「なぁ有紀寧。さっきからあの客、変じゃねえか」
そう誠一さんに言われて、私はそっと誠一さんの後ろの方に目をやった。
年は五十代に差しかかったぐらいだろうか。青いシャツ、縞柄のネクタイにダークブラウンのスーツを着こなしているところ、結構渋いところがある。それだけならばシックな男性とも言えるのだけど、かけているサングラスはどことなく危なさそうな雰囲気を醸し出していた。
「さっきからいろいろと注文してるんだけどな。辺りをきょろきょろ伺ったりして、怪しいったらなんねぇ」
「……無銭飲食さんでしょうか」
私は結構心配して言った。無論、お客様のことを、である。誠一さんは私には優しく、所謂若い衆や兄弟分にも惜しげもなく侠気を振りまいている方なのだけれど、無銭飲食にはうるさい。誠一さんが言うには無銭飲食はお金の問題ではなく心意気の問題らしい。つまり、差し出された料理やお飲み物と一緒に出している真心を踏みにじって逃げようとするその不純な心意気が許せないそうなのだ。
「いや、あいつぁそんなんじゃねぇ。食い逃げならもっと逃げやすそうなポイントがある。それにこの店であんな洒落者、注意を引いてなんねぇ。食い逃げなら逃げやすく、目にとまりにくく。ここがミソだ」
「そういうものなんでしょうか」
「おうよ。まぁ、逃げようとしても逃がさないがな」
そう言って誠一さんはレジの横の台をばしんと叩いた。台の下には小さなボタンが設置されていて、押すと防弾シャッターが戸口と窓全てに降りる。完璧にシャッターが閉まるまでの時間はおよそ1.7秒。もともとはカチコミ対策に設置したものだったが、こうして無銭飲食の現行犯を捕まえることもできる。そして捕まった無銭飲食犯は、そのまま警察に突き出す、場合もあるけど時と場合と誠一さんの腹の虫の居所によっては(以下二千字検閲)
閑話休題。
「ちょいと探りを入れてみるか……おい、アツ」
「うす」
角刈りの似合う本日の「Folklore」のバーテン、赤塚篤憲さん通称「アツ」さんが顔を出した。
「あそこにいる客、わかるか」
「うす。あちらの不審な雰囲気を醸し出してる男性客でやすね」
「おう。ちょいと探りを入れに行ってくれ」
「……食い逃げには見えやせんが」
「だから余計怪しいじゃねぇか。食い逃げなんざ屁でもねぇ。けど、あそこの男、何だか妙な気配を感じるぜ」
「……わかりやした。ちょいと話を聞いてきやす」
「苦労をかけるな」
「いえ。これも組のためですから」
そう言って歩き出したアツさんの背後に、何故か桜吹雪が見えたような気がした。
「お客様に話しかけるのに、命かける必要もない気がしますが」
「お、話しかけると命かけるか。かけるにかけてるなんざ洒落の二乗、まさにかけ算だな」
「…………」
「い、いや、その、かわいそうなものを見るような目はやめてくれ」
「…………………」
「その、蔑むような目もなしにしてくれろ。俺が悪かった」
「わかればいいのです」
これでもわからなければお呪いに頼るほかないと思っていたのだけれど、案外物わかりのいい誠一さんです。
「それにしても、喫茶店にバーテンなんていましたっけ」
「や、須藤のところに行ったらかっけぇ奴がいたんで、うちにも欲しいかな、とか思ったりしてな」
「須藤さんのところは居酒屋です。喫茶店とは違います」
「?違ったか?まぁいいか」
「そもそも居酒屋さんにもバーテンは普通いません」
「ははは、有紀寧、そもそも俺らが普通じゃねぇよ」
「そうですけど……そうですけど……」
そこは開き直るところじゃないと思うのだけれど。殿方とはこんな呑気なものでいいのだろうか。教えてください、智代さん、杏さん。
「お、戻って来た」
項垂れる私を尻目に、誠一さんが呟いた。見るとアツさんが紙のように白い顔でこっちに歩いてきていた。
「で、どうだった?あいつぁ何者で」
お客様です。
「そ、それが兄貴、さっぱりわからんので」
「わからねぇ?」
「う、うす。面目ねぇ」
アツさんが気まずそうな顔をしたので、私たちは顔を見合わせた。
「お客さん」
「ん。何だね君は」
「うす、ここのバーテンです」
「バーテン……ここは喫茶店だろう」
「それでもバーテンがいるのかね」
「うす。兄貴がいるというんでやしたら、この喫茶店には板前もシェフもソムリエもタマヨケも鉄砲玉も揃えやす」
「……最後の二要素は特にいらんと思うのだが、まぁいい。それでそのバーテンが私に何か用かね」
「うす、職業上、一人きりの男性客のところには相談を聞きにいかにゃならんので」
「……どこから突っ込むべきなのか困るとは婿の言だが、今ならそれがしっくりくるな。とりあえず、男性客だけとは男女差別も甚だしい。また、私は特に悩んでいるようなことはない。そして最後に君の前提は間違っている」
「……お客さん、男を辞めなさったんであいてっ」
「何を失礼な事を言うのだね君は。ぶち殺して海の底に沈めてほしいのかね」
「い、いえ、滅相もございやせん……」
「とにかく、私は一人ではない」
「……………………」
「その『お客さん、お疲れになってるんでやすね?心に傷があるから、別れた女とまだ一緒だと思ってやすんでしょ?辛いことがあるなら聞きやすぜ?』という顔をする前に全部聞きたまえ。私は今、ある女生と待ち合わせをしているんだよ」
「はぁ、所謂ランデブー、と」
「そうそう。しかし面白い喫茶店、と聞いていたので、吸血鬼やカレー好きの武闘シスターやら英霊やら魔術師やら魔眼の持ち主やらがひしめいているのかと思ったが、そういうわけではないのだな」
「……はぁ」
「しかし、ここの内装は気に入った。悪くないではないか」
「お気に召しやしたか」
「うむ。まずは窓。厚さ10センチの防弾ガラスとは恐れ入った。これならRPGの直撃弾を受けてもまずは安心だろう」
「なっ」
「次に扉だが、さすがに人が開けるとなると重くは作れない。その代わりに軽いチタン合金の板を仕込んであるとは見事だ。しかし、仕込んでいない時といる時とでは、蝶番の音が違うものなのだな」
「……」
「しかもそれだけでは足りんと見えて、防弾シャッターも下りる仕掛けになっているとはな。これなら客も安心した一時を寛げるというものだろう。素材を惜しみなく使った防護壁でなければ、これだけの安息感は得られまい」
「…………」
「内装も奢ったな。一見ワックスがけされたかのように見える床も実は防火塗装を施している。そういえば……ほう、グラスも対ショック性に優れている物を選んだな。これなら不届き者が割ってその破片を振り回すという事態も起こるまい。実に気の利いた、素晴らしい店だ」
「……………………うす。お褒めいただき、ありがとうございやす。どうぞごゆっくり」
「ゆっくりさせていただくとも。ボディガードを連れて行けとコンシリイェーリが煩かったのだがな。無粋だと切って捨てて正解だった」
奇妙なお客
「何てこった……うちの物理的セキュリティが全部読まれていたとは……!!」
「普通の客じゃありやせん。タダもんじゃねぇ」
「くっ……かくなる上は改築するか」
「あなた」
このままだとまたどこぞの怪しげな商人を通して外国の軍隊から使用済みの装甲を取りよせかねない誠一さんに、思い切り笑って見せた。
「ご冗談ですよね」
「お、おう」
「某フルメタルなチンドン劇じゃないんですから、そもそも一喫茶店にそんな対人装備が必要なんですか」
「い、いや」
「それに、知られたからと言って尚更過激な防御にして、『一般の』お客様が遠のいたらどうなさるおつもりですか」
「あ、ああ、それも一理あるな」
「大体あなた、皆さんと仲良くするという約束なのに、こういう対人装備があるという時点でアウトなのでは?どうやらお呪いの本を」
「あっはっはっは、有紀寧は冗談がうまいな」
「冗談だと思ってらしたんですか」
「……ごめんなさい」
平伏する誠一さん。すると、静かな店内で(上記の会話は声をひそめてお送りしました)、携帯の着信音が鳴り響いた。
「私だ……ふむ……それでその芸能プロダクションは何だと言っているんだ……『断れないオファー』だとは言ったんだな?……次回?次回などない。今から動く。よし、ちょっと待て」
そう言って携帯を切ると、件の男性客は立ちあがってこちらの方にやって来た。
「大変すまないのだが、急用ができてしまって、本当はもう少し長居するつもりだったのだが少し席を外すこととなった。今までの分だけお勘定を頼めないだろうか」
「あ、はいどうぞ」
先ほどからの会話から思い浮かべていた人物像とはあまりにかけ離れたまともな挨拶だったので、一瞬私は戸惑ってしまった。
「あの、差し出がましいようですが、どなたかと待ち合わせのお約束があったとか」
お釣りを差し出しながら言うと、その客はふっと笑った。
「彼女は私が急用で出かけることにもう馴れているから、そう驚くこともなかろう。しかし、まぁ、すぐ戻ると伝えていただければ幸いだ」
「わかりました。で、どなたにお伝えすれば」
「何、簡単なことだ。私がこれから会う女性は、少なくとも今の時点では世界で最も美しい女性だからな」
「最も、美しい」
真顔で言われて、私自身困ってしまった。
「お客さぁん、うちの嫁と待ち合わせだなんて、ちょいと困っちまいやすなぁ」
血管を顔面に浮き上がらせながら、誠一さんが出刃包丁片手に仁王立ちした。
「ふむ、確かにここの女将もすばらしい方だ。なるほど男性がこの方に魅かれるのも無理はないし、夫である君が死守したくなるのも当然だ。しかし私にはとある特権があってだな、とある女性のことを世界一の美女と呼んでもまったく倫理上問題ない、いやむしろ当たり前と言えるのだよ」
「……はぁ」
納得したようなしていないような返事をした誠一さんに軽く会釈すると、その客は店を出ていってしまった。
「不思議な、方でしたね」
「ああ……」
「何だったんでしょうかね、兄貴」
「さぁてな。それをこれから考えようじゃねぇか」
お店の調理の方はどうなったんですか誠一さん。
「まずはカタギじゃねぇな」
「ありやせんねぇ。ファンシーな店に防弾ガラスや防弾シャッターがあるだなんて疑う奴が真っ当なはずがねぇ」
そんなファンシーな店にそんな物騒な物を設置したのはどこのどなた様でしょうか。
「そしてコンシリイェーリがどうのこうのと」
「英語にそんな単語ありましたっけ」
「英語かぁ?ロシア語にも聞こえんぞ」
「ああ、あと」
「何だ、まだあんのか」
「うす。殴られた時の感触、あれが、何つうか、知り合いのに似てるような」
「何だ、猫の顔みたいなナックルダスター使ってる奴でも知ってるのか」
「いや、そういうんじゃねえんだけど……妙に懐かしいような……うーむ、思い出せやせん」
ううむ、と唸る誠一さんとアツさんに、私はもう一つの手掛かりについて言及した。
「それと、世界一の美女との逢瀬」
「へっ、それこそ謎だぜ。世界一の美女との逢瀬、ただし有紀寧じゃねぇなんざ言ってる時点で、やっこさんイカれちまってるんじゃねぇか」
「でも、見逃してはいけないと思います。特に、その方をそうお呼びする特権があるというところとか」
嬉しいのだけれども。本当に。
「つまりは主観ってぇことになりやすが、それを公言してもよい、というのは……」
「……愛し合っている仲、ということでしょうか。例えば岡崎さんや、春原さんが須藤さんのところに行った時……」
「やいてめぇ、表に出やがれっ!」
「上等だコラ!今日という今日は我慢ならないねっ」
「智代は世界だけじゃない、銀河一の嫁だっ!いい加減目を覚ませっ!!」
「そっちこそっ!杏が宇宙一のお嫁さんだと認めない限り、一歩も譲らないからねっ!!」
『そんな恥ずかしいことを大声で言うなっ!!』
「あの後、岡崎の旦那も春原の旦那も、二人で殴り合った方がましというだけの傷を負ったんだっけな」
ぽりぽりと誠一さんが頬を掻いた。
「女って怖いもんでやすね」
「だな」
「わかっていただけたところで、さっきの問題に戻りましょう。とある女性を世界一の美女と呼べる方と言えば」
「旦那」
「恋人」
「婚約者」
「……まさか、愛人?」
思い当ったことを口にしただけだったのだけど、それは一瞬にして誠一さんとアツさんを静かにした。
「愛人、ねぇ……自分の嫁をよそに他の女を世界一の美女と呼ぶのぁ、どうかねぇ」
「いや、しかし、こじれた夫婦の間ってぇことも考えられやすぜ。現に俺ぁ……」
そう言って、アツさんは黙り込んだ。その先に言おうとしたことを察して、私たちも口をつぐんだ。
いつか聞いた事があった。アツさんは幼い頃にご両親が離婚し、学生時代を母親の再婚相手とケンカしながら育ったような物だったらしい。私も無論他人の事は言えない。父と誠一さんの間柄は最悪で、この数年私は父に会っていないのだから。
私たちだけではない。須藤さん、佐々木さん、そして私の周りの友人は、家族という居場所を失い、彷徨った揚句に知り合った仲だった。そして、私の兄も。
と、そんな思いにふけっていると、カランとドアのベルが来客の合図を告げた。
「お邪魔する」
そう律義に挨拶して颯爽と入って来たのは岡崎智代さん。私の高校時代からの友人で、この店の開店当時からの常連客だ。
「おう」
「坂上の姐さん」
アツさんは口にした途端己の失言に気付いたようだったが、遅かった。
「私は岡崎だっ!!」
そう一喝した智代さんの背後に、猛る熊のオーラが視覚化した。智代さん、それでは女の子らしくないですよ。
「さ、さいでした」
「旦那はどうしてる」
「……おかげさまで元気だ。今日も『おっしゃあああっ!!日曜日だろうがなんだろうが、智代を照らす街灯をバリバリ付けまくるZE!!』とか叫びながら通勤路を爆走していった。徒歩で」
「ははは、岡崎の旦那らしいや」
智代さんの夫の岡崎朋也さんは、私も高校生の頃から面識がある。喫茶店という職業上、岡崎さんよりも智代さんと顔を合わせる機会が多いわけだけれども、まさかいつの間にかここまで壊れていたとは思わなかった。これも愛のなせる技なのだろうか。智代さん……恐ろしい子。
白目を剥いていると、智代さんは腕時計を確認して安堵のため息をついた。
「……どうやらまだ来ていないようだな」
「お、何だ。逢瀬か」
「……まぁ、そんなところだ」
「珍しいな、岡崎の旦那とはここんところ会ってねぇ」
「いや、朋也じゃないんだ」
……………………はい?
「今日は、違うものと待ち合わせをしているんだが……」
その言葉で、私たちは困惑した。智代さんと言えば岡崎さん。岡崎さんと言えば智代さん。決して別ちようのない二人、その片割れが、まさか浮気宣言をしているとはとてもではないが信じられる話ではなかった。
そこに追い打ちをかけるような言葉が。
「つかぬ事を尋ねるが」
「へ、へい」
アツさんに智代さんが少し困ったような顔をして聞いた。
「ここにさっき、少し丸い体系の、怪しげな男性が訪れなかっただろうか。年齢は、そうだな、五十代だ」
いた。来ていた。バリバリ存在感を放っていた。
「え、あ、ああ、来てたが……」
「誰かを待っていると、言わなかっただろうか」
「確か、世界一の美女とランデブーだと」
そう言うと、智代さんは顔を真っ赤に染め、そして小さく「バカ」と呟いた。
「す、すまないが、少し隅の方の席を占めさせてくれ。恐らくは少ししたらその怪しげな者が来るだろうから」
そう言って智代さんは恥ずかしげに店の隅に移ってしまった。その後に残されたのは、頭のこんがらがった私たち。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。えーっと、さっきの中年男が最強の逢瀬の相手で」
「さか……岡崎の姐御が中年男とデートで」
「智代さんは岡崎さんの嫁異論は認められない状態で」
……………………
………………
……………
…………
……
「不倫か?」
アツさんが言った瞬間、私たちは首を思い切り横に振った。
「トモトモーズに限ってそんなこたぁねぇ」
「明日世界が終ると聞かされた方が、よほど信憑性が高いです」
「でも現に、あの妙な客の言ってた『世界一の美女』ってのぁ、岡崎の姐御の事じゃねえですか」
「ううむ……」
そう唸って誠一さんは考え込んでしまった。
「で、でも、智代さんは岡崎さんの事を慕ってますよ。地球温暖化の三割は岡崎夫妻のせいと聞きますし」
ちなみに三割は古河夫妻シニア、二割は春原夫妻だったりする。
「もしかしたら、愛情がどうのこうのじゃねぇかもしれねぇ」
「え」
「いわゆる、何だその、エンコーってのも巷で流行ってるそうじゃねぇか」
「流行ってやしませんよ兄貴。そいつぁ犯罪だ」
「と、智菜です。よ、よろしくおねがいします、おじさま」
「やぁ智菜ちゃんか。やっぱり写真で見るのと本物見るのでは違うねぇ」
「……」
「さてと。おじさん、ちょいと財布が重くてさ、今日は一緒に軽くしてくれないかなぁって思ってさ」
「……」
「じゃあ、行こうか、智菜ちゃん。あ、そうそう、今夜は帰さないから」
「………………」
ない。
「ねぇな」
「うす」
「しかし世界一の美女の何のと呼ぶところからして、他人じゃねえ。仕事でもねぇ。プライベートだな」
すると、ベルの鳴る音とともに、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ……あ」
「うむ。ただいま戻った」
そう言ってやって来たのは、件の男性客。その客は店内を見渡し、そして智代さんを見つけると
「おお、待たせたな、智代」
「ああ、待ったぞ。デートにおいて女性を待たせるのはいけないと教わらなかったのか」
「これは手厳しい。朋也君はどうなのかね」
「朋也は……まぁ、朋也だ。遅刻もするが大目に見てやる時もある」
「朋也君らしい」
そう言って笑う男性客。全く何が何だかわからない。この人は智代さんが既婚であるのに、それなのに誘っているのだろうか。
「それはそうと、『世界一の美女』とは何だ。とてもではないが人の妻を形容するべきものではないと思うが」
「ふむ。しかし、朋也君でも私なら許してくれるだろうに」
「それはどうかな。朋也の愛情の深さを知らぬわけでもなかろうに、父さん」
父さん。
一瞬、頭の中がまっさらになったが、次の瞬間、何かがすとんと落ちたような感覚になった。
「……そうかい。親父さんかい」
ふっと誠一さんが笑った。
「そう言えば、明日は父の日でしたね」
「……ああ」
坂上さんと智代さんが仲良く談笑するのを眺めながら、私と誠一さんはぽつりと言葉を交わした。
「兄貴」
不意に、アツさんが真面目な顔をして誠一さんを見た。
「頼みがありやす」
「言ってみろ」
「突然で申し訳ねぇんですが、明日の夜のシフト、ドタキャンさせてもらってもいいですかい」
「……アツ」
「うす」
誠一さんは厨房に向かって歩き出した。そして入口のところで立ち止まると、振り返らずに言った。
「親父とは、まだ連絡してるんか」
「……うす」
「そうかい。大事にしてやれよ。俺ぁ、ガキの頃勝手に死なれちまって以来、孝行なんざできねぇからよ」
そう言うと、誠一さんは厨房に入っていってしまった。アツさんは、その後しばらく頭を下げたまま動かなかった。私はそんなアツさんに会釈をすると、厨房の中に入っていった。
「あなた」
タマネギを切り始めた誠一さんに、私は声をかけた。
「明日ですけど、お休みを取ってもいいですか」
「お前もかよ、有紀寧。お前にいなくなられたら、商売になんねぇんだけどな」
「いえ、私だけじゃなくて、あなたも」
「俺も?」
「はい。行きたいところがあるので」
そう言うと、誠一さんは、赤い目を潤ませて私を見た。そしてしばらく私をじっと見つめた後、ぽつりとつぶやいた。
「俺の両親の墓ぁ、ここからだとちょいと遠い。明日は早くなるから、今夜支度しとけ」
「はい」
私は頷くと、鼻水をすすってそっぽを向いた誠一さんを見てふっと笑った。