俺の手元に、一枚の写真がある。
小熊ちゃんたち、と言ってももう二人とも独立してるから小さいわけではないんだが、まあうちの息子と娘が中学生だった頃の話だから、結構昔になる。その二人と、智代、この三人が映っている写真だ。
そこまでは普通だ。しかしこの三人は、小さな切り株を中心に立って笑っている。これは家族でお花見をしに行った時の写真だから、この切り株が桜の木だったことを想像するのは大して難しくないと思う。しかしここで誰もが悩む。何でまた、切り株なんかを中心に写真を?背景には淡い色の花を雨の如く降らせている桜の木が並んでいるのに、切り株を囲むのはいささか風変わりとはいえた。
まぁ、例によってちゃんとこれには訳がある、という話だ。
夕食の終わった食卓の前で、俺は智代と俺たちの小熊ちゃんたち、朋幸と巴の前で腕組みをして不敵に笑った。
「突然だがっ!ここで問題です」
「ああ、問題だな。父さんの馬鹿さ加減とか、特に」
場を盛り上げるようなイベント発表と同時に巴から厳しいコメントが来て、俺は一転してネクラ朋也君となり、部屋の隅で「の」の字を書き始めた。
「……あー、父さん、そうしょげ返らなくても……」
「朋幸、いいんだいいんだ。父さんは今、すっげぇ悲しい気分を満喫したいだけなんだ」
朋幸の優しさはわかったが、どうせどうせ誰も俺の話なんて聞きたくないだろうしな……
「えっと、その、私は朋也の出す問題なら聞きたいぞ?」
「よっしゃっ!復活!」
『早っ!?』
小熊ちゃんたち(と言ってももう中学生なわけだが)が口を揃えて突っ込んだが、俺と智代の愛には敵わなかった。
「で、問題だが、来週はみんなで楽しいお花見ですが、それに向けて俺が計画していたことがあります。それはなんでしょう?」
そう言い切ると、俺は団扇を取り出した。前に選択肢が三つ、後ろに正解が書かれているという、オッサン直伝のアレだ。ちなみに来週末は岡崎家、春原家、古河家、芳野家、坂上家に柊家、そしてその他のゲストというメンバーが大集合の一大イベントで、それには親父もこっちに来るという大掛かりなものだった。
「一番、花見。二番、鼻血。三番、離れ離れ」
「……」
「……」
智代と朋幸が真面目になって考えていると、巴がふん、と笑って立ち上がった。
「おいおい、どこに行くんだ?」
「付き合いきれないな。私は宿題があるので失礼する」
「ああそうか。ああ、ちなみにこの問いに正解した奴には母さんと一日中イチャイチャできる権利を与えるんだけどな」
「はっ、その手は古いぞ父さん。いくら母さんが最高でもだな、私がそうそうそんな手に引っかかると思ったら間違いだ」
「とかいいながらしっかりお前戻ってきてるのな」
しかも智代の隣に。正直、見えんかった。
「さて、では答えを聞こう」
「私はパスだ。大体、どうやって自分と一日中イチャイチャするというんだ?いや、そもそもそんな事を許可した覚えはないんだが」
智代のしごく最もな抗議をスルーして、俺は小熊ちゃん達に向き直った。
「どうだ?」
「俺は……せっかくだから敢えて花見を選ぶぜ」
「浅慮もいいところだな、朋幸。父さんがこんな質問を出す時、そんな無難な答えのはずがあるまい」
腕組みをして不敵にふふんと笑う巴。あ、ちなみに腕組みをすると、ほら、胸が強調されるわけで。やっぱり巴は智代の娘だなぁ、と父さんちょっぴり感動なわけで。
「では巴はどう答える?」
「まず花見は却下だ。あとは鼻血と離れ離れだが、父さんは杏先生によるとスケベな馬鹿だそうだから、ここは鼻血と行こう。思うに女性メンバーを銭湯に集めて男湯から覗き見するという破廉恥な作戦だろう」
「ブーッ!!正解は三番の離れ離れでした。というわけで明日の日曜日は一家離散だ」
ちなみに、巴の言う案もないではなかったが、いかんせんリスクが高すぎる。いや、裸を見たことが悪いんじゃなくてだな、恐らく後で「どうせ朋也は私のではなくて杏や早苗さんの方に目が行っていたんだろ」とか拗ねられそうでさ。
「巴、朋幸、明日は母さんと花見に行かないか?」
「うん、行こう。二人だけというのはいいなっ」
「いや、俺もいるんだけど……」
いつの間にか勝手に進められる話に、俺はあたふたと慌てた。
「待て!俺を仲間ハズレにしないでくれ!」
「朋也は一人でお留守番だ。これで離れ離れになっていいだろう?」
「智代、愛してる」
「うん、私もだ。だが別れよう」
「そこでその冗談を使っちゃうのかっ!?」
蘖
「フンフンフンフンフンフンフンフン」
当日の朝。俺は鼻歌交じりにデジカメのレンズを磨いていた。画素数1200万、光学ズーム十五倍、手ブレ修正あり顔認識ありの、結構ごつい奴だ。
「ご機嫌だな、朋也」
「おう、まあな」
俺の近くに茶の入った湯飲みを置くと、智代が隣に座った。
「そのカメラも、最初はあまり使わないかもしれないと危惧していたんだが、結局は頻繁に使うな」
「それだけ小熊ちゃん達の見せ場が多いんだよ」
「そうかもな。ふふ」
ちなみにこのカメラは最初、俺のへそくりを貯めに貯め、そして秘密裏に購入したのだが、頭が切れる上に掃除好きな智代にいとも簡単に見つかってしまい、学生時代の頃のエロ本よろしく、俺がある晩帰ってきたら仕事部屋の机の上にどでんと置かれていた。しかしそれについて口論になったりはせず、むしろ「まぁ、朋也にだって趣味はあったほうがいいしな」と許してもらえた。以来、野球の試合や行事の際には、このカメラは俺の首からぶら下がっている。
「だけど、見せ場が多いからといって、前みたいに中学校に忍び込んで盗撮なんてのは禁止だからな」
「……ハイ」
くそ、そこで計画段階で失敗した古傷に触るのか。
「それにしても、花見、か」
「ああ。実は杏に場所の下見しといてって頼まれてさ」
「そうか、なるほど」
そして俺はそっと智代の手に自分の手を乗せた。滑らかな感触が心地よかった。
「何つーか、本当にあっという間だな」
「ああ。あっという間だ」
不意に、肩に程よい重みと、リンスのいい匂いがした。智代が俺の肩に頭を乗せたのだった。そんな仕草が愛しくて、俺は智代を抱き寄せた。
「あっという間に過ぎていってしまうんだろうか。これからも」
「ん」
「今のような、ずっと続いていってほしい時間も、ふと気づけば終わっているんだろうか。私は、それが怖いんだ」
「智代」
「私が立ち止まっているのに、みんなが進んでいってしまって、取り残されてしまった気がして……時間は残酷だな」
智代がそう言って、俺の体に腕を回してきた。俺は言葉を探しながら、ただただそんな妻の体温を感じていた。
「……すまない、愚痴ってしまった」
「いや。気にするなよ。俺たちの仲だろ」
「……うん。ありがとう」
そう言うと、智代は立ち上がって笑った。
「お弁当の仕上げをしてくる。何、仕込みは昨日の夜のうちに済ませてあるからな。あとは簡単なんだ」
「期待してるぞ。何せ、智代の料理は最高だからな」
「うん、期待に副えるよう、腕によりをかけるぞ」
そう言うと、智代は台所に消えていった。俺はそんな智代の後姿を眺めながら、ため息をついた。
「いやっほぉおおうっ!お花見さいっこうっ!!」
「いや、まだレジャーシートとか広げてないし、まだ道を歩いてるところだし、そもそもそんな大声で言われると恥ずかしいって、父さん」
いつになく冷静なツッコミをする朋幸に、俺はにやりと笑った。
「いい線行ってるがな、朋幸。一つ見落としているぞ」
「何?」
「お前はそこで『お花見最高は岡崎最高のパクリだろ。そもそもそれは国崎何たらのリスペクトだし』と突っ込むべきだった!」
「ふ、不覚だぁああああああっ」
「お前、馬鹿だろ」
頭を抱える朋幸をジト目で睨む巴。そんな俺たちに後ろからついてきた智代がため息をついた。
「そんなに騒がなくてもいいんじゃないか」
「いや、ほら、智代とデートって久しぶりだし」
「あっ、ずるいぞ父さん!母さんとデートしているのは私だ!」
「はっ、結局クイズに勝てなかった巴ちゃんは、そこで俺と母さんがイチャイチャするのを指を咥えて見ていなさい、残念でした、べろべろばー」
「それ、どう考えても親としての責務がある大人のとる態度じゃないよな。あと、デートじゃなくて家族でお出かけな」
「まったく、仕方のない父さんだな」
「え?俺だけ?」
「そーだそーだ、父さんが悪い」
とまぁ、がやがやと賑やかに笑ったり突っ込んだり笑われたり突っ込まれたりしながら俺たちは歩いた。すると、急に青く晴れた空が見えなくなった。
「わぁ……」
「これは……すごいな」
一瞬声をなくす巴と朋幸。俺と智代はここには来たことがあったのでさほど驚いていないが、小熊ちゃん達は桜の壮景に目を奪われて、俺がカメラを出したのに気づかなかった。
ぱしゃり。
「あっ!父さん、レディーに許可なく写真を撮るのはマナー違反だぞ!」
「へっへっへ、今のポエミーな巴ちゃんの表情、しっかり写っていたなぁ。将来の旦那さんに見せたらどう思うだろうなぁ」
「え?そんなの巴にできるのか?」
「あ、無理か」
「朋幸も父さんも何を言っているんだ!私にだって将来嫁としての貰い手の一つや二つくらい」
「いるのかっ!父さんは許さんぞ!!」
「もう滅茶苦茶だな……」
その時一陣の風とともに桜の花びらが散る。
「お前たちはもう少し静かに桜を愛でることはできないのか」
智代に言われて、俺たちは「へーい」としょげた。
「しかし……本当に綺麗だな」
智代は笑うと、目を閉じて風を感じた。桜吹雪と共に舞う長い髪が幻想的だった。
「……」
ぱしゃり。
「あっ、と、朋也、勝手に撮るなっ」
「いやぁ、智代があまりにも綺麗だったんでさ」
「そんな恥ずかしいことも言うなっ」
「俺って幸福だなぁって」
「子供達の前でしみじみ言うなっ」
「あ、かわいい」
ぱしゃり。
「言っているそばからこれかぁっ!!」
「あ、父さん、後で私にも焼き増しを」
「一枚一万円な」
「安いな」
「って、勝手にそんな商談をするなっ!!」
「あーあ、雰囲気が台無しだな、こりゃ。あっはっは」
「誰のせいだ誰のっ!」
胸倉掴まれてゆっさゆっさと前後に揺さぶられても、俺は智代を愛し続ける自信はある……ぜ……
あ、あれ?
何だろう、この学校は?あ、あそこにいるのは京アニ仲間のハルヒ……じゃないな。うわ、ごつい銃持って矢がるなぁ……へ?死んだ世界戦線?何じゃそりゃ。
「あっ、父さんが白目剥いてるっ!!」
「な、何だって?!」
「思うに薄い色の髪をロングにした近接戦闘のうまいクールな生徒会長は智代一人で充分だと思うんだ」
「こっちに戻ってくるなりわけのわからんことを言う奴だな、お前は」
目が覚めた時、俺は桜の木の下で智代に膝枕してもらっていた。何というか、あの世なんかよりもこっちの方がよっぽどハッピーな感じだ。
「で、小熊ちゃんたちは?」
「うん、先に行ってスポットを探しに行っている」
「……父親が倒れたというのにか」
「それなんだがな」
智代がふと困ったような恥ずかしいような顔をした。あ、かわいい。
「さっき朋也の心肺機能が停止したから、人工呼吸をすることになったんだが」
「え?まさか朋幸が?」
「いや、私がだ」
「うお、ラッキー」
すると智代が恥ずかしさと困ったさん顔に怒りの色を少し混ぜた。
「だからと言ってだな、人工呼吸という一大事に、無意識でも抱きしめてきたり胸を揉んだりする奴がいるかっ!!」
「…………俺、そんなことをしてたのか?」
「ああ、してた。人工呼吸をするほうがそんな卑猥なことをしたら張り倒されるんだろうが、されてる方がそんなんだったら困るしかないじゃないかっ!」
「くそ、覚えていないな……なぁ智代、オッパイ揉ませてくれ」
「却下だっ!!」
「智代だって散々俺の胸を触りまくったのに」
「あ、あれは心臓マッサージだっ!性的な意味はないっ!」
「俺のだって性的な意味はないさ(棒読み)」
「信じられるかぁっ!!」
膝枕をしたまま、智代が俺をぽかぽか殴り始めた。
「あ、蘇生している」
「でもって叩かれている。父さん、父さんは死ぬ間際でもそんなんなのか」
呆れ顔でやってくる巴に、俺は親指を立てて笑顔で言ってやった。
「ふっ、それこそ岡崎クオリティ」
「えらくやなクオリティだよな、父さん」
「もう少し品質管理を何とかしろ。品性も」
ああ、近頃の若者の毒舌にはきついものがありますなぁ。
「それで、首尾は?」
体を起こしながら聞いた。
「うん、あっちのほうにな、桜の木が結構密集しているところがあるんだ。八重桜が特に綺麗だぞ」
八重桜は濃い色が映える上に他の桜よりも長持ちするから、来週来ても大丈夫だろう。
「よっしゃ、ちょっと見てこようか」
俺は立ちあがると、智代に手を差し出した。笑顔でその手を握る智代。
「そういえば、ここらへんはずっと前に来たことがあったな」
桜の花びらが舞い落ちる中を歩きながら、俺は智代に笑いかけた。
「ああ、そうだったな」
「何だそれは。父さんと母さんが恋人だった頃の話か」
興味深々な顔で巴が首を突っ込んできた。
「いや、そう昔の話じゃないぞ」
「そうだな、強いて言えば俺たち四人の初めてのお花見、ってところだな」
「初めての?初めてのはここじゃなくて駅の近くじゃなかったっけ」
首をかしげる小熊ちゃんたちを前に、俺と智代はふふふ、と笑った。
春の日差しは強かったが、気温は涼しかった。そんな年の話だ。
俺は長い間休みが取れなくてやきもきしていたが、涼しい春のおかげでようやく休暇となった時でもまだ桜は残っていた。充分あったかくした上で、俺たちは桜並木の下を歩いた。
「学校の桜は、まぁ残念と言ったら残念だな」
「そうだな。でも伐採ではない。それが救いだな」
「ああ」
智代が守った俺たちの通学路にあった桜並木だが、数年前にまた伐採計画が持ち上げられた。無論一般市民として反対もしようかと思ったが、今度は智代がいた時よりも大規模な反対運動が生徒の間で起こった。しかし伐採計画を二度も発案するからにはそれなりに強い支持もあったわけで、結局は双方の言い分を聞き、桜並木は学校の周りを囲むように移植されることになった。ただ正門の左右には昔の名残のように桜が一本ずつ残してある。
「けどな、今日行くところも綺麗なんだ」
「ふふ、期待しているぞ」
それはゆったりとした散歩だった。からから、とタンデムのベビーカーのタイヤの音が鳴った。
「それにしても二人とも静かだな」
「朋幸は……寝ているのか。巴は静かな子だからな」
智代がベビーカーを覗き込むと、巴が覗き返してきた。そんな仕草に、俺たちは顔を合わせて笑った。
「巴ちゃんはごきげんでちゅね〜。かーさんっこなんでちゅね〜」
「でも、だからと言って朋也のことが嫌いって訳じゃないと思うぞ」
「どうかな?俺が抱き上げると、決まって泣いたり難しくなったりするんだけどな」
「それはお前がいつも『はれほれうまうー』とか言うからだろ」
「朋幸は笑ってくれるんだけどなぁ」
苦笑しながら俺は坂道をベビーカーを押しながら上った。さすが「坂」と名前にあるだけのことはあって、この町は坂が多い。
「なぁ智代」
「ん?どうした?」
「一緒に押さないか?」
そう言いながら、俺は横にずれてベビーカーの左側と中心を支えるような形をとった。
「うん、じゃあ、そうしよう。ふふ、これはとっても母親らしいとは思わないか」
「実際に母親だしな」
そうして二人並びながらベビーカーを押した。肩に預けられた智代の頭の重さが心地よかった。
「あれは……すごいな」
智代が一本の桜を指差した。なるほど、天高く伸びた幹からは空を覆わんばかりの枝が広がっており、その末端一つ一つに美しい緋色の花が咲いていた。
「私に見せたかったのはこれか?確かに素晴らしいな」
「いや、これじゃないな」
ふむ、と俺を見る智代。そして恐らく俺の顔に少しばかりの悪戯の色を見たんだろう、智代もにっこりと笑った。
「じゃあ、今度は朋也の見せたかった光景に連れて行ってくれ。私はそれを見てみたい。そして初めての感想を、朋也に聞いてもらいたい」
「そうだな。じゃあ行こっか、巴ちゃん」
「あ!」
「うう!」
突き出された二つの小さな右手を見て、俺は笑った。そうか、朋幸も起きたか。
辺りは桜の匂いで一杯だった。日差しは強いのだろうが、ここでは寧ろ空の方が視界の片隅に追いやられていた。俺たちはその大きな桜の木から少ししたところで立ち止まった。
「…………なるほど」
「どうだ?」
その木は、他の木から少し離れたところにぽつんと立っていた。風に揺られ、五月雨の如く緋色の花びらが空を舞った。
「うん、朋也が私に見せたいと思った理由がよくわかったぞ。これは……すごく、綺麗だ」
「俺たちらしいんじゃないかって思ってな」
「うん、そうだな。ぴったりだ」
その木は、根元近くで二つに分かれていて、それぞれに立派な枝を生やしていた。そして微妙にねじれている幹が、まるで想いを共にする二人が寄り添うようにも見えた。
「何でもここによく来る人によると、夫婦桜、って呼ばれてるんだってな」
そう言いながら俺は智代の肩を抱き寄せた。智代が頭を俺の肩に、そして俺はその頭に自分の頬を預けて、しばらくこの一時を満喫していた。
「要するに父さんは母さんと存分にイチャイチャしたから、私と母さんのイチャイチャを許してくれると、そういう話なんだな」
始終不機嫌そうな顔をしていた巴が、話の終わりにそう聞いてきた。
「いや、そういう話じゃなくて、むしろ父さんと母さんの愛は永遠だという話だ」
「異議あり!それには激しく異議ありだぞ父さん!!」
「なぁ母さん、この二人をほっといて、その桜とやらが見てみたいんだが」
「そうだな……ただ二人を置いておくとどんな迷惑を他人様にかけるかわからないからな」
智代はため息を吐くと、魔法瓶にあったお茶をすすった。朋幸も「あー」と言ったっきり、箸でつまんでいた唐揚げに意識を向けた。
俺たちは今、さっきの話で出てきた大きな桜の木の下でレジャーシートを広げて昼飯をとっていた。桜の壮観。隣には相思相愛の美女。目の前にはうまい料理。うん、至福かな至福かな。
「しかし智代、よく俺が鮭コロッケ食べたいなんてわかったな」
「ふふふ、連れ添って何年経ってると思ってるんだ。お前が何を食べたいかぐらい、大体予想はつく」
「智代……」
「朋也……」
「智代…………!」
「朋也…………!」
「智代っ!!」
「朋也っ!!」
「あー、それすると桜の色が霞んじまうんだけど」
朋幸の冷静なツッコミと巴のわざとらしい咳で俺たちは現実世界に引き戻されてしまった。
「まあ、何があっても父さんと母さんの仲がいいってのはいいことなんだろうけどな」
「まあな。明日核ミサイルのボタンが一斉に押されるってことになって、宇宙救命ロケットに空きがあっても、智代と一緒じゃなきゃ乗らないな」
「私も、朋也と一緒じゃないんだったら嫌だぞ。そうするくらいなら世界の最後まで一緒にいる」
「智代……」
「朋也……」
「はいストップ。またループに入るところだったぞ、母さんも父さんも」
呆れ顔で巴が言った。その仕草は、あたかも幼稚園の頃の教諭であるところの杏にそっくりだった。うーむ、何で似ちまったんだろう。
「で、その桜とやらはどこにあるんだ?見てみたいな」
昼飯が終わったのでレジャーシートを片付けたりお弁当箱をしまったりしながら、巴が俺に聞いてきた。すると、智代が表情を曇らせた。
「残念だが、その桜はもう見れないんだ」
「え?何でまた」
朋幸が意外そうに聞くと、智代の顔がさらに翳る。
「あの桜の木はな、三年ほど前に落雷でやられてしまったんだ。他の木から離れていたのがまずかったのかもしれないが、ひどかったそうだ」
「そうか……」
そんな状況は想定していなかったのだろう、巴も朋幸も驚き半分残念半分といった顔をした。
「んー」
そんな重い空気の中で俺が少しばかり間の抜けた声で唸ったので、みんなの視線が俺に向けられた。
「どうしたんだ、朋也」
「いや……やっぱさ、見に行かないか、その桜」
「は?」
「雷に焼かれたんだろ?」
「いいからいいから。どうせすぐそこだしさ」
そう言って俺は智代の手を引っ張った。それにつられて智代が、そして小熊ちゃん達が俺に続いた。
「朋也、その……」
「うん?どうした」
歩きながら智代が俺に小声で囁いた。
「私としては、そういう痛ましい光景は見たくないんだけどな」
「大丈夫だって。お前に見せたいものがあるんだ」
「でも……」
智代が反論しかけたとき、俺たちは桜の並木を抜けた。そこは、ちょっとした木たちの広場になっており、中心にぽつりと切り株がコケに覆われていた。
「……何だか寂しいな」
「ああ……」
ぼそりと呟く小熊ちゃんたちと、項垂れる智代。そんな家族に手招きをしながら、俺は切り株に近づいていった。
「ここ、ほら」
「何だ?」
訝しげに近づいてくるみんな。最初に気づいてくれたのは智代だった。
「あ」
「え?何だ?」
「あっ、それっ」
智代につられて、小熊ちゃんたちも気づいた。
その切り株は、雷で焼かれた桜の木を根元に近い位置で切った時にできたものだった。しかし、市役所に依頼された業者は、恐らくその切り株の根を見て、切り株を残すことにしたんだろう。
切り株の根元からは、細い枝が四本、四方に向かって伸びていた。
「これって、ひこばえ、って言うんだってさ」
切り株を凝視している四人に、俺が言った。
「こうやって切り株から芽が伸びていって、そして新しい幹になるんだ。昔はこれだけで山の木は維持されたんだってさ」
「つまり?」
「この木は死んでなんかないさ。終わってなんかいない。まだまだこれから、ここからがスタートなんだよ」
あ、と小さな声をあげたきり、智代が俺を黙って凝視した。
「なるほどな、雷に撃たれちまったら木でもだめだろうな。だけどさ、実際にはこうやって次の一歩を踏み出せる。全てが変わって悲しいことがあっても、それでも前に進める。それは、あそこで見事な枝ぶりを見せてる木でも、こんな切り株でも同じなんだ」
時は確かに残酷で、変わらないものなんてないのかもしれない。
俺たちだって、いつまでもこうしてはいられない。朋幸も巴も、いつかは自分の道を求めて俺たちから離れていってしまう。
だけど、進んでいない奴なんていない。立ち止まっている奴なんていない。
離れ離れになっても、この切り株みたいに俺たちは繋がっていて、そして四方にむかって伸びていく。前に進んでいく。
「なぁみんな、写真、撮らないか」
俺が笑うと、智代も朋幸も巴も、にかっと笑い返してくれた。
「賛成だな」
「ああ。いいアイディアだ」
「いいな、そういうの」
あの頃から、俺たちはもう随分遠くに来てしまった。
それは本当にあっという間で、それが少し残念だと思ったこともある。
だけど。
俺はその写真に笑いかけながら思った。
俺たちは、あれからやっぱり随分前に進んでいったんだと思う。そして今でも歩いてるんだと思う。だから、今でも笑える。
「朋也」
不意に、智代が俺を呼んだので、俺は写真から目を離した。そうだな、変わっていないことと言えば、智代が綺麗だって事と、俺たちがラブラブだってことだろうか。
「あの時の写真か」
「ああ、そうだな」
どれどれ、と智代が横に並んだ。寄り添いながら二人で写真を見た。
「あの桜の木、今では家族桜、って呼ばれてるんだってな」
「ああ、そうだな。立派に伸びたな」
「今年は、またみんなで集まるか」
「うん、そうできるといいな」
「なぁ智代」
うん、とこっちを向いた智代の頬に軽くキスをした。
「これからも、一緒に歩いていこうな」
「ああ。一緒に、一歩ずつ」