この時期になると、どうもやたらと甘い文章ばかり目につく。
「まごころを、君に − 甘いチョコレートのサードインパクト」だの
「冬でもアツアツ!彼氏と出かけるデートスポット」だの
「気になるあの子が喜ぶプレゼントの渡し方全集」だのと。
しかも決まってどこもかしこもラブソングばっかり流すもんだから堪ったものじゃない。これでは色恋沙汰と無縁な方々は生きる価値がないとでもサブリミナル広告を流しているようだ。うちの幼稚園では一応社会的常識として教えるものの、あまり進んで推奨はしない。まぁ、巴ちゃんが小さかった頃は朋也がいろいろと慌てふためいたそうなので元は取れたようなものだけど。
でもね、ほら、あたしだってもう若いギャルって年じゃないし。息子なんてもう高校生だし。年齢言っちゃいけないぐらいだし。
そういう風になると、やっぱりね、ああ、バレンタインデーうぜー、とか思っちゃったりしない?
え?
何よ。
あん?
じゃあ、旦那のこと、好きじゃないのかって?
な、何でそんな話になるのよっ!関係ないじゃないっ
誤魔化すなだって?余計なお世話よっ
え、ええ、そうよ
あたしだって、あたしだってっ
陽平のことは大好きなんだからねっ!!
どう、満足した?認めてやったわよ。負けてやったわよ。いい年したおばさんのクセして恋愛だなんてうわダッサ、とか思って笑えばいいじゃないっ
笑うなぁああああああああああああああああああああああああああああああああああっ
素直になれない大人のマイ・ファニー・バレンタイン
何よ、文句あんの。
言っとくけどね、あんた、陽平がここにいなかったことを神に感謝することね。あいつったら馬鹿でヘタレだけど、あたしにちょっかい出してくる奴がいると「杏に手ぇ出してんじゃねぇぇえっ」って言って殴りこんでくるから。辞書で叩かれたぐらいでグダグダ言わないの。
え、お腹一杯だって?知るかそんなもん。
何よ。
そんなにアツアツなのに何が問題なのか、だって?はぁ、これだから全くわかってないわねぇ。
いい、よく聞きなさい。
ラブラブイチャイチャが許されるのは三十代後半まで。はい、リピートアフターミー。よくできました。
どこぞの女優でもない限りさ、だれが四十過ぎた男女の恋愛に興味があるわけ?だいたいそれだってさ、落ち着いた大人の愛って感じで、いちゃいちゃってわけじゃないじゃない。
見ちゃだめ。
考えちゃだめ。
きっと疲れてるのよ。え、あたし?あたしは聞いてないわよ。風なんて微塵も感じてないし。
だからたった今あんたの傍を「私たちのふれあいは、痛々しいだけのものだったんですねぇえええええええ」「俺は大好きだぁああああああああああああ」とか叫びながら走っていった、孫が現在大学生のパン屋の夫婦を見かけたと、例えばの話よ、見かけたとしても、それはあんたが疲れすぎてるだけなんだからね。アーアーキコエナーイ。
大人の恋愛って言ったら、ほら、黙っていてもお互いの絆が感じられたり、視線だけで思惑が通じたり、そういう渋いものになるわけ。足りない言葉を互いの信頼で庇いきって、知ってるよな、知ってるわよ、そんな雰囲気がいいんじゃないの。ガキンチョは、すっこんでろ。
日頃の「んじゃ、行ってくるね」「はい、おつかれさま」とか「今晩のご飯何」「リクエストあるなら聞くけど」とか「最近翔の成績ってどうなってんの」「まぁ、高校の頃のあんたよりはましよ」「全然安心できないよね、それだけじゃ」「まぁね」とかに含まれてる感情だけで充分なのよね。だからさ、年に一度、あたかも改まった感じで「愛してます」って伝えるのって、ましてやそれをチョコレートで表現するのって、何だかなぁ。
という話を、バ面友(バカの面倒を見てやっている奥さん友)の河南ちゃんに話したところ、意外な答えが返ってきた。
「え?杏ちゃん、バレンタインやんないんだ。へー、意外」
「えー、意外、かなぁ。でも、この年になるとみんなそうなんじゃない」
「そうなんだ……うちはやるけど」
あたしは河南ちゃんをまじまじと凝視した。
「え、うそ」
「……何でそこでそう決めつけられるかな」
「あたし、河南ちゃんだったら鷹文くんに逆にチョコ味のアイスねだるっぽかったから」
「するかっ」
「ですよねー」
「まぁ、したけど」
「え、なにそれひどい」
「半分こするためだったんだからいいじゃん。頭固いと、シワ、増えるよ〜」
「きゃ〜……じゃなくてね」
「だってさ」
そこで河南ちゃんは反則的に、それこそ智代もはっとするほどのクオリティの高い女の子らしい笑みを浮かべた。
「あいつ、あたしがやんないとすっげぇ拗ねるし」
あたしは鷹文くんが拗ねるところを思い浮かべてみた。うーん、何だかイメージが湧いてくるわね。ちょっと不貞腐れて横向いてぷい。
「ホント、困るんだよねー。娘が二人がかりで呼びに行っても部屋から出てこないんだから」
「そこまでっ?!」
ちょっと度を越したイジケっぷりだった。
「しょうがないから急いでチョコ買ってきて、型に流して差し出したらもう大泣きしちゃってさー。いやー、あれは流石に引いたわー」
カラカラと笑う河南ちゃんの前で、私は少しばかりひきつった。
ううむ、おそるべし、愛のパワー。
なぜかドスぐらい背景の向こうで朋也と芳野さんがにやりと勝ち誇るような笑みを浮かべる光景が瞼の裏に浮かんけど、とりあえず無視した。
「あー、でもあたしも今年のはどうしよっかなぁ。型に流し込むだけのって、高校の頃からずっとっぽいしなぁ……でも料理は特にうまくないしなぁ」
「そうねぇ」
と、その時
「いらっしゃいませ……あら」
有紀寧のどことなく嬉しそうな声に、あたしは振り返った。
「ああ、やはりここだったか……む、河南子も一緒か。ちょうどいい」
「あら、智代。どうかしたの」
「おー、先輩じゃん」
智代はいそいそと私たちのテーブルまでたどり着くと、あたしの隣に腰掛けた途端に固まった。
「どっかしたの。何か相談事」
「あ、もしかしてアイツに浮気されたとか」
「してない……はずだ。ん、何か知ってるのか」
さすがにそれは洒落にならない(具体的にいえば光坂が火の七日間と呼ばれる壊滅的破壊活動に襲われるほど智代が暴走する)ので、河南ちゃんは首を左右に勢いよく振った。
「陽平がまた変なことをしでかしたとか」
「してない……と思う。すまない、断言できない」
「ま、でしょうよね」
だがそこがいい、とは口が裂けても言えない本音だったりする。
「じゃー、あれ?ガキンチョたちが反抗期とか」
「いや、そうと気づく前にその時期は去った……しかし自分の甥御姪御をガキンチョはないんじゃないか」
「じゃあ、どうしたのよ」
ツンツン、と頬を突くと、智代は「あう……」と言ったきり、目を伏せた。
「その……だな。あんまり先入観を持たずに聞いてほしいんだ」
「うす。先輩にどんな後暗いことがあろうと、あたしたちはずっと他人のままでいます」
他人なの。親戚じゃないの。ふぅん。
「あんたとあたしの仲じゃない。言ってみ言ってみ」
すると、智代は指をつつき合わせて、もじもじと言った。前言撤回。やっぱ女の子らしさでは智代の方が上手だわ。
「え……えと……バレンタインのチョコの手伝い……というか……選択を……助けてほしいんだ」
『はぁ?』
河南ちゃんと合唱で素っ頓狂な声を上げると、智代はますます縮こまった。
「んじゃ、今日も張り切って行ってくるか」
「ああ、頑張って笑顔で行こう」
「ちなみに智代さん、来週は確かあの日ではありませんか」
「あの日だな、朋也さん」
「えっと、まぁ、いつものあれだが、期待してもよろしいのでしょうか」
「任せておけ、今年はすごいぞ」
「何っ、すごいのかっ」
「ああ、それはもう、期待に期待していてくれっ」
「いやっほぉおおおぅうっ!おっしゃあ、来週まで突撃だぜっ」
何だかすっごく簡単にイメージが頭の中に湧いた。
「でも、約束はしたものの、今までやったことのないチョコというのが思い浮かばないんだ……」
智代がうなだれた。
「まー、あんたらだったら付き合いも長いうえにねぇ」
「温度も濃度も高いもんねぇ」
「いっそのことさぁ、チョコを体に塗ってさ」
「『私ごと食べて』ってっ」
きゃ〜、と河南ちゃんと二人で黄色い声を上げてみせると、智代は俯いたままぽつりと言ったのだった。
「……あれは甘い匂いがずっと付き纏う上に……後片付けが……」
ぁ、と叫んでいる途中であたしたちは固まった。なおさら恐縮する智代。まさか、これをリアルでやってみたなんてね……
「あと、これは殿方がすぐに調子に乗るので、子供が起きている間はできない」
「乗るわよねぇ……男ってデフォルトに馬鹿で変態だし」
「でも、そもそも自分でやりだしたことだから後には引けない、と」
あたしはふと思い浮かべてきた。陽平が調子に乗って、涎と鼻血を垂れ流しながら、溶けたチョコレートの入ったボウルを片手に、うえへうえへと近寄ってくる光景はなかなかに嫌だった。
「あたし、なんであんなん好きになったんだろ」
隣で似たような想像をした河南ちゃんがマジ顔で呟いた。
「とまぁ、いろいろと残念な結果になるので、えっちなアイディアはダメなんだ。そもそも、愛を祝うのだから、えっちな方向に行く必要はないんじゃないか」
「とか言いながら、先輩の場合はぁ、毎年毎年ぃ、そっりゃあもうアツアツなパーティーナイトになるくせにぃ」
「うっ」
「まぁ、バレンタインに限ったこっちゃあ、あ、ないんでしょーけどよー」
「うう……」
「クリスマスはどなたさんかが身篭った聖夜だしぃ、春は散る花がご開帳だしぃ、夏は夜がアツイしぃ、秋は誕生祭だのなんだのでイロイロと忙しいしぃ」
「あうあう……」
「今更ながら清純ぶったって、ネタは上がってるんですぜ、旦那」
ぼんっ、という音と共に、智代の顔が赤く爆発し、白い煙が額から上がった。河南ちゃんはそんな智代を見て、やれやれと肩をすくめてみせた。
「でも、そうねぇ……あたしたちだって、特に良いアイディアがあるわけでもないしねぇ」
「よし、今年はいっそなしってことで」
「そんなことをしてみろ、破滅だぞ破滅」
くわっ、と智代が河南ちゃんに詰め寄った。
「んな大げさな」
「大げさなものかっ!朋也はきっと失意のうちに病にかかり、そしてとうとう起き上がる気力さえ奪われてしまうんだ……子供たちからは笑顔が消え、家には暗い影がいつも落とされ、朋也の咳一つに身をすくめる日々がのしかかる……雨の日、朋也の薬を買いに行くと、道端の人々すべてが私を睨むんだ。『ああ、あれがバレンタインにチョコをやらなかったがために旦那を苦しめている悪女か』と。だけど何も言い返せない。言い返せるわけがないじゃないか、事実なんだから。そんな責め苦に耐え切れず、私は橋の上に靴を揃えて……」
「踊るんすか」
「踊らないっ!!」
さすが河南ちゃん、そんなハルシネーター撃退法があっただなんて。
「まあ、要するに朋也っつーか、男ウケするバレンタインのプレゼントがあげたいわけよね」
「そうだ、流石杏だなっ」
目を輝かせてうなずく智代に苦笑すると、あたしは携帯を取り出すとメールを一通送った。数分後、チャイムと同時に返信が届いた。さっとそれを読むと、あたしはにんまりと笑みを浮かべて立ち上がった。
「さてと。思い立ったが吉日、善は急げ。行きましょうか智さん河南さん」
「おおっ!アイディアが浮かんだのかっ」
「さすが恋愛の百戦錬磨の杏ちゃんっ!男心なんてお手のものですなぁ」
「え、そんなん知らないわよ」
サラっと言うと、河南ちゃんも智代も困惑した顔であたしを見た。
「だけど、さっき……」
「ばっかねぇ、そもそもあたしが恋愛の百戦錬磨なわけないじゃん」
叶うはずのないことで知られる初恋をノーカウントとすれば、あたしは次の一球目でホームランをかましたのだから、恋愛の酸いも甘いも知っていると言い切るにはちと経験不足だと自覚している。
だけど、陽平と一緒だったからにはいろいろとわかることもあり、そのひとつが
「自分で解決できない問題は他人を使えばいいのよ」
あん?ひどいって?ご冗談。
あたしが言って、陽平がやる。これこそ夫婦の共同作業じゃない。
「おっかしぃわねぇ」
あたしは携帯のメール受信箱を確認しながら首をひねった。
「待ち合わせ場所はここで間違いないのか」
智代が辺りをきょろきょろ見回しながら言った。
「間違いないわよ。光坂商店街西口に二時って」
「で、助っ人って誰なわけ」
河南ちゃんが頭の後ろで腕を組んで訊いた。
「ふっふーん、すごいわよ。恋する男子、しかもお菓子とかそういうのに詳しくて、出番も少ないから断らないあの人と言えば」
古河悠馬。古河家の婿で、汐ちゃんのお父さん。名前は聞いたことがあるかもしれないけど実際に会ったことはまだないという人が多数の、はぐれメタル何ちゃらみたいな人だ。
「まぁ、本人が来ればの話だけどね」
「ま、まぁね」
痛いとこつくなぁ、河南ちゃん。
とはいえ、本当のことなんだからしょうがない。河南ちゃんは結構破天荒に見えて、実は時々智代よりもポイントを掴んでたりするから助かる。
と、その時
「あいやお待ちっ!そこの嬢ちゃん方、困ってるようじゃねえか」
声のしたほうを向くと、そこには咥えタバコにラフなセーター姿の年齢不詳な怪しい男。
「……秋生さんか」
智代が首をかしげる。まぁ、確かにそこで仁王立ちしているのは古河秋生氏通称アッキーなのだけれど。いたずらっ子が大音声で見栄を切っての登場では不信感も募るというものだ。
「おう、毎度おなじみ、スーパーグレートウルトラハイパーパン屋、アッキーの登場だ」
「うっわ、中二病丸出し……」
河南ちゃんが容赦ないツッコミを入れるが、そんなことで怯む秋生さんじゃなかった。
「で、秋生さんが何でここに?っていうか、悠馬さん知らない」
「あ、ああ。悠馬か……」
秋生さんは不意に遠い目をして腕を組み、切なげにタバコの煙をくゆらせた。
「悠馬は……永遠の愛ってものを探しに……人生の宝物を探しに行っちまった」
「む?しかしそれは特に探さなくてもすぐ傍にあるものなのではないか」
「願いの叶う場所ってやつをだな、探しに行くとか言って戻ってこねえんだよ」
「それって確か古河パンの前の公園か、光坂病院のあるところだよね」
「千年の呪いがどーとかこーとか」
「ゴールしたら、戻ってくるのかしらね……」
「俺の最後のお願いは、あいつのこと忘れてくれってことなんだ」
「その願いはダメだ。聞けない」
「それでいいの?人として、義父として」
「アッキーって子供だよね」
煙草を咥えたままうぐぅ、と呻く秋生さんはあまり可愛くなかった。
多分、僕はそれを見てはいけなかったのでしょう。
しかし信じてください、僕に悪意はなかったのです。
僕はその日、偶然帰省していたのです。街はところどころ変わってしまったものの、まだ昔の面影が残っていたのが嬉しかったのを覚えています。
久しぶりに辺りを散策したあと、僕はふと、子供の頃からよく遊びに行っていたお隣に顔を出そうと思い立ったのです。
「コンニチハ。オジャマシマス」
店に顔を出すと、そこには誰もおりませんでした。ただし、お隣はとても特殊な家で、時たま元祖店主夫婦が飛び出して行ってしまったりすることもあったので、僕はその時も特にどうとも思いませんでした。
ガランとした店で待っているのも、まぁありかな、とその時は呑気に考えておりました。
本当に静かな休日の午後でした。あまりにも静かなので、奥の部屋から聞こえるくぐもった声やら物音やらも筒抜けでした。
ええ。くぐもった声と、物音です。
繰り返します。多分、僕はそれを見てはいけなかったのでしょう。
しかし、何だろうと鎌首をもたげる好奇心に歯向かうことが、僕には出来なかったのです。今となっては言い訳にしか聞こえないのでしょうが、その時僕は、この家に入った泥棒だったらどうしようかとも案じていたのです。
「オジャマシマス」
誰にともなしにそうつぶやくと、僕は店の奥へと足を踏み入れ、そして立ち尽くしてしまったのです。
あれが悪い夢だったらどんなにいいだろうか。
その人は、僕の幼馴染の父親でした。あまり滅多に会う機会はなかったのだけれども、見間違うはずがありませんでした。
たとえ、その人が荒縄でぐるぐるに縛られて芋虫状態にされていようと。たとえ、その人の口に猿轡が噛ませてあっても。
その人は、僕を見ると必死の形相で何か呻きながら体をくねらせて僕に近づいてきました。
「ンァアアアアアッ!!ンガァアアアアアアアアアアアア!!」
僕はその時、理性に従って縄を解いて猿轡を外してあげればよかったのです。
しかし、僕は、僕の理性は
とてもではありませんが、その悍ましい光景を見て、逃げたいという野生を押さえつけていられるほど強くはなかったのです。
「ウワァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
僕は走りました。肺が干からびるかと思うくらい息が苦しくなっても、走り続けました。
足が縺れ、前に崩れ落ちても、額を流れる血を拭う間もなく腕のみで逃げました。
腕が悲鳴を上げ、匍匐前進に体がついていけなくなった時、僕はようやく逃げるのをやめました。
僕は茜色の空を見上げながら考えました。
あの光景は何だったのでしょうか。
僕の幼馴染の父親は、なぜ無慈悲な扱いを受けなければならなかったのでしょうか。
いったい誰があんなことをしたのでしょうか。
僕の記憶が確かであることを前提とするならば、隣の家はいつも和やかな雰囲気の漂う家庭でした。活気に溢れつつも、どことなく温かい感じがする、遊びに行くととても心地よく感じてしまう家族でした。
しかし、僕は見てしまったのです。時を経て変容してしまった家庭の実態を。
多分、僕はそれを見てはいけなかったのでしょう。
しかし信じてください、僕に悪意はなかったのです。僕は知らなかったのですから。僕がよく知っていたと信じていたあの家族に、あんな暗い一面があったとは。
悲しくはありました。
虚しくも感じました。
しかし僕の心を掴んで離さないのは、恐怖でした。一見普通、または平均以上に親密な親子が、笑顔の裏で虐待の限りに励んでいたという、どす黒い恐怖でした。
(注:このあと磯貝ジュニアは汐の長期にわたる適切な心療ケアのおかげで人間不信に陥ることは免れました)
「だって汐が俺に本命チョコくれないんだよぉおおおおおおおおおおお」
とりあえず入った喫茶店の中で、秋生さんは慟哭した。
「だからって……婿をふん縛って店番抜け出すのってどうなのかしら」
「そもそも、汐が秋生さんに本命チョコをあげなくなったことが、どうして悠馬さんの責任になるんだ」
「悠馬のしつけが悪い。悠馬が汐に『アッキー最高、超かっこいいですっ!他の馬の骨なんかと比べるのも不遜ですっ』とちゃんと教育していたらだなぁ、今頃は早苗・渚・汐の俺様得ハーレムが出来上がっていたんだ」
うんうん、と頷く秋生さんに、智代が脱力っぷりを見事表わした溜息をついた。
「で、嬢ちゃん方はあれか、旦那に気に入られるバレンタインのチョコのアイディアのことだっけな」
「あ、そうそう」
「忘れてた」
あたしと河南ちゃんはてへ、と笑ってぽかりと自分の頭を殴るだけで済む。しかしこちらのこの子は……
「忘れていた……愛する朋也のためのことだったのに、すっかり忘れてしまっていた……ああ、私はなんて浅はかなのだろうか。友人の家庭の事情にのめり込み、挙句の果てに当初の目的を忘れていたとはな……私は妻失格、ひいては母失格だ……朋也、朋幸、巴、こんなダメな私を許してくれ……」
「許すも何もっ!俺はっ!大好きだぁああああああああああああああああっ」
「あっ、岡崎部長、何走り出してるんすかっ!!」
「休日出勤なんざ、やってられるかぁあああっ!俺ははにぃのところへ行くっ」
「暴走してやがる……ラブラブ期間が長すぎたんだ……新入りどもっ!スクラムを組んで岡崎部長を止めろっ」
「え、いや、別にいいけど」
「は?朋幸、お前どうしたの」
「え、今俺何か言ったか」
「判決は無論無罪だ」
「……巴お姉さま、一体何の話をしてるんですか」
なぜか急に元気になった智代は少し横に置いておいて、あたしと河南ちゃんはささっと事情を秋生さんに話した。
「なるほどな……しかし杏先生、そいつは人選を間違えたな」
「え」
不敵に笑う秋生さんに、あたしは怪訝そうな顔をした。
「確かに男心をわかることができるのは男だ。だけどな、男だからってどんな奴でもいいわけじゃないだろ。あんたらの旦那は、どこの馬の骨の魂を使っても揺さぶられるほどのチンケな連中なのかよ」
そこまで言われるとカチンと来る。
「違うわよ」
「違う」
「違うっぽいね」
何よ。
ええそうよ、即答よ、陽平をチンケな奴と括られて黙ってられなかったのよ、誰よりも早く否定したかったのよ、滑稽よね、ツンデレキャラ失格よね、笑えばいいじゃない、笑いなさいよっ!
あ、でも純真な女の子のハートを笑ったりしたら殺すから。
ちなみに答えてから何なのだけれど、秋生さん、たった今義理の息子のことを馬の骨扱いした?
「だろ。だから、ここは一つ、侠気溢れる秋生様に任せなってもんよ」
かんらからからと笑う秋生さんに、あたしはそっと耳打ちした。
「本音は」
「悠馬に出番なんざくれてやるもんかよ」
「渚に怒られるわよ〜」
「何っ!それはYABAIZE」
侠気溢れると言いつつもそんなびっくりした仕草を見せたりと、男って面倒くさいんだなぁとクスクス笑いながら思った。
「でさぁ」
河南ちゃんが些かつまらなそうな口調で秋生さんに聞いた。当の本人は黙って専門店の商品を物色しているので、聞こえているのかは疑問だったけど。
「バレンタインってさあ、チョコをあげるのが定番っしょー」
「まあ、そうよね」
「チョコレート系のお菓子が一般的だ」
「だったらさあ」
河南ちゃんが唇を尖らせた。
「何であの人、チョコレートじゃなくてナッツを物色してるわけ」
河南ちゃんのぼやきは、それでも無視された。
「つーか、ナッツならどこででも売ってるし。適当に選んじゃえばいいんじゃない」
そう言って河南ちゃんがプラスチックパックに入ったナッツを手にした時
「いいや、良くない」
秋生さんが短く断言した。
「なぁ、嬢ちゃんよぉ。あんた、確か、凝った料理は苦手なんだったよな」
「え、あ、まぁ」
ちなみにあたしたちは最初に料理の腕のレベルを秋生さんに教えていた。いくら男心をくすぐるようなものでも、作れないのではしょうがないし、でもその存在を知った後では作れないのが悔しいしで、そこらへんは秋生さんにコーディネートを任せていた。
「だからまぁ、既製品とまではいかなくとも、湯煎したチョコを型に流し込むという具合のチョコを狙いたいわけだったっけな」
「そうそう」
「そんな楽にできるものなら、特に感動できるような物は作れねぇ」
ばっさりと斬るように秋生さんが言ったので、一瞬あたしたちは沈黙した。
「……なんてことはねぇ。一捻り加えれば、作り方を聞けば簡単すぎて呆れるようなものでも、がっしり野郎のハートを掴んで灼熱炎上させることは充分可能だ。ただし」
そこで秋生さんは一旦言葉を切り、煙草を肺一杯に吸って静かに吐いた。
「料理の方で楽をするんだったら、材料選びで手を抜いちまったら、ダメなんだ」
秋生さんはあたしたちの方を振り返らずに、そのまま続けた。
「そもそもな、バレンタインデーのチョコなんざ特別なもんじゃねぇ。客観的に見ればチョコである限りは、駄菓子屋で買って原っぱで野球の合間に食べるもんや、休み時間に教室でぽりぽり食べるもん、極論泣いてるいじめられっ子から奪って食うもんと変わりゃしねぇ。だけど二月十四日に野郎に届けるチョコが特別なのは、そんな成分だの何だのの話じゃない。そのチョコに込められた想いの話だろ」
「あ、ああ。そうだ。その通りだ」
こくこくと智代が頷いた。
「想いがあればこそ、形が歪であっても男は既製品を放り捨てて手作りのチョコに飛びつく。だろ」
「そうよね」
すると、秋生さんはしばらくの間ナッツの物色に専念したかのように黙りこんだ。あたしたちがそろそろ黙って待つのも気まずいなぁという風に顔を合わせていると
「おざなりの材料を使って楽な手法で作ったチョコに、どんな想いが込められてるんだよ」
秋生さんはそのまま立ち上がって密閉されたナッツの缶をあたしたちに見せた。
「嬢ちゃん、あんたが旦那を半端な気持ちで思ってるなんて俺ぁ考えていねぇ。そんなんだったら、そもそもチョコを作る悩みなんざねぇよ。コンビニ行って買ってくるか、まぁ、忘れちまったとかとぼけたことを言うことだってできるからな。だけどあんた、今何やってんだ。遊んで過ごせる休日を、野郎のために費やしてる。コンビニ行って二百円のチョコ買って渡すだけに比べると、とんでもねぇ出費だ」
そして秋生さんは、今までの厳しい口調を吹き飛ばすようににやりと笑った。
「だったらせっかくなんだから、最後までこだわって見せろや。あと一歩なんだからよ」
すると、河南ちゃんは小さく笑った。
「うん。そうだね……ここまできて手を抜いたら、もったいないか」
「アレルギー反応がない限り、ナッツはチョコレートの親友だ。一番手っ取り早いのがナッツ、特にブラジリアンナッツを炙ってチョコレートの上にそのまま乗せるってのがある。他にも細かく砕いて混ぜて型に流し込めばアクセントの利いたのができる。まぁ、発展形としてナッツを溶けたキャラメルと混ぜてチョコで固めるってのがあるけど、今はさっき言った二つが作る上では簡単だな」
「……」
「それで必要なのが旨いナッツだ。けどナッツの旨味ってのは、空気に触れているとどんどん逃げちまうんだな。だからむき身をそのまま入れたプラスチックの袋ってのは、ちょいといただけない。最高なのは殻に入ったままの奴を使う直前に剥くわけだが、それじゃあ料理に手間をかけないっていう前提が成り立たねぇ。だからまぁ、次点にあるのが缶詰にして密閉したナッツ、ってわけだ」
「なるほど、奥が深いな」
「だから真剣にチェックしてたんだ」
「おうよ、さてと、今度は本命のチョコを選びに行くわけだが」
「えっとさぁ」
秋生さんが歩き出した時、河南ちゃんが呼び止めた。
「さっきのキャラメルと混ぜるチョコのあれ。作り方、教えてくんないかな」
その時、秋生さんの顔に笑みが浮かんだのを、あたしは見逃さなかった。
「嬢ちゃん、あれぁ手間がかかるぜ」
「でも、特別難しいわけじゃないんでしょ」
「まぁな。手間はかかるが、難しいわけじゃない」
「だったら、やってみる。上手くいかなくてもやってみる。もう一歩、頑張ってみるよ」
そう言って笑う河南ちゃんが、何だかとてもかわいらしく見えた。
光坂市が大きくなったのは、自分でも知っているつもりだった。
病院ができて、スーパーが建って、大手デパートの進出も最近実現した。
だから、あたしがよく知らないところがあっても、そう驚くべきことではない。それは理解していたつもりだったのだけれども
「まさかこんな世界が広がってたなんてねぇ」
あたしは辺りを見回しながら言った。狭く仄暗い道の両脇には、様々な言語で書かれた看板が並んでいた。
「ここは知る奴ぞ知るこだわり食材店通りなんだ。あそこで看板出してる劉大人の店でないと光坂では本場の中華の味が出せねぇし、あそこのジテンドラの店のスパイス棚は壮観だぜ。っと」
急に秋生さんが「ウェズリントンズ」という名前の店に入って華奢そうに見えるティーセットが飾ってあるケースの後ろに隠れた。どうしたのかと考えていると
「あら、みなさん。こんなところで会うなんて珍しいです」
振り返ると、そこだけが明るくなったかのような錯覚を覚えるような笑みを浮かべた早苗さんが立っていた。ちなみにいつも思うのだが、この人ほど笑っている顔が似合う人も少ない。
「早苗さん、早苗さんも食材を求めてなのか」
「ええ。時々ここに来ると、ふっとアイディアが浮かんできたりします」
「……そうなのか」
「はいっ!今日も、素晴らしい材料が手に入ったので、新作に取り組みたいと思いますっ」
そう言って誇らしげに掲げた白い袋(中身は見えなかった)は、明らかに生物が中でジタバタジタバタもがいているような動き方をしていた。磯貝家……合掌。
「では、これで」
そう言って軽快に歩き出す早苗さんを、あたしたちは無言で見送った。
「Mrs古河の購入する個性的な食材で何ができるのか、さて、楽しみやら恐ろしいやら」
不意に「ウェズリントンズ」の店主であろう初老の男性が店の奥からやってきて呟いた。
「知らねぇほうがいい。少なくともお前の食器に合うような代物じゃねぇよ」
「そうか……まぁ、それも面白いが……アキオ、ジョージアン・ティーセットが手に入ったんだが、どうだね」
「いや、今はいい。汐が婿をとるようなことになったら、その時は頼まぁ」
「嫁には出さないのかね」
「バカ言え。汐に娘ができたらだな、これで俺のハーレムも拡大ってわけよ」
「……そうか。ま、頑張るんだな」
そう言って「ウェズリントンズ」の店主は生暖かい目で秋生さんを見た。
「さてと、チョコだったな。となると……おい、ジェレミー。ジャンピエールはいるか」
「ふむ……いるのだろうがな。個人的な悪意はないが、フランス系の者とはどうも話が合わなくてね。挨拶はしていない」
「そうか。よし、邪魔したな」
そう言うと、秋生さんは店を出てどんどん道の奥へと進んでいった。
「ジャンピエールの店は、まぁチョコレート専門店と言えば聞こえがいいが、ありゃむしろチョコマニアの巣だな。世界中のカカオを使ったいろんなチョコがある。下手に手を出すと、バレンタインが台無しになる」
「だけど、掘り出し物見つけりゃ……」
河南ちゃんが言うと、秋生さんはそのとおり、と言わんばかりににやりと笑った。
「そういうこった。うまい話にァ、リスクが付くもんだ……っと、着いたぜ」
外見は特に変わった風には見えなかった。モルタルの壁に、ガラスの引き戸。看板は意図的なのか少し微妙な角度で曲がっていたけど、「Le Chateau du Chocolat」の文字ははっきり見えた。
「おーい、ジャンピエール。鯖琵琶か」
秋生さんが扉を開けながら大声で言った。扉を開けたとたん、甘い匂いが逃げ出す道を見つけたかのようにぶつかってきた。店内からはフランス語であろう静かなバラードが流れていた。
「それを言うのなら、Ca va bienだろう、アキオ。おかげさまで、やってられとる」
呆れながら店の奥から出てきたのは、でっぷり太ってカイゼルひげを生やした中年の男性だった。こう言っちゃなんだけど、ものすごく怪しかった。
「おお、今日は何と素晴らしい。アキオ、君は私の店に天使を三人も連れてきてくれたのか……Mon dieu!」
「悪いが三人とも家で愛しの旦那が待ってる」
嬉々としていた店主が、あからさまに落胆した。
「おお、嘆かわしい、恨めしい。アキオ、君は私に人生の苦さや辛さを再確認させに来たのかい?何とも悪質な奴だな……Mon dieu」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。客だよ客」
「今日はもう店じまいだ。アキオ、こんな残酷な世界、あっていいはずがない。君にこんな仕打ちをされるくらいなら、隣の味のわからん奴と一緒にソーセージを売っていたほうがましだ」
「やい、聞き捨てならないな、ジャンピエール」
不意にずいと店に入ってきたのは、筋骨隆々とした金髪の男だった。
「ハンス、君がこの店に来るとチョコレートの香りが損なわれるから遠慮してくれと何度も……」
「ふざけるなこの甘ったれめ。ドイツのソーセージ文化がわからん奴に、味のどうのこうのと言われる筋合いはない」
「まったく……君といいジェレミーといい、なんで私の店の近くには欧州でも味覚音痴で有名な人種ばかり集まってくるのか、嘆かわしいばかりだ。君も食品を扱うのをやめて、食器に手を出したらどうかね」
「冗句ならもう少しマシなものを言いたまえ。英国人の味覚を疑うのは、女王陛下の食事を侮辱するにも等しい行為だ。撤回してもらおう」
そう言って入ってきたのは、「ウェズリントンズ」の店主だった。
「ジャンピエール、前から思っていたんだけどな、大の男が甘っちょろい菓子だなんて、恥ずかしくないのか。男なら男らしく、肉を売るべきだ」
「Imbecile・・・…これだからチョコレートの繊細な味がわからない奴は……悪いことは言わないよハンス。君の育ったブレーメンにも、いい食器ぐらいはあるだろう。人は魚の揚げ方や肉を塊で焼く方法しか知らなくても食っていけると、ジェレミーが証明してるじゃないか」
「ジャンピエール、君のその偏見に満ちた目は、いつ医者に診てもらえるんだろうか。矯正が必要だ。近頃はレーシック手術などもあるから試してみるがいい。そもそも、味に鈍感ではそれを盛るに適した食器などわかるものかね。チョコレートと銃ぐらいしか輸出品のない国の者や腸詰とキャベツの酢漬けしか知らない田舎者と違って我々英国人は七つの海の極上のスパイスを使ったカレーを味わえるのだがね」
「ちょっと、ミスターウェズリントン、さっきから聞いていたのだけれどもね、英国人のボンボンにカレーの何がわかるって言いますかね。七つの海がどうのこうのと言うのなら、そもそもスパイスに聡いインド人に意見を聞くのが筋ですね」
乱入してきたのは、おそらくさっき秋生さんが話していたジテンドラだろう。やれやれ、めんどくさいことになってきたわね、と思っていると
「ちょっと待てジテンドラ。スパイスに聡いだぁ?いつからお前がスパイスに聡くなった」
「アフメッドは黙らっしゃい」
「おっと、君たち。個々の文化に止まってさもしい論争を繰り広げるより、アメリカみたいに全てを抱擁してみてはどうだね」
「抱擁した結果がピザとハンバーガーなお前さんの出る幕じゃない、ボブ」
どんどんオラが食文化弁論大会が白熱していく中、秋生さんがぼそっと呟いた。
「ま、世界中の奴が集まってんだから、こういうことがあってもおかしくないな」
ジャンピエール・ロンベール。
来日十年以上と、光坂市近辺一のチョコレートの目利きを誇るフランs
「失礼な間違いをする前に言わせてもらおう、マダム。私はフランス人ではなくベルギー人だ」
……もとい、ベルギー人である。
「フランス人は自分たちの食文化こそが世界の中心だと誤認している嫌いがあるがね、私はそう言うエゴイズムがフランス人ほど嫌いなのだよ」
……先ほどの喧嘩を見ていると、何だかコメントに困るわねぇ。
「それはそうと、アキオ、この地上まで降りてきた天使たちに私は一体何ができるだろうか」
「おいおい、おおげさだな。だいたい、『地上に降りた』たあどういうこった」
「Oh, c'est tres simple。未婚なら天上に座する天使、結婚してしまったのなら地に舞い降りた天使だ」
何だかこの人が秋生さんと仲がいいのがわかったような気がした。おそらく朋也や芳野さんともうまくやれるんだろうな。
「えっと、その、私たちはバレンタインのチョコを」
「Oh!私に受け取って欲しいということかね」
「いや、作る手伝いをしてほしい」
智代が素のまま返すと、ムッシュウロンベールはあからさまにがっかりした。
「本来なら貴女のような連れ合いのいる男をこれ以上幸福にするのは私のポリシーに反するのだが、貴女の頼みを断る心はこの血肉の中にはないようだ。では、どのようなショコラを作るつもりかね」
「……ふむ」
智代はそこで言い留まった。そもそも、これが最初の悩みなんだから簡単に答えが出るわけがない。
「わかった。では、そこの活発なマダム。貴女の望むショコラは如何なるものか」
「え、あ、あたしは」
「こっちの嬢ちゃんは初心者だ。俺とこの後特訓でな。キャラメルナッツチョコに挑戦する」
ほう、とムッシュウロンベールは嬉しそうな顔をした。
「ラ・ショコラ・デュ・ノワス・エ・キャラメル!おお、あの滑らかな夕焼け色のキャラメルと、白亜のような色と食感の刻みナッツ、そしてそれを包み込む甘いショコラのコンビネーションと言ったら!素朴ながらも極上の味は、まるで蒸気機関車の窓から見る田舎の緑!すばらしいチョイスだ」
そうまくしたてると、ムッシュウロンベールはちょこちょこと(洒落じゃないからね)店の中を歩き、「Equador」と戸棚から板チョコを二枚取り出した。
「エクアドールのアリバカカオを使った板チョコだ。最初は甘いが、食べ終わる頃には苦味が少し残る。そう、このショコラは、過ぎ去ったあの頃の味がするショコラ。キャラメルとナッツのコンビネーションは甘いショコラも苦いショコラも合うからには、二つとも味わってもらってこそレディーの恋愛」
「あ……ありがとう」
いちいち大げさな身振りもつく説明に気圧されながらも、河南ちゃんは礼を言った。
「そちらのマダムも、店の中を見て回ってもらってかまわない。目を引くものがあれば言ってくれたまえ。もしかすると素晴らしい出会いに恵まれるかもしれない」
「では、そうさせてもらおう」
智代はそう笑って会釈すると、戸棚を回ってみた。
「おお美しい……あの方の伴侶が羨ましい。王か諸侯か、それとも大富豪か……いや、考えても詮無いことだ」
言えない。元不良後電気工のサラリーマンだとは、口が裂けても言えない。
「では、こちらのマダム……ふむ、こちらのマダムはシックでハイカラ、しかしエレガント……見立てが難しい」
「あら、随分な言い様ね」
「誤解されては困る。ハイスペックなので貴女に見合うショコラが思い浮かばない……時にマダム、貴女はどういうショコラを考えているのかね」
さらりと聞かれて、あたしも唸った。ナッツ、は使いたくない。ボンボン、もあたしも陽平も特に好きってわけじゃない。でもプレーンも少し在り来りすぎるかもしれない。
「……トリュフ、かな」
ふと、単語が唇から滑り落ちた。何となくだけど、陽平が好きそうであたしらしい気がした。するとムッシュウロンベールも満足そうに頷いた。
「Bien。確かに貴女に似合いそうなチョイスだ。で、甘めに仕立てるかね、それとも苦目にするかね」
これもまた考えてみると悩むチョイスだった。普通愛情表現をするのに苦い味を選ぶのはためらわれる。むしろ、甘いもので「これがあたしのキ・モ・チ」とアピールするのが上策。だけど
「外側は甘く、でも、中は苦く。そんなのできないかしら」
だってほら、あいつ、少し苦いの好きだし。
「Tres bien。私がこれしかないと思った通りのコンビネーションを口にするとは、やはり貴女とはセンスが合いそうだ」
「あら光栄」
「さて、その要望を満たすには二種類のショコラが必要になる。ふむ……」
ムッシュウロンベールはしばらくの間口髭をいじった後、徐に店の一角まで歩いて引き出しを開いた。
「外は甘く、ということだが、甘ければいいわけではない。特に英国のキャドバリーなどは名前は知られているが、甘味に対する洗練感がない。いわば工場の茶休みに出る砂糖三杯入りの安い紅茶のような甘さだ。欧州のショコラは、遺憾ながら似たりよったりのものばかりだ。まぁ、ベルギーは別に論議するとして、ここで必要なのは甘さを少し控えた上品な味。正にショコラの貴族の味が欲しい。それを出せるのは実はショコラ・ハポネなのだよ」
そう言って取り出したのは、大時代な文字で「チョコレイト・大正陸拾壱號」とプリントされた板チョコだった。
「明治に導入されたショコラを更に洗練させつつも、あのハイカラな味を求めた情熱を失っていないショコラだ。これを食べた時、私は日本人として生まれなかったことに泣いた」
その時のことを思い出したのか、ムッシュウロンベールは遠い目をした後、別の一角に移った。
「苦いといっても外の甘味を切り崩しすぎるのも困ったものだ。仄かに甘く、仄かに苦く、そんな神の天秤にかかったショコラを見つけるのには時間がかかった。しかし、それを初めて口にした時、私は一気に潔くも切ない白黒映画の主人公になったのだよ」
差し出されたチョコレートは、大正陸拾壱號よりも一回り大きいもので、黒地に白く「Ma Cherie」と書かれていた。
「まぁ、無論このような素晴らしいショコラを作り得るのは、世界広しといえどもベルギーぐらいだがね。それにしてもこれは素晴らしい。しかしこのような苦味と甘味の絶妙なバランスを活かせる者はそう多くはいない。果たして貴女に託してよいものか……」
ちらりとムッシュウロンベールはあたしを流し目で見た。
「挑発してるんだったら、相手をよく見ることねムッシュウ。たかがチョコに負けるくらい、あたしと陽平の絆は脆く
はないわ。例えどんなに素晴らしい物でも、あたしは陽平のためならモノにしてみせる」
「その心意気やよし。貴女のショコラを食べられないのは残念だが、幸運を祈る」
にやりと笑いながら差し出された手を、あたしは負けじと笑いながら握った。
「さて、では最後のマダムのショコラだが……おや、何か見つけたかね」
ムッシュウロンベールは片眉を上げて智代を見た。その手には、一枚の板チョコが。
「ああ……見つけた。やっと、見つけた」
手にしたチョコの柄を見て、ムッシュウロンベールの表情が陰る。
「そのシリーズなら、もっと洗練された味のものがある。マダム、私のお薦めはこちらの棚のものだが」
「すまない。ムッシュウロンベールの薦めるものなら、私なんかが見つけたものよりも素晴らしいであろうことは疑問の余地がない。だけど、それでも私はこれを使って、ザッハトルテに挑戦したい」
先ほどの悩ましげな表情とは打って変わった毅然とした態度に、あたしたちは顔を合わせた。
「おいおいともぴょん、何だって急にザッハトルテにしたんだ?そいつぁチョコじゃなくてチョコレートケーキじゃねぇか」
「それは私も聞きたい、マダム。今の貴女は、先ほどの迷い暮れていた悲哀の美女とは別人のようだ。道を見つけた者の光が感じられる。しかし、そのショコラがザッハトルテの材料として至高かと言われると、首をかしげざるを得ない」
ムッシュウロンベールがずい、と一歩前に出た。しかしその表情は困惑や怒りなどによって歪められているわけではなく、むしろ神秘的な何かに惹かれているようだった。
「ザッハトルテはチョコレートケーキの王者と呼ばれている。その気高い光沢に洗練されたチョコレートの味、杏の甘酸っぱさ、そして純白の生クリームのコンビネーションは、筆舌しがたい。しがたいが故に完璧に仕上げるのが困難だ。暗君を作るか、名君を作るか、それが問われる。チョコレートを見れば、杏と味のしない生クリームに負けずしかし殺さず、正に民に法を敷く王者の資質が必要なのだ」
「い、いや、そんな大層な話ではないんだ。ただ」
智代はしばらく俯いて視線をそらした。次に「私は女の子らしくないのか」とか言ったらイジメたろと思うくらい女の子らしかった。
「ずっと昔に、朋也のために作ろうとしたことがあるんだ、このチョコレートを使って。何かのファッション誌で見たんだろうな、そして私は出来ると自分の腕を過信したんだ。結果は、まぁ、残念なものだったけどな」
くすりと笑う智代。
「だけど、朋也はそれでもそれを美味しいと言ってくれたんだ。私自身食べられたものじゃないとわかっているのに、そう言ってくれたんだ。だから、私は少し意地になって言った。『もっと美味しくできる、もっと美味しいものを作ってみせる』とな」
はぁ、と秋生さんがため息をついた。その顔には、男臭い笑顔が。
「この店に来て、そしてこのチョコレートを見て、ようやく思い出したんだ。僥倖、と言うべきことなんだと、私は思う。だから、チョイスが間違っているとわかっていても、私はこのチョコレートを使って、もう一度だけ挑んでみたい」
しん、と静まり返った店内で、BGMだけが優しく流れた。
「す、すまない。変な話をしてしまったな」
「やー、先輩らしいっすね。やっぱ先輩たちはそうでなくっちゃ」
河南ちゃんの言葉に、あたしも頷いた。
「よかったじゃないの、そんな大事なことを思い出せて。まぁ、あのバカも忘れてるとは思うけど、そこらへんは勘弁してあげなさいね」
「ああ……まったく何なんだ朋也は、私たちのことをすぐに忘れてしまうんだから」
記憶に振り回されてズタボロになった上でゴールした二人の片割れとは思えないくらいに、智代は朗らかに笑った。
「かーっ、ったく、ともぴょん、そんなもんがあったんじゃあ、いくら素材がどうのこうの言ってても仕方ねぇよな。それじゃあ小僧がメロメロになること請け合いだ」
「全くもって同感だ。マダム、正直私はそのトモヤという貴女の伴侶には、羨望を通り越して希望を見出すようになった。人間とは、かくも他者を愛することのできる動物なのだと」
がしっ、とムッシュウロンベールは智代の手を握った。
「幸運を……いや、知れきったハッピーエンドにそんな言葉は似つかわしくないな。祝福を、マダム」
顔を綻ばせてこくこくと頷くムッシュウロンベールに、智代ははにかんで笑い返した。
「Merci beaucoup」
「Je vous en prie。貴女の助けとなれたことが、私の誉れだ」
よっし、と秋生さんが掛け声を上げた。
「んじゃ、最後にともぴょんと杏先生の使う生クリームやジャムをちょっくら探しに行くか」
『おーっ』
狭い店内に、笑いが木霊した。
「ねぇ、陽平」
朝ご飯の食器を片付けながら、あたしはなるべくさり気無さを装って言った。陽平はというと、背広に財布が入っているかどうか確認してたりする。
「あん?どったの、杏」
「今夜さあ、残業とか入ってるかな」
さり気無さ。それがキーワード。ここでモロに態度に出したら、陽平なら何か感づいて、「杏ちゃんったら乙女ー」とかほざくかもしれない。こういうところで鋭かったりするもんね、こいつ。
「今夜ねぇ……何かあったっけ」
声の口調で、あたしは敗北を悟った。遊ばれてる、遊ばれてるがな、あたし。
まぁ、あんだけバンバン広告出てりゃ、今日がバレンタインデーだってわからないはずないもんね。あー、くそ。
「んー?どうしたのかな、杏ちゃん、黙り込んじゃってまぁ」
くっ、旦那のくせに生意気な。あたしを甚振ろうなんざ、十年早いわ。
だけどここで「なんでもない」などと言おうものなら、逆に付け入られる隙を作ることになる。でも「えーそーよ、バレンタインデーよ、純情よ、ラブよラブ、わらえb(ry」と言うのも陽平の思うツボっぽい。
「何でもないのかなー?じゃー、何か今夜はみんなどっか行きたがってるしー?僕が残業するっきゃないよねー」
ここまで言われて辞書と共に緑の紙で陽平を叩かなかったあたしを誰か褒めて欲しい。
よし、決めた。
「そっかー、陽平ったら、自分の奥さんにそんな意地悪するんだ?ふぅん」
「え」
固まる陽平を横目に、あたしは精一杯悲しそうな顔をした。
「かっなしぃなぁ。あたし、陽平がこんなに冷たかったなんて、ショックだなぁ。やっぱあたし、男を見る目がないのかな」
「あ、あはは、あの、杏ちゃん?あの、あの、杏」
「そういう男ってさ、結局バレンタインデーなのに誰からも何ももらえないのよねぇ。かわいそうに」
ずびたんっ!という音と共に、陽平がものすごい勢いで土下座していた。
「すみません杏様っ!!僕が調子に乗ってましたっ!!」
年季が入っている分見事な土下座だった。
「あらー、本当にそう思ってるのかしら。案外口だけだったりして」
「滅相もない滅相もない」
首をどうにかしちゃいそうな勢いで左右に振る陽平。
「じゃあ、聞いてもらえるのかしら、あたしのワ・ガ・マ・マ」
「是非ともっ!聞かせていただきますっ!!」
そんな陽平にあたしはくすりと笑った。
「じゃあ、早く帰ってきなさいよ。待たせすぎると、あたし、チョコレート好きだし、自分で食べちゃうかもよ」
「わかったよっ!マッハで帰ってくるっ」
「んじゃ、遅刻しないうちに行っちゃったほうがいいんじゃない」
「わっ、もうこんな時間っ!杏、行ってきますっ」
「はいはい、いってらっさい」
ひらひらと手を振りながら陽平がドタバタと出勤していくのを見送った。バタンとドアが閉まった後、あたしは吹き出した。
「何だかなぁ」
え。結局バレンタインデーを祝うことになったけど、いいのかって。
いいんじゃない。
カッコつけたがるけど、冷たくはなれない陽平。そんなあいつが好きだけど素直じゃないあたし。
別ロマンチックだとかそういうものじゃないし、格好良くはない、あたしたちの関係。
クールになりきれずに、結局傍から見ればニヤニヤのしっぱなしな、大人になりきれない、少し子供っぽい恋愛。
だけどまぁ。
それがあたしたちらしいんだから、別に気取らなくても、特別にしなくても、やっぱりこれはこれで立派な恋愛なんだと思う。