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 時の流れというものは、場合によっては祝福にも呪いにもなるらしい。

 例えば、日々成長していく小熊ちゃんたちを眺めるのは、親の醍醐味と言えるだろう。特に朋幸が草野球で何をどう打っただのオッサンが何を言っただのと聞いていると、ああ、俺、父親でよかったと心底思えてくる。そして巴もすでに智代を何かの目標と捉えているのか、髪の毛を長く伸ばす宣言をしたり、智代風に髪の毛にリボンを巻いたりと、いろいろ工夫している。巴が智代の完成され洗練されたレベルまで行くにはまだまだ時間がかかるだろうが、これだけは言っておこう。将来が非常に楽しみだ。

 とまぁ、それはそれは幸せな日々を過ごしている俺だが、そんな日常にぽつんと黒いシミが浮かんだ。それは一月も終わりを迎え、二月に入った頃の話である。会社で仕事をしていると、部下たちの雑談が聞こえてきた。

「そういえばもうそろそろバレンタインですよね」

「ああ、もうそんな時期か」

「あれ、あまり嬉しくなさそうな反応」

「嬉しいもんかよ。知ってっか?うちの娘、中学生なんだけどな。この時期になるとチョコレートしこたま買ってきて、台所占領してだなあ。ったく、あーくそ」

「台所に材料とか使いっぱなしの器具とか散らかってたら、頭きますよね確かに」

「バーカ。そういうのじゃねえよ。考えても見ろよ、その娘の作ったチョコがだぞ、どこぞの馬の骨に手渡されるんだぞ?どっかの野郎がそれをニヤついてうげへへへってもらって、下手すりゃ変な妄想するんだぜ?俺の、娘で、だぞ?」

「……うちに息子しかいなくてよかった」

「だーっ、くそっ、義理チョコだろうな!本命チョコなら受け取った奴は全員殺しても殺しきれんぞ!!」

 その時、俺の頭の中で何かが蠢いた。

 ちょっと待て、待ってくれ。巴は今年で何歳だろうか。うむ、確か五歳。世界一かわいい五歳の女の子だ。当然世界一かわいい女の子なら、そろそろ変な虫がくっついてもおかしくはない。正直言って幼稚園を丸ごと虜にしても俺は驚かない。そして巴はまだ五歳、たった五歳だ。その純真無垢な心、そんじょそこいらのボーフラの甘言に汚されてしまう可能性は、一体どれくらいだろうか。今のところ、俺の知る限りでは誰も手を出そうなどという不届きな考えを持つ命知らずはいないが、これからは警戒しなくては。

 そう思い立ったが吉日、深夜にインターネットショッピングで巴に持たせるための防犯ブザーや、高性能狙撃銃、果てにはスパイ衛星使用権も買おうとしていたところ、智代にバレて大目玉をくらったのは今では苦い思い出だ。

「まったく朋也は……自分の娘にそこまで甘いと、私は呆れを通り越して悲しくなってきてしまうぞ」

「そうはいうけどな、智代。世界一かわいい女の子と言えば誰だよ?」

「無論巴だ」

「だよなー」

「ああ」

 HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA

 その時は笑ってすまされた。いや、まぁ財布からクレジットカードとかを取り上げられたしお小遣いも二ヶ月間減らされたが、それは些細な問題だった。しかし俺はその時、それでも「まぁ、何とかなるだろう」と思っていた。これまで目は光らせていたから、当分は何事も起きないだろう。二十年くらい。それぐらいになったら、まぁ交換日記ぐらいから初めて、三分以内の電話での会話、ベランダ越しに十分未満の会話、メールのやり取りを通して清い交際の申し込みの許可をさせてやってもいいと思う。無論却下するけど。当然。

 そう思っていた矢先、俺の目の前で巴は智代にとんでもないことを言ってのけた。

「かーさん」

「うん、どうしたんだ」

「その……ちょこのつくりかたをおしえてほしい」

「ちょこ?何のために?」

 すると巴は顔を赤くして俺をちらりと見た後、こう言ったのだ。

「ばれんたいんでー、というものがあってだな……」

 オウ、シット。





 

 

 

 

 

 


俺の娘が「こんなに可愛いわけがない」とか思った奴、ちょっと前に出ろ





 

 

 

 

 

 

 

 


 俺が固まっている間、智代は腕を組み、そしてしみじみと言った。

「そうか……もう、そんな時期になるか……」

「……」

「あれには私も苦労した。うん、巴が初めてのを作るのに戸惑う気持ちもよくわかる」

「ほんとうか、かーさん?」

「ああ。だから私が全力で応援しよう」

「するなっ!!」

 思わず大声を出した。

「……何だ、いきなり」

「とーさん、おーごえをだすのはよくないぞ?」

「お、すまん……って、ちょっと待て、待ちなさい二人とも。結論に急ぐのはよくないぞ」

 そう言うと、トモトモレディーズは顔を見合わせた。

「そもそも、何でチョコを作る話をしているんだ、二人とも」

『ばれんたいんでーだから』

「見事なハモリ、本当にありがとうございました。しかしバレンタインだからってぽんぽんチョコ作るわけじゃないだろ。巴、そのチョコ、誰かに渡すのか」

「え、もちろん」

 もちろんなのかっ、もちろんなのかぁぁぁぁぁああああああああああっっっ!!

「何をうろたえているんだ、朋也?ちょこは誰かに送るものではないのか」

「そ、そうか、あははははあはああはは。すまんな、父さんちょっと混乱しちゃってさ。それより巴、何で急にチョコなんてあげる気になったのかな?」

 ちなみに頭の中ではすでに理由を聞く→相手を聞く→相手をぬっ殺すという図式が出来上がっている。

「うん、よーちえんのかえりにきょーせんせーがおしえてくれたんだ」

 杏、あの女狐め。うちの巴ちゃんにとんでもないことを教えやがったな。

「ばれんたいんでーには、だいじにおもってるおとこのひとにちょこをあげるって」

「よく聞け巴、杏先生が教えてくれやがったこと全てが正しいわけじゃあないからな」

「そうなのか」

「ああそうだ。バレンタインデーはだな、本当はすっごく嫌いな奴にチョコをあげるんだ。不幸の手紙みたいなもんだ」

「へんなはなしだぞ、それは。ちょこはおいしーのに、なんですっごくきらいなやつにあげるんだ」

「チョコにはな、血圧をあげる作用があるんだぞ?高血圧に困ってる奴はイチコロなんだ」

「なんだってっ」

「あと、チョコが多すぎると、出血するとも聞くな」

「ちをだしてしんじゃうのかっ」

「ああ。あと、チョコは虫歯の原因だからな」

「そうなのか……でもむしばならたいしたことは……」

「甘いぜ巴。野生動物の中には、虫歯のせいで食欲自体失って、そのまま死んじまうってケースも多いからな」

「そうだったのかっ!うむぅ、ばれんたいんでーとはおそろしいものだったんだな」

 巴が青い顔をして唸るのを見て、俺は己が勝利を確信した。

 と、その時。

「……ぁ……うぅ……ひくっ……」

 嗚咽が聞こえてきたので振り返ると、そこには茫然とした顔で立ちつくす智代の姿があった。その宝石を連想させる青い目からは、滝のように涙が溢れていた。

「と、智代?」

「と……朋也にとって、バレンタインのちょこがそういうものだったなんて……信じてくれ朋也、私にそんな意図はなかったんだ……朋也に血圧高過ぎで死ねとか出血死しろとか虫歯になれだなんて、どうして言える?……でも、毎年贈り続けていたら、そんなこといまさら言っても説得力はないのか……」

「え、いや、そうじゃなくてだな」

 必死で弁解しようとするも、頭のどこかではわかっていた。

「朋也は……朋也は毎年、私から死ね死ねとせっつかれていると思っていたのか……私は……私は」

「待て、智代、話を……」

 そう、わかっていたんだ。もう何を言っても遅いと。

 智代は俯いて呟いていたが、いきなり顔をあげると、神も仏もいないと言わんばかりの声で天に訴えた。

「私は何をしてしまったんだぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああっ」





 光坂市の郊外にある自宅で、坂上雅臣氏は静かに番茶を啜っていた。長閑な日曜日の昼時、彼はよくこうして縁側に座り、平和を満喫していた。

(うむ、平和だ)

 若い頃はあまり表立って言えるような職業についていなかった雅臣氏にとって、平和とはかけがえのないものだった。防弾ガラスや防弾プレートで守られたリムジンや、タマヨケの若い衆、孤児を拾って育て上げたヒットマンが周りにいなくても、安心できる。安らげる。素晴らしい。

「あらあなた、ここにいらしたの」

 するする、と襖が開き、妻の伽羅が顔をのぞかせた。

「天気がいいからな」

「そうですね。いい日和です」

 そう言って、伽羅は雅臣氏の隣に座った。

「そう言えば、明日はバレンタインでしたね」

「そう言えばそうだったな」

 雅臣氏はそう言いながら苦笑した。

「去年みたいなことが起きなければいいのだが」

「私も、あれはもうゴメンです」

 伽羅も苦笑いを返した。

「バレンタインにかこつけて爆弾を送ってくるとは。近所迷惑もいいところだったな」

 さらっと物騒な事を言ってのける雅臣氏。しかし伽羅夫人も、全く動じることなく答えた。

「そうですねぇ。まぁ、差出人の特定が簡単でよかったですけど。おかげで報復の際の犠牲が少なくて済みました」

「当分はファミリーを脅かす者もおらんだろう。そういう意味ではあの時の見せしめ的なヒットの数々も効果的だったというわけだな。まったく、うちのコンシリエーリはやること為すことそつがないな」

「そうですねぇ」

 あたかも高校時代の思い出話をするような口調だが、実際は十五人もの鉄砲玉がコンクリ詰めになったりトランクに詰め込まれて海外に送られたりした挙句に、要人が六名ほどヒットされ、裏社会では名の知られたマフィアのファミリーが一つ潰れた。そしてこれらの一連の事件を、その筋の者は「坂上ファミリー血のバレンタイン事件」と呼んでいる。そんなことを笑いながら語り合えるということは、つまりまぁ、坂上家の裏の日常とは、そういうものだったりする。

「しかしバレンタインと言えば、子供らの事が気にならないか」

「智代さんと鷹文さんですか。まぁ、鷹文さんならもらう側ですし、心配することもないと思いますけど」

「問題は智代か……と言っても、朋也君が相手なら全く心配もないだろうに」

「そういえばそうですね……っと、そういえば巴ちゃんももうそろそろ考え出す時期ではありません事?」

「む……そうかもしれんな。まぁ、大丈夫だろうが」

「と、おっしゃいますと」

「巴ちゃんがよしんば恋心に目覚めたとして、朋也君がそんなことを許すと思うか」

 しばらく婿の孫に対する接し方を思い浮かべて、伽羅は首を振った。

「十割の確率で、許しませんね」

「だろう?それに、巴ちゃんがチョコに対するアドバイスを求めるとすれば智代にだろうが、実はそこにも保険がかかっているのだよ」

「保険ですか」

 詳細を伽羅が訊ねようとした時、不意にF1が走り去るような音とともに、妙に聞きなれた声が聞こえた。

「……のチョコはっ!朋也に嫌われるためにあったのかぁあああああああああああああああっ」

 一瞬でその声はなくなったが、一瞬坂上夫妻は硬直した。と、次の瞬間。

「……れはっ!大好きだぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああっ」

 ドップラー効果とともに、婿の絶叫が響き渡った。それがこだまし、静寂がまた戻った時、雅臣氏は茶を啜って呟いた。

「平和だな」

「そうでしょうとも」





 よくわからんが、気がつけば智代と巴にさっきの話はデマだったと白状させられていた。二人とも息の合った仕草でぷりぷりと「全く仕方がないな」と連呼していた。ここだけの話だが、そんな二人も可愛くて大好きだ。

「というわけで私と巴はこれよりちょこ作りを始める。朋也は悪い子だった罰として、台所に入るのを禁じる」

「きんじるー」

「そんな殺生な。それじゃあ邪魔できな……いえ、何でもありません奥様」

 俺を一睨みで黙らせると、智代は巴と一緒に台所に入っていった。しばらくして、「えいえいおー」という掛け声が聞こえてきた。

「くそっ」

 俺は恨めしげに吐き捨てた。巴が、俺の巴ちゃんが、どっかのファッキン野郎にチョコをあげる、だと。嫌だ、ものすごく嫌だ。

「大体、誰だよ相手はっ!!」

 腹立ち紛れに口にした途端、いろんな顔が頭に浮かんでくる。

 巴の身近にいる男。巴に毒牙をかけられるようなそんな野郎。俺から巴を奪っていくふてぶてしいまざふぁっかー。

 そう言えば一人いた。巴と同じ年頃で、巴とずっと腐れ縁の続いている奴が一人。

「そうか……あいつか。ならば話は早いっ」

 俺はにやりと笑うと、電話の受話器をひったくるように取った。


 

 


 その時、春原陽平は昼寝を思う存分満喫していた。杏が買い物にいっている間、彼の惰眠は誰にも止められず、下手したら彼らの息子である翔にまで眠気は伝播する。そんなシエスタタイムも、いきなりかかって来た電話でぶち壊された。

「ふぇーい、すのはら……あふぅ」

『春原……春原……』

「岡崎?」

 声には覚えがあった。しかし春原は電話の向こうの様子がおかしいことに気付き、一気に覚醒した。何でこの知己はこんなおどろおどろしい声で喋っているのだろうか。何で息遣いがこれほど荒く、まるで飢えた獣のようなのだろうか。そして何で殺気がびりびりと受話器越しに伝わってくるのだろうか。

「ねぇ、岡崎なの?どうかした?」

『どうかしたじゃねぇ。いいか春原、俺とお前じゃ家族ぐるみの付き合いだがな』

 そこで春原は高校時代の友人が息を思い切り吸い込む音を聞いた。

『巴ちゃんをお前のところに嫁に出すのは許さないからなっ!!』

「……はぁ?」

 起きたばっかりということもあって、春原は間の抜けた声を出した。

『巴は嫁にはやらんっ!!やらんからなっ!!翔に伝えておけ』

「…………ええと、ごめん、岡崎。僕には何が何だかさっぱり」

 ツーツーツー

「あんた滅茶苦茶っすよねっ?!!」

 受話器に向かってどなるが、無論後の祭りである。


 

 


 はぁはぁ、と息を整え、俺は考えた。これで候補が一人減ったわけだが、安心はできない。巴のことを好きだと言う奴は、他にもいるに違いない。いや、いなけりゃおかしい。絶対いる。巴の周りにいる奴と言えば、他には……

「そうだっ」

 俺は巴の交友関係について知っていそうな知人の番号をプッシュすると、受話器を耳に当てた。

『おう、もしもし。古河パンの秋生様だ』

「オッサンかっ!ちょうどいい」

『なんだ、小僧かよ。一体どうしたんだ?』

「緊急事態だ。よく話を聞いてくれ」

『ちっ、しょうがねえなぁ。相談に乗ってやろう』

 しぶしぶといった口調だったが、オッサンが仲間になってくれるのは心強い。

「オッサン、とりあえず古河ベイカーズジュニアの男子メンバー、そいつらの名前と住所を全部教えてほしい」

『は?何でまた』

「寝ぼけたこと言うなよ。このままじゃうちの巴が見た目だけはよくても頭の中身がすっかすかなバカにチョコを贈っちまうかもしれないじゃないか」

『へっ、あれにそんなのいるわけねえじゃねえか』

「万が一ってこともあるだろ。つーか人の娘をあれ呼ばわりするな」

『まぁわからんでもないが、心配するな』

「何でだよ」

 妙に自信たっぷりなオッサンの口ぶりに何かが引っかかった。訊いてみると、電話越しにふふんとオッサンの得意げな笑いが。

『ベイカーズジュニア男子諸君には、すでに早苗の特製パンバレンタインスペシャルをお見舞いしたからだっ!!』

「グッジョブオッサン!!」

 思わず古河パンの方向にサムアップしてしまった。

『まぁ、どいつもこいつもウチの汐に物欲しそうな眼をしてたからな。明日ぐらいは全員野球どころじゃないだろうな』

「そんなにすごいのか」

『おうとも。何せ早苗のアイディア暴走150%のシロモンだからよっ!ハードルが高ぇとかそういうレベルじゃ……』

 急にオッサンが沈黙する。受話器に耳を押しあてると、微かに嗚咽のような音が。

 まずい。

 俺は急いで受話器から頭を遠ざけた。まさにその瞬間、それは来た。

『……ハードルがチョモランマだったんですねぇぇえええええええええええええええええええっ』

『俺は大好きだぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっ』

 受話器から音割れした古河夫妻シニアの声が響いた。一応しばらくの間待っていたが、何の返答もなかったので電話を切った。合掌。

 と、その時。

「………………ただいま」

 生気のない声が玄関から聞こえた。

「お、おかえ……」

 息子を出迎えようと玄関に顔を出して、俺は絶句した。

「もえたよ……もえつきた……まっしろに」

 そう笑うと、朋幸はがくっ、と崩れ落ちた。その小さくも雄々しい肩を抱き起こしながら俺は実感した。

 ああ、こいつも古河ベイカーズジュニアの漢だったのだと。





「ともえに、ねー」

 とりあえず布団を敷いて朋幸を寝かせながら、俺は朋幸に事のあらましを話して聞かせた。ちなみに早苗さんのパンで髪の毛が白くなってしまったかと思っていたが、考えてみれば朋幸の色の薄い髪は智代譲りだったりする。

「で、どうなんだ」

「え、なにが」

「そ、その、とととと、ともえ、もえにだ、だな、すす、す、すすすすすすきな、ぃ、ぃ、ぃや、や」

「とーさんなんでそんなにどもってるの」

「……いや、気にするな」

 父さんは「巴」という単語と「好きな奴」という単語がくっつくことすら嫌いなんだ、なんて言ってもわかんないだろうしなぁ。

「最近、巴が変わったところとかあるか」

「うーん」

 パジャマ姿で朋幸が布団の中で腕組みをする。トモトモレディーズとは別の意味で可愛い。

「あ、そういえば」

「そう言えば?」

「きっくのれぱとりーに、よこげりがくわわった」

「そうか……」

 鞭のようにしなる廻し蹴りとは対照的に、横蹴りは体重を一点に集中させ、穴を穿つかのように踵を使って蹴る技だ。言うなれば高速で斬りかかる廻し蹴りが拳法家の裏拳打ちだとすると、横蹴りはボクサーのストレートである。喰らえばとんでもないことになる。そんな技を身につけるとは……巴、将来が楽しみだ。

「っと、将来と言えば、他に最近変わったところと言えば」

「んー。きょーせんせーのとこによくいくかな」

「そーかそーか、やっぱり翔か。よし朋幸、父さんに任せとけ」

「え?しょーはかんけーないよ。だってしょーはぼくとあそぶし」

「え?じゃあ、巴は何で杏のところに……」

 とそこまで言いかけて、俺は思い出した。

「赤ちゃんか」

「そー。きょーせんせーのあかちゃんみに」

 赤ちゃんを見に、と言ってもまだ生まれていない。少し目立ってきたという具合なのだが、巴にとってはそれが驚異の対象になったらしい。しかしまぁ、蹴り技に赤ちゃん。元気なのかお淑やかなのかよくわからん。

「あっ」

 その時、朋幸が素っ頓狂な声をあげた。

「どうしたんだ急に」

「おもいだしたっ!ともえ、このごろよくよしのさんのうたをくちずさむよーになったっ」

「何……芳野さん、だと……」





 自他共に認める愛の男、芳野祐介。

 愛を歌い、愛に生き、愛する者を守るその日々は、いかなる炎よりも熱く燃えているという。そのクールな仕草の裏には、万人が顔を赤らめそっぽを向くような熱いオーラが揺らめいている。

 しかしそんな彼にも、迷いや葛藤がないわけではない。想い人が複数いるわけではない。芳野の情熱は常にたった一人、公子に向けられていた。ただし、その愛の方向にこそ悩みがあったのだ。

 芳野の拳に握られたそれを、人は猫耳と呼ぶ。

 きっかけは古河パンの主に飲みに誘われたことだった。愛への執着に関して言うのなら、古河秋生は岡崎朋也と春原陽平と自分、所謂光坂愛戦士四天王の一角を担うだけのこともあり、話のベクトルは合う。また、野球を通して子供たちに夢と希望を与えているところにも好感を持てた。そして酒の席で話を始めると、これがまた噛み合う。芳野の愛の演説が始まるのにさほど時間はかからなかった。

 しかし普段はスルーされる愛へのあくなき追求も、秋生は受け止めた。そしてその上で、こう告げたのだった。

「…………浅いぜ」

「………………何だと」

「お前の熱意はびんびん感じる。そりゃあやべーくらいにな。しかしよ、ピッチャーは剛速球だけ投げてりゃ最強か」

「む」

「変化球のない球筋や、ボールのないコントロール。それじゃあダメよ。逆にホームランが狙いやすくなっちまう」

「しかし……」

 芳野は拳を握りしめた。

「俺には、あの人を愛する道はこれしか……」

 その時、黒いものがその拳の上に乗せられた。

「これは……」

 猫の耳みたいなアクセサリーが貼りつけられたカチューシャを見て、芳野は困惑した。

「とっておきのもんだ。役に立つと思うぞ」

「……ふん。人のことを浅いと呼んでおいてこれか。見た目で愛情が変わるとは、がっかりしたぞ」

 すると秋生は不敵に笑った。

「甘いぜ。たかが見た目、されど見た目。普段とのギャップに心動かされる、そんな衝動がだな、夫婦の関係を若く潤う秘訣なんだよ」

 孫がいるのにどう見てもその孫の兄妹にしか見えないマジック夫婦の片割れが言うのだから、妙に説得力があった。押しに押され、芳野はその猫耳を受け取ったのだった。

「しかし……」

 それを付けてくれ、と公子に頼むにはさすがに勇気が必要だった。普段は真面目なだけに、こういう時、どう壊れればいいのかわからない芳野だった。

「だが、明日はバレンタイン。言うなれば愛の祭典だ。それならば少しぐらいハメを外しても……」

 芳野が後戻りのできない一線を踏み越えそうになったその時、携帯がけたたましい音で喚いた。

「もしもし、芳野だが……」

『芳野さんっ!見そこなったぜっ!!』

「なっ」

 いきなり飛びこんできた声に、芳野は絶句した。この声は岡崎。四天王のうち『永遠』を手にした岡崎朋也だった。

『芳野さん……あんた、それでよかったのかよっ』

「岡崎……」

『あんたが目指していたのは、もっと別のところじゃなかったのかよっ!!!!』

 そう一喝すると、朋也は電話を切った。芳野はしばらくその場に立ちつくしていたが、その目から不意に透明の涙が流れだした。

「ありがとう……友よ……」

 そっと猫耳を秘密の戸棚にしまうと、芳野は笑った。すがすがしい笑みだった。





「くそっ、芳野さんまで魅かれてしまうとは、うちの娘はどれほど可愛いんだ」

 俺はいらだちを紛らわすように唸った。と、その時、何かが俺の背中を駆け抜けた。

(智代が…………ピンチ、だと)

 所謂トモトモ第六感が嫌な予感をキャッチしていた。俺は台所に足を向け、顔だけのぞかせた。

「……これはなにかちがわないか、かーさん」

 見ると、台所のテーブルに新聞紙を敷いて、その上で巴が茶色い物体をこねまわしていた。

「いや、ここを疎かにするとだな、中に空気が混じって焼きの時に割れてしまったりするんだ」

「……やく、のか?つちくれを、か?」

「焼かないのか?」

「?」

「??」

 巴と智代がお互いを困惑気味に見た。俺も頭がこんがらがって来たので、とりあえず声をかけてみた。

「おーい、何やってんだ二人とも」

「あ、とーさん」

「朋也」

 俺を見て、笑顔を浮かべる二人。ああ、俺、生まれてきてよかった。

「っと、そんな場合じゃない。で、その茶色いのは何だ?チョコか?」

「これか?これはだな、家の前から採掘した、上等な粘土だ」

 胸を張る智代に、俺は首をかしげた。

「チョコを作るんだよな?」

「ちょこを作るのにいい土はかかせないぞ?」

 変な事を聞くんだな、と言わんばかりの表情の智代。

「いやいや、普通はいらないだろ、粘土」

「主成分だぞ?大丈夫か朋也?」

「…………えー?」

「む?」

 おかしい。俺と智代はツーカーの仲なのに、何故か話が全く見えん。

 と、その時。ふと玄関のブザーが鳴った。いそいそと玄関の扉を開けると、そこには

「ごめんくださいまし」

「え、お義母さん?」

「父さんまで……どうしたんだ?」

 どことなくばつの悪そうなお義父さん。そしていつもより少しばかり機嫌の悪そうなお義母さん。そのお義母さんは、腕まくりした智代の腕を見て、視線を土のこびりついた指に逸らすと、ほう、とため息をついた。

「……大方その分では、巴さんに初めての『ちょこ』作りを教えていたんでしょう、智代さん」

「え、あ、ああ、そうだ」

「そして『初めてのちょこ作り』、それを教えたのはお父さん、それに相違ないですね」

「よくわかったな」

 驚いて智代が頷くと、お義母さんはお義父さんをぎろりと睨んだ。

「智代さん、巴さん、お話があります」




 もう二十年ほど前になるだろうか。

 あるところに一人の親馬鹿な父親がいた。その父親は、娘の事が大好きだったが、あまりにも好きだったので、バレンタインデーに娘をかっさらわれるのが怖かった。そこで、せめて初恋だけは実らないよう、娘にいたずらしたのだった。

『智代、そろそろバレンタインデーだな』

『ああっ』

『バレンタインデーと言えばチョコだが、初めてのチョコ作りに関しては知らないだろう』

『……しらない』

『実はだな、女の子の初めてのチョコはだな、食べ物のチョコを贈ってはいけないんだ』

『えええっ』

『送るのはこれ、これを焼き上げなければならない』

 そうして取り出したのは、小さな陶器の器だった。

『……なんだ、これは』

『猪口、だ。女の子の初めてのバレンタインは、これを好きな男性に渡す。これはだな、「あなたの食器を預かりたい」、つまり台所を預かりたい、ひいてはお嫁に行きたいという宣言なんだ』

『よーろっぱのふーしゅーなのにやけににほんてきだな』

『ふふふ、まあ父さんを信じろ。相手がまともに智代の事が好きなら、ノーとは言わないぞ』

『わかった。はつこいのひとができたらおちょこをつくってぷれぜんとする』

『よし、その心意気だ。では、どれ、父さんがどうやって作るのか教えてあげよう』

 こうして坂上雅臣は、娘の初恋成就率を限りなくゼロにするとともに、娘とのスキンシップを補充する時間をちゃっかりゲットしたのだった。ちなみに、坂上智代の初恋の相手は岡崎朋也だった。

 

 



「というわけだったのか」

 俺はネクタイを緩めながら呟いた。隣には、俺の背広をハンガーにかける智代が。

「まったく、父さんも朋也も、私をだまして楽しいのか」

 今までずっと騙されてきたというのがわかって、智代は頬を膨らませた。ちなみにあの後チョコの作り方をお義母さんと智代からみっちり教わった巴ちゃんだった。そんでもってお義父さんはお義母さんに睨まれ智代に叱られ巴に冷たい目で見られていた。そしてなぜか俺もそれに巻き込まれた。

「や、だって、なぁ」

「だって、何なんだ」

「かわいいし」

「ぷん」

 ほめたのに、そっぽを向かれてしまった。むぅ。

「そもそも朋也はチョコレートが嫌いなんだろう?食べたら血圧にも悪いし失血するし虫歯になるんだろう」

「智代の本命チョコなら、そうはならないなっ」

「調子のいいことを言って……」

 そう言いつつ、智代はエプロンのポケットから可愛らしい包装紙に包まれたハート形のものを取り出した。

「ほら、毎年恒例、ともぴょん本命だ」

「いやっほぉおおおうっ!岡崎最高ぅぅうううっ」

 手を伸ばすが、智代はそれをかいくぐってしまう。

「その前に、言い忘れたことはないか、朋也」

「え、あ、ありがとう?」

「……」

「うまそうだな、か?」

「…………」

「智代」

「今度間違えたら、もうやらないからな」

 智代の肩に手を乗せると、俺は耳元で囁いた。

「愛してるぜ」

「……赤点」

「世界中のだれよりも愛してるぜ」

「よろしい」

 ふふ、と笑って智代が包みを俺に手渡した。あ、俺、今死んでもいいかも。

「そう言えば、巴のチョコがあったな」

 前言撤回。巴ちゃんのチョコの受け取り主をぼこらないと死んでも死にきれない。

「見てみるか、朋也」

「ふ、ふん。どこの馬の骨が食うかは知らないけどな。そいつが手にするであろう最後の贈り物ぐらい記憶してやってもいいか」

「しかし最初に断っておくが、手を付けていいのは受取人だけだぞ?サボタージュのために食べたりしたりする不届き者には……」

「不届き者には?」

 すると智代はにこりと笑った。こ、こええ。

「巴、父さんが巴の作ったチョコを見たいそうだぞ」

 智代が呼ぶと、巴は顔を赤くしながら四角い箱を持ってきた。

「は、はずかしいな、これは……」

 そう言って箱を差し出す巴。しかし

「これ、ラッピングされてるぞ」

「ああ、そうだな」

 智代が胸を張って答えた。

「見るにはラッピングを剥がさんといかんのだが」

「ああっ、そうだなっ」

 笑顔で答える智代。対称的に黙りこむ巴。

「……見れないぞ、これ」

 さすがに包装紙をやぶるのは気が引けた。すると、巴が小さくつぶやいた。

「……ぃ」

「え」

「と、とーさんなら、いい、といったんだ……」

「は。何でまた」

「巴、言っておくが父さんは犯罪級に鈍いからな。言ってあげた方が楽になるぞ」

 何だか失礼な事を言われたので、撤回を求めようとした時、巴が少し大きめの声で言った。

「こ、このチョコはとーさんあてだっ」

「……」

「…………」

「………………な」

 次の瞬間俺は空を舞った。

 

「なんだってぇええええええええええええええええええええええええっ」

 

 着地すると、智代がどこからともなく「10.0」と書かれたプラカードを取り出した。いや、今の体操の試合じゃないし。

「い、いやでも、ええええ?巴が、俺を、好きって、ええええ?」

「どーかしたのか、とーさん?むすめがちちおやをすきでだめなのか」

「い、いや、ダメって言っても」

「じゃー、きらいになってほしいのか」

「そういうわけじゃ……あ」

 そこで俺はわかった。子供にとって、好きは好きで、好きの嫌いは反対。つまり嫌いじゃなければ好きなわけで。「とーさんはしょーがないけど、ともえのだいじなとーさんだから」 

 そして巴がずい、とさっきの箱を俺に差し出した。

「とーさんにもらってほしい」

「よかったな、朋也。私が私以外の女性からチョコを贈られるのを何の負の感情もなく受け入れるのは珍しいぞ」

「あ、ああ」

 おずおずとチョコレートの詰まった箱を手にする。ふと、その時巴のはにかんだ顔が視界に入り、次の瞬間、俺は世界に宣言したくなった。

 

 この顔。この表情。このけなげさ。

 

 

 俺の娘が「こんなに可愛いはずがない」とか思った奴、ちょっと前に出ろ。そして括目しろ。


 

 

 

 巴ちゃんは、こんなに以上に可愛いのだっ

 

 

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