしね。いろいろと考えることはあるみたいだね」
面白そうに見る杉坂とは対照的に、りえはふふ、と微笑んでフリーズ中の智代を眺めた。
「や、生徒会長は別に関係ないと思うよ?」
「え?そうなの?」
「うん。まあ見てて」
そんな三人を見ていた鷹文は、窓に目を向けるとぼそりと呟いた。
「あ、にぃちゃんだ」
「何っ!どこだっ!!どこだっ!!」
瞬時に弟の言葉に反応して、智代は窓を開けると辺りを見回した。
「ね?実はずっとにぃちゃんのことを考えてたってわけ。すみませんね、こんな姉で」
「大変だね、お姉さんがこうなっちゃうと」
「もう慣れましたよ。杉坂さんは知らないと思いますけどね、ねぇちゃん、学校を出た途端に歩く速度が急上昇して、そのまま商店街に行くんですよ」
「え?商店街?」
「そうそう。で、そこでいろいろ買って、にぃちゃんのアパートに直行。もう通い妻もここまでくると……」
「鷹文君、後ろ後ろ」
あまりにも話に乗っていたので、杉坂が注意するのが遅れた。それが鷹文の運のつきだった。
「鷹文……お前が命知らずとは姉としてよくわかっていたが、そーかそーか、そこまでしてその短い命を散らしたいか」
振り返らなくてもわかった。鷹文の後ろには、不良達を夜な夜な蹴り飛ばしていた、伝説とも言われた姉が立っているということ。そしてその姉が、騙されたということと恥ずかしい自分の日常を晒されたということで非常にお怒りであるということ。そんでもって、このぽきりぽきりという不気味な音は、そんな姉が指を鳴らしているということ。
「あ、あはははは、ねぇちゃん、ほら、教室内での暴力はいけないと思います」
「暴力じゃない。後輩への教育的指導だ。生徒会長じきじきのお墨付きだから問題ない」
「や、でもほら、それって公私混同だし。僕ら姉弟だし……って、後輩?」
「ああ、ただいまよりお前と私は絶縁だ。覚悟しろ、知らない家の子よ」
「う、うわぁあああああああああああああああああああああああああああ」
「でも、そういうところもいいんじゃないですか」
りえの一言に、智代は鷹文をぽかぽかと殴る手を止めた。
「誰かのことを、それこそ我を忘れるくらいに想ったりするなんて、やっぱり凄いことだと思います。凛々しい坂上さんも好きですけど、恋する坂上さんも女の子らしくていいんじゃないですか」
「……う」
そのまま智代は赤面して俯いてしまった。耳を澄ませば小声で「や、やはり女の子らしいだろうか……などと呟いているのが聞こえる。
「そう言えばさ」
何となく惚気に突入しそうな雰囲気を振り払うために、杉坂が話題を変えた。
「資料室の噂、りえちゃん知ってる?」
「とうとうやってきたぜ、資料室」
放課後、僕は腕を組んで資料室の前に立ちはだかった。
「うん、とうとうだよね。ようやくだよね。あの時突入してれば、放課後まで待つ必要全くなかったよね」
その隣でため息を吐く安部。ん?安部?
「何で君がまたここにいるんだ?」
「末原君って意外とチキンだしさぁ。クルクルとか言ってイケないなんてあるんじゃないかって」
「今の君の発音、どうも問題あるような気がするんだけどな」
「気のせいだよ」
はぁ、と僕はため息をつき、そして深呼吸をした。
「あ、安部は危ないからここで待っててくれよ」
「は?危ないことするの?」
「まぁ、場合によっては……」
「資料室の女生徒に?アブナイこと」
「……なぁ安部。もしかするとだけどさ、君って僕が資料室の人に会いに来たがってるとか何だとか思ってないか?」
「ぜんぜん。そんなことはこれっぽっちもおもってなんてないよ」
思い切り棒読みだった。
「まぁいいか。とにかく、あれだ。危険かもしれないから下がっていたまえ」
「うっわ何その人を見下した物言い?生徒会の同僚に向かって言う言葉?」
「はいはい」
「だいたい、末原君って坂上さんの腰巾着なんだし、副会長っつっても雑用なんだし」
「はいはいはいはい……ってごるぁ!」
人が結構気にしていることを!!
「と、とにかく行くからね!」
「はいはい」
そして僕は資料室の扉を開けた。
中は、一言で表せば異次元世界だった。
扉を開いた真正面には、なるほど茶髪の男が二人、強張った顔でこっちを見ていた。制服からして、近くの工業高校だと思う。何というか、それだけでなく資料室の中心にあるテーブルを囲んで、大体十人ぐらいの屈強且つ筋肉美も甚だしい男達が、なぜか直立不動で立っていた。そしてそんな世紀末を髣髴させるような光景の中で、場違いもいいところなコーヒーのいい香り。いい豆使ってるなぁ。
僕はこの時、去年卒業してしまった藤林杏先輩のことを思い出した。ああ、彼女がここにいてくれれば、それこそ辞書の投擲やら蹴りやらでこういう不逞な連中を千切っては投げ、千切っては投げしてくれるんだろうに。
しかしそれにしてもおかしな状況だ、とその正面に立っている巨漢を見て思った。とどのつまり、この緊迫感は悪者の集まっている池田屋資料室に、光坂新撰組副長が颯爽と御用改めをしに来た、という感じではない。その証拠に、この巨漢の顔に書かれているのは「ヤバイ奴が来ちまったナァ」ではなく、「おいおい、また面倒なことになっちまったぜ」という感じの、もうすでに厄介なことが起こっているとでも言いたげな顔だった。何だか少しへこむ。
と、そんな時、僕は話し声がこの筋肉の壁の向こうでするのを聞いた。そうか、ここで悪者共が悪巧みか。だから緊張しているんだな?だとしたら、ここで現場を取り押さえてやろうじゃないか。
僕が一歩踏み出すと、長髪をオールバックにしている男が僕にすごんだ。
「あァ?誰だテメェ?」
「せせせせいとかかいの、者です」
すると男の顔が歪み、辺りでひそひそが聞こえた。
「げ」
「生徒会かよ」
「マズイことになっちまったな」
わはははは。そうだよ、これだよ。生徒会ってのは、これぐらい威厳がなきゃいけないんだよ。
「て、テメェ、何様だ?」
「え、副会長様ですが何か?」
「お、おい」
「副会長だと?あの……かよ?」
ほうほう、何だねチミ達、僕の名前を知ってるってかい?なら話は早い。何だ、この資料室問題も、所詮僕の手にかかれば楽勝だね。
「お、おい」
「ああ」
そうして僕に道を空ける不良達。ああ、いい。すごくいい。正義がなされる瞬間だよ。僕は後ろで「信じられない」という顔をしている安部にふふん、と笑うと、あけられた道を通って資料室の悪の中枢に入っていった。
「そうか……今度はマイティレインボーパンか……な、なかなか面白そうなパンだな」
「そう言ってくれるのは嬉しいですっ!で、でもやっぱり食べないほうが……わ、私お店の評判落としてますっ!!」
「今度にぃちゃんに持っていこうかなぁ」
「岡崎さんにその手はかからないと思います……岡崎さん、お父さんと知り合いですし……」
「それ以前に朋也に何を食べさせるつもりだお前は」
「あいてっ」
「坂上さんも、鷹文さんも仲がいいんですね……そこでずっこけていらっしゃる方もそう思いませんか?」
「え、ええ……まぁ……」
僕はぎぎぎ、とテーブルに手をつきながら立ち上がった。な、何なんだこの和み空間は?何というか、時空の歪でもあるのか?隔離された世界なのか?とにかく、不良達に囲まれて女子三名(うち一名は割烹着着用)男子一名が和やかかつアットホームな雰囲気で談笑しているというのは、ピカソもびっくり名ほどシュールな世界だった。
というか、えええええ?池田屋に押し入ったら、桂小五郎と近藤勇が沖田総司連れて酒酌み交わしていたって、どんだけ〜?というか、生徒会でビビッてたのって、坂上が現にここにいるから、もし僕に何かしたら坂上が暴れるとかそういう話だったのか?というか、「副会長だと?あの……かよ?」ってもしかしないでも「副会長だと?あの坂上の手下かよ?」とかいう発言だったわけだよな?
うっわ脱力。
「ん?どうした副会長?何をしに来た?」
「……坂上、何でそこでそんな『邪魔者が来た』発言をするんだ?」
「ん?そうか?」
ふふふ、と坂上が笑うが、目は笑っていない。何でだ?僕が何をした?
「それって自業自得……」
「は?安部、何か言った?」
「別に」
「しかし宮沢さんはずっと前からここで?」
坂上が二人の女子のうち、割烹着の似合う方に話しかけた。
「ええ。お友達が時々いらっしゃいますので」
「しかし、他の生徒も来たりするのだろう?」
「そうですね……古河さんとはよくここで会いますね。あと、去年は岡崎さんと春原さんが来ていました」
すると坂上は顔を赤くして、小さく「授業サボって何をやっていたんだ……」と呟いた。うん、まったく同意。
「つまりここでは我が生徒もくつろいでいる、と?」
「そうですね。時々いらっしゃる方もおります」
そこで坂上はコーヒーを少し飲んで、そして宮沢と呼ばれた女子を見据えた。
「しかし、生徒会としては他校の生徒が何の制約もなくここに出入りするのを看過するわけにはいかない」
それは、今までの和やかな空気を吹き飛ばすような、そんな冷たい一言だった。動揺が不良達の間に沸き起こる。そして坂上の隣にいた二人の生徒も、身を乗り出した。
「ねぇちゃん!」
「坂上さん!それはちがいますっ!みなさん、乱暴とかしませんっ!」
「いいんです、古河さん、鷹文さん」
宮沢は静かに答えると、その穏やかな笑みを消した真顔で坂上と向き直った。
「坂上さん、続けてください」
「うむ。それで、教師からも苦情が来ている。いっそ、資料室を閉鎖したらどうだ、と言う声も少なからず上がっている」
「なっ!」
「そいつぁあんまりだっ!!」
「ゆきねぇは何にも悪くねぇ!!せめてゆきねぇはここにいさせてくれろっ!!」
不良達が堪え切れんと言わんばかりに吠える。まるで怒りに任せて掴みかかってくるかのような彼らに、坂上は冷静に片手を上げて反論を制した。
「しかし、現にこの部屋は去年も今年も生徒が使っているという話だ。それを閉鎖するのは好ましくないし、今のところ来た者がここで怪我をしたという報告は聞いていない」
「あっ、去年春原さんが乱暴されてましたっ」
「……訂正しよう。まともな生徒がここで怪我をしたという報告はない」
どこかで「アンタそれでも生徒会っすかっ!!」とかいう声が聞こえたが、どうやら僕も疲れているようだな。
「私も今日ここにきてみたが、こういう空間は悪くない気がする。そこでどうだろう、宮沢さん?生徒会としてはここの部屋の悪影響は、他の教室と変わりない、いや、むしろ少ないくらいという見解にするということで」
「いいんですか、坂上さん」
そう尋ねる宮沢に、坂上が笑って答えた。
「私も、ここに入り浸りになりそうだしな。しかしお前ら、悪さはするんじゃないぞ」
「し、しねぇよ」
「ゆきねぇのいるところで争いごとなんてしたら、男の恥ってもんよ」
「ゆきねぇ、あっしらいつもいい子でやんすよね?」
緊迫した空気が緩み、不良達がめいめいに喜んでいるところを、坂上が僕の腕を引っ張って資料室を出た。
「な、何するんだよ、坂上」
「うん。今の話、生徒にどう伝わる?」
「あ、そりゃあ、坂上が不良達を制して資料室を平定した、とか」
すると坂上は見る見るしょげくれた。
「そうか……そう見られてしまうか」
「いいんじゃないか……どうせこれでまた下級生が黙っちゃおかないしな」
だいたい、坂上のほうがバレンタインの時に僕よりもチョコもらってるし……バレンタイン……バレンタイン……
ガクガクガクガクブルブルブルブル
「それでは女の子らしくないではないか」
「女の子って……そりゃあ、まあ」
「いいか、よく考えろ。そんな話が、校門を出て町中に広がったときの事を、そしてその影響を」
「あ」
そうだった。坂上にはよくわからないがいろいろと過去にあったらしい。思えば生徒会長選挙の時もいろいろとゴタゴタがあったようだった。そんな坂上がまた何かやったとなったら、坂上の名誉にも傷がつくし、もしかすると学校にも
「朋也に嫌われてしまうではないかっ!」
「そっちかいっ!!」
「とにかく、今回の件はお前が何とかしたということにしておいてほしい」
「え……あ……」
「頼んだぞ、副会長」
そう言うと、坂上は颯爽と歩き去っていった。と思いきや、ふと窓の外にある校門、そしてその先を眺めたかと思うと、微妙に恋する乙女のような足取りに変わった。
しかしこの際そんなことはどうでもいい。重要なのは結果だ。そうだ、僕が資料室問題を解決したんじゃないか。そうだよ、ははははは、末原悠仁、君はやればできる奴だったんだよ!
「これにてっ!一件落着!!」
僕はポーズを決めて、廊下を凱旋した。
その後についてきた安部の視線が、おっそろしく痛かった。
後日談。
「はい、これ。あと、ちゃんとお財布と携帯とボールペン、持ったの?」
「持ったさ。忘れるほどボケちゃいないよ」
「ふーん?そんな事言って、役所のほうまで届けにきてくれって泣きついてきたのって、どこの誰だっけ?」
そう言いながら千春はふふん、と僕に勝ち誇った笑いを見せた。
「う、うるさいなぁ。とにかく、行ってきます」
「はいはい、気をつけて、あなた」
どうもまだあいつに「あなた」呼ばわりされるのは慣れていない。そう思いながら僕は市役所に向かって行った。
「おはよう」
「あ、おはようっす」
「おはようございます、末原さん。あの、今日のこと、頑張ってくださいね」
「ん」
そうだった。千春のせいですっかり忘れていたけど、今日は大事な日だった。今日は、僕が「表通りの喫茶店問題」を解決する日だった。
表通りに小洒落た喫茶店ができたのは、二年前のことだった。そこのコーヒーは格別な美味さだということで評判になったが、どうも開店当時から柄の悪い連中が出入りすることになり、苦情が来ていた。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、お気をつけて」
「いってらっしゃい、末原さん」
応援の声をかけてくれる後輩に背を向け、僕はその噂の喫茶店に向かった。
「ここか……」
一見すると西洋のロッジハウスのような外見のそれは、確かに喫茶店に必要な雰囲気を醸し出していた。「Folklore」。たしかに洒落た名前だ。ここから悪漢を追い出すのが僕の仕事なら、僕の役目もそう捨てたものじゃないな。そう思いながら僕はその喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。市役所のものですが……」
言った途端に、僕は立ち尽くした。見ると、確かに強面の連中や柄の悪い男達がいるが、彼らの目はカウンターに座る客に釘付けだった。この雰囲気。このコーヒーの匂い。何だか嫌な思い出がありそうだ。そう思っていると、不意にカウンターに座っている客の一人が女将に言った。
「しかし、ここには初めてくるが、まさかあなたの店だったとはな、有紀寧さん」
「智代さんならいつでも歓迎です」
「ね?ここのコーヒー、おいしいでしょ」
「ああ、確かに。杏はよく来るのか」
「藤林さんはここの常連さんです。幼稚園の帰りとかに寄られます」
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
僕の絶叫で、店内の視線が僕に集中する。カウンターの二人も振り返り、そして僕は確信した。
「さ、坂上っ!お前、ここで何やっているっ!!」
「坂上……?」
不意に、坂上が凍るような声で言った。
「貴様、私の名を坂上と呼んだか?」
「え、ち、違ったか?」
「ああ、違うっ!」
坂上(みたいな人)はえっへんと胸を反らすと、僕に向かって宣言した。
「私は数年前から岡崎だっ!」
「そうだそうだっ!!」
「言ったれ、岡崎(妻)!!」
何故か同意する店の中の強面達。
「で、そういうあんた、何しに来たわけ?さっき市役所がどうのこうのって言ってたけど」
「あ、そうだ、おほん。市役所に苦情が来ていて、何でもここに柄の悪い連中がやってきたりしているから何とかしてくれ、ということだ」
すると、一斉に僕に向けられる視線が殺気を孕む。
「あ?」
「何だそりゃ。テメェ、何馬鹿なこと抜かしやがる?」
「ばばばば馬鹿なことじゃなくって、実際に苦情来てるって!いや、マジで!!」
断っておくが、これは僕の「時々DJキュキュキュ病」である。決してビビッてどもってる訳ではない。
「でもねぇ、あたしも結構ここに来てるけど、何か問題あったことないわよ?」
『そーだそーだっ!!』
藤林の発言に同調する柄悪達。
「ここで問題なんか起こしたら、それこそ田嶋の旦那に病院送りにされちまう」
『そーだそーだっ!!』
何だかやりづらいなぁ……
「あの……」
そこで女将が僕に向かって言った。
「ここの方は、私の兄のお友達や、主人のお友達ですので」
『そーだそーだっ!!』
「今まで一度も問題なかったですし……」
『そーだそーだっ!!!』
「穏便に済ますこと、できませんか?」
『そーだそーだっ!!!!』
「おい、てめえら、クリーム……」
『そーだそーだっ!!って、あァ?!!』
調子に乗った奴が一気に殴り飛ばされる。
「あ、ほら、今暴力」
「いや、おれ俺らの友情だから」
「堅気には迷惑かけねえよ」
「だいたい、今のはこいつが悪いんだからよ。な?」
「……」
「な?」
「はい……俺が調子に乗ってました……」
「仲間」に肩に腕を回され、泣きながら頷くお調子者。どう見ても「友情」ではない。
「というわけで、問題はない。それでいいだろう、副会長」
「問題ないって……大体、僕はもう副会長なんかじゃない」
「問題はない。だろ?副会長」
「だから副会長はやめってって……」
「問題はないな?副会長?」
「……はい……問題ないです、会長閣下」
「うむ。大儀であった」
「ありがたき幸せ」
そしてパブロフの犬よろしく、僕はお辞儀をすると「Folklore」を出て、役所に戻りかけた。そしてふと今自分が何をやっているのかに気づき、自分に何が起こったのかを理解し、そしてそれをどうこれから説明するのを思い浮かべて、僕は頭を抱えた。
「もう、いやだぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」