スリー・バイ・ファイブ
椋さんへ
お元気ですか。
まずはさておき、重大なことを。
愛してます。
お手紙読みました。
山内さんが元気になってよかったですね。いろいろと大変そうでしたけど、椋さんのことですから、親身に面倒を見てあげたんでしょうね。お疲れ様です。
あと、お義姉さんの件だけど、びっくりです。確認させて下さい。杏さんですよね?その、僕と椋さんの出会いのきっかけになった、(本人には内緒ですよ)鬼も素足で泣いて逃げるあの杏さんですよね?そして春原君ですよね?あの、元金髪の、朋也君といつも一緒で智代さんによく蹴り飛ばされていた、あの春原君ですよね?信じられないなぁ。この目で確かめなきゃ信じられないけど、確かめたくない気もします。
ん?今、空耳でしょうか。かすかに「さんざんっすねぇ!」と聞こえた気がしたんですけど……まあいいや。
信じられないかもしれませんが、今、冬のコートにくるまって悴んだ手で書いてます。
はい、オーストラリアです。はい、八月です。
でも、今僕のいるエアーズロックの麓では、夜はこんな感じです。砂漠ですからね、昼間はTシャツだけでも汗だくなのに、朝夜だと下手したら氷点下まで下がることもあります。
エアーズロックには、三日前登ってきました。やっぱり足にはきついですね。途中でスタッフ人に何度も心配されましたけど、何とかなりました。あそこは普通の登山とは違って、鎖を打ち付けた岩壁を、その鎖に掴まって登るんです。事故とかなくて本当に良かったなぁ。
それにしても結構大変でした。登るのだけじゃなくて、登らせてもらうのが。あそこはアボリジニの聖地ですからもともといい顔されませんし、宗教的儀式があったら閉鎖されます。それに雷や風、雲とかの条件によっては閉鎖されます。一週間も粘ってよかった。 残念ながら、早かったら来年あたりに登山閉鎖されちゃうんですけどね。
こっちで撮った写真のうち、雑誌ではどうかなぁと思うけど、個人的には好きなのを送ります。ワラビーが首をかしげているように見えるのなんてどうでしょう。かわいいなぁ、と衝動撮りしちゃったんだけど。それと、パースで見かけたコクチョウ。ハクチョウを黒く塗った感じですね。あと、夕焼けの景色。何だかカウボーイが出てくる西部劇に出ていそうですよね。これはエアーズロックじゃなくて、そこに向かっている最中に見かけた光景を撮ったものです。僕としては、山みたいな雲が、本物の山と隣り合わせって風景が好きです。エアーズロックのはまだ現像できてませんが、面白いのがあったら送ります。もしかすると、山が生き物のように色を変える所なんて好きかもしれませんね。
でも、一番好きだった風景の写真はありません。カメラに支障があったわけでも、撮る時間がなかったわけでもありません。あの朝陽だけは、僕の手に負えるものじゃなかったんです。
椋さん。
大事な話、してもいいですか。
こういうのは会って話をするべきだとは思いますが、でも帰ってくる前に少し考えていてほしいんです。
僕、来年からはデスクに就こうと考えています。
写真を撮るのは好きです。
世界の光と影、それを一刹那切り取って結晶化したもの。
時間を止め、魔法をかけた一枚の空間。
それを見て喜ぶ椋さんや、雑誌や写真集の読者さんたち。それらが僕をここまで連れてきてくれました。おかげで、国内では有名な賞も取れました。海外でも、名前を覚えてくれる人が出てきました。
でも、でもね。
それが僕の原点なんでしょうか。
なぜ、僕は写真を撮り始めたんでしょうか。
今でも覚えています。
朋也君や杏さん、そして椋さんが必死になって僕に手術を勧めてくれたこと。まあ、杏さんに至っては、勧めてくれているのか、脅しているのかよくわかりませんでしたけど。あ、これもオフレコで。
でも、おかげで違う世界が見れたのは覚えています。
思えば、レーストラックの上で前を見ていた僕は、世界を見ている余裕がなかったんだと思います。走り出すとすべての光景は入り混じってぼやけ、目が捉えるのはあのゴールラインの白いテープだけ。
でも、椋さんが語ってくれた未来、それを思い浮かべると、改めて実感しました。
ああ、なんて素晴らしいんだろう。
なんて輝いているんだろう。
なんて美しいんだろう。
だから、僕はその美しい世界を、その美しさを切り取ろうとしたんだと思います。そしてそれを君にも見てほしかったんだと思います。だから世界中を飛び回りました。
本当は、僕の読者というか、僕の写真を見てくれるのは、椋さん、君だけでいいんです。君ひとりが見て、笑ってくれれば、それでいいんです。
だけど、あの朝陽を見て、僕はそれが無駄だということに気付きました。
ねえ、椋さん。
同封した夕陽の写真、どう思います?
寂しい感じがしますか。静かな感じがしますか。
そこにある3x5インチの写真では、到底僕が感じたものは届かない。
僕がその風景を見て、移動中の車を止めてもらって、二十分も経ち尽くした理由。そしてスタッフも何も言わず、そこで呆然と僕と同じ光景を眺めていた理由。
それは、希望です。
遠い空に沈む夕日。しかしそこからは熱い、生きた風が吹いてきていて、そしてそれは明日がまたくること、そして明日もまた風が吹くことを謳っていました。
その写真には、夕日と雲と山しか入りませんでした。だから広がる大地も、気の遠くなるような空も、神々のため息にも見える雲も、人智をはるかに超える山峰も、入っていません。無論、僕らの感じた感動も。
その時僕は疑問に思ったのです。
そしてその疑問も、朝陽を見た時に確信に変わりました。
あの光景は、言葉にすることすらできない。
言葉では足りないのです。
僕はその朝陽を見て涙しました。ああ、僕は生きているんだな。今を、生きているんだな、と。
カメラを構えてはみました。しかし、ファインダーは狭すぎた。いや、僕の視界ですら狭すぎたんだ。
この世界は美しい。
そして人の力はあまりにも弱い。
僕の、いや、たとえ百年の時を経て人がいかなる技術を手にしても、この世界を切り取ることはできない。この世界の美しさを持ち帰ることなんてできない。できやしない。
だから僕は悟ったんです。もう、そんな畏れおおいことを望むのはやめよう。
でも、僕は捨てたわけじゃない。
僕は手放したわけじゃない。
だから約束しましょう、椋さん。
カメラはもういらない。3x5ももういらない。
次にこの風景を見るときは、君と一緒です。僕が君をここまで連れてきます。君と僕の子供も連れてきます。そして、みんなでこの世界を、この感動を。
愛をこめて
勝平
脚本家コメント:
大変短いものでしたが、いかがでしたでしょうか。
タイトルのスリー・バイ・ファイブはジョン=メイヤーの「3x5」という曲からとっています。ファンの方、いるかなぁ。
このままじゃ勝平君ずっと海外飛び回ってるわけですし、それに写真の限界と世界の美しさは(スケールの違いはあれど)、私本人が感じたことです。というわけであまり知られていない勝平君オンリーの掌編作品の出来上がりとなりました。
もし楽しんでいただければ幸いです。