先生……
僕は……先生と…あのくそ弱い陸上部と……
河南子が……好きでした…
大好きでした……
そして……
今も僕は……河南子が好きです……
大好きです……
ゴールライン
荒い息を整える。そして顔にまとわりつく汗を拭った。喉が痛いほど乾き、胸の動悸は当分治まりそうにない。
「……また……あの夢か……」
不意に顔を拭う袖に温かい感触が。ああ、泣いてるんだな、と冷めた自分が呟く。
その時、不意に抱きしめられた。
「大丈夫?」
その言葉だけで、どれだけ僕は救われてきたのだろう。どれだけ今救われたのだろう。
「すごい汗だよ?」
「うん」
河南子は心配そうに僕の顔を覗き込むと、ベッドを下りて部屋から出た。そしてしばらくしてタオルを持ってきてくれた。
「はい」
「うん……ありがとう」
「……また、あの夢?」
「……ああ」
首筋を拭いながら答えた。河南子の表情が曇る。
結局、僕はまだ抜け出せないでいた。夢の呪縛は、まだまだ僕を繋いだままで、だから僕は、年だけとっていてもまだ一歩も進めないでいた気がした。
「あたしは何にもできないけど、でもあんたの傍にいるからね。ゴールするまで、ずっといるからね」
頭を肩に乗せながら、河南子が言った。まだリボンでまとめ上げてない髪をきれいだと思った。
そう。あの夏から、僕と河南子がつき合いだしてから結構経ってる。僕は高校を出て大学に進み、そして光坂市の近くの中学で教師をしている。河南子も短大を出て近くで就職したから同棲してる。でも、まだ結婚はしていない。ずっと恋人関係が続いている。
河南子だと不安だから、じゃない。そんな理由なんかじゃない。ただ、答えを出せないまま河南子と一緒になることを許してもらえないんじゃないかと思う。河南子の両親にじゃない。僕の両親にでもない。河南子の父で、僕の恩師に、先生に。そして僕自身に。
「ねぇ、好きだ、って言って。あたしは、鷹文が好き」
安息を求めるように河南子が言う。
「大好きだよ、河南子」
そう言ってあげることぐらいしか、今の僕には河南子にできることなんてなかった。
「今日も来るかな?」
出かける時に河南子が聞いた。誰が、と聞く前に思いついて、僕は頷いた。
「うん、まあね。いいかな」
「あたしはいいよ。つーか、来てくれた方が楽しいじゃん。何だかあの頃みたいでさ」
かんらからからと河南子が笑う。
「そうだね」
「ね、あの有馬って子、マネージャーの浅野ちゃんと付き合うかな?ね、ねね」
「さあね。浅野の気持ちに気付いてるかどうかだけど……って、河南子楽しんでるでしょ」
きょとんとした顔をされる。
「うん、そりゃま」
「そういうの本人たちの問題だからね?僕らが口出ししちゃ、いけないんだけど」
「何だてめぇ?あたしの楽しみを奪ってうれしいか?」
「そんなことで楽しむなっ!」
僕は陸上部の顧問をやっている。全然強くとも何ともない部だけど、それでもみんな走るのが好きで、僕から見ればいい奴らだ。そんな連中を、僕と河南子はよく家に招待して鍋を囲む。彼らが話すことの内容は様々だ。高校受験のこと、区域大会のこと、生意気にも僕と河南子のこと。
「まーとにかく仕事終わったら用意しとく。何時ぐらいに集まる?」
「ん。六時ぐらいかな」
「おっけ。じゃ、今日も頑張ってきなよ」
ぽん、と河南子に背中を押されて僕は仕事場に向かった。
「不公平だぁぁあああ!!」
東が世界の終りだと言わんばかりに叫んだ。
「俺はこの部のキャプテンだぞっ!そのキャプテンより速く走るなんて、許されないんだぞ有馬ぁ!!」
「仕方ないっすよキャプテン。有馬ってうちのエースなんだから……」
隣で副部長の村田がため息を吐く。その更に隣でマネージャーの浅野がほわわ〜んとした笑顔でゴールラインを通過した有馬を見ていた。
「茶番だっ!」
「いや、それこっちの世界じゃないし」
そんな馬鹿騒ぎをする部員達を眺めながら、僕は有馬を見た。
有馬は、今年で二年生になる陸上部のエースだ。走るたびに記録が更新されていき、そして走っている時の表情が生き生きとしていることに気付いた時、僕はこいつなら全国大会にも通用する才能があるんじゃないか、と思い始めた。そのフォームは本当に模倣的ともいえるほど綺麗で、足が地面を蹴るたびに空を飛んでいるかのような錯覚を覚える。
でも
でも今日ばかりは、どこか不自然なところがあった。
「東」
「はい?何すか?」
「いや……有馬に何かあったのかな?」
「え?」
「いや、走り方が妙にぎこちないような気がしてさ」
足の方はすいすい動いている。問題は上半身だ。陸上では重心の作用も考慮して上半身をうまく動かすことも必要になってくる。いつもの有馬はそれぐらい何ともないのだけれど、今日ばかりはそうでもなかった。
「どうでした?今の?」
「速すぎだボケ。もっと遅くなれ」
「キャプテン、めちゃくちゃカッコ悪いっす」
「はい、これ」
浅野の差し出したタオルを戸惑いながら有馬が受け取った。
「ねえ浅ちん、俺には?」
「タオルほしけりゃ完走してください。あと、その呼び名であたしを呼んだら殺すから」
そんなぁ、という情けない声を上げる東に、部員達が笑う。気づけば僕も笑いの輪に入っていた。
「で、どうだったんですか?」
「ん……有馬、お前上半身大丈夫か?」
さっと有馬から血の気が失せた。
「え……あ、今日は、その、寝違えちゃって……」
「気をつけたほうがいいよ。夏の大会も迫ってるんだし」
「はい……」
そこへ東と村田がやってきた。
「つーわけでこれから坂ピー先生んちで鍋パーティー!いやほぉおおおおいっ!!」
「ってこら!勝手に決めるな!」
「えー、やんないんすか」
「いや、やるけど」
「いやっほぉおおおいっ!!」
飛び上がる東を見て、何だかねぇちゃんとじゃれつくにぃちゃんを思い出してしまった。
「岡崎最っっっこうぅぅうううううう!!」
「大きな声ではしゃぐな、馬鹿」
「だーかーらっ!走る時はブルマなのっ!異論は認めないのっ!」
「過去に時計のねじ回しても無駄なことっす。ここは時代の流れをくんでとっととスパッツの魅力に堕ちろ」
東と村田が鍋を挟んでいがみ合ってる。そんなことで大声出すから、未だに彼女ができないんだよ、とは言わなかった。ねぇちゃんがここにいたら二人とも蹴り飛ばしてるだろうか。
「そういや、河南子さんが現役の頃何履いてたんですか」
不意に村田が変なことを聞いたので、僕はジュースを喉に詰まらせた。
「ん?そんなの知ってどうするんだ?」
「え、いやぁ、参考にと思って」
「何の参考にだよ」
僕の突っ込みは浅野に取られてしまった。
「そーゆーことばっか言ってるから、彼女できないんですよ、もう」
……
……
あーあ。
言っちゃったよ。
「ぢっぐじょおおおおおおおっ!お前はいいよなっ!有馬がいてよぉっ!」
「あ、有馬は関係ないでしょ、もぉ!」
「あ、やっぱ付き合ってるんだ。やっぱすごいねえ、近頃の中学生は」
「だ、だからちがいますって!河南さんまで何言ってるんですか!」
「あ、ちなみに河南ちゃんは中学校付き合ってた人とかいます?」
東が挙手して訊いた。
「え?うん、いたよ?」
おおっ、と東が声を上げた。
「もしかして修羅場?うぉっ、河南ちゃん、誰誰?」
まっすぐ河南子の人差し指が僕の鼻先を指した。
「何だつまんねぇ……」
「ところでさ」
さっきから気になっていたことを聞いてみる。
「有馬は?」
すると、東も村田もあれ、という顔をした。
「そういや、あいつどこいったんだ?」
「いましたよねぇ……」
「あの……」
か細げな声で浅野が俯きながら言った。
「その、有馬のことなんだけど……」
「どうしたの?」
「時々、いなくなったりするんです。何だか急に電話かかってきたりして。そしたら怖い顔になって……訊いても何も言ってくれなくて……」
「あ、わかるわかる」
河南子がふんふんと頷いた。やっぱりそういうものの現場とかを見ているんだろうか。
「それってさ、恐怖電話っていうらしいよ?聞いたら百日寿命が縮むっていう」
「違うよっ!!」
「何だてめぇ、恐怖電話がないって言いきれるのかよ」
「そういう話じゃないだろ!大体河南子の電波情報でうちの生徒達を侵さないでくれる?ただでさえ、東と村田は絶望的……あ」
あ
言っちまった。
「先生……」
おどろおどろしい声が聞こえた。
「あ、いや、東、そう言うわけじゃなくて」
「キャプテンと一緒なんてひどい!ひどすぎるぅうううううう!!!」
「そっち!?」
唖然とする僕らをよそに、村田が出て行った。
「あーあ、いっちゃった。鞄、どうするんだろ?」
「後で届けておきますよ。それより、さっきの言葉、撤回してください。俺、あんなのと一緒じゃないです」
東がむくれていた。お前もそっちなの……
「でもね、一人で何かするって、辛いよ」
食器を片づけている時、河南子が浅野に話しかけた。
「あたしの知り合いにさ、すっごく馬鹿なのがいてさ。家族の問題を自分一人で何とかしようとしちゃってさ。それで結局思いついたのがさ、すごいんだよ?もうこいつ真性のアホだろって感じでさ。でも」
「でも」
「でもね、そいつの抱えてた問題って、一人で解決するにはそれぐらいやらないとだめだったんだね。もしあたしや友達とかに言ってくれてさえいれば、一緒に悩んで、重荷を軽くできたのにね。相談ぐらいしてくれりゃよかったのにね」
僕は黙ったまま居間の片づけをしていた。足がずきりと痛んだ気がした。
「一人で何でも抱え込んでると、しんどいよ。そう、有馬に言ってあげなよ」
うん、と浅野は素直に頷いた。
「でもやっぱ河南さんに話せてよかったな。やっぱり可愛い女の人は言うことが違いますね」
「やだやだ、本当のこと言っちゃって」
……
……
……えー
「何だてめえその顔は」
これで、女の人、ねぇ?
息が苦しい。
足が悲鳴を上げる。
それでも僕は走る。
前へ
前へ
ゴールラインへ
周りがぼやけて色と光の織り交ざった絵に見える中、僕の目は、光輝く前だけを見ていた。
そして達する。
ゴールテープを切った後、僕は前屈みになって呼吸を整える。そして足を引き摺るようにして、コースの傍で立っている人に
歩いて行く。
「先生……」
温厚な顔で、先生は頷いてくれた。
「僕、勝ちました」
「うん。見てたぞ。よくやった、坂上」
「先生……」
僕は喉まで出かかった言葉を、呑み込んだ。
先生、これで河南子をくれますか
先生、これでもういいですか
僕を
僕を許してくれますか
「そんな奴に河南子をやれるものか」
不意にあの日の言葉が耳に蘇って、僕は逃げ出したくなる。それでも足は動いてくれない。息が苦しい。何だこれ。動けない。逃げられない。
跳ね起きる。部屋はまだ暗い。日の出まで結構あるんだろう。傍で河南子の寝息が聞こえる。
河南子から離れて、徐々に見なくなっていた夢。それは、僕が河南子とまた付き合いだしてからよく見るようになった。そして、僕達が近付いていくにつれて、更に頻度を増した。
「先生!やばいっすっ!!」
昼休みの時、職員室に向かう途中で東に捕まった。顔が真っ青だった。
気づけば、なりふり構わず階段を駆け上がっていた。そして屋上に続く扉の前で息を整えると、汗を拭いて扉を開いた。
「あ」
「お」
さも、ふと気付いた、という感じで有馬に目をやる。金網に絡められている指が離れないよう祈りながら。
「先生……」
「有馬、柵、越えてるよ?」
有馬の顔が引きつる。口をわなわなさせて、何か言おうとしていた。足を一歩踏み出す。
「来るなっ!」
悲鳴に近い叫びだった。
「来ないで……下さい」
「そう言わないでさ。そこからの眺め、綺麗か?」
「……」
「そうでもないよね。うちの学校、結構しょぼいしさ。雨になったら、グラウンドなんて使えたもんじゃないよなぁ。いつになったらまともなコース作ってくれるのかなぁ」
「先生……」
「ま、ちょっと話でもしよう。昔、あるところにおじいさんとおばあさんがいてさ、おじいさんは山へ芝刈りに」
「……河南子さんに似てきましたね、先生」
「それは……褒めてるんだかけなしてんだか、全然わかんないね」
有馬がこっちに体を向けた。
「……疲れました」
「うん」
「走るのも、何もかも、全部疲れちゃいました」
「……そうか」
「一人でいるのって、辛いですよね。でも結局全部自分で解決していかなきゃいけない。だから」
「……一人、かなぁ?」
「一人ですよ。みんな一人です。走ってる時も、寝てる時も、殴られたり蹴られたりしてる時も、いつも一人です」
やっぱり、という言葉が浮かんだ。有馬みたいなエースは、目立つという理由で因縁をつけられたりする。そして、失うものを持っている者は、それが大きければ大きいほど、それを庇って傷ついて
「でも、一人じゃなかっただろ」
「ひと」
「だってさ、みんなお前のこと、心配してたよ?」
言葉を遮って言った。有馬の目が見開かれた。一歩ずつ、ゆっくりと踏み出していく。
「知ってる?東のやつ、先生に声かけた時、もうすっごく必死になって走っててさ。大会でそれぐらい出せたら優勝だろって思うくらい。浅野だって、ずっと心配してたよ。心配したあまり、河南子に相談してた。河南子に相談したら、話がややこしくなるって知ってるのかなぁ。だからさ」
フェンスまでたどり着いた。ゴール。
「だからさ。一人だなんて言うなよ。心配してる連中に失礼だろ」
「……あとで謝っておいてください」
「いやだよ。お前が謝っておけ。それにここから飛び降りても、死なないよ」
「え?」
有馬が下を見た。間に合ってるといいけど。
「っ!!」
「ほら」
「何で……何であいつら、あそこにいるんですか」
下では陸上部を総動員して体育館倉庫のマットを全部引っ張り出して地面に敷いているはずだった。
「そりゃあまあ、みんな有馬のことが好きだからでしょ」
「……一方的ですね」
「うちのにぃちゃんに言わせてみれば、愛なんだってさ」
不意ににぃちゃんの大真面目にうなずく顔を思い出して苦笑する。
「まったく……一方的で、勝手で、遅いだけの馬鹿ばっかで……」
声が震える。
「畜生……大好きだよ、畜生……」
有馬が吹っ切れたような顔でこっちに振り向く。そして柵をまた戻ろうとして
「あ」
「え」
足を滑らせた。
病室に行くのは、初めてのことじゃなかった。というか、僕自身お世話になった。でも、他にもにぃちゃんが入院した時もお見舞いに行ったりしたことがある。
205号室の前で、僕は逡巡した。
結局、有馬は命に別条のない程度の怪我で済んだ。そこらへんは東が必死になって部員たちと敷き詰めてくれたマットのおかげだった。伊達にキャプテンをやっていたわけじゃないな、とふと感心してしまった。あの事件は公式には「事故」という風に片づけられた。まあ最終的にはそうだったわけだし、自殺未遂が行われたと周囲に騒がれて一番追いつめられるのは、有馬だから。そういう風に校長に打診してみると、案外すんなり主張を認めてくれた。
でも、中学陸上選手としての有馬は、幕を閉じた。足の回復には時間がかかるようで、車椅子から降りることができても、そこから陸上選手に復帰するのにどれくらい大変なことか、それは僕が一番よく知っている。
ノックをしてから、ドアを開けた。
「……先生」
「有馬にはずっと聞きたかったんだけどさ」
有馬の傍のスツールに腰掛けた。
「病院食って、未だにまずい?」
「試してみます?今日の昼食交換しませんか」
「先生は昼食、河南子の弁当なんだけど、それでも交換したい?」
「……遠慮しときます」
「ははは、素直でよろしい」
おどけて言うと、有馬が屈託のない笑顔を向けてきた。そして
「先生」
彼の告解が始まる。
「……三ヶ月ほど前のことなんです。俺、浅野と一緒のクラスなんで、部活に行くのもいっしょだったんですけど、その日ちょっと用事があって遅くなっちゃって。で、教室からグラウンドに向かってる時に、浅野が変な連中に囲まれてて」
廊下の足音が遠くなるのを待って、有馬は続けた。
「それで、声かけたんです。それでちょっといざこざがあって……連中、僕が運動部のエースだって知って、歯向ったら足を折るって」
そんなこと、するはずないじゃん。そう言えなくなったのが悲しかった。
「陸上部のみんなが僕を必要としてるのは、エースだからで。走れなくなったら、もうみんなといられない気がして……もう、相手されないのが怖くて、でも連中、調子に乗ってきて……」
有馬の息が荒くなる。しばらく心を落ち着かせて鼻を啜ると、また静かな声に戻った。
「だから決めたんです。奪われるよりも先に、なくしちゃえ、って」
「だから死のうと?」
「死んだ方がましだって、何度も思わされてきましたから」
僕は窓の外に目をやって、言わなきゃいけない言葉を探した。
「先生は、それでも有馬が間違ってる、と思う」
「……命を簡単に捨てちゃいけないから、ですか」
「まあね。でもそれよりも」
石膏で固められた足を、指で弾いた。
「先生たちはね、有馬が好きなんだ。エースが好きなんじゃない。そもそも走ることで価値が決まるような部だったら、東も村田も職務怠慢で切腹もんだよ。でもって部は即日廃部」
「先生……」
「先生は、強い部を作ろうと思ったんじゃないさ。ただ、昔すごく居心地のいい部があったから、それをまた作りたかったんだ」
あるいはまだ亡き義父の影に付きまとわれているのかもしれない。
あるいは、僕自身が失われた時間に囚われているだけなのかもしれない。
でも
それでも、僕の生徒が、僕たちが過ごしたような楽しい日々を、輝かしい時間を生きることができたら。その気持ちは本物だった。
「なあ有馬、また、走るんだろ」
「……」
「中学は無理だけどさ。これからまだまだなんだから。高校もあるし、大学だって、その先のオープントーナメントだってあるんだからさ」
「先生……」
「もう一度、走ってみない?先生は待ってるからさ」
「先生……先生っ」
有馬がシーツを揉みしだいた。その項垂れた頭に、手を乗せる。
「先生……こんな僕でも」
許してくれますか?
「許すよ」
はっと有馬が顔を上げる。
「有馬がやったことは間違いだけどさ。先生はお前を許すよ」
「先生……」
「相談してもらえなかったのは、ちょっと寂しいけどさ」
そう言って肩をすくめた。
「ああ、後」
「はい」
「陸上部からの伝言。まずキャプテンは『早く足治せよ。陸上部にはマネージャーがもう一人必要だから』。そんな大した部でもないのにね。あと村田は『これを機会に、じっくり考えたまえ。スパッツはやっぱりブルマを凌駕する』だって」
「何考えてるんですかね、あの二人」
「わからない方がいいかもね。ああ、これはみんなからの伝言カード」
「ありがとうございます……あの」
不意に有馬が顔を赤くして俯いた。
「浅野……何か言ってました?」
「いや、何も」
「そう……でしたか」
「うん。じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ」
「え?」
腕時計を見た。もう時間だ。
「ここ、面会はまだ一人ずつでさ。もうそろそろ行かないと、外で会いたくてうずうずしてる浅野にどやされそうで」
それはいつもの光景だった。
青い空の下で、コースが続いていて、その周りに観客が立っていて
だけどなぜか僕の隣に先生が立っていた。
もうそろそろレースなのに、何で僕はここにいるんだろう。
そう思っていると、聞き慣れた破裂音が聞こえ、歓声が上がる。
僕の前を、見慣れたランナーが走り過ぎた。
「有馬っ!」
振り返らずに一心不乱で駆ける。もしかすると、僕の声も届いてすらいないのかもしれない。
気がつけば一緒に走っていた。有馬はコースの上を。僕は人ごみの中を。
そしてテープが切られる。歓声が湧き、そして全ての音がそれにかき消されていき
静寂が残る。
不自然なほど静かになった空間で、有馬が僕によろよろと歩いてくる。
「先生っ」
その顔は、疲労の色を示しながらも、誇りと達成感と歓喜に満ちていた。いい笑顔だった。
「僕、やりました」
「ああ。すごいな」
「一位です。優勝しました」
「うん。よくやったな、有馬」
「これで、いいんですよね?」
「ああ。これでいいんだ」
これで
不意に、ぽん、と誰かに頭を撫でられた気がした。
振り返ると、誰もいない。真っ白な世界の中で、僕は佇んでいた。
そして僕は、長い間待っていた言葉を聞いた。
静寂の中で、その言葉を、しっかりと聞いた。
「ご苦労様、坂上。よく頑張ったな」
起きた時には、すでに泣いていた。
ベッドの上に起き上がってからも、僕は嗚咽を堪えることもできずにしゃくりあげた。顔を拭くことも忘れ、ひたすら泣いた。
「……鷹文?」
河南子が眠たそうな目を開けて僕を見る。それでまた涙が止まらなくなる。
「大丈夫……じゃないね。また、あの夢?」
首を振る。
「河南子……僕は、ようやく先生に許してもらえたよ」
河南子が息を飲んだ。
「ようやく、ご苦労様って、がんばったなって言ってもらえたんだ」
「鷹文……」
河南子がすり寄ってきて、抱きしめてくれた。
「そうだね。頑張ったもんね」
「うん」
「あたし、傍にいるだけだったけどさ、それでも鷹文ずっと走ってたんだもんね」
「うん」
子供のように頷くしかできなかった。
「お疲れ様、鷹文」
その言葉を噛みしめながら、僕は河南子を抱き返した。
「ねぇ河南子」
「ん」
「こんな僕だけどさ、それでもずっと一緒にいてくれるかな。これからもずっと、二人でいてくれるかな」
にぃちゃんなら、こういう時なんて言ったんだろうな。ふとそんなことが思い浮かんだ。きっと、僕のこんな不器用なプロポーズよりもましな言葉を選んだんだろうな。
「当たり前じゃん、ばかやろー」
でも、そんな不器用な言葉でも、河南子は頷いてくれた。こんな僕でも、一緒でいい、と頷いてくれた。
「あーあ、本当に先輩を『御義姉様』と呼ぶ日がこようとは」
「……先輩でいいんじゃないかなぁ、今まで通り」
「そうかもね。あ、でもあいつはあいつだから。口が裂けても『お兄ちゃん』なんて呼ばないよ」
「向こうも期待してないって」
そう言って笑いながら、お互いの腕にもうちょっとだけ力を込めてみた。
その時、僕は抱きしめられた胸に、ゴールラインのテープを切る感触を覚えた。
脚本家インタビュー
― あれ?珍しいな、鷹文君がシリアスですか
今回はちょっとそんな感じで、はい。何というか、夢がなくなっただけじゃ、鷹文君アフターは完結しないだろって。許してもらいたいんですよ、他の誰でもなく、先生に。だから、河南子ちゃんに許してもらうのは前に進めるきっかけであって、終点ではない、と
― というより、鷹文君がメインなSSって、珍しいですよね
本編じゃ智代ルートの最後にちょこっとしか出てきませんし、智代アフターはまあ作品自体がね、ちょっといろいろあって
― いい作品なのにね
すばらしい作品ですよ、あれ
― 今回一番大変だったのは?
教師としての鷹文君、でしょうか。某暗殺者系無口ネクラ教師でもなければ、熱血先生でもない。冷静なアドバイザーみたいな感じであり、それでいてアプローチャブルな先生を目指して書いたんだけど、むずかったです
― 河南子ちゃんも、シリアスっぽかったですよね
河南子ちゃんはまあおいおい「彼女の福音」にも出しますが、結構杏と書き分けるのが大変でした。あと、鷹文君とも
― へえ。たとえば?
声とか
― いや、それ書き分けてないし、中の人ネタですし。あと、岡崎夫妻本当にチョイ役でしたね。もう声だけって感じで
収録が智代さん出産と被りましたからね。病室で声だけ撮ったんですけど、「うるさいです」って某白衣の天使に叱られました。