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出○してみよう


 それは岡崎家の朝の一シーン。

「智代……もうそろそろ」

「まだだ……もう…ちょっと、なんだ……」

「くっ、きついな……ぐ」

「ああっ、もう少しで、もう少しなんだっ」

「智代……俺」

「朋也……あ……できたっ」

 


 岡崎智代は俺の胸から手を放した。

 自分の首の周りにある物を触ってみる。今日は智代が先日選んだ紺色のネクタイだった。

「夢だったからな、旦那様が出勤する際にネクタイをするというのが。どうだ、妻らしいだろう?」

 結婚してからもう十年にもなるのに、その口癖だけはまだ抜けないようだ。

 

 

「どうでもいいけど、俺たちこのままじゃ遅刻な」

「なっ」

 智代が左の手首に巻かれた華奢な造りの腕時計を見た。次の瞬間、俺は嫌というほど強く手頸を握られた。

「何でそれを早く言わないんだ!」

「いや言おうにも苦しくてさ……」

「行くぞ!まったく仕方のない奴だな!」

 あたふたと荷物を持って一瞬で靴をはき、一刹那でドアを閉め鍵をかけ、気がつけばアパートの門が遥か後ろにあった。

 高校時代から結構遠く来たと思っていたのに、またこれかよ。

 酸素の足りなくなった頭の片隅で、俺は呟いた。

 大卒になってから、俺は配線工の事務所と繋がりを持つ会社に勤め始めた。大手ではなかったが、俺の現場での経験や性格、そして肉体労働で勝ちえた根性を買われてそれなりの待遇を受けている。何より俺にはこの会社が親方の事務所と繋がっていることが、親方の事務所に挨拶に行く理由ができることがうれしかった。あそこのおかげで今の俺がいる。そう思えば差し入れの一つや二つやりたくなるのも当然だった。

 しかしそれ以外のことはその実あまり変わっていない気がする。親父には大卒になれば智代の尻に敷かれなくて済むとか言われたのだが、実際智代が手伝ってくれなければ大学を卒業することができなかったので、結局はいまだに頭の上がらないままだった。あれ、俺もしかして親父にまんまと担がれたのかな?

 強いて言えば、今までアパートの門で智代と別れていたのが、今度は通勤電車の駅まで一緒にいられるようになったことぐらいだろうか。 まあそれだけでも俺達にとってはうれしいんだが。

 

 

 そんなある日、俺と智代を引き裂き、貴重な日常をぶち壊しにする事件が起こった。

 

 

「おい岡崎、昼飯にしないか?」

 部署の先輩に声をかけられる。

「あ、いいですね。今行きます」

 俺は鞄から弁当を取り出すと、先輩とともに会社の近くの公園に向かった。

「どうだ、慣れてきただろう?」

「いやあ、いろいろと解らないことだらけです。まだまだ俺未熟ですよ」

「まあ入社仕立てだからな。だけど何だ、課長はお前が伸びるって期待しているそうだぞ?」

「それ本当ですか?へえ」

 よっこいしょ、とベンチに腰を下ろす。俺は智代の作ってくれた弁当を取り出し、先輩の方を見た。

「先輩?」

 返事がなかった。見ると、弁当を見つめて目が点になっている。

 恐る恐る弁当をのぞき込むと、その理由がよくわかった。

 

「奥さん、愛国主義なんですね」

「……」

 見事な国旗が弁当箱の中に描かれていた。

 

「昨日何かあったんですか?」

「いや……昨日は普通に家に帰って、ただいまハニーって言って、飯食って、風呂入って寝ただけだが……しかしそう言われてみれば、『花束もないのね』とかぼそりと言われた気がしたが……」

「昨日ですか……六月二十三日、ですよね。奥さんの誕生日、とか?」

「いや、それはないが……あ」

「あ?」

「やばい。そうか、そうだったんだ」

「?」

「昨日は俺、結婚記念日だったんだ!しまったああああああ!!!」

 ご愁傷様。

「とほほ……ところで岡崎、お前の弁当はどうなんだ?」

「え、ああ、普通です…って何覗いてるんですか?」

「いいじゃないか、減るものじゃなし。見せてくれよ」

「嫌ですよ、これは俺の弁当です」

「み〜せ〜ろ〜」

「い〜や〜だ〜」

 とまあ馬鹿らしいやり取りが数回続いた後、とうとう智代の弁当が明るみにさらされた。

 

 

「……」

「……」

 先輩が固まる。俺は恥ずかしくて何も言えずにいた。

「いや、俺も夫婦やって十何年だけどよ……」

「……」

「これ、普通なのか?」

「……」

「たまげたな、そぼろで『TOMOYAらぶ』って来たよ。しかも食紅で着色してやがる」

  俺は黙って弁当をかき込んだ。言えない。まさか高校時代からこんなんだったとは、口が裂けても言えない。

 

 

「お互い、妻ってもんには苦労するな……」

「そうですね……」

 

 

 

 

「というわけで弁当の中身の変更を要請する」

『却下』

 やっぱりそう言われた。

「いや、味とか栄養とかは問題ないんだけどな、あの絵文字だけは」

『あれがなくては愛妻弁当にならないだろう?それとも何か、朋也は私の弁当が嫌いになってしまったのか』

「いやそうじゃなくて」

『そうか、朋也は私が作った弁当よりもどこの馬の骨が作ったかもしれん出来合いの弁当の方が好きなのか……私は妻失格だな……』

「違うって」

『そうか、そうやってずっと慰めていてくれたんだな……朋也は優しいな、でもできればもうちょっとの間だけでも妻として夢を見させてほしかった』

「もしもーし」

『帰ったらちゃぶ台には三行半が置いてあるんだろうな。で義父さんが「岡崎家にお前などいらない、荷物を抱えて国に帰れ」とか言って、私は泣く泣くお前と撮った写真を胸にあのアパートを後にするんだな』

 いや親父がそんなこと言えるわけないし。それに故郷もくそも、同じ町に住んでるじゃねえか、俺達とお前の親。

 軽い頭痛を覚えながら、俺は携帯電話に話しかけた。

「智代……」

『何だ』

「智代っ」

『何なんだ一体』

 俺はがっくりと膝をついた。そして負傷でバスケを辞め、非行に走った男の悲哀をこめて告げた。

「弁当が……食べたいです……」

『そうか、では明日もまた腕によりをかけて愛情のこもったともぴょん弁当を作ろう』

 一瞬で元に戻る。インスタント智代:一歩退くと五秒で元気になります。お湯は要りません。

 つーか、弁当の名称も変えられませんか、智代さん?

「……はい、ありがとさん」

  電話を切った途端、ずしりと疲労感がやってきた。結局振り出しに戻る、かよ。

 

 

 

 給湯室を出ようとすると、急に肩を叩かれた。

「岡崎君、ちょっといいかネ?」

 振り返ると、怪しげな笑みを浮かべた係長が立っていた。

「何でしょうか?」

「いやね、君の話は課長からよおっく聞いてるんだがネ」

「はあ……」

「何でも、君は将来の有力株なんだってネ、フフフ」

「はあ……」

「そこで私は君にプレゼントをしたいんだよ。君にもっとビッグでスターなインディヴィジュアルになってほしい」

「プレゼント、ですか」

「そうだ。経験というプレゼントだ。君はもっと広く視野を構えたほうがいい」

 そこで、だ。と係長は俺に紙切れを手渡した。

「君にはスーパーなオポチューニティーの到来だ!」

 俺は紙切れを凝視する。これはどこをどう見ても……

「あの、係長」

「何だネ?」

「これはもしかすると」

「スーパーかつビッグかつスターなオポチューニティー」

 いやそれはもういいから。

「これって……出張して来いって意味ですよね?」

「イエース。これから一週間、君には西日本の我が社のお得意様巡りをやってもらおうと思う。光栄に思いたまえ」

 ふざけんなこの野郎、と言わなかっただけでも大人になったと認められたい。

「いいネエ、一週間の経験値アップのボーナスステージ。うん、まさに天からの恵み、プレゼント・フロム・ヘブンだよ」

 どうでもいいけどお前その気持ち悪い英語やめろよ、とも言わなかった。

 

 

 

 

 その晩。

「というわけなんだが」

 一瞬夕食の場が凍りつく。智代は箸で鮭の塩焼きを挟み、口に持って行く途中の恰好でフリーズ応答なしとなってしまった。

「朋也……」

「智代……」

「そんなに……そんなに私の弁当が……」

 どよよーん、という効果音とともに、智代の辺りの空気が黒く濁る。

「違うって。ほら、俺ともぴょん弁当だーい好きっ」

「で、では、まさか私と別れて暮らしたいと……」

「いやそれも違うから。俺だって行きたくねえよこんなの」

「それでは、これは二人の愛を試す天からの試練……」

「そんな大げさなものじゃないと思うぞ……」

 何だかどんどん暴走が止まらなくなっていってるな、俺の奥さん。

「たったの一週間だ。すぐ戻る」

「で、でも」

「智代、俺たちの愛は永遠なんだろ?」

 急に智代の顔から焦燥が消える。

「俺はお前が家で待っていてくれる、それを知っているからこの出張も大丈夫だと思っているんだ。お前を愛しているから、こんなことができるんだ」

「朋也……」

「それとも、智代にとって俺たちの愛はたかが地理的要因で壊れてしまうほどの軟なものだったのか?」

 勢いよく首を振る智代。

「いや、そんなわけがないだろうっ!私とお前の愛は最強だ!アメリカ合衆国の大統領でも、私たちの絆は壊すことができないんだ!」

  拳を握り締めて立ち上がる智代。

 

「私を、私達を、誰だと思っていやがるっ!」

 

 バックに炎を燃やしつつ絶叫する智代を見ながら、俺は真剣に誰に向かって叫んでいるんだと突っ込むべきか、女らしさについて講義するべきか迷った。

 

 

 

 

「忘れ物はないな?私達の写真は持ったな?」

 トランクを電車に乗せて、俺は今智代に別れを告げている。

「いやいつも財布に入れてるし」

「向こうについてもちゃんと朝寝坊するなよ?夜になったらちゃんと電話してくれ」

「わーってるって」

「本当は毎日ともぴょん弁当を届けたいのだが……」

「それも写真撮ってあるから、それ見ながら食えばめちゃくちゃまずいコンビニ弁当もいくらかましになるだろ」

 どっかのウナギの匂いがおかずなケチ野郎かよ、俺。

「じゃあ……じゃあ……」

 手を振ろうとする智代。しかし不安な表情は消えてくれない。

 仕方がないな。

「おっと、忘れものだ」

「何っ?今度は何だっん」

 唇に柔らかい感覚。舌と舌が触れあう。一週間分の思いを込めた接吻を終えると、智代はかすかに赤くなってはいたが、表情は明るかった。電車に再度乗り込みながら振り返る。

「愛してるからな、智代。忘れるな」

「忘れるものか。朋也、私も大好きだぞっ」

 何か言い返そうとしたが、無粋なことにドアが閉まってしまったので、手を振ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

「てなことがあったんだ。いやぁ、あれには参った」

 そんなこんなで第一日目。ホテルの部屋から智代に電話している俺がいた。

『すごいじゃないか、結局納期の延長を交渉して成功したんだから』

「そうか?普通に話したら何とかなったぞ?高校時代の教師どもの方がよっぽど話のわからない連中だったな」

『その普通に話すのが大変なんじゃないか。こっちには飲ませたい要求があるんだから、それを優先しすぎて結局一歩も引けない状態にすることなんてよくあることだ』

 やっぱり朋也はすごい、とうれしそうな声が携帯の向こう側から聞こえた。

「それよりも智代の一日も聞かせてくれ。今日の会議はどうだったんだ?」

『そうなんだ、聞いてくれ』

 会議であの厭味な他部署の連中の横暴を止めたこと。部長のかつらがずれていたのでみんな笑うのを必死になって堪えていたこと。それを(まったくの善意で)智代が堂々と指摘したところ、部長は恥ずかしさで泡を吹くわ部署の連中の数名が腹筋決壊して病院に行くわと大変だったこと。

「ってどう指摘したんだよ?」

『?普通に「部長、かつらがずれているようだが、直されては如何か」と言ったんだが?』

「……」

 素直で率直な岡崎智代女史らしいが、ここは笑って済ますべきか、「ずれてるのはお前の方だYO!」と突っ込んであげるべきか。

 電話が切れた後も少しの間悩んでいたことは、智代には内緒だ。

 

 

 

 

 

 

 そんなやりとりが二日目の夜も、三日目の夜も続いた。財布の中にある智代の写真を見ながら智代の声を電話越しに聞いていると、何だかこう、初めて好きな人に電話をしているような、少しドキドキする感じになる。夫婦やって長くなるのに、そういう想いがあるのは重要なことだと思う。

 しかし、四日目の夜、電話がつながらなくなった。

 その夜、俺は結構大手の取引先に付き合わされて、結局ホテルに戻った頃には日付が変更されていた。ぼうっとした頭の中で、ふと急に智代の顔が浮かんだ。あいつのことだから、時計に目をやりながらずっと待ってるんじゃないか、と思った。

 待ってる?何を?

 その途端、酔いが一気に引き、俺は携帯で家の電話にかけた。やばい、帰りのタクシーででも連絡し溶けりゃよかった。そう思いながら携帯を耳に押し付ける。

 たった一言話せればいいんだ。そうすりゃ、あいつも「仕方のない奴だな」と笑ってくれるだろう。

 しかし俺を待っていたのは「おかけになっている番号は、現在使われておりません」の非情なリピートだった。

 俺に嫌気をさして実家に帰った?まさか?

 急いで携帯にかけてみる。反応なし。

 冷たい汗が頬を伝う。何だこりゃ?何が起きてるんだ?

 世界がいきなり白黒になってしまったような錯覚にとらわれる。ちょっと待て俺、冷静になって考えろ。今日は何かの記念日か?手帳をめくると、確かずっと昔に「朋也が自分で初めて起きた記念日」となっているが、そんなのを忘れたからって智代が縁切り寺に駆け込むとは思えない。そもそも、その日はわいわい騒いだ挙句次の日にはやっぱり智代に起こされるという生活に戻ってしまったしな。

 昨日何か変なことを言ったか?確か「朋也が傍にいなくて寂しい」とかうれしいこと言ってくれてたが、それか?いやいや。だってその後(自分で言うのも何だが)二人して一時間ほど惚気あってたんだから。寂しさに家を立ち出でてながむれば、とはならないはずだ。

 しかし、現に俺と智代を繋ぐ絆が断たれてしまっている。

 その夜は、疲れてもいたしアルコールも入っていたのにもかかわらず、ほとんど眠れなかったと記憶している。

 

 

 

 

 

 次の日、仕事が終わってホテルに戻ってからすぐに家に電話をかけてみる。しかし結果は昨晩と同じだった。電話は、智代に繋がってくれなかった。

 頭が痛い。肩が重い。何だこれは。妻の声が聞けないから、こんなに凹んでいるのか?

 いや違う。電話をしなくても、俺はあいつの声なんざずっと聞いてる。夢にまで響いている。じゃあ、俺のいない間に智代が何かやっていないか不安だから沈んでいるのか?

 全然違う。俺は智代の、智代は俺のものだ。それぐらいはいくら鈍感な俺でもわかっている。それでは、心配なのか?

 心配?そうかもしれない。もし俺のいない間に家に何かがあったらどうしよう?もし俺のいない間にあいつの身に何かあったら?

 もし、俺が帰って来た時に、全て失っていたらどうしよう?

 その時、俺の電話が鳴った。もう誰がかけているのか見るのももどかしくて急いで蓋を開けて耳に押し付ける。

「智代かっ」

『ああ、朋也君』

 親父だった。

「何だ、親父か。どうしたんだ?」

『実は朋也君のアパートに来ているんだがね……』

 

 親父とはもう何年も前に和解しているのだが、未だに名称は君付けだったりする。これはもう習慣で、治りそうもないのだが、智代曰く「私も実家では母にさん付けされているから大丈夫だ」。

 

「どうかしたのか?そうだ、智代は?智代に何かあったのか!?」

『あったと言えばあったらしいが……』

「一つ聞かせてくれ。あいつは、あいつは」

 無事なんだろうな?

『ああ、それは大丈夫。智代さんなら身体的には異常なしだ。ただ、少し精神的に参ってはいるようだがね……ああ、今代わる』

 安堵のため息が漏れた。少なくとも最悪の状況は回避できたようだ。

『と…もや?』

「智代か?おい、大丈夫か?」

『ともや……朋也……』

「そうだ、世界一ともぴょんが大好きな岡崎朋也だ。さっきから声が変だぞ?おい?」

『朋也だ……朋也ぁ……』

 電話の向こう側で嗚咽が聞こえ始めた。そこにはいつもの健気で気強い岡崎女史の気配はなかった。俺しか知らない、俺の良く知ってる、本当はもろくて寂しがりやな女の子の泣き声だった。

 

 

 

 

 

 

 しばらくして俺は親父と代わった。智代はどうも泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしい。こういうところこそ女の子らしいと思うんだが、やっぱり言わないでおこう。

『何があったかは私も知らないんだけどね、大変なことになったようだよ』

「大変なこと?」

『智代さんは私には話してくれなかったけど、まあ朋也君には教えてくれるだろう。とにかく帰って来た時にあまり驚かないで上げるのが一番だよ』

 ああ、と答えながら、俺は訝しがった。

『取りあえず智代さんには新しい携帯を買うように言っておいたけど、まあもしかすると今はそれどころじゃないかもしれないね』

 それどころじゃない?確かに智代も俺も携帯にはあまり固執しない方で、普通の電話の方がよく使うが……

『では私はもう失礼するよ』

「ああ、ありがとうな、親父」

『いやいや。ああ、そうそう、玄関のドアだけは私が何とかしておいたから、安心していいよ』

 

 

 玄関?

 いやマジで何があった、俺のマイホーム?

 

 

 

 

 

 

 結論から言うと、どうも決壊していたようだ。

 ようだ、というのは、俺が出張から帰って来た時には家に何人ものごつい男たちがペンキの缶やら何やらを持って作業していたからだ。作業はほとんど終わっていたが、どうも範囲からして相当な規模のダメージが行われた様子。そう言えば帰って来た時に管理人さんが「あんたも大変だねぇ……」としみじみ呟いていたな。

 居間は、よく言えば結構さっぱりしていて、悪く言えばいろんな物がなくなっていた。本棚も大きなギャップが見える。確かここには英和辞典とイミダスがあったはずだが……

「!!」

 不意に後ろからぎゅっと抱きしめられた。まあ犯人は解っている。

「こういう時、女の子ならだーれだってやるもんだが」

「……ん」

「まあ、聞かれずとも誰か解ってるけどな」

「……ん」

「大変だったろう。ごめんな、一人にして」

「……ん」

「なあ智代」

「ん?」

 胸の前に回された両手をそっと手で包んだ。

「ただいま」

「ん……おかえりなさい」

 

 

 

 

 

 

 その夜、久しぶりに俺と智代は近くの料理店で食事をした。

 今日来ていた業者によると、台所ばかりはまだ直っていないそうだ。どうも今回の件はそこが爆心地らしいな。

「しかしあれだ」

 智代がうん?とこちらを見る。日本酒を数杯飲んでいるので、頬が仄かに赤くなっていた。やべえ、一週間会ってないせいもあって理性が吹き飛びそうだ。

「ホテルに一週間も籠っていると、智代の飯が食いたくなってしょうがなくなるな」

「ばば馬鹿、何を急に言い出すんだ……全くお前は」

「いやマジで。ああ、今ならともぴょん弁当を食うのも悪くないなぁ」

「……何だかすごい言われようだな。やっぱり朋也は私の料理が……」

「いやっほおううおおおおお、ともぴょん弁当最高!」

 何だかどっかのテロリストパン屋の夫婦みたいな会話になってきているな。

「そんな大声を出すな。仕方のない奴だな……」

 そう言いながらもクスリと笑う。何だかその表情を長い間見ていなかった気がする。

「持ちこたえろよ理性。いくらなんでもここじゃまずいだろ……」

「何の話だ?」

「いやいや。それよりもさ、何があった?」

 

 一瞬智代がフリーズした。沈黙が訪れる。あれ、何でこの部屋こんなに寒くなったんだ?

 

「智代?」

 答えがない。ふと見てみると、瞳から光が消えている。

「智代?おーい?」

「あ、ああ。しかし朋也、ここであんなに大きな声を出してはだめだ。いくら私の弁当が最高であっても」

「ああ、わかった。すまなかったな。で、何があったんだ?」

「……」

「おーい?」

 結局何があったか喋り出すまでに三回、そして全部話し終えるまでに更に二回智代は硬直してしまった。

 

 

 

 

 

 

「あれ?岡崎さん」

「ああ……椋」

 一瞬藤林と言いそうになった。それを察したのか、目の前の看護婦、柊椋はクスリと笑った。

「お見舞いですか?」

「ああ。ヘタレはいるか?」

「ええ。ここの廊下を突きあたりで右に曲がって三つ目のところですよ……あの、岡崎さん?」
 くいくいっと手招きをする。

「ここだけの話ですけどね、あまり無理をさせないで上げてください」

「ああ、わかってる」

「ただでさえここにはよく来るんですからね」

「……よく来ているのか?」

「ええ。まあ人間の治癒能力の新たな可能性だとか言って先生方は歓迎してるんですけどね」

 春原……よかったな、お前みたいな奴でも研究材料として立派に社会に貢献しているぞ。

 

 

 

 

 

 

 という旨を病室で半ば包帯男になっている春原に聞かせてあげた。

「もう突っ込む気力もないよ……」

「そりゃあ、杏の尻に敷かれてりゃあそうなるわな」

「岡崎だって智代ちゃんにいいように躾けられてるじゃないか」

「それもそうだな……ははは」

「だろ。ははは」

 乾いた笑いが病室に響く。すると春原がため息をついた。

「なあ岡崎」

「何だ?」

「僕達さ……結婚相手間違えたんじゃないか」

「そうかよかったなその旨杏にしっかりと伝えておく」

 ちなみに俺は結婚相手を間違えたと思ったことは一度もない。と思う。

「薄情っすねぇアナタ!!つーか僕死んじゃう止めてヤメテ」

「えー」

「『えー』じゃあねえよ、『えー』じゃあ!」

 

 まああの杏こそこんなヘタレとよくもまあ結婚したものだと、しみじみ思う。確かプロポーズが顔面に聖書投げて「ほらこれでとっとと牧師見つけてきなさいよ」だったっけ。ぽっと頬を染めながら。

  智代がツンデレじゃなくてクーデレでよかった。いやほんとに。

 

「ところで岡崎が見舞いに来るなんて珍しいね」

「ああ、ちょっと聞きたいことがあってな」

 春原が苦笑する。

「どうせそんな事だろうと思ったよ」

「ああ。で、何で俺の家がぶっ壊れてるんだ?」

「……」

 春原が沈黙した。こいつもかよ。

 

 

 

 

 

 

 

証人@:春原陽平

 

 あ…ありのまま、あの夜起こったことを話すぜ!

 あの夜僕たちは久しぶりに岡崎と智代ちゃんちに遊びに行こうと思ったんだ。で、行ったら岡崎は出張だとかいうことで会えなかったけど、智代ちゃんはそれでもまあよく来たと家に上がらせてくれたんだ。

 で、杏と智代ちゃんは台所で何か酒のつまみを作るから僕は近くのコンビニでビールを買いに行ったんだ。そこまでは普通だった。

 そう、そこまでは。

 僕がアパートに戻ってきた時、仲良しだと思っていた二人が実は牙を剥いていた。

 な……何を言ってるのかわからないと思うが僕もいない間に何があったのかわからなかった……

 そしたら杏が「陽平」って冷めた声で言うんだ。
「何?」

「陽平、あたしのこと、大事?」

「え、あ、何だよ急に……ってはい愛してます大好きです若奥様」

「そう。じゃああたしのために体張れる?」

「は?」

「もしさ、あんたのことを好きって娘がいたら、守ってあげられる?」

「あ、ああ、僕はこれでも男だからな」

「そう」

 すると杏は僕をぎゅっと掴んで笑顔でこう言ったんだ。

 

「あたし、陽平に会えて本当に良かった」

 

 で、気がついたら飛んでた。智代ちゃん目がけて時速百五十キロで。

 頭がおかしくなりそうだった。

 足技だとか神速だとか、そんなチャチなもんじゃあ、断じてなかったんだよ智代ちゃんは。

 もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……

 で、空を飛んでいたら、急にUFOがやってきて、僕を取り込んだんだ。そしたら宇宙人が僕を囲んでいて「ドウシヨ、キズヲイヤシテアゲヨウ」とか言ったんだ。気がついたら、病院のベッドの上で寝ていた。

 

 

コメント:やっぱりお前宇宙人だったんだな。

 

 

 

 

 

 

証人A:春原杏

 

……

フヒヒwwwwwwwwwサーセンwwwwwwwww

 

コメント:……もういい。

 

 

 

 

 

 

証人B:岡崎智代

――――春原が行ってからどうなったのか、話してくれないか?

 ああ。

 私は台所で杏と一緒に酒の肴を作っていたんだ。
 

 すると、杏が不意に言ったんだ。

「ねえ、あんた達いつになったら子供できるの?」

 

 って大丈夫か朋也!そ、そうか、大丈夫か。いや、私も驚いた。

「何でそんなことを聞く?」

「いや〜、長い間夫婦やってるのにそんな話が一度もないなんて変ねぇって」

「そ、それは……」

 

「もしかして朋也って不能とか?」

 

 だだだ大丈夫か朋也!?朋也、朋也!私を置いて……って、ああ、大丈夫か。

 吃驚させないでくれ……ああ、続きだな。

「それはない。朋也はあれでも結構、その、(ぽっ)」

「はいはい、ごちそうさま」

「そそそそういう杏はどうなんだ。春原と上手くいってるのか」

「私っ!?」

 急にハトが豆鉄砲を食らったような顔をしたんだ。

「そ、そそそそりゃあもう、毎晩毎晩ムッハーな展開よ」

 

 

――――悪い、想像したくない

  あ、ああ、すまなかった。

「その割には杏も、その、そういう話はないじゃないか。まさかコウノトリが気流の都合で来れなくなっている、とか言うわけではあるまいな?」

「何が言いたいのよ?」

「別に……ふっ」

「あ、何よ今の『ふっ』は?」

「別に……ただ、私は朋也でよかったと実感しているだけだ」

「あらそう……陽平の良さもわからないあんたに、こんな高度な会話は無理だったようね」

「春原……?良さ……?」

――――あったか、んなの?

「あるわよっ!その、少しキザなところとか、実は優しいところとか」

「ヘタレなところとか」

「……今、あんた言っちゃあいけないことを言ったわね」

「何の話だ」

「つべこべ言わずに頷いていればいいのよ。それが義理でしょ人情でしょ。真実はいつも過酷なものなのよ。それを……そのまんま突きつけちゃあ……」

 急にまな板をバンっと叩いた。

「可哀想でしょっ」

「どっかで聞いたような言い回しだな」

「いいわ。あんたにも教えてあげる。陽平のすばらしさを」

「はぁ……はっきり言ってあまり知りたくない」

 その時春原が帰ってきたので、杏は春原を私に向かって投げつけてきた。

 その、な。春原には悪いと思ったが、本能みたいな感じで蹴り飛ばしてしまった。

 春原が星になった後、杏が誇ったように言った。

「どう?あたし達は共同戦線を張れるのよ?あんたと朋也じゃ無理な話よね」

「あれを共同戦線……私は朋也を戦いに巻き込みたくないしな」

「あら……じゃあどうやって家を守ってるのかしら?まさか亭主のいない間はドロボウさんも強盗さんもいらっしゃ〜い、じゃないわよね?」

「知れたことを」

 私はその時、スリッパを脱いだ。久しぶりに本気を出す必要があると思ったんだ。

 

「朋也がいない間は、私がこの家を守る。それが私の妻としての役目だ」

 

 私たちはしばらく睨み合った。

「随分ね。やっぱりあんたはそういう世界の人なのね。それで女の子らしい?無理無理」

「亭主を投擲兵器に使用するよりはましだろう。ちなみに先ほどの攻撃、我が家への宣戦布告と見なすが?」

「あら?一人で私に立ち向かうつもり?」

「そちらこそ、共同戦線の相棒がいなくなっては厳しいんじゃないか?」

「見くびらないでほしいわ」

 私がぐっと足を踏ん張るのと、杏が後ろに飛びのいたのは同時だった。杏が飛びのいた先。そこには本棚があった。

「こちとら、陽平が学生時代体を張って付き合ってくれた書物投擲の腕はなまってないのよっ!」

 

 

――――それで家が崩壊したと?

……ああ

――――で、電話が壊れ、ついでに携帯もどさくさで壊したと?

……

―――――それで俺に連絡が全然つかなかったから、参っちゃったと?

だって……

 

だって朋也分が底を突いていたんだ!

 

コメント:説明しよう!朋也分とは岡崎朋也の声、体温、体臭から摂取できる成分で、岡崎智代はそれがなければ一週間で枯れてしまう。くれぐれも飼育の際は注意が必要だ。

 

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