幸せの宿る場所
私が家に帰れたのは、十一時半ごろだったと思う。
年の暮れともなるとさすがに忙しくなり、ここのところまだ入社して一、二年の私は残業の毎日に追われていた。
スチールドアを開けると、アパートの暖気が頬を撫でる。台所から炒めものの匂いがした。
靴を脱いで入ると、六畳一間のこたつの中で、私の夫、岡崎朋也が寝ていた。
私が早く帰れない時は、朋也が夕飯の支度をしてくれる。今日はそんな朋也の得意料理の一つ、チャーハンのようだ。恐らくそれを作って、私の帰りを待ちながらうとうととこたつの中で舟を漕ぎ、結局寝入ってしまったのだろう。
私はそんな朋也の寝顔を見つめながら、炬燵にもぐりこむ。
疲れてるな、と思った。私じゃない、朋也が、だ。
朋也だって師走は忙しい。電気工の仕事だが、寒さのせいでコードのコーティングが剥がれやすくなったりするので、いろいろと仕事が増えているそうだ。
本来なら私はそんな朋也を家で温かく迎えてやるのが、妻としての役目なんじゃないか、と思う。学生だった頃は、そうやって温かく迎えてやれたじゃないか、と心の中のどこかで誰かが責める。
私は大学を出てから朋也と一緒になり、そして就職した。高校を出てから働き出した朋也に比べれば、私の方が収入は高い。でも、私自身はそんなことは気にしていない。朋也の仕事は直接街に触れる大事な仕事で、朋也はそれを誇りに思っていいと思う。収入だって、それで朋也が私より劣っているとか私とは釣り合わないとは全然思わない。そんなことで人の価値が決まるわけではないからだ。私は朋也が好きで、朋也じゃなくてはだめで、朋也の隣がいい。そして朋也も私を愛してくれている。
だけど
だけど、やっぱり朋也は気になるようだった。お前に追いついて見せるから、心配するな。そうやって笑う朋也に、私は何度も言った。追いついて、って、私とお前はそんなことをしなくても立派な夫婦じゃないか。無理をして体を壊したりしないでくれ、と。それでも朋也は前よりも頑張っている。そして、少しだけかもしれないが、無理をしている。
なあ朋也、このままではお前は擦り減ってしまうぞ?それでいいのか?
ふと、怖い考えが頭の中に浮かぶ。
もし、朋也が無理をしなくていい女性と一緒だったら?
もし朋也の妻が、私のように会社勤めではなくて専業主婦だったら?
そうしたら、朋也は幸せなんじゃないだろうか。
頭を振って想像を食い止める。違う。朋也は幸せだ。私が幸せにする。妻として、夫を、朋也を、絶対に幸せにし続ける。
なのに、闇は消えてくれずに囁き続ける。
そうだ。何もお前でなくても朋也は幸せになるんじゃないのか?例えば古河さんなんてどうだ?あの子はいい子だから、朋也だって隣でくつろげる。杏もいるな。しっかり者で、幼稚園の先生をしている杏と朋也はとても仲がいい。お前なんかよりもお似合いなのではないか?
やめろ。やめてくれ。
もう聞きたくなかった。不安に押しつぶされそうだった。
「ん……」
その時、朋也が眉をひそめて寝言を言った。
「智代……ん……」
私の名前を呼んでくれた。それだけでいくらか心が軽くなる。不意に、朋也が手をぽんと私の手の上に置いた。寝ぼけているな、とわかっていても、うれしくなった。
「朋也……なあ、朋也」
愛おしげにその手をさする。知りあった時よりもだいぶザラザラになったな、と思った途端、堪え切れなくなった。
震えた声で、大きく吐いた息とともにか細く聞いた。
「お前は今、幸せなのか?」
気づけば、もう時計の針は十二時を過ぎていた。
こたつの中で、いつの間にか眠ってしまったようだ。
ふと、手が何かを包み込み、そしてその上に何かが置かれていることに気付く。
見ると俺の手は、いつの間にか帰ってきていた智代の左手を包み、右手にくるまれていた。
「何だ……何か言ってくれればよかったのに」
俺の目の前ですやすやと眠る智代に苦笑して言う。そして手をゆっくりと抜くと、隣に座って肩を抱いた。
「智代、好きだぞ」
聞いていないのだろうが、そう言ってみる。そしてその可愛らしい寝顔に触れて、指が止まる。
いつもなら柔らかくて滑らかな頬に明らかに刻まれた、涙の痕。
こいつは、泣いてたのか?いつ、泣いてたんだ?
俺は、智代を直視できなくなって顔をそむけ、そのまま項垂れた。
苦労をかけているのはわかる。二人とも時間がなくて、学生の頃は家のことを全部やっていた智代も、今はすごく遅く帰ってきたりして、疲れていて。だから今日みたいに遅くなる日は俺が夕飯を作ると決めており、また俺もできるだけのことはしている。
それでも智代は、こんなんでいいんだろうか、と思うことがよくある。
考えてみれば、智代はまだ二十四歳なんだ。一般的に言えばまだまだ若い女の子で、それこそ同僚の中には遊びに行ったり旅行に行ったりする子だって多いはずだ。でも俺は、智代がそれに行きたいという素振りすら見ていない。きっと、そういう浮いた話をする同僚の横で、ひたすら頑張って仕事をしているんだろう。そんな想像をして、胸が締め付けられるほど痛くなった。
なあ智代、お前、俺みたいな奴の隣でいて、楽しいか?学生の頃と違って、毎日こんな風に過ごして、それでいいのか?後悔、してないか?
涙の跡がそんな俺の問いに答えた気がした。もちろん辛いに決まってるだろ?これでもっと甲斐性のある男なら、奥さんにプレゼントしたり一緒に出かけたりするんだろうな。それに比べてお前は何だ?新婚旅行にすら連れていけてないじゃないか。そりゃあ智代は何も言わないけどな、甘えてるんじゃないのか、智代のそういうところに?こいつ、いつだってそういう奴じゃないか。本当はほら、こたつの前で寝てるお前を見て、泣きたい気分だったんだろ?
歯を食いしばって耐えた。全部、本当のことだ。
こいつを幸せにするって、そう決めたのにな、と呟いた。全然できてないじゃないか、と自嘲する。
「ん……あ、朋也」
智代がうっすらと目を開ける。
「あ、ああ。おかえり、智代」
「うん、ただいま」
「大変だったろ?お疲れさん。今、飯の用意するからな」
「ああ。でも、もう少しこうしていたいな」
そう言って、智代が俺の肩に頭を預けてきた。その感触が優しくて、心地よくて、愛しくて
「智代……なぁ、智代」
「うん、何だ?」
俺はもう一つの腕も智代に回して、抱きしめながら聞いた。
「お前、俺なんかといて、本当にいいのか?」
「え?」
智代がきょとんとした声を出す。
「お前、苦労ばっかりして、本当に俺みたいな奴と一緒で、楽しいのか?」
「当り前だ」
はっきりと智代が答える。堰を切ったかのように、言葉が流れ出る。
「俺、お前に何もできてないだろ?何も買ってやれないし、どこにも連れてってやれてないし、一緒にいることすらあまりないじゃないか。それでも、そんなんでもお前は幸せなのか」
しばらくして、智代がクスリと笑った。
「何だ……お前も似たようなことで悩んでいたのか」
「似たようなって……」
「朋也、私はな、そんなものはいらないんだ。私はお前と繋がっていられるだけでいいんだ。それは、あの空白の八ヶ月間が、そしてお前が事故にあった時からの日々が、教えてくれた」
「智代……」
「いい加減わかってくれてもいいんじゃないか?岡崎智代はな、岡崎朋也といる。それだけで幸せなんだ」
俺は何も言えなかった。腕の中にいるこの大切な存在が、この温もりが、杞憂の言葉を奪って言った。
「それよりも、なあ朋也、お前はどうなんだ?」
「うん?」
「お前は私なんかでいいのか?私こそ、お前に妻らしいことはできていない。家事だって、この頃疎かにしているのはわかっている。昔みたいにお前を迎えてやれてないんだぞ?私は、そんな女だぞ?それでもお前は、幸せなのか?」
最後の方は、消え入りそうな声だった。おずおずと抱きしめ返しているその手が、不安を表していた。
本当に俺達、似た者同士なんだな。
「すげえ幸せだ」
即答する。
「こうやって、俺が一番好きな、俺をこんなに好きでいてくれる奴と一緒で、そんな奴と一緒に暮せて、俺はすげえ幸せだよ」
「でもっ」
智代が腕の中で言う。
「お前は無理してるじゃないか。大変なんじゃないか。わかるんだ、私には。前よりももっと頑張ってるって。頑張り過ぎてるって!」
「いいんだ。俺は、大丈夫だ」
頭の上に手を置いて、撫でる。いつものわしわし、という風な撫で方じゃなくて、ゆっくりと、落ち着けるように。
「お前のためなら、もっと頑張るさ。お前が休めるなら、俺がもっと働く。いや、そうさせてくれよ」
「でも……でも大変だろ」
「全然。大変じゃないさ。俺、結構嬉しいんだぜ、お前のために頑張るの」
そう言って、二人で畳の上に寝転がる。
「じゃあ……本当に幸せなんだな?」
「ああ」
「信じて……いいな?」
「信じろよ」
「私を嫌になったり、しないか?」
「当たり前だろ。そんなことは……」
絶対にない、と言う前に口を塞がれた。さすがにびっくりしたが、それでも手を智代の後頭部に回して、引き寄せる。
長い接吻の後、見つめあった。
「朋也、好きだぞ」
「ああ。俺もさっきお前に同じこと言ってた」
「もう一度聞かせて」
やれやれ、と思いつつ俺は笑った。
「智代、お前が好きだ。心底、お前が好きだぞ」
「そんな風に慕われてるんだ。私だって幸せだ」
二人でふふ、と笑いあった。
幸せなんて、形があるものじゃないから、だからそこにあるのかなんてわからない時だってあるだろう。
でも、それでも俺は信じたい。
俺たちは不器用で、一緒にいることを正当化しようとして焦ったりして、互いを不安にさせることもよくあるけど。
それでも、そんな二人が出会って、恋に落ちて、いろいろあって一緒になって、それでずっと好き合っているんだから
そんな二人の間に幸せの宿る場所があってもいいんじゃないかと思う。
「飯にするか」
「ああ。朋也が作ってくれたんだしな」
こたつから出て、台所に立つ。
こたつの外は少し寒かったけど、こいつの隣なら暖かくていいな、と、ふと思った。