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「待っててよね」

「へいへい」

 脱衣室からの声に答えながら、僕は冷蔵庫の扉を開けた。野菜やタッパーに入った夕飯の残りの奥に、金色に輝くエビっすビールの缶が。それを一本取り出しながら、僕は冷蔵庫の扉を閉めた。杏が隣にいなくて、でも寝るのもダメ、となれば、夏の夜はビールとテレビだけ、ということになった。

「野球中継っと……おー、やってるじゃん」

『ツーアウト二塁、ここは譲れませんね』

『そうですね。九回裏、ここは守り切れれば甲子園、プレッシャーは高いですね』

『おおっと、音無投げた……打ったぁっ!!打たれました音無っ……お、おお、おおおおっ!アウト!フライを捕ってアウトです!そこに詰めていた日向、見事にキャッチしました!!』

『今のは見事ですね。音無と日向の連係プレーです』

『なるほど、打たせて捕る、とこうですね。何はともあれこれで守駒学園、甲子園進出ですっ!!』

「おー、甲子園進出かぁ」

 僕は思わず口に出して言っていた。テレビではピッチャーと三番フライを中心に守駒とかいう高校の選手たちが抱き合っていた。

 一昔前なら、斜にかまえて「へっ、ばっかじゃないの」とか笑っていた光景。今では純粋によかったな、と思うことができた。野球か。また古河のオッサンのところに顔出しに行こうかな、岡崎連れて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Midnight Show

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 背後でシャワーの音を聞きながら、僕はタブを親指で開けた。しぱっ、と威勢のいい音がする。

「ふぅ……にしても暑いねぇ」

 一口ビールをあおって呟いた。日が暮れてもう五時間ほど経つのに、蒸し暑さは未だ衰えず。僕はぱたぱたとシャツの胸口をあおいだ。そして何の気もなしにチャンネルを変えてみた。

『というわけで次の商品に行こう』

『ええっと……○○市に住むラブ沢さんからのお便りです……拝啓 KENさん聞いてください。この頃僕の存在感が薄れていってるような気がするんです。このままじゃ、僕の好きな子にアプローチできません。助けてください』

『了解だ、恥ずかしがり屋さん。そんな君にぴったりのアイテムがこれ、リトバスジャンパー!!』

『わぁ、KENさん、それなら確かに存在感がありますね』

『そう思うだろ、ME+YOU=KEY?これならかわいいあの子にも大うけ間違いない。しかも何とこれは両面着れるお得意物』

『気分転換にはぴったりですね』

『というわけで、全国の影が薄くて困っているみんな、この番号をこーるなうっ』

『返品・苦情その他は受け付けませんのであしからず』

「いやぁ、さすがにこれはないって」

 苦笑してチャンネルを変える。男女ペアのショッピング番組の次はニュースだった。

『……というわけで、地元のお菓子販売業者の間ではマークされているということです』

『そりゃあ、最初は犬か猫かと思っていたんだけどな、今じゃはっきりしてる。あれはあのカチューシャの女の仕業だ』

『追っかけましたよ。あたしだって食い逃げはほっておけませんよ。でもね、早い。早すぎますね、あれは』

『警察では目撃情報をもとに、ランドセルに羽を付けたカチューシャの女の子の捜査を続行する見込みです』

 どうも連続食い逃げ犯をフォーカスしたニュースらしかった。警察関係者の話によると、目撃情報に似た女の子を見かけて後をつけても、どこかにいなくなってしまうのだそうだった。

「んな……幽霊でもあるまいし」

「ふぅ……陽平、あがったわよ」

 苦笑していると、タオルを頭に当てながら杏が出てきた。ほのかに頬が赤く染まっていて、何だかすっごく綺麗だった。

「ん?どうかした」

「や、杏ちゃんがあんまり綺麗だったから見とれてた」

「バカねぇ」

 たはは、と恥ずかしそうに杏が笑う。それに笑顔で返すと、僕はビールをまたあおった。

「あ、ビール飲んでる」

「ん」

「じゃ、あたしも持ってこよっかなぁ。待っててね」

「へいへい」

 待ってても何も、ずっとさっきから待ってたんですけどねぇ。

 そう心の中で呟いて苦笑した。背後で圧縮された炭酸ガスが缶からもれる音がした。

「っと。ふー、暑いわねぇ」

「そうだねぇ。夜になったら涼しくなってもいいのにね。今夜、布団敷かずに寝ようかなぁ」

「それじゃあ風邪引くわよ。あ、バカだから引かないか」

「失礼ですよねぇ?!だいたい、僕だって前に風邪引いたじゃん」

「あ、そうだったわね」

 で、杏に優しく……かなぁ?まぁ看病してもらったことがあった。

「何事にも例外ってあるのよね」

「僕がバカじゃないって方向には行かないんだ」

「行かないわね」

 がくっとうなだれる。まぁ、実際のところバカなんだからしょうがないけど。

「で、何か面白い番組でもあるの?」

 ニュース番組も終わり、テレビの画面はコマーシャルがうつされていた。

『プラネタリウムは、いかがでしょう』

 画面の向こうで、かわいい女の子が無邪気に笑いかけていた。プラネタリウムか、何かいいかもなぁ、とか思っていると、不意に頬が横にスライドした。あたかも万力のような指で頬をつままれ、引っ張られているかのようだった。

「陽ぉ平ぃ?あんた、あたしという女がいながら、この女の子に笑いかけられて鼻の下伸ばしてなかった?」

「いひゃいいひゃいよひょうひゃん、ひょんなひょとあるわひぇないっへ」

「何なら、あっちのお姉さんのお世話になってみる?あァ?」

 杏の指差した先には、「擦り傷から原因不明の難病まで手広く扱います。ただし妹には手出し無用。霧島医院」というテロップと、メスを握る怖そうな白衣のお姉さんの映像が流れていた。

「ひぇっほうでふっ!いひゃひょおおおおう、ひょうひゃまひゃいひょうっ!!」

 ジト目で睨まれながら僕は必死で弁解した。

「ならいいけど」

「おー痛つつつ……何だよ、嫉妬?ふーん、そうなるまで杏ちゃんってば僕のこと好きなんだ」

「悪い?」

「なっ……」

 素で返された。しかもためらいも何もなく、リアルタイムで。

「い、いや、その、悪くないっていうか、普通にうれしいけど、そのぉ……」

「ん?何かあるの」

「い、いえ、ないっす」

 思わず敬礼してしまった。すると杏はくすくすと笑う。

「まったく、バカねぇ」

「……」

 何なんだろ、これ。何だか杏の手のひらの上で弄ばれてる気がする。何だか、こういうふうに奥さんに自分のリモコン握られてる知り合いが身近にいたような……

 

 

「……朋也、風邪か?」

「うー、何だったんだ、今のは」

「洟はすするな。ほらティッシュ」

「へいへい」

 

 

「すきありっ」

 考え事にふけっていると(僕でも考え事ぐらいするよっ)、杏が背後から襲って……じゃなくて抱きついてきた。

「えへへ、油断してるからよ」

「……でも僕がよけても不機嫌になるよね」

「当然」

 苦笑するしかなかった。ちなみに一度だけ冗談でよけたら、「陽平……あたしのこと、嫌いになっちゃったの」とか涙ぐんだりされるわ、冗談だって言っても聞いてくれないわ、いつとかどことかを無視して杏のお父さんが殴りこんでくるわで大変なことになった。

「で、何かおもしろいのやってるの?」

 チャンネルを変えていく。「国崎住人の全国びっくり!ラーメンセットの旅」は、前回の「激辛マーボーラーメンセット」で国崎住人が入院中につき休み、と……

「さぁねぇ……あ、あと少ししたら『ミッドナイト・ムービー劇場』だってさ」

 ふぅん、と杏が返す。少しばかり興味がありそうだった。実際、テレビでやってる映画は結構いい暇つぶしになる。知っていたら筋を追いやすくていいし、知らなかったらそれこそ新しい話だ。

「そういや杏はどうだった、幼稚園」

「あ、朝のね。うん、無事に教員会議とかそういうのも終わったし、何もなかったわよ」

「ふーん、そっか。にしても」

「にしても?」

「来週は寂しくなるねぇ」

「しょうがないわよ、研修なんだから」

 昔、っていうか杏と付き合ったりするまでは教師ってのは休みもあるし旅行とかも行けるし、何だかんだで得な仕事だなぁとか思っていたけど、現実はそう甘くない。いろんな研修やらコースやらがあったり、教員会議とかに出たりと、やることは少なくはない。それでいつもは子供たちの相手という肉体的にも精神的にもきつい仕事があるんだから、とにかく大変だ。正直、やっぱり杏は凄いと思う。

 で、まぁ、あれだ。来週はどこぞの県で全国幼稚園教諭うんたらかんたらの研修があるので、一週間の出張というわけだった。しょうがないとはいえ、連れ合いが隣にいないのは寂しい。

「ちゃんとご飯食べなさいよね。一週間カップ麺だけで過ごすのはなしよ」

「へーい」

「あと、ゴミの日忘れないでね。火曜日だから」

「まぁ、善処しとくよ」

 忘れそうだけど。十中七八割の確率で。

「そうそう、寝坊は気をつけなさい。あんた、休日は十時まで寝てるから、心配かな」

「杏ちゃんがモーニングコールしてくれれば起きるけどね」

「こっちも忙しいんだから、自分で何とかしなさい」

 ぴしゃりと言われてしまった。まぁ確かに三十歳にもなって自分で起きれないのもあれだけど、杏に朝起こされるようになってから結構経つ。そんな環境に慣れ過ぎていないといいけど。

「陽平の方は」

「ん?」

「今日一日、どうだった?」

 少し甘えたような声で杏が聞いてきた。そんな杏の頭に自分の頭を乗せる。

「普通、かな。相変わらず仕事の連中はマイペースだし、納期はむちゃくちゃだし」

「今夜も遅かったわよね。あんた大丈夫?」

「ま、タフなのが取り柄だしねぇ、僕」

「そうだけどね……無理しちゃだめ」

「へ?そこで『タフさだけが取り柄でしょ』とか言うと思ってたんだけど」

 少し空回りした気分で杏を見ると、いたずらっぽい笑顔がそこにはあった。

「ん〜、どうでしょ。陽平はタフさだけが取り柄なの?ん?どうなの、そこ」

「まぁ……他にはダンディさとかファッションセンスとかそういうのが」

「皆無ね、悲しくなるくらい」

「ひどいっすねっ!?」

 ああくそ、あまあまな会話が台無しだ。がっくりと肩を落とすと、杏がふふ、と耳元で笑った。

「大丈夫、知ってるから。陽平のいいところとか、ちゃんとわかってるからね」

「ならいいけどね」

 ふてくされたような、そんな返事。それのどこがおかしかったのかは知らないけど、杏はまた笑って、肩に顎を乗せてきた。少し前だったら、そんなことをされたらびっくりしたりどきどきしたりと忙しなかっただろう。ついでに背中に感じる胸の感触とかにもどぎまぎしたりと、随分とまぁウブな反応をしただろう。だけど、いつの間にかそうじゃなくなった。いつの間にか僕は僕と杏の間のせまい距離に馴れていた。だから、こういう風に抱きつかれてもむしろ心地よさを感じる。

「杏ちゃん」

「ん」

「杏ちゃん」

「だから何」

 

 

 

 

『まいったぁ……俺はまいったぁ……気持ちよすぎるぜぁ』

 しゃん、しゃん、と剣が振るわれる音。イッチャってる殺人鬼の声。

「何でもこれ、最初出た時は失神した客が何人もいたとか、上映禁止になったところもあるとか噂だったみたいだねぇ」

「あ、体が爆発した」

『あなたたちは逃げて!ここにいては危ないわっ』

『お姉ちゃんダメ!お姉ちゃん……おねええちゃあああんっ』

『あほがぁぁぁぁあああああああああああああああああっ』

 タイトル、「恐怖の目」。

 時は平安時代。竹やぶで見つかった少女は心やさしい老夫婦に育てられ、やがては時の朝廷にまで召されるが、実は彼女は月からの使者で、地球に危険が迫っていることを教えに来たのだった。しかし彼女の説得や忠告も虚しく、満月の夜、とうとう月に巨大な目玉がぎょろりと。

「ま、夏はホラーってのが定番だよね」

「でもまぁ結構面白いわね……って、えええ?うそ、子供たち狙うの?」

「あ、大丈夫大丈夫……」

『貴様、それでも人か?!童を狙うとは、非道にも程があるっ』

『忘れたのか?俺は……俺様は……最早人間じゃないぃ!』

『なら……お仕置きだぁぁぁぁあああああああああああ』

 どぶっ、ぞぶしゃ

 月の目に魅了された半人半鬼の化物がショットガン(平安京なのに)でただの肉片に変わった。

「あーよかった……そーよ、子供に手を出す外道はそれぐらいが当然よね」

「あはは……にしても杏ってスプラッタ、大丈夫なんだ」

「まぁ、陽平がいるからね」

「え、それって僕のことを頼りに……」

「大概のスプラッタは高校時代に実体験で見あきたわ」

「それって、僕に起こったことですよねぇっ?!」

「血って取れにくいのよねぇ……特に八宝菜作る時とか手についてると大変ね」

「中の人ネタっ!!それってやばいよ杏ちゃん!!ことみちゃんとか渚ちゃんが心配になってきたよ!!」

「あは☆あ、ごめんね心配かけて。でももう大丈夫。何にも心配いらないよ」

「心配だよっ!!このまま後ずさりとかしたら『悪いのは逃げようとするその手足だよ』とか言って手足を五本釘で固定されそうで心配だよっ!!」

「でも陽平タフだし」

「それここまで引っ張っちゃうんだ!!」

 確かにこの映画、観客が失神するだけのことはあるかもしれない。だけどそんなことよりもむしろ、僕はヤンデレな杏ちゃんに愛されすぎて夜も眠れない事態になりそうな現状の方が怖かった。恐るべきはスクリーンの向こうの爆砕する肉片じゃなくて、いつの間にか杏の手に握られてる金づちと五寸釘だったり。

「やーねぇ、これは陽平に打ちつけるためじゃないわよ」

「だ、だよねぇ、あはは」

「陽平に寄ってくる虫をまとめて見立てたわら人形を神社に釘づけにするためよ」

「やっぱり心配だよっ!!」

 背筋が寒くなって、冷や汗が止まらない。納涼もいいところだった。

「ま、冗談だけどね」

「……」

「前にちょっとした雑誌でそんな記事読んだなあって思い出してさ。からかっただけよ」

「そ、そっか。あ、あははは、驚いたよ僕」

「ちなみにその記事、椋が勧めてくれたのよね」

 椋ちゃん、恐ろしい子。

 僕は心の中で、勝平が変な気を起さないよう割と真面目に祈った。

 

 

 

 

『行っちゃだめ!お姉ちゃん!』

『ごめんね……私はもう、行かなきゃいけないから。役目は終わったから』

『そんな!お兄ちゃんも何か言ってよ!!』

『……かぐや、向こうでも元気でな』

『……うん。私、あなたに会えてよかった』

『そう、かよ』

 やがてベレー帽に野戦服という格好の「月の使者」がかぐやの傍に来て視線で催促した。平安京が舞台なのに野戦服って……とか思ったけど、さっきからショットガンを始めチェーンソーやミニガンやターミネーターが続々登場したから、もうコマンドう舞台では驚かなくなった。

『じゃあ、ね』

『おねえちゃんっ!お兄ちゃん、放して!!』

『だめだ……だめなんだ』

『おねえちゃんっ!!おねええちゃあああんっ!!』

 無言のままコマンドうのジープに乗って別れを告げるかぐや。それを断腸の思いで見送る主人公の青年とその妹。泣き崩れる二人が見上げた先には青い月。そしてエンドロール。

「ふぅ……それなりだったかな」

 感慨深げに僕はため息をついた。確かにいろいろと設定に無理があったし、場面によってはホラーというよりホラ話もいいところだったけど、最後のシーンは少しぐっと来てしまった。

「ま、時々びっくりするようなところもあったしね……って、杏」

 普通は感想を言うとそれに応じてくれる杏が、今度ばかりは静かだった。ふと肩を振り返ってみると、そこには杏の寝顔が。

「あれで寝られるんだから、すごいよねぇ」

 暑くて疲れていたからなのだろうか。それとも数多の戦場を駆け巡った戦女神杏様にとって、スプラッタ映画は眠くなるほど退屈なのだろうか。って、それってどんな人生だろ。

「ほら、杏、終わったよ。起きなきゃ」

 つんつん、と頬をつつくと、杏が眉をひそめた。

「んんっ……ん〜……」

 しばらく起きそうなそぶりを見せた後、杏がまた眠りの深淵へと旅立っていった。

「いや、ほら、ここで寝ちゃまずいって。風邪引く風邪引く」

 

「ん〜……陽平」

「ん。何」

「んん……」

 ダメだ、寝ぼけてる。僕は思わず苦笑した。普段は僕のことをしゃきっとしろと叱る杏ちゃん。そんな杏が、すごく無防備な姿をさらしていた。僕はそんな杏の髪に軽くキスをすると、肩をゆすった。

「んあ……あ、あれ、映画は」

「今終わったところ。寝ちゃってたみたいだね」

「え、そうっだったんだ……あふ……じゃあ、寝る?」

「そうだね。っと、どっこいしょ」

 長い間座っていると、立ち上がるのだけでも掛け声が必要になってくる。僕は立って腰の骨辺りをぽきぽきと鳴らすと、杏に手を差し伸べた。こういう時に遠慮なく手を取って引っ張り上げさせてくれるのが、何だかうれしい。

「って、もうこんな時間?あんた、明日大丈夫?」

「あ、あははは……起こして」

「しょうがないわねぇ」

 ため息をつきながら、杏が笑った。そして自然に腕をからめてくる。

「でもちゃんと起きなさいよ。朝ごはん抜いて行ったりしたら怒るからね」

「へーい」

 確かに杏の朝ごはんを食べずに行くのはもったいない。ぼりぼりと頭をかきながら、僕は明日の朝はしゃきっとしていよう、と思った。

「にしてもさ」

 寝室に入ってシャツを脱ぎながら、僕は言った。

「にしても?」

 

「最近、何かホントあついよね」

 

 

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