「―――十年近く、かしら」
女性はふっとため息を吐くと、天井の照明に目を細めた。
「短いんだか、長いんだか、曖昧な時間ね」
「……そう、ですね」
向かいの席に座った男性は、手元にあるコーヒーのカップに目をやったまま答えた。
「私があの子に情を移すには十分すぎる時間。だけど、これから先に進んでいくあの子の中で、私がいつまでもいられるとは言い切れない、そんな寂しい時間」
「一対の夫婦が破綻寸前の関係を回復させ、更に強く育ませるには早いような気がします。だけど、一人の少女がそこから派生する歪みを一心に受け続けるには、過酷なまでに長かった。俺はそう思います」
「そうね、そう。その通りだわ。あの子の立場に立ってみれば、そうなるわ」
いかにも疲れきったと言いたげな顔を組んだ両手に載せ、女性は男性を見た。
「あなたって、すごいのね。初めて会った時から、あら、と思ってたけど」
「褒めても何も出てきませんよ。うちの嫁、地獄耳ですし」
「褒めてなんかいないわよ。貶してるのよ、これでも」
まさしく、一刀両断。
「十年もの歳月、あなた、一人で裏で暗躍してたんでしょ。あの子の手紙を嬉しそうに読むあなたの奥さんの傍で、あなたはずっとこの『計画』の遅々とした進行に悩んでいた。あの子の声を電話越しに聞いて微笑みながら、結婚式の招待リストからあの子を外すことには躊躇わなかった。あなたの義理のご両親の何気ない会話、一言一言を、あなたは聞き漏らすまいと聞き、頭の中で緻密に計算していたんでしょ。そして」
一瞬だけ、女性は男性に向けて氷塊のごとき冷たい視線を投げつけたのだった。
「そうやって、あなたはこの十年ほどの年月を、周りのみんなを騙し、奥さんを騙し、そしてあの子を騙して生きてきたのよね」
騙そうと、騙してやろうと思って騙したのではなかった。
妻は、男性にとってかけがえのない人だった。その笑顔には、その言葉には誠意を以て応えるべきだと常時思っていた。
少女も、男性にとっては大事な家族だった。電話越しに、あるいは書面で少女の成長を感じるのは、確かにまぎれもない幸福が含まれていた。
妻が少女のことを語って聞かせる友人たちも、男性にとっては得難い支えだった。自分を信じ自分を支えてくれる者たちに報いるには、真っ向から向き合って腹を割って話すこと以外にできることはなかった。
そんなかけがえのない、得難い、大事な人々を。
十年もの間。
男性は謀ってきたのだった。
「……否定はしません。だけど、そうする他なかった」
早く会いたい、と思いを馳せる妻には相槌を打ちながら、胸の奥ではまだまだ呼べないと確信していた。
夏休みの終わりに少女が電話越しに寂しく、来年は会おうね、と言った時も、会えない、まだ会うべきじゃないとわかっていながら精一杯優しげに頷いた。約束した。
友人たちに、早く会わせろと急かされても、その時が来るのがまだ先であったとしても、そのうちにな、としか答えなかった。
「そうよね。他にもっといい道があったのなら、有子さんが亡くなった時点で思い浮かんでるはずだもの」
「…………」
「あの子には、親が、守ってあげられる親が必要だった。だけど、あなたとあの子の姉には到底無理な話よね。あの子とあなたたちは兄弟であって、親子じゃない。でも、あなたたちにはそれを受け止めて、そして前に進んでいくだけの強さがなかった」
あなたたちには。あなたの奥さんには、と言われなかっただけでもありがたかった、と男性は思った。男性と女性が話し合ったときは、ここまで控えめな表現ではなかった。しかし、それが言い過ぎだったとは男性には思えなかった。何となれば、彼の妻は一度姉妹であり親子であるという歪な関係を望んだのだから。
「誰かが養子として引き取るにしても、あの村は何もないところから始まったんだから。誰か一人がこれからもずっと面倒を見るなんてできなかった。だったら、あの子は自分の父親のところに行くしかないじゃない」
しかし、その父親はその子供の存在を知らされておらず、夫婦の絆は治癒しかけの傷のようにまだ脆かった。
「だから坂上さんたちがあの子を受け入れることができるほど強くなるまでの間、私たちがあの子を見守り、その時になったらあの子と会わせる。全部、私たちの目論見通りよね。本当なら乾杯でもするようなことだわ」
微かに笑みを浮かべて、女性が言った。
「これで、よかったのよ」
「これで、よかったんです」
二人同時に、自分自身に言い聞かせるように硬い口調で短く言った。
「……まぁ、結局はあの子次第でもあるけど。ねぇ、ひとつ確認するわ」
「はい、何ですか」
「もし、あの子が会いたくない、って言ったらどうするの?父親なんていらない、って言ったら、どうする」
「……その時は、俺たちが引き取ります。ちゃんと養子縁組もします」
「あなたたちに、それができるの」
「今なら、できるんじゃないかと。話し合ったことはないですけど、あいつは嫌だとは言わないと思う」
「じゃあ、父親に会わせずに最初からそうすればいいじゃない。そうしたら誰も傷つかないわ」
「でも、それじゃあ可能性を一つ捨てることになります。ともは、もしかしたら和解できたかもしれない自分の父親と会う機会さえなく生きていくことになります」
「会いたくないんだったらどうせ会わないんでしょう。そうしたら、結果は同じじゃない」
「違う、と思います」
女性はまっすぐ男性の目を見据えながら、無言で続きを促した。
「もしともが会いたくない、そうはっきり言って拒絶したんだったら、それはともの決めたことです。残念だけど、受け入れるしかない。だけど、本人の意志を確認せずに『どうせ会いたくないんじゃないか』と俺たちが決めつけて、受け入れる可能性も拒絶する可能性も全部摘み取ってしまったら、それはともが決めた道じゃない。そんなのは、間違ってると思います」
しばらくして、女性は嘆息した後に目を閉じた。口元には、微かな、しかし先ほどのとは別の印象を与える笑みが浮かんでいた。
「あなたって、本当にすごいわ」
「……また貶されてるんですか、俺」
「さあね。だってあなた、誰もかもを騙してきたくせに、誰もかもが互いを受け入れられるだけの強さを持っているって信じてるんだもの。可能性は幾多、でも結果はこうだって揺るぎないほど信じているんだから」
「それはそうです。だって、全員俺の自慢の家族ですから」
その言葉に、女性は今度こそくすくすと笑った。悪意の欠片もこもっていない笑いだった。
「家族、ね。血は全く繋がってないじゃない」
「それでも、大事な家族です。傍にいて、あるいは遠くからでも支えてくれる、そんな人たちです」
「支えてくれる、ね」
ゆっくりと噛み締めるように繰り返しながら、女性は脇にたたんでおいたコートを手にした。話は終わった、という必要はなかった。
「あのね」
「はい」
「こんなこと、今更言ってもしょうがないんだけどね。何だか今日はあなたに少し辛く当たっちゃった気がして」
「いえ、別に」
しかし言われてみれば、確かに思い当たるフシがなかったわけでもなかった。男性は喉から出かかっている好奇心を押さえて言った。
「いいかなって、そう思っちゃったのよ、私」
「いいかなって……?」
男性に背を向けて、女性は淡々と言った。
「もし、このまま時間が過ぎていって、それこそあなたと私の計画も全部ご破産になるくらい時間が過ぎていって、それで身寄りのいない女性一人と頼れる者のいない少女が、ひとつ屋根の下で仲良く仲良く暮らしましたって、そういう結末になったら、それはそれで素敵じゃないかしら」
そして男性は理解したのだった。なぜ女性の態度が硬かったのか。なぜこれほどまでにも疲れて見えたのか。なぜ自分に悲しげな背を向けているのか。
「私は、そう思うの」
無造作にも取れるほどさっと手を挙げて、女性は店を出ていった。