「ん」
硬いものが窓にぶつかる音を聞いて、俺は目を覚ました。湿り気を含んだ冷気と、砂利をバケツで掬って窓にぶちまけるような音、そしてそれに混じって聞こえる水の音。今夜は結構激しい雨だな、と思う。
体を起こそうとして、俺は心地よい重みと体温、そして俺の肩に乗ったままの、ピンクのパジャマに包まれている美しい腕に気づいた。
「ん……んん」
眉をひそめて、智代が呟く。でも、すぐにまた難しい顔から優しい寝顔に戻る。智代は誰かに起こされない、あるいは時計が六時を指さない限りは起きないほど深く眠りに就く。だから俺は智代を起こさないよう、ゆっくりベッドに再度沈み込んだ。
次の瞬間、窓の外で閃光が一瞬光り、数秒後に巨人の苦悩の叫びのごとき雷鳴が轟く。そういえば、と思い出して、俺は智代の髪をなでた。智代は実は雷が苦手で、小さい頃はよくテーブルの下に隠れていたそうだった。今ではびくっと体を震わすだけだが、そうなった後「怖くなんかないからな?」と強張った笑顔と潤んだ瞳で言う智代は、絶対に女の子らしいと思う。畜生、可愛すぎだぜ。今そんな顔が見られないのが残念だ。
とか考えていると、その思考は移り移って俺達の愛の結晶に焦点を当てた。そういえばもうそろそろ……
こんこん、こん
扉をためらいがちに叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
がちゃ、と扉を開けたのは朋幸だった。怖いけどそれを認めるのが恥ずかしい。そんな感情がありありと顔に出ていた。
「どうした、二人ともこんな夜中に?」
少し意地悪をしてやった。そんなの、巴を見れば一目瞭然だった。いつもは智代のミニチュアのごとく毅然としている巴は、今では昔の智代よろしく、大きなシロクマのぬいぐるみ(確かエリックだったと思う。確証はないが)を抱きかかえて、目に涙を浮かべていた。ああ、可愛いなぁ……
「あ、あのね父さん……」
ピカッ
二人が硬直する。そして窓を見ていると
グルゴロゴロゴロゴロン
「父さんっ!」
半泣きで巴が俺に抱きついた。いつもならありえないシチュエーションだったが、智代が起きないことを知っているのだろう。
「よしよし、母さんを起こしちゃまずいから、下に行こうな」
俺は智代を間違えても起こさないよう細心の注意を払いながらベッドから抜け出した。
雷雨の真夜中の過ごし方
階段を下りるとき、結構ひやひやした。外は未だに土砂降りで、雷が鳴るたびに小学生二人が俺の腰辺りにしがみついてくるのだから、まぁ普通に危ないわけだ。
「よし、台所行こう、台所」
不安げに辺りを見回す朋幸と、べそをかいてる巴をつれて、こじんまりとした、しかし使い勝手のいい台所に移る。電気がつくまでの間、二人はぎゅっと俺の裾を放さずにいたが、蛍光灯が数回点滅した後に光ったら、安堵のため息をついた。
「大丈夫だって。ほら、ピカッてなってからゴロゴロ言うまでの時間、長くなってるだろ?雷も遠ざかってるんだよ」
「……うん」
「はい、巴、ちーん」
ティッシュを巴の顔に近づけていった時、ピカッと雷が光った。
「うぅううう」
また泣きそうになる巴。その涙をまず拭いてやる。
「ほら、いーち、にー、さーん、しーい、ごーお……」
遠くで太鼓のような音が響く。しかしこれだけ遠ければ、まぁ大丈夫だろう。
「な?遠くなってるんだよ。ほら、洟をかもうな」
違うティッシュを渡してやると、巴は大きな音を立てて洟をかみ、そしてさっきのぬいぐるみを抱きしめた。
さて、普段ならこれでいいわけなのだが、今の時間は午前一時。小熊ちゃんたちは寝ていなきゃいけないが、どうもさっきの音のせいで、今少しは寝付けないらしい。こういうとき、親父はどうしていたっけ、と思い出そうとするが、そもそもあまり真夜中に起きたという記憶がない。忘れちまったのか、はたまたよく寝た子供だったのか。今の自分のことを考えると、どうも後者の気がしてならない。
困ったな、と思いながら台所を見回していると、朋幸がくいくい、と俺のパジャマの裾を引っ張った。
「ねえ父さん」
「おう、どうした?」
「ミルロのんでいい?」
見ると、やかんのそばに栄養補給で体にいい、というキャッチでお馴染みの緑のパッケージのチョコレート味麦芽飲料が置いてあった。子供の頃はこれを飲むのがすごく楽しみだったなぁ、と思い出して苦笑する。
「朋幸は雷怖くないのか?」
「すこしこわいけど、だいじょーぶ」
で、一応俺もいるし、明かりのついた台所にいるしでようやく安心したのか、今度は少しお腹が空いたらしい。現金とも言えるが、やっぱり可愛いなぁ……遠くで「むにゃむにゃ……アンタ親馬鹿っすねぇえええええっ!……むにゃ」と寝言が聞こえたが、全然気にしないことにした。
「まだあったんだな、こんなの」
「いいの?」
「ああ、今作る。巴も飲むか?」
「……うん」
牛乳を電子レンジで温めて、それをミルロ粉末と混ぜて三つのコップに入れた。え?何で三つかって?いやぁ、父さんを仲間外れにしないでくれよ。
「ほい、できた。熱いから気をつけろよ」
「……あつい」
言っているそばから、朋幸が舌を出した。ああ、こいつは本当に俺の子供なんだなぁ、と実感して、将来のこいつに今のうちに謝っておく。父さん、馬鹿な遺伝子渡しちゃってごめんな。
「巴、クマさん置いて飲んだほうがいいと思うぞ」
「でも、ジミはこわくてはなれたくないって言ってるんだ」
それはお前だろ、と言いたくなったけど、まぁ可愛いので笑って許してやる。しかし、それはエリックじゃなくてジミだったか。まだまだ修行が足りないな。何のだ?シロクマのぬいぐるみの見分けがつく能力のか?いるのかそんなの?
「でもこぼすとシミがついちまうしなぁ……まあとにかく座ろう」
とまぁ、三人でちゃぶ台を囲む。しかし、やまないかな、この雨。これじゃあ雷がなくてもうるさいだろうに。
「なぁ、二人とも、眠くなったか?」
『ぜんぜん』
即答かよ。少しは高校の頃の俺を見習え。
「父さんが高校のころは、どんなふうだったの?」
「それはだな」
授業が始まる頃にはまだベッドで寝ていて、三時限目に登校。昼休みまで寝た後、めしを食って下校時まで爆睡。
「やっぱ見習わなくていい……」
「母さんは高校生の頃、朝は早く起きて、父さんのお弁当作って、父さんを起こして、勉強に励んで、夜は父さんと同じ名前のクマさんと一緒に寝ていたと言っていたぞ」
「そうだな、うん。小熊ちゃん達は母さんのほうを見習ったほうがいいな、うん」
「父さんは、あまりいい見本じゃないのか」
「ま、まぁ……」
そこで俺は気づいた。もしここで岡崎チャンネルを点けたとしたら、ニュースではこういう風になっているだろう。
『次のニュースです。ただいまの父さんの「俺はあまりいい見本じゃない」発表で、父さん株の価値が暴落、父さん株を買っていた小熊ちゃんず株式会社と母さんは大損することになりました。なお、小熊ちゃんず共同社長の朋幸君と巴ちゃんは困惑を隠せずにおり、母さん株の買占めを行うものの、いつ父さん株のように大暴落するかわからないから不安だ、もしかするとこれは商法取引上で言われる家庭崩壊にも繋がるのではないか、とコメントしております。いやぁ、父さん株を買っていなくてよかった。まぁ、もともと大した値段じゃないですけどね』
やっべ、俺の一言で家庭崩壊の危機が引き起こされる予感がする。何とか父さん株の値段を引き上げはしないものの、現状維持せにゃならん。
その時、俺はふと秘密兵器の存在を思い出した。
「よおし」
「うん?どうしたんだ父さん?」
「ま、まさか」
「おう、そのまさかだ。ふっふっふ、秘密兵器はこのときのためにある」
怪訝そうな顔をする巴、それに対して目をか輝かせる朋幸。智代、今、俺、輝いてるよ。
「お宝の本の登場か?」
「そうだお宝の……って、誰だそんなことを言うのはっ!」
するときょとん、と首をかしげた朋幸が言う。
「え?でもかんとくが、『いいか朋幸、男はなぁ、誰でもお宝の本をどこかに隠してるんだぞ。それはな、見るだけで幸せになれる本なんだぜ』って言ってた」
「何だか女は見るな、と言われている気がするぞ」
「うん、かんとく、『女には見せるなよ?絶対に怒るからな。朋幸も買ったら、ともぴょんにはみつからないようにするんだぞ』って言ってた」
オッサン、小学生に何てことを教えやがる。
「違うのか?」
「ちがわいっ!少し待ってろって。あと、その話は母さんには言うなよ?」
絶対に虱潰しに家中を探すに決まってるからなぁ、俺がエロ本を持っているかもしれないなんて聞いたら。そして見つけたら「私は魅力なしなんだ……ああ、でもそもそも私は非行少女だったからな、朋也のような旦那様を繋ぎとめておこうなんてことがそもそも無理なんだ」とか落ち込むだろうなぁ。
エロ本はないが、俺の「仕事部屋」には確かに宝物が隠されている。俺はそれを引き出すと、机の上に置いた。
お宝その一。宝塚望虫のマンガ全集。いつか朋幸にも読んでもらって、感動を分かち合いたいと思う。しかし、巴も一緒にいるうえに、真夜中の家族のスキンシップがマンガ読書大会というのも少し嫌な感じがする。
お宝その二。新天堂のゲーム機とイタリアの配管工、マルコのカートレースゲーム。これなら参加者同士で熱くなれるが、コントローラは残念ながら二つしかない。みんなで遊べないのが問題だ。
そもそも、二つの宝は智代に「あまり遊びすぎると、だらしなくなってしまうぞ?」と釘を刺されてしまい、発表を差止めされているものだ。ここで出してしまったら、後で鬼より怖い智代さんの「朋也君」モードが待っていそうだ。長生きと家庭平和の秘訣とは、危ない橋を渡らないに限る。
そう考えていると、ちょうどいいお宝が見つかった。これっばかりは買ったものの、今まで時間がなくて見たくても見られなかった代物だ。
悪いな智代。俺は今、父さん出演小熊ちゃんゲストの、ダディー&キッズタイムに移行する。どこのアメリカの番組だそれ。
案の定、俺のアイディアは即効で可決され、早速俺はDVDをプレーヤーに入れた。結構安物だからロードするまで時間がかかるのだが、小熊ちゃん達はそれをいつもよりも待ち遠しくテレビの前でうずうずしていた。
やがて現れるタイトル画面。字幕をつけて、そーれ、ぽちっとな。
「おいおい、二人ともテレビからは離れて見なきゃだめだぞ」
「う、うん。わかっているんだけど」
「父さん、いつの間にこんなのを買ったんだ?すごくわくわくするなっ」
「よしよし。ほら、こっちこい」
うん、と渋々テレビから離れて俺の隣に座る二人。そして映画が始まる。
暗転する画面。フェードインする白字の監督名や主演名。そして始まる夏の大ヒット映画。
タイトルも「ポット屋ハリーと魔女のバイククーリエ」
話としてはなかなか面白いと思った。
メガネをかけた魔法使い見習いが、同じく見習いの魔女の少女と出会い、そして箒を侮辱されたため、少女のバイク便と真っ向対決、箒でメッセンジャーをやるという映画だった。夏ごろに確かにポスターはよく見かけたし、同僚や部下達がデートやら家族サービスやらで見た、という話は聞いていたので、DVDが出たときにいの一番で買ったのだった。
しかし惜しむらくは、その晩俺は映画の最後まで見ることができなかったということだった。いや、別に停電とかDVDが違法コピーで途中で見れなくなったとか、そういうことではなくて、とどのつまりは
「…・・・すぅ……むにゃ」
「くぅ……くか……」
映画の中ば頃、ふと気づいたら小熊ちゃん達は俺の胡坐を枕に寝ていたのだった。俺は苦笑すると、リモコンでDVDプレーヤーを止め、テレビの電源を切った。そして、レディーファーストということでまず巴を部屋まで抱きかかえると、ベッドに入れて、隣にジミを沿えてやった。次に朋幸もベッドに寝かしつけると、ちゃぶ台に置きっ放しだったコップをキッチンシンクに持っていって手で洗う。時計を見ると、もう三時だった。そう思ったとたん、あくびが漏れた。
次の日のこと。
当然寝不足気味で一日を何とか乗り切った俺は、ようやく家に着くとドアを開けた。
「ただいま」
『おかえりなさい』
ん?居間で音が聞こえるぞ?しかも今三人とも一斉に言ったからには、みんなそこで何かしているのか?
興味深々で居間をのぞくと
『解き放て!僕の中にあるマナ!バイクになんか負けるなぁああああ!!』
『箒なんて過去の遺物……そう思ってたのに、何なの、この底力?くっ、負けて……たまるものですかっ!!』
智代のそばで、小熊ちゃん達は手に汗を握り締めながら画面に見入っていた。
「ハリー、がんばれ!」
「あと少しだぞっ!」
「二人とももう少し落ち着いたらどうなんだ?」
興奮する子供達をたしなめて、智代は俺に目配せをした。
(抜け駆けだなんて、ずるいな朋也は)
そう言われている気がした。
「お疲れ様。昨日寝ていないから辛かったんじゃないのか?」
「あ……ああ、まあな」
「ふふふ」
智代の隣は取られていたので、後ろに座って抱きしめ、肩越しに映画の最後を見た。
『箒は、家の掃除にも使えるんだ。古いからって、無碍にしちゃだめだよ』
『わかったわハリー、私が間違ってた』
『いいんだ。だって僕達、友達じゃないか』
『ハリー……』
結構かっこよく決まっているけど、あれ、確かハリーには同級生の女の子や、親友の妹もいなかっただろうか。こんなところでフラグ立てていていいんだろうか。またまた遠くで「それ、あんたが言いますかねっぇえええええええっ!!」とか聞こえた気がしないでもないが、まあスルーしよう。
「さて、映画も終わったんだし、約束通り宿題をやって、寝る前に母さんに見せるんだぞ」
『はーい』
二人は笑って足を伸ばすと、とたとたと自分達の部屋に戻っていった。智代が向き直る。
「今日掃除をしていたら、買った覚えのないDVDのケースが出しっぱなしだったんでな。小熊ちゃん達に聞いたんだ」
いたずらっぽく笑う智代。それに対して俺は苦笑することしかできなかった。
「全く、私をほっぽいて小熊ちゃん達にサービスか。仕方のない奴だな」
「ここんところ、あまり構ってあげられなかったからな」
「うん、朋也が小熊ちゃん達のことを大事にしてくれるのには異存はない。ただ……」
「ただ?」
唇を少し尖がらせて、智代は腕組みをした。
「私へのサービスはどうなるんだ?」
どうやらともぴょんは小熊ちゃん達に嫉妬している模様。極大HIT。
「そりゃあもちろん今からだ」
「今からって……でも夕飯の支度をしなきゃ……」
「まぁまぁ」
智代を抱きしめ、そして軽くキスをした。居間どころか、一階には俺達二人だけ。すごくおいしいシチュエーションだとは思わないか?
「さーて、父さん張り切っちゃうぞ」
「ちょっ、朋也、その手のわきわきはっ!」
結局、小熊ちゃん達がお腹が空いた、と言いに来るまでいちゃいちゃする二人だった。