『じゃあ、会議の日時については追って決めるということでよろしいですね』
「はい、お願いします。では、失礼します」
そう言って電話を切ると、私は軽くため息をついた。
「お疲れ様っす、岡崎さん」
「あ、ああ。ありがとう。さて、この報告書をさっさと終わらせるとするか」
私はくいっと体を伸ばすと、眼鏡をかけ直して画面に向き直った。
「ともっち、しっかり仕事してるかねぃ」
不意に肩を叩かれた。振り返ると、私の同期の女社員が笑って立っていた。
「ああ、それなりにだがな」
「それなりに、ねぃ……ともっちのそれなりってのが何の気休めにもならないってのを、もうそろそろ自覚するべきだと思うけどねぃ」
「ふむ。これでも結構頑張っているつもりなんだけどな」
違う違う、と同僚が手を振って苦笑した。
「ともっちのそれなりってのが、常人のフルスパートマラソンと同じ質と量って話なんだよねぃ。たまには脇目を振るのもいいってことなんだよねぃ。ともっちも、周りの視線に気づいてコイバナの一つでも……っと、入らぬお節介だったねぃ」
同僚はにひゃひゃ、と苦笑した。
「……私は、注目されているのだろうか」
「まぁ、ともっちって美人だからねぃ。しかもカリスマあるし、みんなに慕われてるってのはあるねぃ」
「慕われているというのは、恋愛感情も含むのだろうか」
「……まぁ、あってもおかしくないねぃ。特にともっちとはあまり接触のない新入社員なら、ともっちが独身だと思い込んでいたりするかもねぃ」
「……迂闊だった」
「迂闊?」
「もしも、もしもだ、私の夫がそれを聞いてしまったらどうなると思う?私に対する見方はどうなると思う?」
「それは……」
「恐らく私のことを、他の男性を魅了し誘惑する尻軽女と見なすんじゃないだろうか。い、いや、ひょっとするとそんな男性社員を片っ端から食い散らかす淫乱と見られでもしたら……」
「考え過ぎなんじゃないかねぃ」
同僚が何かつぶやいたが、私の耳には届いていなかった。それぐらい、このことは私の頭を支配してしまったのだ。
「家に帰ったら、電気がついていない部屋の中で朋也が座っていて、そしていつの間にか探偵を雇って見つけた、少し怪しげな、事実無根の証拠とやらを私に突き付けるんだ……私は必死になって弁解するけど、朋也は全然聞いてくれない。当然だな、誰が元非行少女の暴力女の言い分を聞くと思うんだ?さんざんサセ子だの淫乱だの、挙句の果てには公衆便所だのビッチだのと罵られ責められた挙句に、朋也は記入済みの緑の紙を私に突き付けて、さあ出て行けと言うに違いない。でも、坂上家には私の居場所なんてない。もうすでにそっちにも話が回っているだろうからな。そして私は失意のうちに樹海に足を踏み入れ……」
その時、ヴヴ、ヴヴと私の携帯が振動した。液晶をさっと見て、私は電話に出た。
「もしもし、どうした」
『よぉ、智代。元気か』
その一言で、頬が緩んだ。できるだけ冷静な声色を使って、そっけなく答えた。
「変な事を聞く奴だな。朝、一緒に出たじゃないか」
『ん。まあな。ぶっちゃけ、智代の声が聞きたかったりしただけだったりする』
「……仕方のない奴だな。仕事の方は大丈夫なのか、そんなので」
『今休憩中だしな。そうだ智代、今日はいつごろ終わる?』
「そうだな……」
私は目の前に積まれた書類を一瞥した。
「定時には終わると思う。どうかしたのか」
『いや、残業がないんだったら、一緒に帰ろう』
「……確証はできないが、善処する」
『はは、頼んだぜ、智代』
「早く仕事に戻れ。私だって忙しいんだぞ?まったく、朋也は仕方のない奴なんだから」
『へいへいっと。じゃあな』
「ああ」
『愛してるぜ、はにぃ』
その一言で、顔が爆発しそうになる。その呼び方はやめてくれって言っただろう……
「……じゃあな」
『おいおい智代、そうじゃないだろ。はにぃ、と呼んだらどう返すんだっけ?』
「……うう」
『ん〜?聞こえないなぁ』
「……朋也の意地悪」
『今更ぁ』
「………………だぁりん……」
『ぃよっしゃあっ!じゃあな、智代、愛してるぜ』
「さっさと切れ、馬鹿」
通話ボタンを押すと、私はため息をついた。まったく朋也は、こういう意地悪で私を悩ませるのが好きなんだから。そのくせ私がいないと家は散らかるし、服は脱いで脱ぎっぱなしだし、布団は干さないし、ご飯だって炒め物かコンビニで買ったお惣菜だけになったりするし、寂しがっていじけたりするし、まったくまったくまったく仕方のない奴だな。
「……ともっち」
「って、うわあっ」
あめあめあまあま
思わず大声を出してしまった。な、何だ?彼女はいつの間に私の傍にいたんだ?
「さっきからいるねぃ……にしてもねぃ」
「な、何だ、何だその意味ありげな笑いは」
「別に何でもないねぃ……ただまあともっちに憧れている男どもがかわいそうだなってねぃ」
「それは……すまないと思っている。でも、私には夫がいるから……」
「らぶらぶだったねぃ」
「……うう」
「でも悪いことじゃないからねぃ。むしろともっちにはそんな相手が必要なのかもねぃ」
「そう思うだろうか」
何だか私と朋也のことが肯定されたような気がして、私は身を乗り出した。
「ともっちはいつも凛々しいけど頑張り屋さんだから、時々見ていてはらはらするって話を聞いたからねぃ。どこかでガス抜きは必要なんじゃないかって思ってたけど、今の様子じゃプライベートは散々ガス抜き骨抜き気負い抜きみたいだねぃ」
「……ううう」
朋也のせいで、恥ずかしいところを聞かれてしまった。
「いいんだよ、それで。旦那さんにたっぷり甘えるのがいいねぃ」
「わ、わかっている」
にひゃひゃひゃひゃ、と一風変わった笑い声をあげて、同僚は私の肩を叩いた。
「んじゃ、そういうことで…………だぁりん」
「ちょ、ちょっと待て!今のは内緒に……」
私の声を無視して、同僚は行ってしまった。不覚だ。これではあっという間に噂が広まってしまうではないか。
「でね、そこで岡崎さんが言うわけよ。『だぁりん』」
「うっそぉ」
「あの岡崎さんが?だぁりん?」
「そ。信じられる?だぁりんだって」
「おっとめ〜」
い、いいじゃないか、私だって女らしくしたってっ!!
そもそも、うん、私は女の子なんだ。朋也だって女の子らしいって言ってくれるんだ。はにぃ、と呼ばれたらだぁりんと返してもいいじゃないかっ!
私は自分の中でそう開き直ると、目の前の書類に挑んだ。これを終わらせなければ、朋也との約束を守れなくなる。
そ、そうなったら、大変なことになるっ!朋也にもしかすると嫌われてしまうではないかっ!はにぃと呼んでもらえないし、だぁりんと呼ばせてもらえなくなるっ!それどころか、夜は私に背を向けて寝て、朝ごはんは腹が減ってないからと食べずに仕事に行き、夕飯は食べてきたとか言って、そしてお風呂も一人で入ってしまって、背中の流しあいもなしで、そのまま布団にもぐりこんでしまうかもしれないっ!そ、そしてこれは、か、考えるだけでも恐ろしいが、ハグもキスも愛しているの囁きもしてもらえないかもしれないではないかっ!そんなことになったら、私はどうすればいいんだっ!?何を糧に生きて行けばいいんだっ?!!
「あのぉ、先輩、すみません」
「またバグってるの?自己診断に任せなさい。すぐに再ブートするわよ」
で、でも、まだ遅くはないはずだ。うん。
そうだ、この仕事を終わらせればいいんだ。それでいい。そしたらアフターファイブデートだ。改札を抜けると朋也がそこに待っているから、その腕に飛び込むのもありなんじゃないか。そもそも、言いだしっぺは朋也なんだからノーとは言わせないぞ。うん、ぎゅっと抱きしめてもらって、いっぱいちゅっちゅしよう。決めた。そうする。絶対にする。
「あっちゃあ、またヘンなエラーが来た」
「すぐに元通りになるわよ。ほっとくほっとく」
っと、その前に仕事だったな。これを何とか片づけよう。話はそれからだ。
私は眼鏡をくいっと押し上げると、資料をぱらりとめくった。
「あ、元通りに動き始めました」
「ね。言ったでしょ」
「こりゃあ、降るかなぁ」
俺は空を見上げて言った。雲の集まり具合と言い、気温の低下と言い、湿り気を帯びた空気の臭いと言い、どうも降りそうである。すると部下の山萩が不思議そうに俺を見た。
「あれ、岡崎さん知らなかったんすか」
「何を」
「今日は午後から激しい雨だそうっす。下手すると雷も出るかもって」
「じゃあ午後は書類仕事だな」
俺はともぴょん弁当の残りをかっ込むと、手を合わせて最愛の妻に心の中で感謝した。ごちそうさま、すげえうまかったぜ。
「にしてもここは終わらせないとなぁ」
ヘルメットを被り直して、俺は電柱を見上げた。ほとんどの仕事は終わっているが、まだ仕上げが残っていた。こんなことなら昼食をとる前に終わらせておくべきだった。
「岡崎さん大丈夫っすか」
「まあな。伊達に電気工を五年もやってねえよ」
「でも、肩の方は……」
「心配すんなって。そんなの、愛さえあればへっちゃらだ」
「いや、愛ってあんた……」
「何のために生きるのか。その手は何を紡ぎだすのか。その軌跡は何を語り継ぐのか。偏に愛、愛だ。わかるか山萩、俺たちは日々愛に生き、愛を手に愛の道を歩く。大乗的な愛の力の前では、俺の肩の痛みなんて取るに足らないな」
「何だか宗教になってるよ……」
「例えば俺はこの瞬間を愛にささげる。この思いよ届け―っ!と念じてスパナを回す。絶対にあいつに届くさ、愛だからな」
「すんません、嘘臭えっす」
まるっきり信じていない様子の山萩ににやりと笑うと、俺は電信柱を登ってスパナを握りしめた。
「この想いっ智代に届けぇえっ!!」
「うわ、実際叫んでるしこの人」
ボルトを仮止めすると、俺は本締めにかかった。
「智代っ!大好きだっ!!」
「いや、もうわけわかんないし」
「俺たちの愛は永遠だあっ!!」
「滅茶苦茶っすね。いや、もう何かくちゃくちゃだ」
呆れ果てた顔で俺を見る山萩を尻目に、俺は作業をちゃっちゃと終わらせると、撤収作業を始めた。
「まぁ、お前にもわかる日が来るさ」
「わからない方がいいっす」
「意固地な奴だな。ちょっとは芳野さんを見習えよ」
「芳野さんや岡崎さんみたいな生き方は、到底真似できないっすよ」
全ての荷物をライトバンに詰め込むと、俺は運転席に乗った。
「そう謙遜するなって。俺だって最初は恥ずかしかったさ」
「あ、恥ずかしかったんすか」
意外そうに山萩が俺を見た。ふと昔芳野さんとコンビを組んでいた頃のことを思い出すと、俺は苦笑した。
「まぁな。こういう風にライトバンで走ってるだろ。するとな、芳野さんが急に、『岡崎、お前は何のために生きる?』とか聞いてきたんだ」
「何て答えたんすか」
「『智代のためにっす』」
「もうその頃から惚気モードMAXっすね……」
「すると芳野さんが難しい顔をして頷いた。『なるほど、それも愛だな。だがな、岡崎、よく覚えておけ。お前と智代さんは今は二人だが、いつまでもそう続くとは限らない』」
「そりゃ……厳しいっすね」
「そう思うだろ?その時俺たちはまだ恋人同士だったわけだが、それでちょっとカチンとなっちまった。『どういう意味っすか』ってな」
「そしたら?」
「『岡崎、お前はこのまま智代さんと一生一緒にいるつもりだろう』『うす』『だったらもう少し視野を広げろ。いつまでも二人きりとは限らない。もしかするとお前は父親になり、智代さんは母親になる。その日が来た時、お前の愛は智代さんだけには向けていられない。ましてや、智代さんだけのために生きるわけにはいかなくなる』」
「……はぁ」
「もっと広く強い愛を求めろ、さすれば与えられん、と教わった。その通りなんだ。俺は愛に生きる。時に愛を刻む。いつか俺と智代の愛が実を結んだ時にも、その子供たちにも愛を与えられるよう、宇宙のように包み込むような愛でだな」
「岡崎さん、マナー袋ないっすか?何だか俺、砂吐きそうっす」
げんなりとした顔の山萩。すると、不意に俺の携帯が振動した。
「メールっすね」
「のようだな」
ぱっと見てみて、俺は苦笑した。俺の携帯は少しくたびれているので、時々ちょっと前のメールが遅れて届く時もある。これもその類いだった。
「おい、ほら。見てみろよ」
「うす……うへ」
苦りきった顔の山萩に、俺は勝ち誇ったように言った。
「な?想いってのはやっぱ伝わるもんだな」
着信録
14:12 ともぴょん 「うん、お前の想い、確かに届いたぞ (^-^)b」
14:12 ともぴょん 「私もお前が大好き、いや超好きだ!!」
14:13 ともぴょん 「私たちの愛は久遠不滅だっ!!」
「むぅ、雨だな」
私は駅のプラットホームに立ってそう呟いた。仕事もようやく終わって、時計を見てみたら時刻ぴったり。これで電車に揺られて十分。駅で朋也とらんでぶぅして、帰り道をいちゃいちゃしながら歩こうと思ったのに。
「まったく、天気も無粋な事をしてくれる」
ため息交じりに恨み言を言ってみた。無論そんなことで止む雨ではないが。
しかし考え方によってはこれもいいかもしれない。そうだ、雨なら二人で相合傘ができる。うん、これはいい。朋也のたくましい腕に絡まって、密着しながら歩くいい口実ができた。うん、水溜りをよけるふりをして朋也にしなだれかかるのもいいかもな。
そう言えばさっきのメール、受け取ってくれただろうか。不意に頭の中に閃きみたいなメッセージが来た時には驚いたが、おおむねメッセージはあっていたと思う。あっていなかったら……でも、それはそれでいいだろう。私が朋也のことを好きだというのは本音なのだから。もう少し言うのを控えた方がいいだろうか。言いすぎると供給過多で価値が下がってしまうかもしれない。で、でも、言いたいっ!四六時中言って、二十四時間中ずっと聞いていたいっ!!ああ、これが恋煩いという奴だろうか。まさに苦悩するところだな。今しがたふと昔の知り合いに「恋煩いも苦悩も、あんたらもう結婚して恋愛成就してますよねぇっ!!?」という声が聞こえた気がしたが、まぁ雨の音のせいだろうな。
「そう言えば、今日は買い物にも行かなきゃいけないんだったな」
口に出してからふと思い出した。冷蔵庫がだんだん空になってきたし、いろいろと生活用品も買い足さなければな。こういうことは夫婦なんだから朋也にも頼みたいが、いかんせん朋也は少しだらしないところがあるからな。実際に補充が切れなければ気がつかないからな。なくなってからじゃ遅いんだ、といくら言っても聞かないんだから、朋也は。うん、そうだ。朋也は私がいないとダメだな。罰として帰りに一緒にお使いに付き合ってもらおう。それで買い物を袋に詰めると、朋也が「俺が持とう」って。「いや、悪いぞそれは。私にも持たせてくれ」「いいんだよ、俺は智代が大好きだからな、これぐらい何でもないさ」「でも、私だって朋也が大好きなんだ」「じゃあご褒美にキスしてくれ」「それでいいのか」「智代のキスは最高のご褒美だからな、愛しの智代」「ああ、朋也」
はっ
もう少しで別次元に迷い込むところだった。困ったものだな。うん、朋也が悪いな、これは。朋也がカッコよすぎて優しすぎるのが悪い。これなら、私でなくとも朋也に恋をする女性がいてもおかしくはない。むぅ、それはつまり、これからもライバルは増えるということなのか?だが残念だったな淑女諸君、朋也は誰にも渡さない、いや、渡せないのだ。愛と勇気とトモトモSS読者のために、私はこれからも挑戦を受けて立とう。朋也が私を愛してくれるのなら、私は無敵だ。帝国軍だろうが最後の大隊だろうがスカブコーラルだろうがガミラス艦隊だろうが蹴散らしてくれよう。矢でも鉄砲でも来い。ふははははははは
と私が心の中で勝利宣言を高々としていると、急に空の一角が光った。驚いて瞬きをしたが、その頃には私の前にはいつもの光景が広がっていた。何かの見間違いか、と首をかしげていると、おどろおどろしい呻きのような怒号のような音が聞こえてきて、私は一瞬体を震わせた。激しい動悸を治めてから、私は窓の外を見た。雨は、先ほどよりも強さを増すばかりで、鉛色の雲から叩きつけられているかのような勢いで降ってきていた。
まさか
嫌な予感がした。よりにもよって勝利宣言をしたばかりなのにこれはないだろう、と正直思った。言ってみれば、運動会開幕式とともに現れる通り雨、景気回復を政策として当選した政権一日目に世界恐慌、万全を期して大学本試験に向かう電車の途中でやってきた盲腸の痛み。そんな感じだった。本当に空気嫁としか言いようがない。
じゃんけんの例を使おう。私をハサミだとしよう。私は握ってくれる手が朋也のものであれば、和紙だろうとトイレットペーパーだろうと段ボールだろうと楽々と切り裂いて見せよう。しかし、ハサミはしょせんハサミ。いかに小さかろうと、相手が石では歯毀れがどうしても生じてしまう。これは不可避の運命なのだ。
私がそうやって現実逃避に明け暮れていると、再度稲妻が空を駆け廻り、呪わしき雷鳴が響き渡った。
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
ダメだ智代、屈するなっ!こんなところで心が挫けてはダメじゃないかっ!このままでは、朋也の待つ駅を乗り越してしまうぞ?そうだ、朋也が待っているんじゃないかっ!ファイトッ!だぞ。
ピカッ ゴロゴロゴロゴロゴロ
「っ……ふぇえん……」
駅までの五分が非常に長く感じられた。
「くそ、どこだ?」
俺は焦りを感じつつ、駅内を見回した。外では雷が時々嫌がらせのように鳴り響くが、それは俺にとっては問題じゃない。ただ、まぁ、俺の知り合いというか家族というか、そんなのですっごく苦手な奴が約一名いる。
俺が仕事を終えた頃には雨が本格的に降っていたので、コンビニで傘を買った。そこまではよかった。これなで智代と相合傘イベントktkrだぜうへはははは、とか余裕を持って考えていた。しかし雷光雷鳴がとどろき始めた時、やばい、と思った。絶対にあいつなら反応する。特に電車の中という逃げも隠れもできない場所で、絶対にあいつは悪い方向に妄想する。車や電車が落雷の直撃を受けても乗客は無事でいるということを都合悪く忘れているに違いない。畜生、天然でかわいすぎだぜ智代。そんな風に考えていると案の定みょうちくりんなメッセージが届いた。
17:56 ともぴょん 「tもyたsk」
これを見ただけでは全く意味がわからないだろう。だが、俺は気付いた。これは俺への救難信号、「朋也助けて」に違いない。
「あいつがいるところと言えば……」
まず、窓があるところは除外だ。そしてできるだけ空から離れようとするから、地下にいる可能性が高い。だけどどこかで俺が助けに来ると信じているから、俺の行けなさそうなところには来ない。とまあ女性トイレは除外。
「とにかく地下か……っと」
地下のロッカー置き場、そこに続く階段に、あいつはへたり込んでいた。耳を押さえて、体を縮こまらせて、何かつぶやいていた。
「くわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくらまひえいくわばらくわばらうらめしくわばらうらめしくらまくわばら」
「いろいろ混ざってるからな、それ」
ぽん、と肩に手を乗せると、智代が体をびくっと震わせた。
「迎えに来たぞ、智代」
「朋也……朋也ぁ……ふぇえええええ」
俺の顔を見ると、智代は安堵のあまり俺に抱きついて泣き出した。いつもの凛とした岡崎女史の代わりに、俺の腕の中にいたのは、か弱くて守るべき女の子だった。俺は智代の頭を撫でながら囁いた。
「よく頑張ったな。俺が来たからには、もう大丈夫だ」
「怖くなんかなかった……朋也が来るって知ってたからな……でもやっぱり怖かった」
「どっちだよ」
「両方なんだ……女性の心は複雑なんだぞ」
「そうだったな。智代は本当に女性の鑑みたいな奴だからな」
背中をさすると、智代の鼓動がゆっくりと落ち着いて行くのが感じられた。
「ほら、家に帰ろう。傘があるから、帰りは相合傘だぞ」
「うぅ……でも、また雷が鳴ったら……」
「俺がついてるって」
そう笑いかけると、智代はこくんと小さく頷いた。
駅の出口を見ると、俺はげんなりした。まだ雨続いてるのかよ。
「こりゃあ、明日も降るかな」
「じゃあ、ブーツだな。そういえば前に朋也と買いに行ったブーツ、あれは似合っているだろうか」
「智代は何を履いても似合うさ」
「そんな見え透いたお世辞を言うな」
「や、マジで。智代には何でも似合いすぎるからな。俺はいつお前が芸能プロダクションにスカウトされないか心配だ」
「大丈夫だ。スカウトの話が来ても蹴ってやる。私はテレビに出るよりも、朋也だけの私でいたい」
「智代……」
「朋也……」
「智代…………」
「朋也…………」
「智代…………!!」
「朋也…………!!」
ピカッ ガラゴログシャ〜ン
「ふぇえんっ」
智代がべそをかきながら俺に抱きついてきた。俺はと言えば、智代の胸が腕に当たってそれはそれでうれしいが、俺の嫁を泣かせたこと、そして俺たちのラブラブタイムを邪魔したことで天のド馬鹿野郎に一言申したくなった。俺はぎろり、と雲を睨みあげた。
(おいてめぇ、カミサマだろうがカミナリサマだろうが知らないけどな、俺の嫁を泣かせてどういうつもりだ?あァ?現役電気工を舐めてんじゃねえぞ、その気になりゃ、てめぇ、ひっ捕らえて生きた乾電池にしちまうぞ、コラ)
しばらくすると、実に情ない返答が返ってきた。
(すみましぇ〜ん)
雨は降り続けたが、それっきり雷は止んだ。
「へっ、楽勝楽勝」
「何のことだ」
「いや、智代のためなら何でもできるし、何でもするって話さ」
「……馬鹿」
「ははは……っと、お、晴れてきたな」
俺が指差すと、そこには雲の割れ目から太陽の光がカーテンのように降り注いでいた。雨の続く中、それはどことなく幻想的で、どことなく心安らかにさせた。
「やっぱ智代が笑うと、晴れるんだな」
「ば、馬鹿、そんなわけないじゃないか」
照れ隠しに怒る智代を弄っていると、どこからともなく声が聞こえた。
(お詫びでげす。どうぞよしなに)
(おう、サンキュな)
「どうしたんだ、急に黙りこんで」
ふと見ると、智代が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「いや……まぁ、強いて言えば仕事関連の奴にありがとうってところかな」
「何だそれは」
「ん。何でもない」
寒い外気は、手をつなぐのに格好の口実だった。柔らかい指の感触を楽しみながら、俺は智代に聞いてみた。
「なぁ」
「うん?」
「クマが甘える時の声って、どんなのなんだ?」
「さぁ……あぅぅ、とかじゃないのか」
「それじゃキツネだろ……いや、キツネの甘え声も聞いたことないけどな」
「みゃあ、じゃないだろうし」
「うーむ」
そんな馬鹿げたことを考えていると、不意に極大HITがきた。
「……くぅん」
「ぐはっ」
「だ、大丈夫か朋也!」
「あ、ああ。今のは一体何だったんだ?」
「いや、クマの甘えた時の声を私なりに考えてみたわけだが……ヘンか」
「いや、何だかしっくりきたぞ。しかし、うわ、インパクトあるな、それは」
「ふふふ、そうか?では……くぅん」
そう言って智代が俺の頬にキスをしてきた。正直、理性がすっ飛ぶかと思った。
「そんなかわいいクマは保護しないとな。ふふふ、智代、帰ったら覚悟しろ」
「楽しみにしているぞ……くぅん」
「ぐおお」
そんな、雨の帰り道。
「あ」
「お?」
「買い物を忘れてしまった」
「……しょうがないな。後で二人で行くか」
「うん、そうだな……くぅん」
「ぐはぁ」