夏と居酒屋とオヤヂたち
ぐびっぐびっぐびっ
『ぷはぁっ!うぉおおおおおっ』
昼間の熱気を未だに引き継いでいる居酒屋の一角で、四人の男が吠えた。そして重々しく響くジョッキがテーブルに叩きつけられる音。
「やっぱ夏はビールだな、おい」
「ですね」
「だよ」
「俺、日本酒派だけど、夏はビールだ」
そう言って豪快に笑う男たち。仕事から直行で来たのだろうが、その服装はまちまちだった。まず、スーツの上着を脇に、ネクタイを緩めて腕まくりをしている者が二人。同じくオフィス勤めなのだろうけど、半袖のシャツにノータイというクールビズな服装の者一名。そして一番年長と思われる男に至っては、Tシャツにジーンズという格好だった。
「今夜はこれぐらいか……まぁ、こんなところだろ」
シュポっと煙草に火がついた。煙草の煙を揺らしながら、Tシャツ男、もとい古河秋生がスーツの一人である岡崎朋也に笑いかけた。
「にしても、小僧、ようやくともぴょんに遊ぶのを許されたってわけか」
「まぁな。ようやく小熊ちゃんたちも落ち着いてきたかなぁってな」
そう言って笑い返す朋也に、他の三人は忍び笑いをした。
「何だよ」
「あのさ岡崎。そんなん甘い甘いって。僕なんか、岡崎よりも一年先に父親やってるけどさ、ぜんぜん落ち着かないもの」
隣で似たような格好をしている春原が朋也の肩を叩いた。
「そうなのか」
「そうだよ岡崎君。それに成長すればどんどん違う問題も来るしさ」
クールビズ姿の勝平も春原と同意した。
「……やっぱ辞書とか投げ始めるのか」
「そうそう、お義母さんが教えるのに熱心でさ……って、何で知ってるのっ!?」
勝平が腰を浮かしかけたのを、秋生が宥めた。
「いや、まぁ、お前らの家系だしなぁ」
朋也が勝平と春原を指差した。春原の妻である杏の辞書投擲能力はその射程距離、破壊力、精密度において有名となりつつあり、勝平の娘である柾子はその杏の姪であるのだが、杏曰く「恐ろしいほど幼い頃のあたしにそっくりね」。その直後に「え、つまりすごい美人になるってこと」と春原がフォローしたため、周囲がうんざりするほど惚気が始まったが、それはまた別のお話。
「まぁ小僧は息子と娘が同時だから、尚更難しいんだろうけどな」
秋生が焼きとりを齧りながら言うと、朋也が頭を掻いた。
「いやぁ、マジでその通りなんだな」
「普通に考えて、苦労とか全部二倍だもんねぇ。おしめ換えだって、かかる時間も二倍なら、捨てるのも二倍だもの」
己の経験を二倍にしてみた春原が渋い顔で言うと、勝平も頷いた。
「それに、まぁ僕の方は二人目が半年後ぐらいにくるけどさ、兄弟ってのも難しいんじゃない?金太郎飴じゃないんだしさ、扱い方だってまったく同じってわけにはいかないでしょ」
「全くその通りなんだよ。しかも親父にアドバイスを訊こうにも」
「訊こうにも?」
「『うん、その頃の朋也君の育児については、僕よりも敦子の方がよく知ってるよ』」
「……使えねぇ」
ぼそりと秋生が呟き、藤林婿ーズが同意のため息を漏らした。
「『僕が朋也君の面倒をみる頃には、朋也君、ぜんぜん手間のかからないいい子だったよあっはっは』とか。そこの過程が訊きたいんだけどな、さすがにおふくろに訊くわけにはいかないしな」
「まぁ、そこら辺は俺に訊けばいいだろ。あるいは坂上の親父殿とか」
「あ、そっか。岡崎には義理の両親ってのがいたよね」
「お前らにもいるだろうが」
そう朋也が返すと、勝平と春原がシンクロして「ちっちっち」と指を振った。妙に気持ち悪かった。
「岡崎はさぁ、坂上さんに朋幸君や巴ちゃん預けても奪われる心配がないからいいけどさぁ」
「そうそう。僕らのお義父さんなんて……」
ずずーん、と黒い影が二人の背に降り立った。
『ぃやっほーいっ!!しょーこちゅわんっ!しょーくんっ!!じぃじだよぉ。パパたちはお仕事で疲れてて二人と遊んでくれる気力もないヘタレみたいだから、こっちでじぃじと遊ぼうねぇ』
『え、いや、僕、遊べますけど』
『じゃかしい黙れい私と私の孫の間に入るな』
『一応、父親ですが……』
『ん〜、この目元、この笑顔、どうだね、私そっくりじゃないか』
『え、そう?杏は僕そっくりだって言ってたけど』
『お世辞だボケナス』
「柾子……たまにでいいから、パパは僕だって思い出してくれよ」
涙ぐむ勝平に、憐れみの視線が集中した。
「そういや、オッサンは舅姑問題なかったのか」
「ん?ああ。なかったな」
『どうしてっ!!』
畳みかける春原と勝平の形相に、朋也は改めて藤林パパの恐ろしさを悟った。しかし当の秋生はあっけらかんとしていた。
「会ってねぇから」
『……は』
ぽかんとした表情で自分を凝視する男三人を尻目に、秋生は煙草をくわえ、火をつけて旨そうに吸い込んだ。
「早苗と結婚するって向こうさんの両親に伝えた時、すげぇケンカになってだな。おやっさんが出刃包丁、おふくろさんがハンドバッグ振り回しそうになってたんで、さすがに俺もやばいと感じて早苗を家から連れ出し、そこに止めてあったハーレーかっぱらって逃げた」
さらっと語られた事実に、周りは沈黙した。しかしそんな仲間をよそに、秋生は続けた。
「エンジンをふかしながら言ってやったさ。『ここからは俺と早苗の問題だ。あんたらとはもう何の関係もない。風に追いつける自信があるんだったら、追いかけてきやがれ。あばよ』ってな。その時の早苗の戸惑いながらもうれしそうな顔は忘れねぇ」
そこで秋生はにやりと不敵に笑った。
「俺と、早苗の問題、か」
昔、自分たちの関係を他人からいろいろと言われて一度はご破算にされた朋也が呟いた。
「風に追いつける自信があるなら、か……」
人生のほとんどを旅に費やしてきた勝平がしみじみと唸った。
「あばよってねぇ……」
よほどそのフレーズが気に入ったのか、春原はそれを反芻するかのように繰り返した。
「オッサン、アンタ……」
かっこいいよ、と朋也が言おうとしたその時
「まぁ、嘘だけどな」
『嘘なんかいっ!!』
三人はそうツッコミ怒鳴りながら、めいめい手にした食器を秋生に投げつけた。無論それで動じる秋生ではなかったのだが。
「はい、質問」
夜も更け、四人の顔がだんだん赤くなってきたところで、勝平が手をあげた。
「おう、何だ」
ぐびっとジョッキ(三杯目)を喉を鳴らして飲むと、勝平は焦点の定まらない目を秋生に向けた。
「うちの娘がこの頃僕が帰ってくる前にお風呂済ましちゃったりするんですけどぉ、これってIOYデーの兆候ですかぁ」
うっ、と朋也と春原は声を詰まらせた。
Issho no Ofuro nante Yadayo デー、略してIOYデー。全ての父親にとってそれは、キリスト教徒にとってのハルマゲドン、魔法少女にとってのワルプルギスの夜、学生にとってのレポート提出日と同じくらい忌むべき、そして不可避なる日の事である。具体的には、と言っても名前から一目瞭然なのだが、ある日を境に子供、特に娘が「パパ・お父さんと一緒のお風呂なんてヤダ。一人で入る」と言いだし、父子の蜜月の時間に終わるが告げられる日の事である。
「もう、そんな時期なのか……くっ、神はいないのか」
「それが人生だよ、岡崎……それが、人生、なんだ」
「おう、その通りだ」
項垂れる朋也を悲痛な顔で慰める春原に、秋生が断固たる口調で言った。
「しかもだ、IOYデーを境に、いろんなことが崩れるからな。一緒の洗濯機で服を洗わないでくれとか、友達来た時いないでくれとか、一緒にテレビ見ないでくれとか」
「ふぅん、やっぱ古河にもそういう時期あったのか」
「いや、そこらへんは他の連中の体験談だ。渚の場合は風呂が別々ってな感じで済んだ」
「そう、それっ!そこ知りたいっ!何で秋生さんそれぐらいで済んだんですかっ」
酒がまわってテンションが高くなったのか、勝平が秋生に指を突き付けた。そんな勝平に不敵な笑みを見せる秋生。
「そこは戦法の転換だ。風呂以外に父親が子供構ってやれる方法なんざ、いくらでもあるだろうが。絵本読んで聞かせるとか、塗り絵とか野球とか」
「ちょっと待て。今一つ、娘に教えるようなもんじゃないのが混じってたぞ」
朋也が秋生を睨んだ。
「あ?絵本か?絵本がまずかったか」
「絵本じゃねえよ、野球だ野球。絵本なら俺だって毎晩読み聞かせてたさ」
「野球?娘には欠かせないだろうが。現に汐だって、駒田の真似して立派に育ったじゃねぇか。何なら巴が大きくなったら俺が教えてやろうか」
「孫娘にガニマタ教えんなっ!!つーかウチの娘にそんなん教えんなっ!!」
「てめっ!ま、孫娘ゆーなっ」
秋生の絶対の自信。その根底にあるのは「娘」と「孫娘」を育て上げたという(本人ですら)如何ともしがたい経験があったのだった。ちなみに早苗の前では「孫」のまの字ですらタブーだという。
「にしても、岡崎が絵本かぁ」
「ああ、まぁな。ノンたん、ねないこだれだと来て、今度はちょいとエルマー行こうかなと思ったんだけどな……」
「思ったんだけど?」
すると、朋也が悲痛そうな顔をした。
「二人とも、智代に読んでもらった方が喜ぶんだ……」
『……あー』
思い当たる節があったのか、聞いていた三人は唸って腕組みをした。
「だけどそりゃあしょうがないよ。智代ちゃん、翔とか汐ちゃんとかの面倒みたりしたから、岡崎なんかよりキャリアがね」
「それに父親よりも母親の方が一緒にいる時間長いんだからさ、智代さんの方に心が動くのもねぇ」
「情ないこと言ってんじゃねぇぞてめぇら」
同情的な藤林婿ーズを朋也もろともバッサリ斬るように、秋生が吐き捨てた。
「そりゃそうだよな。母親の方が父親よりも子供と一緒にいる時間は長いけどよ、そこで納得しちまうのかよ。そんなんで嫁に子供を奪われてもいいのかよ」
「じゃあ、どうするんだよ」
「決まってるじゃねぇか。もっと上手くなってだな、見返してやれ」
ぐっとポーズを決める秋生に、呆れたような視線が集まった。
「そんな根性論で片づけるの?」
「そもそも、小僧、お前が読んで聞かせた絵本は、本当に向いていたのか?」
「あ?年齢的には向いてるんじゃないか。それに特に男の子向けとか女の子向けとかなかったようだけどな」
「違う違う。その絵本、お前に向いてないんじゃねぇか」
朋也はじろっと秋生を睨んだ。
「オッサン、何か勘違いしてるようだけどな、俺が読む側、小熊ちゃんたちが聞く側」
「んなのわかってるぜ。ようするに、聞かせる側として、てめぇの特性が生かせてないんじゃないかって話だ。かわいらしい話じゃあ、ともぴょんに勝てるわけないじゃねぇか。だけどみんなで力合わせるとか、冒険の話とか、そんなんだったら、小僧の方に分があるはずだ」
「な、なるほどぉ」
朋也より先に、春原が相槌を打った。
「でも女の子だったら……」
「女の子が活発じゃなかったら、杏先生は何だってんだ」
「あ、確かに」
「まぁ、自分の娘が果たして杏みたいになってほしいかはへぶっちょっ」
突然飛来してきた「日本経済の歴史」を顔に喰らって、春原は沈黙した。そんな本が店に被害をもたらせずに無音で、しかも正確に春原の顔に直撃したのも、直撃の際頭部が半分陥没した春原が数シーン後に全快したのも、偏に愛の力であった。
「でも、聞いてくれるかなぁ」
小刻みに痙攣する義兄を半ば無視する形で、勝平が話を続けた。
「何が心配なんだよ。風呂は一人かもしれなくても、絵本読みはまだせがむんじゃないか」
「うーん、帰ってくる時まで待っててくれるかなぁ」
「……何時に普通帰ってるんだ?」
「んー、十時ぐらい」
あっけらかんと答える勝平の顔に、朋也と秋生のパンチが炸裂した。
『そりゃ一緒に風呂が嫌なんじゃなくて、帰るのが遅すぎるんだろうがっ!!』
「そうでしたぁっ」
「今度は俺から質問。みんな、どんなオモチャ買ってる?」
春原と勝平が意識を取り戻したところを見計らって朋也が訊いた。
「僕はたまにお人形さんかな。ルカちゃん人形は鉄板だと思う」
「んー、でも岡崎のところ、まだ半年ぐらいだろ。ルカちゃん、早くないかなぁ」
「それなんだよな」
朋也が重々しく頷いた。
「人形なら智代のコレクションがあってだな、智代、何だかそれで遊ぼうとしたんだ」
「コレクション……あー、クマのぬいぐるみね」
智代をよく知る者なら、彼女のクマに対する熱狂的とも言える愛情のことも知っている。幼い頃から集めてきたぬいぐるみの数は今ではもう数え切れず、それらは岡崎夫妻の寝室に飾られている。普通なら引くところなのだろうが、朋也にとっては「智代かわいいから」の一言で済まされるような些細な事柄だった。痘痕も笑窪とは、まさにこのことである。
「だけどいかんせんでかすぎてさ。遊んでるんだか格闘してるんだかわかんないんだよな、傍から見ると」
「小さい置物とかあるでしょ。前に見た記憶があるよ」
朋也たちの新居引越し祝いに呼ばれた時のことを思い出して勝平が口をはさんだ。
「いや、小さいのはあるんだけどな。置き物じゃ硬いから怪我しちまうかもしれないし、間違って飲み込まないとも限らないしな」
「そうだねぇ。ウチの翔なんか、前に僕のコレクションのガシャポン飲み込んじゃってさ。あれは大変だったね」
さらっと言う春原だが、実は大変どころではなかった。まず、もががと奇声をあげる翔の背中をさすったり叩いたりしていると、杏の辞書と飛び蹴りが炸裂。今日はジーンズはいてるのかパンチラショットなしか残念だなぁと思う間もなくさらなる足蹴。それに快感を覚える間もなくどこからともなく藤林パパ、阿修羅と化して参上。藤林父娘による(藤林パパに言わせてみれば「夢の共演」たる)スタンピードが行われている中、これまたどこからともなく現れた藤林ママが翔を椋の元に連れていき、翔は一名を取り留めたのだった。逆に春原は大切な青春の一欠けらを失くした上に息子の命まで危うくなり、挙句の果てに最愛の妻と義理の父親にフルボッコされるという、仏滅と十三日目の金曜日が重なるような不幸っぷりだったが、そこらへんを「大変だった」で済ませられるところが彼の懐の広さと言ったところだろうか。
「野球ボールなんてどうだ?こう、でっかい野球チームの旗を壁に取り付けて、そこに向かって投げろってなぁ」
「いい加減野球から話ずらさないか、オッサン」
「何なら大リーグボール養成ギブスだって汐のお古があるはずだが」
「あんた自分の孫娘に何つけてたんですかねぇっ!!?」
「孫娘ゆーなっ」
「ていうかスタンダートなところでガラガラがあるよね」
話が逸脱して終いには一気飲み大会になる春原と秋生をよそに、勝平が冷めた口調で言った。どことなく勝平と椋って似てるな、と朋也は思った。
「ガラガラか……そうだな」
「それとかベッドメリーとかなんて、結構喜ぶと思うよ」
「クマのガラガラとかベッドメリーとかって、売ってるか?あと、どれくらいするんだ?」
「え、そりゃ、まぁ売ってると思うけど。それにそんな高くないはずだよ?物凄く凝ってるんじゃなきゃ」
それを聞いて、朋也が安堵のため息を吐いた。
「そうか……じゃあ、プランBに移らなくてよかったか」
「え、何それ」
「あー、つまりあれだ。小さい頃から美術品とかに触れさせるのがいいって、何かの本で読んだんだよな」
「ふーん?」
「だけど華奢なもんだと、赤ちゃんだったら何も考えずに壊しちゃうだろ?だから、できれば何かで囲ってある方がいいと思ってさ」
「まぁ、そうだよね。あ、でもそれじゃあ見えなくならない?」
「ガラスだったらいいんじゃないか?で、しっかりした台に乗せるからある程度安全だ」
「ふーん」
「で、いろいろ考えたけど、人形ってのはやっぱり基本かなって思ってな」
そこで勝平のアルコールびたしになった脳の中で三つのキーワードがスパークした。
美術品。ガラスのケース。人形。
「ねぇ、朋也君。まさかそれって」
「ああ、市松人形なんてどうかなって」
「何それこわい」
店を出た頃には、春原は前後不覚、秋生は呂律が回らず、そんな二人を朋也と勝平がふらふらしながら支えているという非常に危なっかしい状態であった。
「あー、そうだ。次は新しいメンバー増えるぞぉ」
朋也がふと思い出したように言った。
「おー、どこのどいつだそりゃ」
「新メンバーっ!ひゅーひゅー」
「誰、朋也君?」
「鷹文。俺の義理の弟」
おおっ、と他の三人が声をあげた。
「めでたいぜこぞー。これでてめーもおぃちゃんだな」
「っしゃあ!鷹文の奴ぅ、やるぅ」
「おめでたいね。今度一緒にお祝いに行こうよ」
「おーし、次のオヤヂ同盟会議はぁ、鷹文の家でやるぞー」
『おー』
声が合わさったところで、秋生は拳を振り上げた。
「おーし、てめーら、いつものあれ、やるぞー」
「おー、あれかー」
「しめはあれでなきゃーねー」
「オッケー、立ってられる間にやっちゃお」
『オ ヤ ヂ 最 高 ッ』