「悪い悪い、今終わった。まさかだけど、待っていないよな?」
俺はなぜか目の前にいない相手に片手で謝りながら携帯に話した。
『ああ。朋也は食べてきたんだな?もしお腹が空いてるんだったら、何か作って待ってるが』
「大丈夫だって。それより今日も大変じゃなかったか?何なら先に寝てていいんだぞ?」
『私に朋也のいない布団で寝ろというのか?絶対に風邪を引いた上寝違えてしまうぞ?』
何だかとってもかわいいことを言ってくれる。
「わかったわかった。じゃあ、そうだな、何か軽いものを作っててくれ。お前の料理は最高だからな」
『ふふふ、うん、楽しみにしていてくれ』
「ああ……」
じゃあな、と言おうとした時、チャイムが駅の中に鳴り響いた。
<誠に申し訳ありませんが、22時15分発の光坂市行は、故障により二十分遅れる予定です。繰り返します……>
『朋也?』
電話の向こうで、智代が訝しげに聞いてきた。
「悪い、何だか列車の故障みたいだ」
『大変だ。帰れるのか?』
「ああ、多分二十分遅れるだけだと思う。まあ何とかするよ。じゃあな」
『ああ。気をつけてな』
「愛してるぜ、智代」
ずるいと思いながら、俺は返事を聞かずに電話を切った。多分帰ったら仕返しされるんだろうなぁ、と苦笑する。
「あーあ、しっかし杏の奴、クラス会なら光坂でやりゃあいいのに」
恩師
俺は今、戸鳴の駅に立っていた。今夜は元・藤林姉妹(片方は今では違う苗字になっていた)が発案・主催した俺たちの同窓会がこっちで行われた。俺としては、俺の学年で顔を合わせたい奴なんて春原と杏ぐらいしかいないから、特に出なくてもよかったんだろうけど、杏や椋がどうしても、と言うので取りあえず出てみた。そしてものすごく後悔した。
まず会場。同窓会なんて大したものじゃねえだろうと高をくくっていたら、結構まともな料亭が選ばれていた。そんなところには智代とすら一緒に行ったことのない俺にとって、そこはもう別次元の場所でしかなかった。
しかし元同級生たちはそれなりに感心して杏や椋に感謝の言葉や賛辞を述べると、すぐに馴染んでいった。こいつらにとっては、これはもしかするとさほど敷居が高くないのかもしれない、と思うと、なおさら気が滅入った。
そんな中、春原と会った。あいつもそれなりに気圧されている感じがしていたので、飯のときは一緒に座り、その後も二人でくだらないことを話していた。そしてそんな俺たちに突き刺さる視線。これが一番堪えた。
(あ、ねぇねぇ、あれ岡崎だよね)
(うん。あと、春原君だっけ?)
(うっわ、来てたのかよ。あいつら大学どこだっけ)
(しっ、お前馬鹿か?就職したんだよ。本人に聞こえるから黙ってろ)
(え、うっそぉ)
(だいたいさ、何で来てるわけ?)
「何か嫌な感じだね」
「だな」
さすがにこういうのに慣れている俺も春原も、苦笑いを漏らした。
「智代ちゃん、いなくてよかったね」
「……ああ」
確かに智代が一緒だったら、俺たちだってそんなに重い雰囲気じゃなかっただろう。でもそれは、視線の対象が二つから三つになるだけの話。智代の過去の話から現在に移行すると、やっぱり智代も「変な奴」扱いされてしまうだろう。俺だけならともかく、智代にそんな思いは絶対にしてほしくなかった。
「まったく、何で行っちまったんだろうな」
自分の浅慮ぶりに苦笑する。智代との夜と引き換えの時間がそんなもので、そして帰りの電車が遅れてしまったのでは世話はない。二次会とかもあるようだが、俺と春原は空気を読んでそのまま駅に直行した。杏のすまなそうな顔が印象に残る。
そして春原の電車が来たのがちょっと前。今は一人で少しがらんとしたプラットホームに佇んでいる。
ぱつ、と固い音がした。続いてもう一つ。そして次々と雨が駅の天井に当たって砕ける音がした。
「おいおい、マジかよ」
ため息をつくと幸せが逃げていく。そうは知っていても、つかざるを得ないよなぁ、これじゃあ。
「岡崎じゃないか」
不意に名を呼ばれて振り返る。俺を呼び止めようなんて奴、いたかな、とか思っていたが、顔を見て即納得した。
「どうも」
「何だ、お前も早退か?全くお前も春原も」
乾はそう冗談めかすと、少ししわの増えた顔で笑った。
「そういう先生こそ、担任が先に帰っちゃったらクラス会にならないじゃないっすか」
「そうは言うけどなぁ……年だしなぁ。お前らみたいな若い連中といつまでも飲んでいられんよ。しかし、こんなところで会うとは奇遇だな」
「先生も光坂に?」
「いや、先生はあれだよ、その向こうの霧海が家だ」
「そういえば……幸村先生はどうしてますか?今夜は来てなかったようだけど」
「あ、ああ……幸村先生はなぁ」
少し歯切れの悪い返事に、俺は驚いた。
「どうかされたんすか」
「あぁ、軽い風邪、といっていらした。『修行がたりんのぅ』と笑っておられたとか」
軽い風邪。しかし、そう高をくくっていて大丈夫なんだろうか、と俺は結構まじめに心配した。
後日、俺はその憂いが杞憂であったこと、そして幸村の爺さんの修行とやらがとんでもないものであることを知るのだが、それはまた別のお話。
「しっかし、引退された後もそう慕われて、幸村先生は本当に教師の鑑だなぁ」
「……そうっすね」
「全く敵わんなぁ」
少し寂しげに笑う乾。俺だって特に乾を忌み嫌っているわけではない。不良として過ごした三年間のうち、一番手を焼いてくれた担任が乾だったのは確かだ。他の担任が早々にさじを投げても、乾は進路相談だったりなんだったりと、結構まじめに取り組んでいた。それが仕事だと言われればそうなのだが、それでも世話になったのは確かだ。しかし、幸村の爺さんは、やっぱり別格だった。あの人にはおそらく一生頭は上がらないと思う。
雨足が徐々に早くなっていく中、乾が聞いてきた。
「……なぁ岡崎、一つ立ち入った話をしてもいいか?」
「は?」
驚いて見ると、乾はさっきまでの如才ない笑顔を吹き消して、真顔で立っていた。
「いや、失礼な話だと言うことは承知だ。だから、嫌だったら言わんでいいんだが……」
「……いや、いいっすよ。何ですか」
「その……坂上智代とは、まだ……」
何だろう、と警戒していたら、思わぬ方向からジャブが来た。
「いや、本当にいいんだ。すまん、今のは聞かなかったことにしてくれ。ははっ、やっぱり先生も飲みすぎたな」
「……坂上智代は、俺の知る限りもういませんよ」
乾の笑い声が途絶えた。言葉を闇夜に捜すように、乾は目の前を見据えた。
「そうか……すまなかった」
「あいつとはいろいろあって、本当にいろいろあって、今じゃ二人で一字違いの岡崎です」
俺のカウンターを乾はぽかんと口を開けてもろに受けた。次の瞬間、まさに破顔する。
「そうか……そうかぁ、お前がなぁ、そいつはよかった。はははっ、よかったなぁ」
よかったよかった、と連呼しながら、乾は俺の肩を叩いた。
「先生、それ、俺の悪いほうの肩っす」
「お、すまん……仲良くやってるか?」
「ええ、まぁ……尻に敷かれっ放しっすよ」
「はは、まぁそんなもんさ……ああ、しかしこれで肩の荷がずん、と降りた」
「何でまた?」
すると、乾はばつが悪そうに頭を掻いて笑った。
「これは本当に秘密だぞ?お前のかみさんにも言うんじゃないぞ?」
「へいへい」
乾がしばらく言いよどむ。そして考えあぐねた末に、という風に聞いてきた。
「あのな、岡崎は幸村先生が怒ったところ、見たことあるか?」
「へ?」
幸村の爺さん。俺と春原が年中迷惑をかけていた、しかしそれでもいつも温厚な顔で接してくれた、そして俺達を学校に繋ぎ止めてくれていた教師。
怒ったところなんて、想像もつかなかった。
滅茶苦茶怖いんだ、あの人は、と前置きして、乾は話し始めた。
あのな。
お前にはすまんが、お前と坂上が付き合ってた頃な、先生達の中には「是が非でも何とかしなきゃいけない」と思ってた方もいるんだ。先月引退された教頭先生も、そんな人の一人でな。
え?先生か?今更言い訳はしないが、先生はそこらへんは自由にしてていい、と思ってた。誰が誰と付き合おうなんざ、先生が口出しすることじゃない、と思ってたんだ。
でな、ある日教頭先生が職員室に入ってきたんだ。そうさなぁ、職員室には先生のほかに、新人の女教師と、体育の小野田先生と、化学の湯町先生。それから一人だけ忘れられたかのようにぽつねんと座っておられた、生活指導の幸村先生。
教頭先生は職員室を見回すと、厳かな口調で宣言したんだ。
「たった今私は、岡崎と坂上君に話をしてきました」
おう、と小野田先生と湯町先生は色めき立った。この三人が、さっき言ってた先生達の主なメンバーだったんだ。
「それで?」
「ふむ。坂上君はともかく、岡崎のほうは多少自覚していたんでしょうな。一応考えておく、とは言っていましたが、何、大丈夫でしょう」
「お手柄ですなぁ、教頭先生」
「これで坂上君も、すんなりまじめに頑張ってくれますね」
小野田先生は、まぁお前も知ってるよな。校則は守らなきゃいけない、守らない奴はどうなっても文句は言えない、と言う方だったから、お前のことは目の敵にしてたからなぁ。湯町先生のことはとかく言いたくないが、まぁお前になら言ってもいいかもなぁ。あれはとどのつまり教頭先生の腰ぎんちゃくだったわけだ。
先生は、うん、情けない話なんだが何も言えなかったんだ。お前を説得できなかったのは、偏に先生の責任だからな。先生の力不足でお前にも坂上にも迷惑をかけた。すまん。
で、何だっけな。ああ、そうだ。その時、ばん、という音がしたんだ。
誰も信じられなかったんだが、幸村先生がな、熱いお茶が零れるのも構わずに湯飲み茶碗を机に叩き置くと、まっすぐ教頭先生のところに行かれた。
「おや、どうかなされましたかな、幸村先生」
「教頭先生、あなた、どこか勘違いなされておりませんかの」
「勘違い、とは?」
おいおい、と言わんばかりに教頭先生が苦笑した。いや、心当たりはあったんだろうなぁ。
「そも、学校とは何か。学問を修めるのなら、便所ででもできますわい。学校のもう一つの意義は、人と人との関係、それを育むことのはずです」
「ええ、わかっておりますとも。ですから、岡崎のようにルールとかがわからん奴には……」
「社会のルールのわかる連中から切り離していけば、あ奴は生涯一人になってしまいますぞっ!何でそこで簡単な道を安易に選ばれるのか、わしにはわかりません」
まさに渇、という感じだったな。その気迫に押されて、教頭先生は一歩下がった。
「し、しかし幸村先生。このままじゃ岡崎に感化されて坂上君もだらしなくなっていってしまいますよ。ほら、校内放送の時だって」
「その話はもうすでに二人にしたはずです。高校生なんだから、もう一度それを持ち上げる必要はなし」
ぴしゃり、と湯町先生の反論を封じると、幸村先生は教頭先生を睨み付けた。
「そも、未成年とはいえ二人はそれなりに考えることのできる若者。そんな二人の恋愛に他人が口出しをするなど、親兄弟ならともかく教師がするとは言語道断、高慢にもほどがありますぞ。大体、岡崎のことをあれこれ言えるほど、先生方はあ奴のことを構ったことはありますか」
「ありますとも」、と小野田先生。
「岡崎には再三、注意はしました。だが、あいつは腐ってるんですよ。春原と吊るんで、日々怠惰に過ごしてるだけだ」
「我らが輝かしいサッカー部と違って、ですかの?」
幸村先生の切り返しに、不良の溜り場のサッカー部、その顧問をやっていらした小野田先生は言葉を詰まらせた。
「話が逸れたようですな。幸村先生、あなたは岡崎を買っているようですが、事実あなたは岡崎と春原とは、一年の頃からのご縁ですね」
「さよう」
「そしてこの三年間、二人はどうなりましたか?よくなりましたか?」
「ふむ。わしの力不足は確かに否めませんの。しかし、諦めていいという道理はないはずです。自分の子供を見捨てる親が、どこにおります」
「幸村先生は、教え子を自分の子供のように思われるようですな。立派です。ならば私も、坂上君を自分の娘のように心配しましょう。岡崎のような奴といると、坂上君はどんどん悪くなっていってしまう。昔の風評もあることだし、私の心配もご理解いただけると思いますが」
「坂上さんのことだけを考えれば、ですな。岡崎のことは?あ奴は、息子とは思わんのですかの?」
その時、校長先生が入ってきて、場の空気を見て「一体、何の騒ぎです?」と言ったからその場は解散になったけどな。あの時ばかりは先生も冷や冷やした。いや、本当は幸村先生を応援したかったんだけどな、何も言えずじまいだった。
それからしばらくして、お前と坂上が、その、何だ、別れたというはなしがこっちにも来てな。それからだよ、幸村先生が引退を本決めにしたのは。
ざああ、と激しい雨が線路を濡らす中、俺は乾の話を聞きながら、項垂れて足元を見ていた。
「……幸村先生が引退したのは、俺達のせいだったんですか」
「馬鹿言え。お前たちというより、もともと幸村先生にはあそこは合わなかったんだよ。あそこじゃあ、成績の優秀な奴はかわいがるけど、お前らみたいな奴らには受け皿がない。先生、そのことをお前と坂上の件でよおっくわかったんだ。それにこの話には続きがあるんだよ」
え?と振り返った。晴れやかな顔で、乾は続ける。
「で、どうしてこんな話をするかと言えばだな、お前らが二人とも先生の受け持ちだったからだ」
「俺と春原、っすか」
「違うって。お前とお前のかみさんだよ」
これにはさすがにびっくりした。穴が開かんばかりに顔を凝視する。
「で、だな。先生は坂上の前の担任から、『時々思いつめることがあったり、怖い感じがするから、気をつけてください』って言われてたんだ。何つーか、壊れちゃいそうだ、とな」
「……はぁ」
「だけどな、新学期が始まって数日して、それが全部杞憂だってわかったんだな。お前のかみさん、いい笑顔だな」
唐突に言われて、俺は戸惑った。
「……自慢の妻ですから」
待て、そこで何で惚気る、俺?
「ははは、そうだよなぁ……とにかく、あんな風に笑えるんだったら大丈夫だ、って思ったわけだ。で、しばらくしてお前と坂上がまた付き合ってるって話が聞こえた時、ああ、なるほど、って思った」
実にうれしそうに、乾は微笑んだ。
「お前らが一緒になって、本当によかった。肩の荷が降りたってのは、そういうことだ」
なかなか列車が来ないな、と思ってたら、駅内放送がまた流れた。何てこった、また故障で、もう少し遅れるらしい。
「先生は今でも教えてるんすか?」
「何だ、もう引退したように見えるのか?はいはい、まだ教壇でチョークをかっかっか、とやってるさ。岡崎は……確か電気工だったっけな?」
「ええ。今じゃ新人育成とかやってますよ。早いっすね、時が経つの」
ふと山萩の能天気な笑顔が頭に浮かんで、俺はくすりと笑った。あいつもいつか新人教育とかやるんだろうか。
「そうだなぁ……しっかし、まだ続けてたのか」
「そりゃあそうっすよ。生活かかってますし、独り身じゃないですし」
給料はあいつのほうが上だけどな。
「岡崎、今夜は、その、何だ、楽しかったか?」
「え?」
唐突に聞かれて俺は黙り込み、そしてその質問を理解したとき、また口を閉ざした。
「……微妙っす」
「そうかぁ……先生は正直驚いた」
「はぁ」
「クラスの連中がな、卒業したときとあまり変わっていないんだ。そりゃあ、人の顔が変形したらホラーだけどな、本当に制服着せたら、また教室に逆戻りだ。たった二名を除いてな」
わかるか?と問う視線に、俺は苦笑した。
「……俺と春原っすか。まいったな、そんなに人相悪くなったかな」
「いいや違う。こういうことはあまり言っちゃあいけないんだが、それでも先生は言わなきゃいけない。お前と春原の顔はな、他の連中に比べて、大人になったんだよ。ちゃんと自分の足で歩いてる男の顔なんだよ」
はぁ、と間の抜けた返答しかできなかった。
「そりゃあ、あいつらは優秀だよ。国立に受かった奴がほとんどで、恐らくは一流企業に入社とかしたのもいるんだろうな。だけどな、それは正規のステップを積み重ねて、親にも支援されて、それで歩いていく道なんだ。それが悪いとは言わない。普通はそれでいいんだろうさ。だけどな、どうもあいつらの顔を見ていると、何の疑問もなく、何の意味も持たずに歩いてる気がしてならないんだ」
無言で次へと促す。
「だけどな、そん中で、二人だけ、正規の道から外れて、必死になってかじりついてる奴らがいるんだよ。必死になって頑張って、険しい道ばっかり歩いてそれでもここまで来た奴らがいるんだよ」
乾が破顔した。
「お前みたいに、大事なものがあって、それを守るために一歩ずつでもいいから必死になって歩いてきて、そしてここまでこれた奴が、先生のクラスの生徒にいたこと。これは、お前の後輩に話して聞かせてやらんといかん話だなぁ」
「そんな。後輩達にはまじめに勉強してろって言っといてくださいよ」
「ははは、まあな。でもなぁ、重要なのは勉強じゃない、ってことだ。大事なものを見つけて、それを守っていくこと。それが簡単なようで難しいんだな。先生な、お前と春原にそれだけは卒業式の後で言いたかったんだが、お前はとっとと帰っちまうし、春原は誰かが持ってきたビールで酔っ払っちまうし……しかし、言わんでもわかっていたようだな」
だからな、と乾がまとめるように言った。
「先生は、お前のことも、春原のことも、誇りに思ってるぞ。クラスの連中がどういう風にお前らを見ようと、な。大方見下したりしたんだろうが、あいつらも十年もすれば態度を変えるさ。いや、もしもう一度クラス会を五年後にやるとしたら、違いがすぐにわかるだろうな」
ぴた、と雨の雫が落ちた。砂利を叩きつけるような音も、いつの間にか消えていた。
誰かにそう言われることには、未だに慣れていなかった。客観的に見れば俺はぜんぜんだめで情けなくて、そんな俺でも誇りに思ってくれる奴なんて、俺の家族だけだと思っていた。幸村の爺さんにすら、悪いことをしたな、と思っていた。
視界がぼやけてきた。結局、俺は乾のストレートを顔面に食らってしまったのだった。
だけど、涙は流さない。
逆に笑ってやる。
「ありがとう、ございます。これからも、頑張っていきます」
放送。遅れていた列車が、とうとうこっちに着くらしい。
「ふむぐぅうううううううう、どうもこいつは先生の駅には停まらんようだなぁ。残念だが、ここでお別れだな」
「そうっすね」
思い出した。乾は、こんな風によく唸っていた。そう思うと、自然に笑みが浮かんだ。
「お前、次はかみさんも連れて来い。三人で話しようや」
「……そうっすね」
「それまで、まあ、頑張れや。体に気をつけるんだぞ」
「はい。先生も」
空圧式のドアが開き、そして閉じる。戸鳴駅が、さまざまな色が交じり合って視界の隅に消えていく。俺は座席に沈み込んで、呟いた。
「大事なもの、か」
確かに大事なものがあった。俺の、こんな俺の隣がいい、と言って居場所を作ってくれたあいつ。俺をここまで守ってきてくれた親父。俺を慕ってくれる友人達。そんな奴らとの日々。
それを落とさないようにしながら、俺は一歩ずつ来た。
(大事なものを見つけて、それを守っていくこと。それが簡単なようで難しいんだな)
今はもういない乾に、俺はそっと答えた。
先生。卒業してからすぐに、あいつの弟や妹に会ったんです。一夏の間にいろんなことがあって、笑ったり泣いたりしたけど、結局はいい結果になりました。
先生。あいつに進路の相談されたんです。迷ってたけど、俺は前に進めって今度は言うことができました。一緒に歩いていけました。
先生。俺、事故で記憶を失ったんです。そんな俺でも、あいつは見捨てずに一緒に歩いてくれました。全部取り戻して、それでもう一歩踏み出せました。
先生。俺の親父、知ってますよね。あいつのおかげで、俺、親になるってどんなに大変か、ようやくわかりました。先生が言ってたとおりでしたね。今じゃあ普通に親子やってます。
先生。俺、学生時代の最後のほう、今でも覚えてます。幸村の爺さんもそうだけど、先生はよく言ってくれてましたよね。「これならいけるぞ。大学は今は難しくても、頑張ってるじゃないか」って。見捨てずに言ってくれましたよね。
考えてみれば、あそこで頑張ったから今の俺がいる。俺の隣にあいつがいる。みんなの中に、俺達がいる。
先生、ありがとうございました。
不意に、ポケットの中で携帯が振動した。
『朋也?大丈夫か?』
「あ、ああ。悪い、今列車に乗ったところなんだ」
『そうか、ああよかった。今、雨が降り出したから、まさかお前は雨の中を走って帰ってくるんじゃないかって心配したんだ』
どうやら、向こうでは今雨が降り出したようだ。
「さんきゅな、智代。大丈夫だ」
『何なら迎えにいこうか?傘があったほうがいいだろ?』
「そうだな……じゃあ、頼むかな」
『そうだ、傘を一つ、二人で分けないか?相合傘だぞ?うん、ラブラブ夫婦らしいなっ』
電話の向こう側で、うれしそうな声がする。俺は苦笑して、そして頷いた。
「そうだな、ラブだな。あと大体十五分ぐらいで着くから、東出口で待ち合わせにしようか」
『わかった。それじゃあな。ああ、そうだ朋也』
「ん?」
『私も愛してるぞ』
返事をする前に、電話が切れた。俺は少し苛立ちの混じった笑顔で、携帯の画面を見た。
「全く、ずるいな、この手口は」
仕方がない。雨の中、相合傘を堂々としてやろうじゃないか。そんでもって、智代がどれくらい俺にとって大事か、教えてやろうじゃないか。
「大事なものを見つけて、それを守っていくこと、か」
俺はもう一度恩師の言葉を反芻した。