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それは、とある日の午後の話だった。

 朋也君に誘われて行った「てうち」という居酒屋で、私は困惑していた。

「ちょっと待ってくれ」

「はい?」

「ええと……よくはわからないのだが、一ついいかね」

「はい、どうぞ」

「え、どうかしたんすか」

 朋也君の隣でスルメを齧っている春原という男が、片眉を上げて聞いてきた。

「うむ。単刀直入に聞くが、その、だな」

「はい」


「妻に、あ、愛している、と告げるのは、そんな日常茶飯事的なことなのかね?」

 

 

 

 

 

 

 






嫁に愛していると言うのが今更過ぎて辛い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬、席が凍りついたかのようになった。

「え、ええと……そうじゃ……ないか……な?」

「う、うん……普通じゃない……すか?」

 今度は朋也君と春原君が困惑した顔を合わせる番だった。

「普通……かね?いやいや、そうでもあるまい。愛している、という言葉、というよりそういうたぐいの言葉は、そう乱発するものではないだろうに。そのだな、ここぞという時に言うべきではないのかね」

「えー、そうかなぁ。そんなでもないと思うんすけどね」

「いや、愛の篭っていない愛の言葉ほど空疎なものはないぞ。聞いている側も不快なだけだろう」

「でも、愛が篭ってりゃいいってことだよね。じゃあ何回言おうと問題ないじゃないっすか」

「何回も想いを込めて言うことなんて、できるものなのかね?数を増すだけ質は落ちると思うけどなぁ」

「でもさ」

「いや、俺は義父さんの意見に賛成だ」

 私と春原君の間に入って、朋也君が言った。

「岡崎……

「愛の言葉は、何かあった時にはっきりと言うものだと思う。一歩歩いては『愛してる』、一息つくごとに『大好きだ』では、何の有り難みも沸かないし、そんなに感情が込められるとは思えない」

「岡崎の口からそんな言葉を聞くなんてなぁ……

 私がウンウン頷いている横で、春原君は驚愕と失望の混じった表情を作った。

「やっぱりそういうのって大事だと思うんだよ。節目節目に言ってやることで、価値が出るんだって思う。つーかさ、春原、お前だって毎秒毎秒杏から『愛してる』ってメールを受け取ったら、どう思う?」

「普通に怖いっすよね……

 うげ、と言いたげな顔をして春原君が呟いた。私もふと、伽羅が「愛しています」としか書いていないメールを一秒ごとに携帯に送ってきた事態を想定してみた。医者を呼びたくなった。ついでに警察に駆け込みたくなった。いや、警察はまずいか。痛くもない腹を探られるのは御免だしな。

「だろ?でも、バレンタインデーとか、残業できつい時とか、結婚記念日にその言葉を聞くとだな、効果は天と地ほどある。うん、メリハリのある使用が必要だと思うぞ」

「そう……かもねぇ……

 春原君はそう言うと、ビールをくいっと煽った。

「流石朋也君、わかっているではないか」

「え、ああ、まあ、そうですね、伊達に長年智代と連れあってませんから」

「うむ、智代も朋也君に任せれば安心だなっ」

……いいよなぁ、姑と仲が良くてさ……僕なんて未だにゴルフクラブ片手に追い回されてばっかだし」

「まあ、春原だしな」

「それってどういう意味っすかっ」

 朋也君と春原君がワイワイギャーギャーやっているのを見ながら、私の中にふと疑問がひとつ浮かんできた。

「ところで、朋也君はどういう時に愛の言葉を言うのだね」

「え?俺ですか」

「うむ。参考までに聞きたくてな」

「そうですね……やっぱりキーワードはメリハリですよね。ここぞって時で言うのがね……だから例えば」

『例えば?』

 春原君も身を乗り出して聞いてきた。朋也君はしばしの間考えにふけった後、真顔で言った。

「朝起きて初めて顔を合わせた時とか、仕事に行く前とか、昼食の時に携帯で話してる時とか、帰ってきた時とか、寝る前とかですね」

「それとメリハリとの関連性が見られんっ」

「それってどう考えても『ここぞって時』じゃないっすよねっ?!」

 ツッコミが重なっても真顔のまま首をひねる朋也君は、実は少しばかり尊敬に値するかもしれなかった。





「だ、だいたいだな、大の大人がそんな事を言ったりして恥ずかしいとは思わないのかね」

「そうですよね。んじゃ、俺、智代に言うのやめようかな」

「何だと貴様」

「胸倉掴むほど怒るんだったら、そもそも言い出さないでくださいよ」

 掴みかけた手を朋也君が造作なさげに振り払った。

「っていうか、子供が言ってたりしたら、それこそ恥ずかしいでしょ、そういうの」

 春原君がビールをとくとくとくと注ぎながら言った。ちなみにこの時点で全員手酌となっていた。

「ふむ」

「えっと、知ってるかもしれないけど、僕の嫁さん、幼稚園の先生やってるんすけどね、幼稚園児の中にもおませさんってのがいるわけで。『あたし、ひでちゃんのおよめさんになるんだ』『じゃー、おれがけっこんしてやんよ』とか言ってたりするんすけどね、そんな幼稚園児が、紺と白の帽子に制服着た園児がですよ、『ひでちゃん、あいしてる』『おれもだよ、ゆいちゃん』なんて言ったりしたら、それこそおかしいでしょ」

「それは……」

 恥ずかしい。見ているこちらも恥ずかしいが、当人たちも五年ほどすればこっぴゃずかしゃーと叫びながら崖から飛び降りたくなるかもしれない。

「小学生だって、同じでしょ。秒速なんちゃらメートルじゃないんだし」

「中学生でも……あー、二年生の時に変な病気にかかったりしたらのたまう奴も出てくるか」

「高校生……ぐらいになってだろうか。それだって青臭い気がするしなぁ」

 具体的に言えば智代とか智代とか智代とか。高校三年の時の智代が朋也君のことを話す時など、聞いているこっちとしては、生暖かく見守る表情が強ばっていくのを我慢するのに精一杯だった。

「というわけで愛の言葉は大人が言ってこそのものだということ、わかっていただけましたか?」

 春原君の言葉に、私と朋也君は思わずガッテンボタンを叩いてしまっていた。

「しかし、だな。一般的に大人が言うものであっても、客観的には恥ずかしい、のだが」

「恥ずかしいっすかね。まあ、わからなくもないですけど」

「はーい。俺、全ッ然恥ずかしくないでーす」

「やはり春原君もそう思うか。ましてや私と伽羅の間で愛の言葉が囁かれたのは、本当にいつの話になるのやら」

「何事もやらないでいると、錆びつくっすよね」

「はーい。俺、毎日何度も言ってるから、全然錆びついてないでーす」

「そんな場合、相手の反応が怖くてなぁ」

「『……は?何言ってんの』とか可哀想な子を見る目で言われたら最悪っすもんね」

「はーい、俺……」

「朋也君」

「はい、何でしょう」

「少し黙っていたまえ。私たちは一般の話をしているんだ」

「……」

「悪い、岡崎。岡崎の話って、あんまり普通の人には参考にならないんだよね」

「…………」

「智代が幸せそうだということは重々承知したから、後はおとなしくしていたまえ」

「………………俺の」

「え」

「俺の……俺たちの愛は……」

「あ、お、岡崎、ちょっと落ち着こうよ、ねえ」

 春原君が朋也君をなだめようとしたが、朋也君は体を震わせ唇をわななかせ、目には涙すら浮かべて、おもむろに叫んだ。

「普通の人の参考にはならなかったのかぁあああああああああああああああああああああああああああっ」

 そう言って朋也君は猛烈な勢いで店から走り出た。カウンターに座っていた若い男性が、落ち着き払った口調で「またのお越しを」と言っていたことからして、あの手の奇行はもしかするとよくやるのだろうか、などと首を傾げてしまった。

「……追いかけたほうが良いのだろうか」

「え?あ、あれ?無理っす。僕らだったら、スポーツカーでないと追いつけないっすよ」

「む、し、しかしだな」

「それに、追う役なら適任なのがいるし」

「というと」

 その時、私は朋也君が駆け抜けていった道を寸分違わずに追いかけていく、よく見知った人影を見た。

「……たしはっ!大好きだぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっ」

 ……

 …………

 ……………………

「あ、すんません、ビールもう一本」

「へい、ビール一本」

「あと、この焼鳥の盛り合わせも」

「へい、焼き鳥盛り合わせ」

 春原君が追加注文する声が、やけに遠く聞こえた。

「……それはあまり女の子らしくないのではないか、智代?」

 返答は無論なかった。





「さっきの話っすけど、じゃあ坂上さんの言う『ここぞの時』って、どういう時っすか」

 ぐいっとビールを煽って、春原君が聞いてきた。

「ふむ。記念日とか、何かあった時とかだな」

「記念日っつっても、いろいろあるんじゃないすか。結婚記念日とか、相手の誕生日とか、告白記念日とか、バレンタインデーとか、クリスマスとか」

「むぅ……ん?ちょっと待て、告白記念日なんてあるのか?」

 私の質問に、春原君はびっくりした顔をした。

「え、覚えてるもんじゃないっすか、そういうのって?初めて告白した、あるいはされた日とか」

「……」

「……」

 春原君が困惑の表情を浮かべた。

「…………」

「…………」

 春原君があたかもかわいそうなものを見るかのような表情を浮かべた。

「あ、あと、そうだな、一家離散一歩手前とかだな」

「下手したらそれが最後のひと押しになるかもしれませんよねぇっ?!」

「ははは、実はそうだったんだ」

「明るげに笑うネタっすかそれっ!?」

 ツッコまれてしまった。

「にしてもねぇ……考えてみれば最近言う回数がグッと減ったかもなぁ……」

 春原君が天井を見上げながらぼそりと呟いた。

「だろう?今に見ていろ、それが普通になってくる」

「そんなもんすかねぇ……」

「そんなもんだ。ふと気がついたら、何年『愛してる』などと言っていないのだろうと考えてだな、数えだして愕然とする」

「ん……まあ、言っちゃなんですけど、岡崎と娘さんだと、そんなことないと思いますけどね」

「春原君、私は一般人のことを言っているのであってだね」

「あ……すいません」

 親の贔屓目でも何でも、別にそれが悪いことでなくても、智代と朋也君の仲の良さは「一般人」の範疇には収まらないと思う。未だに「お外走ってくる」モードのまま戻ってきていない朋也君の席を見ると、なおさら思う。

「新婚の時は、結構言ってたんだけどなぁ」

「まあ、そういうものだろう」

「まあ、適度に言うってのが大事なのかな。錆び付いて動かなくなる前に」

「そうなのかもしれんな」

「というわけで、坂上さんも今夜辺り、告白タイムに踏み切ってみたらどうっすか」

 その一言で、私は飲みかけていた酒を吹き出してしまった。

「わ、私がか?冗談はよしたまえ」

「冗談じゃないっすよ。適度に言うのが大事だって、坂上さんも認めたっしょ」

「そ、それはそうだが……」

 私は口ごもって、上着からハンケチを取り出し額の汗を拭った。

「そ、それより、君のことだっ!、そうだ、君は現在進行形で錆び付いているのだから、君のことを何とかせねばなっ」

 そう言うと、春原君は微妙な顔を私に向けた。

「な、何だね、私の顔になにか付いているのかね」

「いやぁ……話を逸らそうとする仕草もそっくりなんだなぁ……」

「む?聞こえなかったな。もう一度頼む」

「え、いや、坂上さんってほんっと智代ちゃんの親父さんなんだなぁって」

「む?」

「いや、こっちの話っす。それで?僕の問題?」

「う、うむ。春原君こそもっと素直になってだなぁ」

 すると、春原君はぶすっと私を睨んだ。

「素直になれず、今でも何だかんだでなろうとしていない坂上さんには言われたくないっすね」

「う、うぐ」

「まぁ……素直になるっつっても、さっきの岡崎じゃないけど、『愛してる』って連呼しただけで退屈がられるだけだと思いますけど」

 肩をすくめる春原君の言葉を聞いて、私は拳をテーブルに叩きつけた。

「それだっ」

「ひぃいっ!び、びっくりするなぁ」

「まさしくそれが問題だ。ただ言うだけでは意味がないのだ。偉い人にはそれがわからんのだ」

「そ、そうっすよね、ははは」

「朋也君は一体どういうふうに智代と接しているのだろう?まさか朝起き抜けに屋根からバンジージャンプしながら愛を絶叫、昼休み中にはメールで縦読みに『あいしてる』というメッセージ、夜はスカイダイブをしながら『ともよあいしてるぅぅうううううううぁあああああああ』と叫びながら帰宅、というわけではあるまいな」

「ま、まさかぁ」

「いいや、わからんぞ?何せ、あの朋也君と智代なのだからな」

「い、いやあ、普通に言って大丈夫でしょ。うちの嫁さんなんて、そりゃあまり言わなくなったから今では少し顔が赤くなるけど、『それぐらいわかってるわよ』とか返してくるんですよ」

「……それがどうしたのだね?虚しくならないのかね、そんな素っ気なく返されたりしたら」

 すると、春原君はぽりぽりと頬を掻きながら言ったのだった。

「いや、そうでもないっすよ?何つーか、そこさえわかってくれてりゃ僕としちゃ満足なんですけどね」

「……そういうものかね」

 今度は私が相槌を打つ番となった。

「僕はですね、今でも嫁さんと釣り合えてるかどうか怪しいもんなんすよ。何たってあいつ美人だし、頭いいし、人望あるし……だからとてもじゃないけど愛してろ、ずっと愛せ?でいいのかな?そんなことは言えないっすね」

 ぐび、かたん。

「だから僕があいつのことを大好きで、そんでもってあいつもそれが嫌じゃないんだったら、それでいいっす。そんであいつが僕のことを大好きでいてくれるんだったら、そりゃボーナスって感じかな」

「……ボーナス、か」

 私が繰り返すと、春原君は恥ずかしさを吹き飛ばすような威勢のいい声で「すいません、ビールもう一本!」と怒鳴った。





「ところで朋也君」

 智代に慰められて戻ってきた婿殿に、私は声をかけてみた。

「はい、何でしょう」

「その、だな。君の隣に座っているのは、もしかして、あの……」

「あ、はい、芳野祐介って聞いたことあります?」

 やはり、か。

「実は職場で知り合いになりまして……あ、芳野さん、こちら俺の義理の父親の」

「坂上です。よろしく」

「芳野です。よろしく」

 お互い仏頂面のまま、握手した。ちなみにここだけの話、私はその場で死んでも良かった。というのは、私が働き盛りバリバリの時に芳野祐介はブレイクし、私もそれに少なからず感化されたのだ。誠にここだけの話だが、とある曲を聞いた後鉄パイプで工場の窓を叩き割り、その罪を近頃頭角を現し始めたグループに擦り付けることで大義名分を得、そしてそのままそのグループを解散に導いたことは、懐かしい思い出だ。

「それで、なぜここに芳野氏が」

「えーっと、愛しているという言葉について、この人ほど深く答えてくれる人もいないかなって」

「ふむ」

「というわけで、どうぞ、芳野さん」

「坂上さん、さっき岡崎が言っていたが、あなたは愛の言葉に躊躇いを感じているとか」

「あ、ああ、そうなのだ。如何せんこの歳になると、今更……」

「喝っ!!」

 びりびりと空気が震えた。あまりの気迫に、私は思わず後ろに下がってしまった。

「愛に『この歳』も『今更』もないっ!この胸に燃える炎がまだあるのならばっ!心に伝えたい言葉があるのならばっ!!遅すぎることなどないっっ!!」

「っ!!」

 体の中を稲妻が駆け抜けたような、そんな衝撃を感じた。ぶっちゃけた話、そのまま飛び出てバイクに跨り風になりながら愛を歌い叫びたい気持ちになった。

「今を逃したら、いつ『愛している』と言うつもりなんだ?いつ言えるんだ?もしかすると、今が最後の機会かもしれないのにか?」

「そ、それは……」

「今を生きる、生き抜くということは、やれること全てをやり抜くこと……違うか、坂上さん?」

「……違わんな」

 私の言葉に、朋也君と春原君が「おおっ」と声を上げた。

「その一瞬一瞬を全力で生きることこそが、生き抜くということ。ならば、『いずれ』という考えは不要、ましてや『今更』という考えは滑稽ですらあるな。私としたことが、また何かくだらないものに囚われて迷っていたようだ」

 がたん、と卓が揺れるほどの勢いで、私は立ち上がった。

「今、ここに坂上雅臣の名に誓おう。これより私は、妻、伽羅に、愛していると告げることを……!!」

『おおおっ』

 驚嘆の声と拍手が送られた。意外と恥ずかしかった。正直「やったったーっ!!」と叫びながら走り出したくなった。

「で、それはいつやるんすか?」

「おお、そうだな。思い立ったが吉日、今すぐ電話で……」

「喝っ!!」

 携帯をいそいそと取り出したところを、芳野さんにまた活を、ではなく喝を入れられてしまった。

「坂上さん、確かに今は文明の利器として名高い携帯電話のお陰で、気軽に人と話ができるだろう。しかし、それは果たして、面と向かって話すことの代用になりうるのか?」

「……それは……」

「なりえないっ!」

「ひぃっ」

 どん、と芳野さんがテーブルを拳で叩いたので、春原君が驚いて悲鳴を上げた。

「面と向かって言うことこそに、心が、魂が、愛が籠もる。あいしているの六文字、それに意味を込めるのはあなただ、坂上さん。そのあなたがその場にいなくてどうする?」

「……芳野さん」

 私は芳野さんに頭を下げた。

「ありがとう。お陰様でこの坂上雅臣、目が覚めた思いです。明日、決行してきます」

「よぉし、だったら僕も張り切って言っちゃおうかな、キリッ顔で」

「んじゃ俺も」

「いや、朋也君はいい」

「いや、岡崎はいいよ」

「え?ちょっと待て、もしかすると主人公なのにいじめられてる?」

「というわけで、今夜は決意に乾杯と行きましょう」

「あれ?スルーされてる?」

「つーわけで坂上さん」

「お、悪いね春原君。さあ朋也君も」

「あ、はい……それで、あの」

「さあ、芳野さんも」

 そう言って私がビール瓶の口を芳野さんのグラスに近づけた時

「……であるからだな、愛というものは崇高にして神聖、これを口にする時には相当の覚悟が必要なわけだが、そもそも言葉とはなんのためにあるのかというと……」

 さっきからずっと続けていたらしい。





 次の日の正午になっても、私の頭のなかでは小人たちが私の脳みそを踏みつけながら割れ鐘をガラァングラァンと奏でていた。

「年甲斐もなく無茶するからです」

 そう言いながら伽羅がその日三杯目のお茶を持ってきてくれた。まあ、無論、頭痛の一端はこの毒舌な嫁に「愛している」と言わねばならないことなのだが。

「む、すまない」

「すまないと反省するのなら、年を考えて行動して下さい」

 ぴしゃり、と言われてしまった。しかしまあ、考えようによっては心配してくれている、と取ってもいいのではないかと思った。あるいは遠回しに「自愛なさってください」と言っているのだろうか。

「今思うと……」

 ずずっ

「…………いい嫁ではないか」

「何をブツブツ言っているんですかあなたは」

「ぶひょっふっ?!」

 思わず茶を吹きそうになった。まあ、独り言を呟いていたらいつの間にか当の本人が背後に立っていて呆れ顔をされたら、誰だってびっくりするだろうが。

「とうとう独り言をいう癖までついて……そろそろ老人ホーム行きですか、おじいさん」

「ふむ。おじいさんとな。ちなみに伽羅、お前と私は同い年だということを忘れてはいないか?なあおb……」

「 」

「いや、何でもない」

 身の危険をいち早く察する能力こそが、私を今の今まで生き永らえさせたのだと、私は信じて疑わない。

「そ、それよりだな……」

「はい、どうしたんですか」

 わざと改まって退路を絶ってからの方がやりやすくなるだろう、と思ったが、失敗だった。むしろ緊張がなおさら高まってしまい、舌が固まってしまった。

「どうしたんですか、自分で呼び止めておきながら」

「い、いや……そのぉ……」

 しかし言わなければならない。私は誓ったのだから、強くなると。いや、違うな。そうだ、私は私の名に誓ったのだ、妻に「愛している」と告げるのだと。

 だから

 ここで

 逃 げ る 訳 に は い か な い

「あ、あのだな……」

「はい」

「あ」

「あ?」

「あい……」

「あい?」

「あい……たいなぁ、と思って」

「……はい?」

「いや、ここのところ、ともに会っていないなぁ、と思ってな」

 逃げたったー。逃げたったー。大事なことだから二回言ったったー。

「そんなことを言っても、一月ほど前にみんなで集まったばかりではないですか」

「何、もう一月も経ってしまったか。これはいかんな。来週末、会いに行くとしようか」

「……いくら何でも、そうやって押しかけると、嫌われますよ」

「いやあ、それはない、それはない。ともに限ってそれはない」

「そうでしょうか」

 フフン、と伽羅が笑った。嫌な予感がした。

「朋也さんがこの間言ってましたね。イチャつき過ぎたら嫌われてしまったことがあるとね」

「そ、それは、あれだ、朋也君の愛が重すぎるんだ、うん」

「……」

「そ、それよりだね、あー、というわけで、来週末、二人で出かけんか?」

「私もですか?」

 伽羅が心底意外そうに首を傾げた。

「うむ。というより、私とともに出かけるのに他の誰を誘えというのだね」

「そんなことを言ってまた……仕方のない人ですね。あまりにも仕方のないので、行ってあげるしかないですけど」

 そう言いつつ、伽羅はそっぽを向いた。しかし、耳の後ろが真っ赤になっていたことに、私は気づいた。よし、これこそがチャンスだ。

「そ、それでだな、伽羅」

「何ですか。私はこれから来週末の準備で忙しいのですよ」

「あ、ああ」

 一瞬、心が挫けそうになった。いやいや、これは伽羅の照れ隠しであって、苛立っているわけではない……はずだ。

「そ、そのだな」

「……」

「これはもちろん知っていることだとは重々承知なのだが……」

「……」

「あー、まあ、何だな、今更口にしてもどうなのだと思うかもしれないが、私としてはちゃんと伝えることにだな」

「いいからさっさと言う」

「はひっ!すみません愛してますっ」

 ああ。

 わかっている。

 あれだけ宣言だの何だのしておきながら。

 土下座して謝りながら愛してますはないだろうよ。

「……」

 しかしなぜか頭上からお叱りの声はなかった。恐る恐る顔を上げて伽羅の顔を伺うと

「……………………」

 いや、正直、あの表情は初めて見た。私の知っている伽羅は芯が強くて冷静でガードが堅くて毒舌で。

 決して、目を見開き顔を赤くして放心している姿などは見せないと思っていたのだ。

「……ど」

 そんな無防備伽羅が何かを小さく呟いた。

「ど?」

「も……ち……・せんか?」

「む?」

「そ、その……もう一度……御顔をお上げになっておっしゃってくださいませんことですか?」

「っ!!」

 正直、土下座した時はもう二度と言うまいと誓ったのだが、こんな顔を赤く染めていつも以上の敬語を使われては、どうしようもあるまい。

「あ、ああ、そのだな、伽羅、愛しています」

「…………」

「…………」

「………………」

「………………それだけだ」

「……はい」

「……うむ」

「……それでは失礼します」

「……うむ」

 そう言って、伽羅は顔を赤くしたままそそくさと向こうに行ってしまった。朋也君的に「わ、私もお慕い申し上げております」ぐらいは言ってもらえるだろうと思っていた身としては、いささか寂しい気もするが、まあ、先ほどの反応を見る限り成功はしたようだ。

 こういうものに見返りを求めるのがそもそもの間違いだ。春原君のボーナス思考を見習わんといかんな。そう思いながら私も腰を上げて、頭痛薬を取りに台所に向かった。すると、いつもは開かれている客間の障子がピシャリと閉じられていて、向こう側から声が聞こえてきた。

「……でねっ!それでですねっ!もう一度頼んだんですよっ!そしたら、そしたらねっ!『伽羅、愛しています』ってっ!!信じられませんよねっ!?ねっ!?あのお父さんが言ってくれたんですよっ?!!これはもう、これはもう、ともさんにも電話しないといけませんねっ!!」

 どうやら大成功だったわけである。私は苦笑すると、ポケットから携帯を取り出した。

「ああ、もしもし、朋也君かね……」


 

 

 

 

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