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とある、土曜日ののんびりだらりとした昼過ぎ。

 光坂市の割と長閑な住宅街の片隅。

 家族仲が良いとされている岡崎家、その食卓で。


「かーさんなんて、きらいだっ」


 爆弾が爆発した。




 

 

 

 

 

 

 

 

 


 好き?嫌い?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 事の発端、と言っても大したものがあるわけではない。

 とは言え、そんな身も蓋もない事を言ってしまったら、あまりにも面白くない。ここは仕方がないから、俺の家族の様子を話すことにする。

 土曜日の昼は、俺たちオヤヂたちにとっては得難いリラックスタイムであり、家族サービスタイムである。その法則に沿って絵本を取り出した結果、俺は世界一幸せな父親になった。

 まず、俺の左脇ですぅすぅ寝息を立てているのが朋幸。今年で四歳になる、俺の可愛い長男だ。男に対して可愛いというのもどうかとは思うが、実際可愛いのだから仕方がない。なんというか、外見は俺にそっくりなわけだが、坂上家の血も見事引いており、見事に天然なボケをかます。一人だけではわかりにくいかもしれないが、春原のところの翔と一緒だとよくわかる。混ぜるな自然。

 ただまぁ、母親によると少ししたらもう少し俺に似てクールな感じが出てくるのだと。うーん、ゆくゆくは某ロマン派大統領みたいなクール時々はっちゃけキャラになるんだろうか。楽しみというか心配というか。ちなみに俺が本を読み聞かせているのに寝ているのは、あくまでも午前中に外で遊び疲れているからだと思いたい。決して俺の読み聞かせがつまらないからではないのだと願いたい。

 そしてもう一人、右脇から絵本を見ながら俺の語りに聞き入っているのは、俺の超プリチードーターの巴ちゃんだ。これだけは譲れない、銀河一可愛い美少女だ。春原に呆れられようと、オッサンと口論になろうと、風子と巴ちゃん防衛戦を繰り広げようと、この鉄則は曲げられない。唯一対抗できると言ったら、俺のスイートはにぃ智代ぐらいだろう。

「んー、よくわからん」

「ん?どうした巴」

「なんでぴんくのだんごは、あおいだんごがすきなのに、つめたいたいどにでるんだ」

 ほうほう、そこを突いてきましたか。

「ピンクのだんごはな、素直になれないんだよ。本当は青いだんごに構ってほしいんだけど、それを認めるのが恥ずかしいから、ついつい冷たい態度に出てしまうんだな」

 人はそれをツンデレと呼ぶ。

「……よくわからない。わたしならすきなひとにはすきだとわかるようにせっするぞ。たとえば」

 スポン、と俺の右脇から抜ける音と共に、巴がとたとたと走り去る音が聞こえた。やがて

「かーさんっ」

「ん、どうした巴?ご飯はもう少しでできるから、父さんと一緒に本を読んでいたらどうだ」

「うんっ、でもな、でもな、ひとつしっておいておいてほしいことがあってだな」

「知っておいて欲しいこと?何だそれは」

「わたしはなっ!かーさんがっ!!とっっっってもだいすきなんだっ」

 大音量で岡崎家に響き渡る巴の智代大好き宣言。しばらくして、優しい声色が聞こえてくる。

「……ありがとう。私も巴のことが大好きだぞ」

「ほんとうかっ」

「ああ。世界で一番大好きな娘だ」

「っっきゃぁああああああああああああああ」

 巴の嬉しそうな声に、朋幸が目を覚ました。

「え、なに、なんなの、うちゅーじんのしゅーらい」

「いや、まだ世界は平和だ」

 そう苦笑すると、俺は朋幸が起きるのを待ってから台所に向かった。

「そーしそーあいだっ!ふたりはりょーおもいだぞ、かーさんっ」

「え、そ、そう……なるのか」

「そうだともっ!さー、かーさん、ともえとけっこんしてくれっ」

 そこには興奮気味にぴょんぴょん飛び回る巴と、困惑気味な表情を浮かべる最愛の妻、智代がいた。

「すまないが巴、それはできない。母さんは父さんともう結婚しているんだ」

「……にかいできないか」

「それはできないな。それに、結婚は男の人と女の人との間でしかできないんだ」

「それはおかしいっ!だんじょびょーどーのはずだぞかーさん」

「それでも、なんだ。いい子だからわかってくれ」

「うー」

 うらめしそうに唸る巴の頭を、智代がよしよしと撫でるのを見て、俺は顔を綻ばせた。

 ここだけの話だが、可愛さでは巴と同じレベルだが、俺の嫁の智代はそれだけの女性じゃない。美人でおしとやかで頭が切れて家事もこなせているだけで幸せな気分にさせてくれて、とどのつまり最高なのだ。どれくらい最高かと話し始めると十年経っても触りだけしか語りきれないので、次の機会にとっておこう。ちなみに結構前に春原と鷹文、そして芳野さんと女性の好みについて話していたら、「それってもろにねぇちゃんだよね」と突っ込まれてしまった。

 何が言いたいのかいまいちわからない?まぁ、それもそうか。とどのつまり、俺は最高の嫁と可愛い子供たちに囲まれて最高に幸せだと、この時実感していた。この時は、そう感じていた。




 めでたしめでたし。






 






 いや、これでいいんだよ。

 家族が争うところなんて、誰も見たくないだろ。テレビでおなじみのあのカップルが実は破綻寸前でした、なんて知りたくないだろ、普通に。

 ったく、しょうがないな。

 そんなに岡崎家の話が聞きたいか。まぁ俺も鬼じゃないしな、どぉしてもと言うんだったら、話してやらんこともない。あ、そこ、ツンデレ乙とか言うな。

 とにかく岡崎最高四人家族が集まったところで、昼ご飯になった。土曜日の昼ご飯は、「みんなが集まれる最初の昼ご飯だから」という理由で、結構豪華だったりする。この時の昼食も、具のいっぱい入ったチャーハンに、お味噌汁と、何とミートボールも出たのだ。まずお味噌汁に刻みネギと四角いワカメ、程よい大きさに切りそろえられている豆腐を見て「さすが智代、わかってるよなぁ」と感動し、チャーハンの具が野菜八:肉二の割合だということに「智代め、体にいい具にするなんて憎いことするなぁ」と感激し、ミートボールの小山に「おいおいこいつぁ、小熊ちゃんたちがケンカするほど喜ぶものじゃないか、やべぇなぁ」とニヤニヤした。

 案の定巴も朋幸も、テーブルの周りを興奮して走り回り始めた。

「こら、二人とも。そうやって走り回るのは危ないぞ。それに、お前たちも食器を並べるのを手伝いなさい」

「で、でもっ!ミートボール、ミートボールだぞっ、かーさんっ」

「巴、女の子がそんなにはしゃいではダメだ。女の子はな、お淑やかに、慎ましく、それがいいんだ。あと、家事のできる女の子はなおさら素敵だぞ。だから、食器を運ぶのを手伝ってくれ」

「はーい」

「朋幸もだな、父さんを見習って、女性を支えてやれる凛々しくて頼りがいのある男性を目指さなくてはいけないぞ。何も喧嘩とかスポーツとかそういう場面でなくてもだな、普段の行いの中にある優しさがだな、父さんを他の男の人よりもかっこよくするんだからな」

「そう言われると、さすがに照れるな、智代」

「事実なんだからしょうがない」

 小熊ちゃんたちにテキパキと指示を出しながら、智代がふふ、と微笑んだ。ダメだ、うちの嫁が嫁過ぎて困る。

「……と、もう準備完了か。早いな」

「かーさんにたのまれたんなら、すぐにできなくてははなしにならないっ」

「そこまで大げさな話……なのか」

「ミートボールっ!ミートボールっ!!」

「少なくとも朋幸は俺を見習うよりも肉団子の方が大事だというのはよくわかった」

 ちょっと父さんがっかり。

「とりあえずいただきます、しようか」

『いただきますっ』

 言った途端、小熊ちゃんたちが威勢のいい声で叫んで、箸をミートボールに向けた。やれやれと苦笑する俺と智代。

「本当はな、お味噌汁を飲むのが最初なんだぞ。次からだな」

「ふぁーい」

「こら朋幸、口に物が入っている間は喋っちゃダメだ」

「お、智代、この豆腐、硬目だな」

「うん、ちょっと変えてみたんだが……嫌か」

「いや、むしろこっちの方が好きかな」

「よかったっ」

「っと、巴、ほっぺに米粒ついてるぞ。ダメだろ」

「む、ちょっとまってくれ……あっ、ともゆき、それはわたしがねらってたんだぞ」

「二人とも、ミートボールばかり食べるんだったら、母さん特製のチャーハンは父さんが食べちゃうぞ」

『だがことわるっ』

 とまぁ、いつもの賑やかな、でも長閑な昼ご飯の時間が過ぎていく。そんな中、それは起きた。

 


 さて、智代の長所はいちいち数え上げていったらキリがないわけだが、その一つに鋭い洞察力がある。

 俺なら見逃すであろう小さな違和感も、その鋭い眼光によって補足され、その後の的確な質問攻めによって大概の誤魔化しはバレてしまう。胡散臭い不動産屋との交渉においては、ものすごく役に立ったスキルである。

 しかし、智代はまっすぐなことが好きで、つまり曲がったことが嫌いなので、言うべきことははっきりと言う方である。それがいいという者もいれば、「歯に衣着せなさすぎなんじゃないの」と憤る者もいる。よくも悪くも、それが智代である。ちなみに俺はそんなまっすぐではっきりとした智代が超好きだ。

 今回はまぁ、その洞察力と真直さが裏目に出たわけで。

 


「巴、どうしてニンジンを食べないんだ」


 

 一瞬、食卓が凍りついた。

 やがて、巴がゆっくりと俯いた。

「な、なにをいっているのか、わからないな、かーさん」

「さっきから見ていると、チャーハンのニンジンをよりわけているじゃないか」

「そ、そんなことはないぞ?うん」

 巴が引きつった笑みを浮かべた。うん、母娘揃って嘘が下手だなぁ。

「巴はあれか、ニンジンが嫌いだったのか」

「そんなっ!か、かーさんのつくってくれたものが、き、きらいなわけがあるかっ」

「そうか……そう言ってもらえて嬉しいぞ」

 智代が綺麗な笑顔で笑った。つられて、巴もにっこりと笑う。

「かーさん……」

「じゃあ、ニンジンさんも食べてくれるな」

「……も、もちろんだ」

 巴の笑顔がひくっと引きつった。そしてそろりそろりとニンジンに箸を伸ばし、ついに摘むところまで行ったが……

「……うー」

 うなだれる巴。正直、よく頑張った。

「巴」

「なんだ、とーさん」

 なるたけ優しい声で言ってみた。

「好き嫌いがあるのは、子供の頃はそんなに恥ずかしがることじゃないんだ。子供の頃は、いろんな味に慣れてなくて、だから嫌いって思っても、しかたのないことなんだよ」

「……かーさんのつくったりょーりに、すききらいなんてあってたまるか」

「そうだな、母さんのお料理、うまいよな。だけど、もともとニンジンが嫌いなんだったら、それはしょうがないさ」

 好き嫌いは、あってもおかしくない、むしろ当然だと俺は思う。大事なのは、嫌いだと認識したうえで対処していく心構えだと思う。やがてはその心構えが、人生におけるいろんな障害に対しても有効となるのではないか、そう考えている。

「……しょーがないのか」

「ああ、しょうがない」

「…………かーさんのりょーりでも」

「うん。まぁ、父さんに言わせてみれば、母さんの料理はすべてうまいわけだが」

「しょーがない、んだな」

「ああ、そうだ……な」

 俺はふと巴が少し吹っ切れたような純情そうな、それでいてどことなく小悪魔的な笑みを浮かべていることに気づいた。

「ま、まぁ、大人になったら克服しなきゃいけないけどな」

 大事なことを取り返しのつかないことになる前に言ってみた。

「そうか、そうか……わたしにすききらいがあっても、わるいことではないのか……むしろとうぜんなのか」

 何だかもうすでに取り返しのつかないことになっているようだった。

「と、巴、でも、大人になったらだな」

「とーさん、わたしはまだこどもだ」

 ぐっ、痛いところを。

「で、でも、好き嫌いはやっぱりダメだっ」

 危なくなりそうなところで智代がフォローしてくれる。さすが智代さん。おそらく俺よりもはっきりと俺の言いたいことを行ってくれるに違いない。

「でも、とーさんは、こどもにすききらいがあるのは、しぜんだといっていたぞ」

「そ、それはだな」

 さあ言ったれともぴょん、人は壁を乗り越えて成長していくものだとっ!

「父さんが間違っているんだっ」

「ななななんだってーっ」

「……」

「……って、私は何てことを言ってしまったんだぁああああああ」

「とーさんはまちがっているのかっ」

「……」

「間違ってない、間違っていないぞ?うん」

「じゃあ、いいのか、すききらい」

「ダメ、絶対」

「…………よくわからん」

「つまり、ええと、その……うん、やっぱり父さんが間違っていたと……・私はまたしてもなんて事を言ってしまったんだぁあああああっ」

「……とーさん」

 くいっくいっ、と朋幸が俺の袖を引っ張った。

「……なんだ、ともゆき」

「…………・なかないで、とーさん」

「……ありがとう。ともゆきはやさしいなぁ」

 つつ、と目から溢れる涙を拭いている間に、智代と巴の弁論大会は白熱していった。

「に、ニンジンはだな、体にいいんだっ!そうだっ!目にいいんだぞ?眼鏡をかけなくてもいいんだぞ」

「かーさんはにんじんたべるのか」

「あ、ああ、食べるともっ」

「でも、かーさんはめがねをかけるぞ」

「あうっ」

 智代が珍しく言葉に詰まった。ちなみに智代の眼鏡姿は重要文化財だと思う。メガネなしだったら国宝だと思う。

「そ、それにニンジンは繊維があってだな、体にいいんだぞ」

「せんい?せんいそーしつのせんいか」

「いや、それは違う」

「となかいになったりするのか」

「海賊王の漫画のあれではない」

「きゅーひゃくきゅーじゅーきゅーいのあとか」

「何人いるレースだそれは……とにかく違う」

「では、なんでからだにいいんだ」

 ぐっ、と智代がまた言葉に詰まった。確かに食卓で説明することではない。

「なんだ……いえないのか……がっかりだ」

「あうあうあう……」

 押しまくられる智代、押し切らんと進む巴。しかしそこで、智代が引きつったながらも笑みを浮かべた。

「で、では、これではどうだ」

 智代は巴の皿に寄せられたニンジンを箸で摘むと、巴の顔に近づけた。

「巴」

「ま、まさか……そんな」

「あーんだ」

「か、かーさんが、わ、わたしに、あ、あーん、だと……・」

「どうしたんだ?食べてくれないのか?ほら、あーん」

「あぅ……・でも……にんじんは……」

「ほぉら、あーんだぞ」

 智代がにっこりと微笑んだ。最強と謳われた俺の嫁さんがドSだなんて、知りたくなかったなぁ。

「く……やっぱりできないっ」

 巴が顔を逸らした。まぁ、これぐらいでへこたれるともぴょんでは

「まさか……巴が私とあーんをしたくないなんてっ」

 前言撤回。結構真面目にダメージを受けていた!

「くっ……ほら、巴、あーんだぞ」

「んーっ」

「ニンジンさんだぞ?こわくないぞ」

「んーんっ」

 巴が頑なに首を振った。うーん、萌え。それでも智代は頑張る。他に策がなくなったのなら、強行突破にかけてみようと思ったのだろう。

「たかがにんじんなのにね」

 あむあむとそのニンジンを食べながら、朋幸が呟いた。

「まぁ……人にはそれぞれ越えられないといけない壁があるんだよ」

「とーさんにも」

「ああ。父さんが超えなきゃいけない壁は、家族みんなが仲良く楽しく暮らすにはどうしたらいいかって問題だな」

「みごとにどろみずかだね」

「それを言うなら泥沼化だろ……はぁ」

 しかし確かに朋幸の言うとおり、智代と巴の攻防戦は膠着したまま進展の兆しを見せずにいた。

「ニンジンさんは、美味しいんだぞ。甘いぞ。そう嫌がることもないじゃないか」

「んーんっ!やっぱりすきになれないんだっ」

「巴、なぜわかってくれないんだ……母さんは悲しい」

 すると、巴もじわっと眦に涙を浮かばせて大声で言った。

「かーさんこそっ!さっきからきらいだっていってるのに無理にたべさせようだなんてっ!そんなかーさんなんて、きらいだっ」

 一瞬、世界が無音になった。

 巴の声が反響し、やがてそれは家族の絆が崩れ落ちる騒音となって俺の頭の中に響いた。

 え、嘘。

 巴ちゃん、それ、今、マジで言いましたか。

「…………」

「……………………」

「………………………………………」

 重苦しい沈黙を破ったのは、弱々しく俺を呼ぶ声だった。

「朋也……」

「あ、ああ」

「……聞いたか。巴が、私のことを嫌いだと、嫌いだと言ったんだ」

 肩を震わせながら、涙を浮かべて俺を見る智代さん激萌。なんて言ってる場合じゃない。

「ま、まぁ、ちょっとした言い間違いだよ。な?巴は本当は『母さん、何て機雷!』と言いたかったんだよ」

「それは一体どういう意味なんだ」

「母さん、そっちは機雷原みたいに問題ありまくりっぽいから、そっちに話を持っていってはダメだ、という意味だと思うぞ」

 我ながら苦しいと思ったが、智代はそれである程度は納得したのか、思慮深げにうんうん、と小さく頷いていた。ふぅ、嫁が物分りがよくて助かったぜ。

「そんないみでいってない。わたしはかーさんが……きらいって……いったんだ……」

 んもう、巴ちゃん。自分で繰り返して傷つくくらいだったら、「大事なことだから二度言いました」なんてしてくれなくてもよかったのに。おかげで、見ろぉ、智代が泣き出す寸前のようだぁ。

「……私は……私は娘の好き嫌い一つ満足に直せない、ダメな母親だったのか……そうか、そうだろうな……うん、いくら朋也が素晴らしい父親でも、私がそれで母親としてよくなるなんて、そんな都合のいい話があるわけないだろう……そうか、そうだな……どんないい子供たちでも、こんなひどい母親がいたら、いくら何でもかわいそうだろう……私なんか……私なんかいなくなったほうがいいと、そうだな」

「いやいやいやいや、待て。そこで智代にいなくなられたら、俺はまず確実に死んじまうし、小熊ちゃんたちもすっげぇ悲しむぞ」

「でも……今は良くても……将来多感なときにそばにいてあげられる母親が私みたいなダメ親では……ああっ!やはり私はいない方がっ」

「それはないだろ……って、巴も、母さんのことが本当に嫌いなわけじゃないだろ……え」

 巴の方を見て、俺は固まった。

「と、巴」

「わたしはかーさんのことがきらいだっていった……にどもいった……だいすきなかーさんのことをきらいっていった……かーさんのことをきらいっていった……にどもいった……だいすきなかーさんのことを」

 目の前に手をかざしても、巴は光の無い目を前に向けて無表情を保ったままだった。声をかけてみても返事がない。どうやら自分の世界の中にとらわれているようだ。

 どうしたものかと考えていると

 

「風子っ!参っっ上っ!!」

 

 ややこしい奴が現れた。ちなみにこちらのお嬢さん、何と智代より一歳年上の俺と同い年なわけだが、どう見てもせいぜい小学四年生にしか見えません。多分、風子と風子の生徒(そう、驚くべきことだがこいつは高校教師なのだ)を比べて、どっちがより教師に見えるかと聞いたら、百人中百人が生徒の方を指さすに違いない。

「岡崎さん、お困りのようですね。そんな時こそ、信頼の置ける風子に任せてください」

「い、いや、信頼が置けるかどうかはちょっと置いておいて、俺のために特にそこまでしてもらわんでも」

 すでに厄介な状況なんだからさ、これ以上事態をこんがらがせないで欲しいんだが。

「岡崎さん、変なことを言いますね」

「は」

「風子は巴ちゃんと朋幸君、それから智代さんのために来ました。ぶっちゃけ、岡崎さんはどうでもいいです」

「んだとう」

 ま、まぁ、実年齢はどうであれ、風子は見た目と精神年齢が一致してるからな。大人の俺が子供相手に怒ったりしてはいけないんだろうけどさ。でも、今のは、というか今回も、頭にきたぞ。悔しい、でも感じちゃう(怒りを)、びくんびくん(←俺の血管がぶちきれそうになっている音)

「とにかく話は全部聞かせてもらいました」

 人の家のプライバシーっつーもんをちったぁ斟酌しろよ。

「風子が考えるに、智代さんも巴ちゃんも悪くありません」

「そりゃどういう……って、おおっ、風子が今珍しくまともなことを言ったぞ」

「失礼ですっ!とてつもなく失礼ですっ!デフォルトで風子が変なことを言うかのようなリアクションを取りかけたのも失礼なら、その後に続いた言葉も失礼ですっ!!風子は、学校でもまともなことを言う先生だと評判ですっ」

 ちなみにそんな評判がないことは、岡崎家独自のルートで情報入手済みだった。

「では、誰がいけないのでしょうか。それはずばりっ」

 びしぃ、と俺の眉間に風子が人差し指を突きつけた。

「岡崎さんですっ」

「ちょい待てコラ」

 流石に今ので何かが切れた音がする。

「何だそりゃ、何で俺のせいになる」

「岡崎さんは岡崎家の家長です。家族の問題は家長の責任です」

「うっ」

 一理あった。風子のくせに。

「岡崎さん、胸に手を当てて、よぉっく考えてください。岡崎さんは、この問題を智代さんと巴ちゃんのせいにするつもりですか」

「で、できないっ」

 そんなことは、絶対に出来ない。うんうん、と頷く風子。

 そうか、そうだよな。

 全部、俺のせいなんだ。

 俺がまともな父親だったら、こんな問題は起きなかったんだ。

 俺がしっかりしていたら、巴は好き嫌いもなく、智代とも諍いもなく、みんな幸せな暮らしを満喫できたはずなのにな。俺に力があったら、こんな喧嘩になっても何とかなるんだけどな。

「ちなみに、何が喧嘩の原因ですか、朋幸くん」

「ともえがね、にんじんがきらいって」

 ていうか、どだい無理な話だったんだ。元不良の俺が、幸せな家族を築くなんてな。俺なんてどうせ何の役にも立たないロクデナシなんだからさ。うまくいきっこないなんて、心の底では思ってたさ。

「ニンジンですかっ!!ううう、それは難敵です」

「……そーかなー」

「ピーマンやセロリと同じくらいの難敵ですっ!いくら大人の風子でも、ニンジンがお弁当に入っていると逃げ出したくなりますっ」

 はは、泣けてくるなぁ。結局は全部俺のせいか。俺がダメだから、こういうことになっちまったんだよな。これならいっそ、俺がいなくなれば


「でもさ、ぼくもにんじんはすきじゃないけど、かーさんのにんじんすごくおいしいよ」


 ぴたっ、と巴が呟くのをやめた。俺と智代は、はっと朋幸を見た。

「そ……それはほんとうか、ともゆき」

「うん。にんじんをそのまましかくくきったのをたべると、げーってなりそうだけど、かーさんのごはんといっしょだと、あまくておいしい」

「うそ、じゃないな」

「うん、ほんとほんと」

「で、でも、てれびでは、にんじんはおいしくないって」

「かーさんのにんじんじゃないからだろ」

 ほら、と言いたげに朋幸はお箸で桜柄に切ったニンジンを刺し、口に運んであむあむと食べた。それを見て巴は自分の皿の上のニンジンを凝視し、智代を見て、俺を一瞬見た後、お箸でニンジンを摘んで口に放り込んだ。

 ……

 …………

 ……………………

「……おいしい」

 だ

 だぃ、


 大勝利ぃぃいいいっ


「おいしいぞ、このにんじん」

「そ、そうか?美味しいか、巴」

「うんっ!かーさんのにんじんはおいしいっ」

「む、無理して言っているわけではないな」

「いってない。ほんとうにおいしいんだ」

「巴っ」

 智代がひしっ、と巴を抱きしめた。

「でも、へんだな。なんでわたしはこんなにおいしいにんじんを、きらいだとおもっていたんだろう」

「それは父さんも知りたいな。どうして巴はニンジンが嫌いになったんだ」

「うーん……あのな」

 かいつまんで話すと、こういうことだった。

 ちょいと前に、巴は幼稚園の友達がお弁当に入れていた野菜スティックを分けてもらったのだが、水気も鮮度もなく、パサパサの苦いそれを食べて悪印象を抱いてしまった。最初巴は舌の錯覚かもしれないと思っていたのだが、テレビの教育チャンネルなどで「ニンジン=好き嫌いの定番=嫌いでもおかしくない」という図式を頭の中で構築してしまい、以来ニンジンはパサパサで苦く、みんなも自分も嫌いなものと認識してしまったのだった。

「だけどニンジンは煮たり炒めたりすると、その野菜の甘みが出て美味しくなるんだ。だから、野菜スティックとは違うんだぞ」

「そうか……わたしはしやがせまかったから、それがわからなかったんだ……かーさん、すまなかったっ」

「いや、私だって、巴が嫌いなものを無理に食べさせようとしたなんて、悪かった。こんな母さんを、許してくれるか」

「とんでもないっ!わたしこそ、ゆるしてほしいっ」

「ああ、巴……!」

 ひし、と抱き合う母娘。そんな二人に安堵のため息をつきながら、俺はぽん、と掌を朋幸の頭に乗せた。不思議そうに俺を見る朋幸。

 わかってないんだろうなぁ。無意識なんだろうなぁ。こいつは今、親よりも上手く妹を説得したんだよな。衝突したり甘やかしたりせずに、引っかかっていたことを取り除いてやったんだよな。ちゃんと兄貴として守ってやったんだよな。

「いい話ですっ!風子、感激しましたっ!ので」

 ぱっ

「朋幸くんと巴ちゃんは、風子の弟と妹になります」

「何でそうなる」

「今決まりましたっ!これは避けようのない運命なのですっ」

「んなわけあるかっ」

「どうですか、朋幸くん、風子と一緒に帰りませんか」

 スルーして拐かそうとしているっ!!

「いや、いい」

 素っ気なくフラレたっ!!

「ショックですっ!!で、では、巴ちゃん……」

「かーさんといっしょがいいっ」

「はうあっ」

 その場に崩れ落ちる風子。

「っていうか、お前本当に何しにきたんだ」

「はっ!考えてみれば、風子は今、おうちに帰りたくない気分だったのですっ」

「……何だそりゃ」

 俺が首をかしげていると、玄関のブザーが鳴った。それを聞いて風子は慌てて智代の後ろに隠れた。

「風子……ちゃん」

「いませんっ!風子はここにいませんっ!今、風子は幽体離脱していますっ」

「なぜだろう、その冗談が笑えない気がするんだが……」

 困り顔の智代にその場を任せて、俺が玄関に出ると

「あ、公子さん」

 玄関の外で立っていたのは、困った顔をした芳野公子さんだった。

「こんにちは、岡崎さん……あ、あの、ふぅちゃん、こっちに来てませんか」

 智代の方を見ると、首が不自然な具合で左右に振られていた。よく見ると、きょとんとした顔(これまた萌え)の横に、ちっちゃな手が添えられていた。

「ええ、いますけど……入りますか」

「すみません」

 裏切られましたー?!と悲鳴がリビングから聞こえてくる。声のした方へ公子さんが歩み寄る。

「もうっ!ふぅちゃんったら、ピーマンが食べられなくて逃げ出したりしたら、ダメじゃないっ」

 逃げ出したのかよ、実際……

「あわわわわ」

 風子は慌ててさかさかさかと逃げ回る。それを追い回す公子さん。

「好き嫌い治そうって約束したでしょ!こら、ふぅちゃんっ!!」

「風子には……風子には逃げなくてはならない時があるのですっ」

 それがピーマンと対峙した時かい。うわ、次元低っ!

 食卓を回る風子と公子さんを見て、俺と智代はため息をついたあと、くすりと笑った。

 

 


 

 

 

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