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 智代お姉ちゃん

 

 お元気ですか。わたしもみんなも元気です。

 今朝、畑の方の手伝いをしていたら、ちょうど朝日が昇るのを見ました。

 見えないほど暗かったわけじゃないけど、ほの暗かった世界に鮮やかな色が浮かび上がったのがとっても綺麗でした。朝っていいですよね。何だか、今まであった世界が一新されていくような、しかも光に照らし出されていい方に変わっていくような、そんな感じです。それに、何かが始まる予感がして、ちょっとドキドキしちゃいます。

 智代お姉ちゃんの見る朝の光景は、どんなのですか。隣にはきっと、朋也お兄ちゃんがいるんでしょうね。

 いつか私も、智代お姉ちゃんや朋也お兄ちゃんと一緒の風景に写っていたいです。

 では、また


 とも


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともアフター

第十一話 命

 

 

 

 








 朝一番に朋也お兄ちゃんに父と会うことを相談した時、朋也お兄ちゃんは素っ気なく「そうか」とだけ答えた。

「おーい智代、何だか俺、急に古河パンまで散歩したくなっちまったわ。朝飯までには戻ってくるからな」

「うん、そうか。迷子になるなよ。落し物は交番に。見知らぬ綺麗な女の人に声をかけられても、ついていくんじゃないぞ」

「ははは、智代がいるのにそんなことをするわけがないじゃないか」

「そういう無自覚なのが一番困る。朋也、『京阪』と十回唱えてくれ」

「キョウサカキョウサカキョウサカキョウサカキョウサカキョウサカキョウサカキョウサカキョウサカキョウサカ」

「うん。では朋也、お前の嫁は誰だ」

「智代様」

「……春原なら『杏様』と言うのにな」

「それで合ってるだろ。というか、俺がこんな引っ掛かりにかかると思ったら大間違いだぜ、はにぃ」

「そ、そうか、ならいいんだ……だぁりん」

 最後の一言はぼそり、という具合だったけど、それでも朋也お兄ちゃんの「はにぃの鈴の音ボイス専用耳」には届いたらしく、朋也お兄ちゃんは小さくガッツポーズを決めた。

「んじゃ、行ってくるな」

「ああ、行ってらっしゃい」

 あっさりと閉じられた扉を見て、少し不安になった。

「ねぇ智代お姉ちゃん、やっぱり迷惑だったかな」

「迷惑、とは」

「だって、朋也お兄ちゃん、急に出て行っちゃったし……変なこと頼んだせいかなって」

「ああ、それなら心配するな。恐らく父さんや母さんに先に連絡を入れているんだろう。あと、古河パンには必須のアイテムがあってだな」

「必須の、アイテム」

 私が首をかしげると、智代お姉ちゃんは困ったように笑った。

「それよりとも」

「うん、何」

 智代お姉ちゃんは次の言葉を次ぐべきかどうか迷った後、幾分か静かめに訊いた。

「本当に、いいんだな」

 不安そうな顔を向ける智代お姉ちゃんに、私は目一杯の笑顔で答えた。

「うん、もう迷ってない。ちゃんと、自分の中で答えを見つけたんだもの。あとは善は急げ、思い立ったが吉日、だよ」

「とも……」

「不安がないわけじゃない。今まで会ったこともない二人が、『父です、よろしく』『娘です、よろしく』なんて言ってはいめでたしめでたし、とかありえないってわかってる。でも、どっちに転んだとしても、次に進んでいけるから、そう思えば結構楽なんだよね」

 そこまで言って、私は一旦言葉を切った。そして一瞬だけ躊躇った後、言葉を繋いだ。

「それに、伝えたい、伝えなきゃいけない言葉があるから」

「伝えなければいけない言葉……」

「うん。お母さんが、もし会えたら伝えてって、私のお父さんに向けて遺した言葉」

 それを聞いて、智代お姉ちゃんは顔を強ばらせた。やがてゆっくりと、一言一言区切って喋った。

「それが、どんな言葉であれ、ともにはそれを、父さんに、伝える権利が、あると思う。父さんはそれを受け止める義務があると思う」

「そんな鯱張るようなことでもないよ。私自身、昨日の夜までずっと忘れてたし。呪詛の言葉とか、そんなんじゃないからね。ただ」

「ただ」

「お母さんね、いろいろ大変だったんだと思う。一人で暮らして、一人で私を育てて、一人で全部受け入れて……だから、結構一人で何でもしようとしたから歪なところとかあったけど、でも、やっぱりすごいなって。強かったんだなって」

 それは、私の欲しかった強さとは違ったのかもしれない。

 それは、私の目指す強さとは違うのかもしれない。

 だけど、私は知っている。強さは人一人一人が胸の奥に宿すものなのだと。だから例え母の強さが私のそれと相容れないものであっても、それは紛れもない本物なのだ。

「それにしても遅いね、朋也お兄ちゃん。これじゃあ仕事に……」

 そこまで言って、私ははたと気づいた。

「ちょっと待ってっ!もしかすると朋也お兄ちゃん、今日、一緒に来れないのっ?!」

 考えてみれば、今日は平日。休暇を取っている智代お姉ちゃんならともかく、朋也お兄ちゃんには立派に仕事があるのでは。

「いや、朋也ならともと仕事、どっちを取るかと聞かれたらとも、と即答する。私の旦那様はそんな漢だ」

 少し誇らしげに微笑む智代お姉ちゃん。だけど、それで事態が改善されたわけではない。

「じゃ、じゃあすっぽかすのっ?!朋也お兄ちゃん、会社をサボっちゃう不良なのっ?!」

 なぜか頭の中で杏さんが蓮葉な感じに煙管をくゆらせながら「朋也も今は丸くなったようだけど、昔はねぇ」と笑いかける光景が浮かんだ。杏さん、煙草呑みだったっけ。

「いや、サボるというか……な」

 と、その時

「ただいま、智代」

「あ、おかえり」

 朋也お兄ちゃんが古河パンの袋を手に玄関から上がってきた。

「さて、俺はこれから会社に行くかともの付き添いに行くか悩んで決めなくてはならないのだが、どうやら時間がなさそうだ」

 いや、まぁ、古河パンまで散歩したら、そりゃそうなるでしょ。

「そうか、それは困ったな」

「ああ。だけど、とりあえず『腹が減っては戦は出来ぬ』というしな。とりあえずこのパンをいただくか」

「ああ、そうするのがいい。それがいい」

 その時、私はさっきから感じていた違和感の正体に思い当たった。智代お姉ちゃんも朋也お兄ちゃんも、どちらかと言えば表現豊かな方である。具体的に言えば、町内を「ほぉら、私を捕まえてごらぁん」「あははは、待てまてぇ」「朋也、愛してるぞ」「俺もだ、智代」と高速で走りながら宣っていたという噂を聞いても、私は驚かないだろう。そんな二人の会話が、どことなくぎこちなく、どことなく無感情無表情、それでいてどことなくいたずらっぽいのだ。セリフを棒読み、というのならば関係の冷めた二人、という構図も思い浮かんだけど、むしろそれはこれから何が起こるのかわかっている共犯者、という感じだった。

「じゃあ、このパンを食べるしかないか」

「そうだな、ちょうどそこにパンがあるんだからな」

 そもそも、智代お姉ちゃんほどのしっかり者が、朋也お兄ちゃんの出勤前の散歩やこんな呑気な会話を許すはずがない。「何をやっているんだお前はっ!ほら、早く着替えろ!朝ご飯はもう出来ているぞっ!ああ、まどろっこしい、私がお前のネクタイを締めてやろう」とかぐらいは言うんじゃないだろうか。

 うん、これは何か絶対、裏がある。

「じゃあ、いただきます」

「はいめしあがれ」

「あーん……ぱくり……・ごぇふぅっ!!」

 朋也お兄ちゃんの食べた量は、決して多くはなかった。

 せいぜい、口の中の四分の一ほどを占めるぐらいだろうか。その気になれば、丸呑みだって出来たぐらいだ。

 だから。

 たかだか小麦粉を練って醗酵させて焼いただけの、厚生省も認可したはずであろう食品に。

 お店で売っている、金銭のやりとりを要する食料製品に。

 こんな効果があっていいはずがない。

「朋也っ、大丈夫かっ」

「しまったー、さなえさんのー、ぱんにーあたったようだー」

 うん、どう聞いても小学六年生の学芸会でもそこまでの棒読みには滅多にお目に(お耳に?)かかれない。

「あー、ともよー、そんなことよりー、しごとー」

「仕事なんてどうでもいいっ!そもそも仕事に行けるかっ!待っていろ、今仕事場に連絡してやろうっ」

 「あたかも」この展開を読んでいたかの如き手際の良さで、智代お姉ちゃんは電話の子機を手にして朋也お兄ちゃんの仕事場の電話番号を押した。

『ヘイラッシャイ、ヒカーリザカ、デーンキ』

 妙なアクセントのかかった声が、受話器の向こうから聞こえてきた。へいらっしゃい、と「光坂電気」という名称のお店は合わないと思う。

「おはようございます、岡崎です」

「オウ、ミセズオカザキ。グッドモーニング」

「ジョニーさん、グッドモーニング。すまないが、朋也が倒れてしまって……」

「ホワット!トッテモタイヘン」

「何でも、古河パンで『例のパン』を食べてしまったらしいんだ」

「オーウ……トゥーバッド!アレタベルノ、ダレデモノーサンキューデスネ……」

 どよよ〜ん、と重苦しい雰囲気が受話器越しから伝わってきた。ジョニーさんとやらも、食べたことがあるんだろうか。

「本人は出勤したがっているんだが……今替わる」

「もしもし……」

 ちなみに、この時点で朋也お兄ちゃんは顔面蒼白の上に口から正体不明の黒い液体と、同じく黒い泡を吹き出しており、目からは黄色い液体がどろりと垂れ落ち、鼻に至ってはもう、ご察しくださいとしか言いようが、という状態だ。声は、そう、柱に縛られた後、高校リーグ常勝の男子剣道部のみなさんから代わる代わる喉へ突きを実践していただいた後、古き良き応援団の練習に放り込まれた後のごとく掠れていた。

「ミスターオカザキッ?!イキテマスカ!!」

「あ……はい……かろうじて……これから出勤……ゴハッ」

 早苗さんのパンを食べた後では、咳も普通じゃなくて生命を削るようになります。なんてビフォーアフター。

「ミスターオカザキ、フーリッシュナコトイッチャダメヨ。ボスニハミーカライッテオクネ。キョウハユックリヤスムノガベストデス」

「しかし……」

「ソンナカラダデコラレテモ、ミスターヤマハギ、メイワクネ。ハヤクヨクナルノガイチバン。コレモ、オシゴト」

「そうですか……では、明日は行きますので」

「マッテルヨ」

 そう言ってジョニーさんは電話を切った。

「朋也お兄ちゃん、大丈夫っ」

「とも……これで……やっと……」

「喋らないでっ!そのまま、無理しないでっ」

「智代……」

 ふと見ると、智代お姉ちゃんが無表情のまま、朋也お兄ちゃんを見下ろしていた。そのすらりとした手は、「あたかも手刀打ちを繰り出そうとしているかのよう」にまっすぐ構えられていた。

「わかっている……わかっているとも」

「なるたけ……一瞬で……終わらせてくれ……」

「大丈夫だ。痛いと感じるのは一瞬だけ。それで全て終わる」

「え、まさか」

 まさか智代お姉ちゃん、朋也お兄ちゃんの介錯役?究極の夫婦愛?朋也お兄ちゃんを一生背負っていく覚悟を決めてらっしゃいますか智代お姉ちゃん?

「では……な」

「ああ……」

 そして智代お姉ちゃんの手刀は狙い違わず朋也お兄ちゃんの腹部に当たり、朋也お兄ちゃんはすっごくいい笑顔で「お前のおかげでどーとかこーとか」と言い残し、智代お姉ちゃんは警察に連絡の電話を入れ、事情聴取のためにパトカーに入る前に「とも、お前は強くなるんだぞ」と言い残し、そして私は熱い涙を流しながら夏の終りを胸に刻みつけたのでした。


BAD END


「ごほっごほっ……あー、助かったわ、智代」

 と思っていたら朋也お兄ちゃんが急に咳き込んで、けろりとした顔で智代お姉ちゃんに話しかけた。

「まったく、この手はあまり使ってほしくなかったんだぞ?どうせなら私の料理が失敗したとか、そっちのほうが可愛気があるじゃないか」

「や、お前、料理失敗しないじゃないか。そんなんで職場は騙されない」

「そんなの、知らないだろう。私が料理を作るのは朋也のためだけなんだから」

「うんにゃ。会社には俺が吹聴して回った」

「するなっ」

 トモトモーズのラブラブバカトークに置いてきぼりを食らっちゃっている読者のみなさん、説明しましょう。

 毒物というのは、体内にあるから問題なわけです。正直、体の中に入っていない毒物なんて、そんじょそこらにゴロゴロ転がってます。

 だから智代お姉ちゃんの手刀は、その毒物 ― 早苗さんのパン ― を朋也お兄ちゃんが体から出すために必要とした「咳」を誘発するためのものだったんです。朋也お兄ちゃんが少量のパンしか食べなかったのは、毒の量を減らすと共に、咳で吐き出しやすくするためでもあったわけです。

 あと、朋也お兄ちゃんがパンを食べた後結構必死だったのは、電話越しの演技の助走みたいなものだったんです。まぁ、智代お姉ちゃんみたいに真面目な人が、いきなり切迫した声を出すなんて難易度が高いですし。以上、解説終わり。

「さてと、会社への電話も済んだし、智代、俺、智代の味噌汁が飲みたい」

「お前は全く……仕方のない奴だ」

 そう言いながら食卓に向かう二人の後を、私は追った。表で聞こえる「私のパンは仮病のために使われるものだったんですねー」「俺は大好きだー」という声を無視しながら。





「では……行くか」

「うん」

 頷いて、私と智代お姉ちゃんは玄関のドアを閉めた。朋也お兄ちゃんはいろいろと準備するため、既に向こうについているはずだ。

「暑いね」

「ああ、暑いな」

 あの夏も、暑かった。

 母は日傘を手に、私と手をつないでよく散歩した。道に映る二つの大きな影を追うのが楽しかったことを、朧げながらも覚えている。二人でいれば大丈夫。二人はずっと一緒。そう信じていられた時間だった。

 だから、母が「ここで待ってて。すぐにあそこのおうちの人がともを見つけてくるから……大丈夫、絶対、大丈夫だから」と言った時も、それが別れだとは思わなかった。

「あそこに、だれがいるの」

「あそこには……お父さん、そう、とものパパがいるの」

「ぱぱ、いるの」

「ええそうよ。だから、ここで待っててね。お母さんも戻ってくるから」

 私はその言葉を信じた。お母さんはちょっとどこかに行かなくちゃいけなくなったけど、すぐに戻ってくるんだと、そう信じて疑わなかった。

 智代お姉ちゃんと一緒に歩くに連れ、私の大まかな記憶に細部が描かれていった。

 このセミの鳴き声は、あの時聞いたのにそっくりだった。

 この少し洒落たデザインの家は、まだあったんだ。あの時はどんな人が住んでるんだろう、なんて思ったものだ。

 そう感傷に浸りながら歩いていると、T字路の角のところに家が一軒あった。周りには、この暑さの中誰かが手入れでもしているのだろうか、瑞々しく茂った垣根があった。そしてその向かい側の家、その塀越しに見える松の木が、私の記憶を震わせた。

 そうだった。私は、ここで待っていたのだ。

 私は母を待っていたのだ。帰ってくるはずもない母を。

 足が痛くなったら座り込み、そしてしばらくして立ち上がった。しゃがんでいると見えにくいだろうから、母が見つけてくれないかもしれないと、そう思ったんだった。

 そんな私に声をかけてくれたのは、母でもなく、父でもなく、一人の青年だった。

――― あれ、君、どうしたの?迷子になっちゃったの

――― ちがうよ。ともはね、おかーさんをまってるの

――― お母さん?お母さんとはぐれちゃったの

――― ちがうよ。おかーさんがね、ここでまってなさいって

――― ふーん……うちに来客かな。でも、ここで子供だけ待っていろってのも変だし

――― ……おにーちゃん、ここのおうちのひと

――― え、あ、まあ、そうだけど

――― おかーさんがね、ここに、とものぱぱがいるって、そういったの

――― ……え、それ、どういうこと

 私が私の知っている事情を話すうちに、その青年の顔が険しく変わり、また顔色も蒼白と化していった。そして「行こう」とぶっきらぼうに言うと、その青年は私の手を取って、見知らぬアパートまで連れてきたのだった。

 その青年の名前が鷹文だと知ったのは、智代お姉ちゃんの腕に抱かれて遊んでいたその日の晩のことだった。

 そして、その木陰の下に立って、私は再度その家を見上げた。

 保守的なデザインの、でも寂れた感じがしない、立派そうな家だった。豪邸、というわけではないが、現実味の感じられる家の中では上位のほうだと思う。心理的なものも含まれているのかもしれないけど、威厳に満ちた雰囲気が漂っていて、私にとっては少しばかり近寄りがたい感じがした。垣根の他に、それなりに大きな木も二本ほど立っているようだった。表札は鼠色の大理石を彫って白墨で「坂上」と書かれていた。

「……行こうか」

「うん」

 お互い、固めの声を出して一歩踏み出そうとしたその時

「あー、先輩にともさんだ。なぁんだ、間に合ったんじゃん」

 例えて言うなら、百メートル走の合図の鉄砲が誤射だったり、試験の問題用紙が始まって五分してから間違ったものだったので回収されたり、そんな「雰囲気ぶち壊し」感を胸一杯に満喫しながら、私と智代お姉ちゃんは振り返った。

「……河南子」

「……河南さん」

「ん、どったの、そんな怖い顔して。何か『空気読め』って言われてるような」

「そこまで察したのなら……いや、いい。もうどうでもいい。それで、お前はなんでここに」

「えー、だってともさんの大事な時にあたしがいなかったらどうするんですか」

 うしゃしゃしゃしゃしゃ、と独特の笑い声をあげる河南さん。

「鷹文はどうした」

「あー、鷹文ね、うん、まー、その、あれだ、ね、わかるっしょ」

「いや、わからん。説明しろ」

 すると河南さんの笑顔が苦いものになった。

「鷹文は……」

「どっかの寝坊助を何度も起こそうとした挙句にその無意味さを悟った後、置き手紙を置いて先に坂上家に到着してましたとさ」

 玄関から顔を出して、鷹文お兄ちゃんが渋い顔を覗かせた。カッコイイという意味のシブい、ではなくて、苦り切ったという意味の渋いだった。

「た、鷹文、ばっ、てめっ」

 慌てふためく河南さん。まぁ、さっき「大事な時にいなかったら云々」とか言っておきながらその実寝坊していたなんてバレたら、そりゃ気まずいですわ。

「まぁ、結局は間に合ってよかったけど、さっきから母さんに『あら、河南子さんは一緒じゃないの』と責められていた僕の身にもなってよ」

「んなこと言ったって、鷹文が優しく起こしてくれないのが悪いんじゃんっ」

「はぁっ?優しく起こしたって強く揺さぶったって起きないのに何言ってんだよ」

「…………とりあえず、中に入ろうか、とも」

「……………………うん、そうしよっか」

 ぎゃーぎゃーわーわー騒いでる(イチャついてる?)鷹文お兄ちゃんと河南さんを置いて、私と智代お姉ちゃんは坂上家に足を踏み入れた。




 板張りの廊下を軋ませながら、私たちは歩き、そして居間に続くとされる扉の前で立ち止まった。曇ガラスのパネルを嵌め込まれたその扉の向こうに、私の父と、その奥さんが朋也お兄ちゃんと話をしているはずだった。

「思ったより、結構すんなり受け止めてたよ」

 鷹文お兄ちゃんの声に、智代お姉ちゃんは鼻を鳴らした。

「まあ、自分で為したことだからな。逃げ回るわけにもいかないだろう」

「あ、父さんじゃなくて、母さんの方」

「母さんが」

 智代お姉ちゃんがびっくりして鷹文お兄ちゃんの顔を凝視した。

「どうやら父さん、事前に自分でこのことを話したみたいなんだ。だから、まぁ、いろいろとあったようだけど、今は二人とも落ち着いてる」

「……そうか」

 智代お姉ちゃんの顔からはこれといった表情は読み取れなかったけど、声色にほんの少し、安堵と嬉しさが混じっていたように聞こえた。

「じゃ……ちょっと失礼」

 そう言って、鷹文お兄ちゃんが扉をノックした。

「鷹文です。入ってきていいかな」

「どうぞ」

 返事をしたのは、朋也お兄ちゃんではなくて、聞いたことのない太い声。父の声だった。鷹文お兄ちゃんはここで待ってて、と視線で私たちに言うと、部屋の中に入っていった。部屋の中でかろうじて聞こえるほどの会話が聞こえる中、智代お姉ちゃんがそっと私の手を握った。無言の優しさに、私はそっとその手を握り返した。

 しばらくして、朋也お兄ちゃんが扉から顔を出した。

「とも、みんな、中に入ってくれ」

 智代お姉ちゃんが先に入り、その手に引かれて私が、そして最後に河南さんが部屋の中に入った。

 薄青の色調で統一されたリビングの壁際に「『」型の革製ソファーが置いてあり、その前に置いてある木製のテーブルを囲むように、更に椅子が並べてあった。そしてそのテーブルの後ろで、彼らは立って私を迎えてくれた。

 初めて見る父は、私や智代お姉ちゃんより少しばかり背が高く、恰幅のいい人だった。オールバックにした髪には白髪が混じっており、顔に刻まれたシワと共に疲労感を醸し出していた。そして、その傍に立つ女性は

「……え」

「……あら」

 二人同時に素っ頓狂な声が出た。女性は私に向けて、なぜあなたがここに、と言いたげな顔を見せていた。多分、私も同じだったに違いない。

 すらりとした体型、整った顔立ち、どことなく凛とした物腰。それらは皆、智代お姉ちゃんと瓜二つだった。最初に会った時、その後ろ姿をどこかで見たと感じたのも、不思議はないだろう。

「あなたは、先だっての善意の同行者の方では」

 私が風子さんと一緒に迷っていた時に道を教えてくれた女性は、私に綺麗な笑みを見せた。

「……善意の同行者だなんて、そんな対したものじゃないですけど、はい、その時はどうもありがとうございました」

「いいえ……それにしても面白いですね。またお会い出来る予感はしていましたけど、よもやここでとは思ってもみませんでした」

「はい、私も同感です」

 ふふ、と笑ったあと、女性は恭しく私に頭を下げた。

「では改めまして、坂上伽羅と申します。以後お見知りおきを」

「こ、こちらこそっ!三島ともです。よろしくおねがいしますっ」

「あらあら、礼儀の正しいこと。どこぞの方とは大違いですね」

 そう言って伽羅さんはじと、と河南さんを見た。なぜか気まずそうに視線を逸らす河南さん。

「……よほど」

 そう言いながら、伽羅さんに笑顔が浮かぶ。どことなく苦しそうな笑顔だった。

「……よほどしっかりと育てられたのですね、あなたのお母様も、真菜さんという方も」

 その一言で、私たちは和やかな空間から現実に引き戻された。

「ともさん……三島ともさん」

 私の父親が、私を呼んだ。慈しむ、あるいは噛み締めるようでもなく、辛そうに。

「私は……私の名前は坂上雅臣。あなたの父親に当たる者だ」

「……はい」

 言葉を吐き出す毎に、父の体が萎んでいった気がした。最初は薄く笑顔を作ろうとしていた顔も、暗く沈みうつむいてしまった。

「私に、そんな……父親と名乗る資格などないことは、百も承知だ……ずっと何もしてきていない、会ってすらいない男なのだから当たり前だ」

 それは、血を吐くような独白だった。身を切って、血を流して、そしてそれを以て贖罪とせんばかりの痛みが、ひしひしと感じられた。

「父親のいない暮らしで、様々な不自由を感じたことだろう。ましてや、有子さん……あなたのお母様が亡くなられてから、さぞかし辛かっただろう。それは偏に、私の弱さの招いたことなんだ」

 項垂れたまま、父はふらふらと両手をテーブルの上に置いた。

「私は、弱い人間なんだ。私は、家族から逃げてしまった弱い男なんだ。そして、今の今になるまで、己の業から目を背けてきたんだ」

 そして父は徐に、頭をテーブルに打ち付けんばかりの勢いで私に向かって下げた。

「すまないっ!三島ともさん、私は、あなたを、そしてあなたのお母様を一人にさせてしまったっ!有子さんを一人で逝かせてしまい、そしてあなたに苦しい思いを強いてしまったっ」

 私は何も言えず、ずっと父を見ていることしかできなかった。

「言葉で償いきれることではないことは、承知している。いや、むしろもう何をやっても赦してもらえないのが普通だろう。それでも、私は、できることならあなたに何かさせていただきたい。今までを全て清算させていただきたい。でなければ、私は有子さんに顔向けができない。私は私自身を許すことができないっ」

 悲痛な叫びが、リビングに木霊した。父はしばらくの間、肩を小さく震わしていた。 

「……ともさん、私からもよろしいでしょうか」

 静かに、しかし揺るぎない口調で、伽羅さんが私に向かって言った。私が無言で頷くと、伽羅さんは微笑んだ。

「今更言っても詮無きことではございますが、坂上は、あなたのことを何も知らなかったのでございます。あなたを疎んで呼ばなかったわけでも、あなたとあなたのお母様を憎んでいたわけでもなかったのです。それだけは確かなことです」

 私は頷いた。私を疎んでいた、あるいは憎んでいたのなら、今になって会いたいなどとは思わないだろう。

「でもね、もし知っていたとしても、もしかすると坂上は、何も出来なかったのかもしれません」

「え」

 驚いて伽羅さんを見ると、伽羅さんの笑顔に、影がよぎった。

「坂上がもしあなたのことを知っていたとしても、もしかすると、いいえ、多分、あなたと会うことはおろか、あなたのことを口にすることができなかったでしょうね」

「それは……」

「偏に、私のせいです。私が知ることで坂上は、私たちの家族に亀裂がまた生まれるのを恐れたでしょうから」

 きっぱりと、断頭台の刃が落ちるかのように、伽羅さんは言い放った。

「私たちの家庭は一度……ああ、言わずもがなのことでしたね。それもまた、私の弱さでしょうに。ねぇともさん、坂上は確かにお母様と愛を育まれ、それは世間様から見れば許されざる愛だったかもしれません。しかし、その科は坂上だけにあるわけではありません。無論、あなたのお母様のせいでは微塵もございません」

 きっかりと私を見据えた双眼には、嘘からくる濁りは見られなかった。

「私にも、責任はあります。そうでしょう?私が坂上を繋ぎ留めるだけの女子であったのなら、家を戻ってきたくなるような場所に保っていたのなら、坂上は愛を他に求めることはなかった」

「それはっ……」

 父が顔を上げて何か言おうとした。智代お姉ちゃんも、抗わんと口を開いた。しかし伽羅さんは、悲しげに笑ってそれらを封じた。

「なのに私は坂上を繋ぎ留める努力を怠ったばかりか、これ幸いと自分も他の男性と関係を持ち……思い返すだけで返す返すも己が嫌になります」

 だから、と続ける伽羅さんの目は、真摯そのものだった。

「坂上に咎があるのなら、私にも業はあります。ならば、私の業によって引き起こされた不幸の責を、私が逃れることなどできはしますまい。その不幸が長引いたのが私への配慮ということなら、尚更のことです」

 そして伽羅さんは、父の隣に立つと、両手をテーブルについて頭を下げた。

「三島ともさん、あなたを今まで一人にさせてしまったのは、私ども夫婦です。私どもであなたに辛い思いをさせてしまいました。申し訳ない限りです」

「……伽羅さん……」

「坂上を憎んでいるでしょうね。私を恨んでいるでしょうね。いくら謝罪したとて、思いは晴れぬかもしれませんね。でも、ならば、憎み恨んでください。存分に怒り呪ってください。だけど、できることなら坂上だけを恨まずにいてやってください。科は、私ども二人のものですので」

 違う。

 伽羅さんの覚悟は立派なものだと思う。自分のことながら、配偶者の浮気が望まれない命に繋がったと聞けば、怒ったりするのが当たり前だろう。私も昨日の夜に父と会う覚悟は決めたものの、父の妻と会うのが怖かったことは確かだ。だけど、この人は私を責めないばかりか、私に自分の非を晒し出し、そして許しを請うた。

 その言葉は、誠意に満ちていて。

 その決意は、揺るぎない。

 そしてそれは父にも当てはまった。私と会えば、一騒動になることはわかっていた。私と会って話をするということは、私という存在、「いないほうが都合のいい」存在を認めたことになる。認めてしまえば、後はない。私を拒絶したところで、逆に父の品格が落ちるだけだから。

 だから、父の方から私に会いたいと言った時点で、父はこうするしかないと思っていたのだろう。その時点で、覚悟を決めていたのだった。

 その潔さに敬意を。

 その誠意に感謝を。

 だけど。

 だからこそ。

 私はそれを間違っていると、誠意を以て、敬意を以て言わなければならない。

 そう、間違っている。

 私はそれを断言できる。

 それは、私が父や伽羅さんの真心ですら届かない深い底から、二人を嫌悪し憎んでいる、からではない。もしそうであるならば、二人は間違っているのではなく、心が及んでいないだけなのだから。

 それは、私が見ず知らずの人たちから赦しを請われることを良しとしない、からではない。私には、二人のことを考える時間はあった。考え、そして会おうと決めたのは、そして会う日程を決めたのは、他ならぬ私だから。

 もっと根本的なことだった。

 それはつまり、私も、母も、誰もそれを望んでいないからだ。

 私は父に今までの苦労を謝ってもらうために会いに来たのではない。

 母は今際の時に、父と伽羅さんへの呪詛の言葉を託したのではない。

 そうであるならば、例え私が父と伽羅さんを許しても。

 例え私が母を代弁して二人を赦しても。

 二人が己を許さないだろう。心の中のどこかで、いつも罪を背負うことになるだろう。他ならぬ、自分たちが自分たちに課した罪を。

 それは違う。

 それは間違っている。

 私の命は、そんな虚しいことのために、今日の今日まで生きてきたのではないのだから。

 だから、私は父のように誠意を込めて、伽羅さんのように慄然と。

 二人に向き合って、告げた。


「一つだけ、お願いがあります」

「何だろうか。聞かせてもらいたい」


「私と一緒に、みんな一緒に、母の墓参りに来てください」



 

 

 

 

 

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