夢を、見た。
最初のシーンは、夏の公園だった。家を出てアパートの階段を降りるとすぐそこにあるその公園を、私は子供ながら便利だと思った。涼しい木陰の中で、私はブランコを一生懸命に漕いだり、砂場で遊んだり、鉄棒の周りをむやみに走り回ったりした。振り返ると、日傘の下で母が微笑んでいた。その笑顔が眩しくて、その優しさが嬉しくて、私は笑って手を振った。
次のシーンは、狭い台所だった。母が料理している間、私はデタラメな節で鼻歌を歌いながら、画用紙にクレヨンで絵を描いていた。そんな私にかけてくれる母の声が優しくて、楽しそうで、私はきゃっきゃっとはしゃぎながら画用紙を母に見せた。
次のシーンは、裸電球で照らされた、とある病室の窓際。その頃の母は、もう起き上がる力もなく、ベッドのそばのテーブルには、異変が起きればいつでも知らせられるようにブザーが置いてあった。母の横たわるベッドのそばにあるスツールに腰掛けて、一日の出来事をできるだけ詳しく母に話していた。少しやつれた顔で、それでも母は一生懸命聞いてくれた。そしてその後で、嬉しそうに、優しげに、楽しそうに微笑んだ。
悲しい出来事が起きる夢ばかりが、悲しい夢ってわけでもないんだな、と改めて実感した。
「真赤な誓いィッ!!」
寝ぼけて発した声が大きくて、私自身はっと目を覚ましてしまった。
ふと周りを見渡すと、朋也お兄ちゃんがいて、智代お姉ちゃんがいて、鷹文お兄ちゃんがいて、河南さんがいて、父と伽羅さんがいて
全員が私の方を見ていた。
目が、点だった。
「ええっと、あははは」
誤魔化し笑いを作ると、朋也お兄ちゃんが「ああ」と少しばかり間の悪い声を出した。
「その、な?……ユニークな寝言だった、な」
智代お姉ちゃんがフォローしてくれたけど、そもそもフォローできるようなものではない気がした。
「ともさん、どんな夢見たんだよー」
河南さんがうりうり、と私の頬をつついた。
「ええっと、智代お姉ちゃんがヤバそうなスカートを履いたり朋也お兄ちゃんが槍を振り回したり、鷹文お兄ちゃんがブラボーを連呼したり、河南さんが天使だったりとか、そういうのじゃなかったよ」
「あ、配役に納得」
「ちょっと待てよっ!何で僕がその役なんだよっ」
「えー、だって先輩は口調からしてぴったりっしょ。で、あたしが天使御前」
「えー」
ぼかっ
「キャインッ」
朋也お兄ちゃんのちゃちゃの手は、握り拳で返された。朋也お兄ちゃんはそのまま、智代お姉ちゃんの膝に逃げ込み、そんな朋也お兄ちゃんを智代お姉ちゃんはよしよし、と撫でた。
「つーかさ、鷹文はじゃあどの役になりたかったわけ」
「え……そ、そりゃあ、主役だよ」
途端に、河南さんが冷たい視線を投げかけた。
「な……何だよ」
「ふぅん?やっぱ主役かぁ……主役なんだぁ」
「え、な、何、その目」
「つまり、ヒロインの先輩と一緒がいいんだぁ」
空気が、凍りついた。
「え、ええ?えええっ」
「ヒロインってこの場合、先輩だよねぇ……へえ」
「そ、そうなのか、鷹文っ」
「鷹文っ!父さんは、父さんはそんなこと許さんぞっ」
「鷹文さん、ちょっとお話があります」
この食付き様、これは遺伝なのかなぁ。
「鷹文っ!智代は渡さんぞっ」
朋也お兄ちゃんが怒鳴るけど、未だ智代お姉ちゃんの膝の上なものだから、威厳もヘチマもなかった。
「あら、朋也さん、あたかも智代さんが自分のものであるかのような物言い」
「いやぁ、まぁ朋也君と智代は夫婦だからな」
「なぁ、母さん、それに鷹文も、いい加減朋也の嫁は私異論は認めないという私の立場を理解していただけないだろうか」
「だからっ!僕はねぇちゃんとそんな関係を望んでないってっ」
「ほんとかなぁ」
あたふたする鷹文お兄ちゃんを見て、河南さんがニヤニヤ笑った。ううん、華麗なる一族、などと思っていたら
「はっはっは、心配せずとも父さんは智代の味方だ。ともさんもそうだろう」
えー、私も巻き込まれるのー。
「え、あ、そうですね。朋也お兄ちゃんと智代お姉ちゃんがばらばらというのは、ないですね」
「ともっ!ああ、ともはなんていい子なんだっ」
「そうだな、さすがともだ」
トモトモ夫婦が私を抱きしめた。
「それに比べて鷹文は……」
「まったくだ。もうお前など知らん。絶縁だ絶縁」
うわぁ、シビアな。
「ひどいなぁ……ねぇ、父さん、どうしよう」
「ん、誰だね君は。おい伽羅、知らない家の子がいるぞ」
「と、父さんまで……母さん、何とか言って」
「何とか」
鷹文お兄ちゃんが真っ白に燃え尽きたところで、車掌さんが切符を確認しに来た。
私たちは今、私の町に向かう列車の中にいる。これは、私が頼んだことだった。
言ってからすぐに後悔した。願いを口にしたことを、ではなく、自分の言葉の少なさを。解れかけていたその場の空気が、また一瞬にして張り詰めたのが、私にもわかった。
「無論、行かせていただくが……」
そうは言ったものの、父はあきらかに私の真意を掴みかねていた。智代お姉ちゃんも河南さんも、不安げに顔を合わせていた。
「なぁとも、みんな一緒にって、俺たちもだよな」
朋也お兄ちゃんが努めて明るく訊いたので、思い切り頷いた。
「もちろんだよ。みんなで行こうよ」
その一言で、ほっと誰かが一息をついた。少なくとも、私が他の人に聞かれたくないことを、二人きりになってしかもホームグラウンドで言うつもりがないことはわかってもらえたようだった。
「では、いつ行こうか」
「早いほうがいいんじゃね」
「こういうのって命日に合わせたりとか」
「あ、すみません、母の命日は、私がこっちに来る前に過ぎてます」
「じゃー、来年か」
「遅すぎるだろう、それは」
いろいろと討議していると
「では、今週末」
伽羅さんが響くように言った。
「今週末……ふむ」
「今日は確か火曜日だから、四日後か」
「ええ。明日となると皆さんいくらなんでも急でしょうし、先方にも迷惑でしょう。ですので、皆さんにも先方にも準備のできる時間をと思い、週末です。朋也さん、先方にご連絡を」
「え、あ、はい」
「智代さんはともさんと朋也さんの支度を」
「あ、俺、自分の準備は」
「ダメです。智代さん、やってあげなさい」
ぴしゃりと伽羅さんが命令した。反論の余地の「よ」の字もないな、と思った。
「わかった。安心しろ朋也、私が最高の準備をしてやるからな」
「あ、ああ」
そこまで気張ってもらうほど大層な準備は必要なのかなぁ、と微妙な顔をする朋也お兄ちゃんを尻目に伽羅さんはどんどん指令を下していった。
「鷹文さんは河南子さんの準備をなさい。手伝うのではなく、してあげなさい。あなた、先方への買い物などやることはたくさんあります。ああ、あと河南子さん」
「あ、へい」
「あなたは何もしないでください。しなくていい、ではなくてしないでください」
窓の外を、のどかな光景が流れていく。正午の日差しに目を細めて、智代お姉ちゃんが笑った。
「結構町の規模が大きくなったと聞いたから随分風景も変わったんだろうけど、こういう景色が見えるのはいいな」
「そうだな。何だか、親父の実家の方みたいだな」
「直幸さんの実家って、どんなところ」
ふと聞いてみた。
「そうだな……やっぱりこんな風に緑が広がってて、花畑が綺麗なんだな。それで海の近くだから、波の音とか潮の香りとかもあって……」
その後朋也お兄ちゃんはしばし考え込んでブツブツつぶやいていたけど、急に私に向き直って
「つまり最高さっ」
にっこり爽やかに笑った。何だかいらいらするほどキラッとした。
「そうだな、今は志乃さん……直幸さんのお母さんが住んでいらっしゃるが、時々遊びにいくんだ」
「そうなんだ……伽羅さんの実家はどういうところなんですか」
「みすぼらしいところですよ。本当に何もない。緑もなければ、綺麗な川もない。小さな寂れた町です」
「……」
変な話題を振ってしまったことを謝るべきか考えていたら、伽羅さんは「でも」と続けた。
「それでも私が生まれ、そして育ったところでした。都会に出てくる前、そこが私の世界でした。長い間、行っていないのですけれど」
そして私たちに向かって微笑んだ。
「いつか一緒に行きませんか。私も自分の足元を見つめる時間が必要だと思いますので」
「はいっ」
「私も行きたい」
「あ、じゃ、俺も」
「ただし朋也さん、あなたはダメです」
「……そう来るんじゃないかって思ってましたよいい加減」
ぐぬぬ、と渋い顔をする朋也お兄ちゃんに対して、涼し気な顔をする伽羅さん。
「あのさ、智代お姉ちゃん、普通婿と仲が悪いのは……」
「そうだな、本来なら義理の息子を徹底的にいじめるのは……」
そして私たちは先ほどから窓の外に目をやっていた父に目を向けた。
「ん、何かね」
「父さんは私を朋也に取られて、何とも思わないのか、という話だ」
「ああ、そのことなら大丈夫だ。私は朋也君を信頼しているからな。朋也君なら智代とイチャイチャラブラブしても安心だ」
「……そういうもの、ですか」
「実はだな、とも」
智代お姉ちゃんがふふん、と笑いながら私に話しかけると、父の顔色が豹変した。
「ちょっと待ちたまえ、その話はしないはずでは」
「家族の間では、秘密など持っていてはいけないのではないか、父さん」
「うぐぅ」
「いや、そんな可愛らしい声を出されても困るんだがな」
本当です。
「あー、おほん。この件に関しては、そのだな、家長の権限を行使し……」
「雅臣さんが酔っ払って管を巻いているところをよりにもよって朋也さんが介抱したのですよ」
父が硬直した。
「あら、だってこんな面白い話、ともさんだけ仲間はずれなんていけませんもの。ねぇ」
「うん、そうだな」
伽羅さんと智代お姉ちゃんの夢のタッグチームの前に反論すらできず、父は肩を落とした。
「次は、境之山前。境之山前。お降りになられる方は……」
そのアナウンスを聞いて、私は「はいっ」と言いつつ停車ボタンを押した。
「どうしたんだ、とも。次のバス停まで乗るはずでは……」
「そうなんだけどね。実はちょっと……」
キョトンとする智代お姉ちゃんに、私はにしし、と笑ってごまかした。
町に向かう坂道がきつすぎやしないだろうかと心配だったけど、どうやら杞憂だったみたいだ。
境之山道と呼ばれる山道は確かに距離は長いものの、歩行者のために石段と手すり、そして車いす使用者のためのリフトまである。河南さんはリフトを使おうとしたのだけれど、伽羅さんの一睨みで徒歩に切り替えたようだった。
「相変わらず鬱蒼としていますな、うっそーてなくらい」
『……………………』
河南さんが今、地球温暖化を食い止めそうなほどの温度の発言をした気がしたけど、とりあえず無視。
「ねぇ」
「どうした河南子」
「ここ、さっきも通った道だよ」
河南さんの低い声に、みんなが振り返った。
「だってこの木、さっきあたしが……」
「ほう……見事な楓だな。うむ、この威厳にあふれた姿、これは百年は立っているんじゃないか」
「あ、わかりますか。その木は、この山の中でも『楓の長』と呼ばれる木で、百二十年ほど前から立っていたそうです」
「そうなのか……ところで河南子さん、この木がどうかしたのかね」
「いえ、何でもないです」
無表情になった河南さんが平坦な声で答えた。
「でもよく楓だってわかりましたね。それに形に関しても」
「いや、何、盆栽に凝っている知人がいてね。私にもどうかと誘っているんだけどな。どうだろうか」
父が少しばつが悪そうにこめかみを掻いた。
「どう、と言うと」
「いや、ジジくさいとか、そう思わないだろうか」
そわそわと父は私を見て、みんなを見渡した。
「いいんじゃないですか。何だか渋そうで」
とは朋也お兄ちゃんの言。それに頷く智代お姉ちゃん。
「そうですねぇ。趣味もそういうのであれば、文句はないですけど」
どことなく刺のある返しをしたのは伽羅さん。ま、私だってこれ以上「妹ですこんにちは」とかそういう悶着はもー結構だし。っていうか私の悶着終わってないし。
「僕もいいんじゃないかって思うよ。お金かかるかもしれないけど」
「お金だけじゃなくて、気がかりにもなるんじゃない?キなだけに」
「……」
「…………」
「………………………………」
「………………………………………さて、先に行こうか」
「そうですね」
「行こう」
「鷹文さん、河南子さん、後でお話があります」
「何で僕までっ」
「というか、まだいたのか、知らない家の子よ」
「父さん、まだ僕絶縁状態なのっ」
「今ので戻ったんじゃないでしょうか。まあ、私もその処置が適当だと思いますけど、某ナニガシさん」
「名前までなくなってるっ」
下でワーワーギャーギャー騒いでいる鷹文お兄ちゃん、河南さんアンド伽羅さんの声を聞きながら歩いていると、父がぼそりと言った。
「で、ともさんは、その、どうなのかね、その、な」
「盆栽ですか?いいと思いますよ。やっぱり自然と触れ合ったり、何かを育てるのっていいと思いますし」
すると父はなぜか嬉しそうに「そうか、そうか」と頷いた。
「あれ、河南さんどこだろう」
一息つこうということで木にもたれかかって休んでいると、私は河南さんがいないことに気づいた。
「あれ、さっきまで後ろにいたけど」
「いたな、確かに」
朋也お兄ちゃんと智代お姉ちゃんが顔を合わせた。
「鷹文、河南子さんはどこに行ったんだ」
「え、あ、ホントにいない……どこに行ったんだろう」
困惑している鷹文お兄ちゃんに父が呆れて何か言おうとした時
「河南子さん?はて、誰ですか、その人」
『えっ』
みんな伽羅さんを凝視した。
「お義母さん、それは、ないでしょう」
「母さん、いくら何でもあんなトラブルメイカーを忘れることなんて、できることではないぞ」
「そうだぞ、伽羅。いくら河南子さんが歩けば問題を起し、喋れば問題を起こすような問題児であっても、それはあんまりだ」
「……何だか僕の彼女、くそみそに言われてるけど、感謝するべきなのかなあ」
四者四様の反応を示しても、伽羅さんは表情を崩さずに言った。
「しかし私には河南子さんという人の記憶がないのですが」
「ちょっと待ってくれ……」
「ああ、そういえば」
父の言葉を遮るように伽羅さんが続けた。
「昔より山の精が人に紛れて遊ぶ時、記憶を操作してそこに自分がいることを自然であるかのようにしてしまう、と聞きました。何でも、精が消えると、術が解けて記憶も薄れる、と言うそうですが」
「何だって……」
それでは、私の中の河南さんの記憶は、あれはただの術だったのだろうか。本当は、入谷河南子という人はいなくて、全部……
と、その時、近くの茂みががさがさと音を立てて動き、中から松ぼっくりを抱えた河南さんが出てきた。
「危なーい!松ぼっくりトラップだっ」
「河南子さん」
松ぼっくりを投げんとした河南さんに、先ほどのダジャレを下回る温度の声で伽羅さんが言った。
「その松ぼっくり、どうなさるおつもりですか」
「え、あ、いや、その」
「よもや、私たちに投げようと」
「いや、その、あの、危機感を、その」
「危機感、ねぇ。松ぼっくりを将来投げかけられる立場に私たちはいると、そうおっしゃられるのですね」
「あ、う」
「それは一体どういう状況でしょうね。私にしてみれば、非常識な女性に突然意味もなく松ぼっくりを投げつけられる可能性など、ほぼないのですが」
「う」
「その可能性だって、貴女をうちに出入り禁止にすれば零に近づくのでしょうけど」
「え、いや、そんな」
「それよりも河南子さん、貴女も危機管理にかけるのではなくて」
「え」
そこで伽羅さんはふっと笑った。その場にいたもの全員の背筋が瞬間凍結するほどの寒さだった。
「貴女、よもやとは思いますが、私や私の家族にそんな物を投げて、自分は平気だと、そう思っていらっしゃる、なんてことはないですよね」
「ひ」
「そんなことをしたら……まぁ、わかってらっしゃるでしょうけども、三時間ほどお話するぐらいではすみませんねぇ」
「ひいっ」
どっかで聞いた悲鳴だな、と朋也お兄ちゃんがぼそりと呟いた。
そこからはずっと伽羅さんのターンだった。時には皮肉を、時には姑(予定)のねちっこいアタックを、時には「親の情」なんてものも引っ張り出してきて(さっきまで存在すらなかったことにしようとしてたのに)伽羅さんは河南さんを責め立てていった。そして終いには
「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーん」
河南さんは泣き出して山道を駆け上がっていってしまった。追いかければよかったのだけど、その時には私たちも伽羅さんの毒気に当てられて体がこわばっていたのが半分、それにまぁ自業自得だしと思ったのがもう半分で、結局はただ立ちすくむばかりだった。唯一の例外は伽羅さんで、ものすごい勢いで走っていった河南さんを見送ると、しれっと
「意外とあっけなかったですね」
結局、道は一本だから迷いようがないということで、私たちは特に走るわけでもなく山道を登っていった。
途中で数台の車が車道を登っていったのを見て、智代お姉ちゃんが呟いた。
「結構、車とかも通るんだな」
「そうだね。まぁ、ものすごく頻繁に、ってわけじゃないけど、それなりに、ってところかな」
「そうか」
そう言うと、智代お姉ちゃんは顔を綻ばせた。まだ何もなかった頃の、まだ町が村だった頃を思い出しているのだろうか。それともそれがどう発展していったか、思いを馳せているのだろうか。
「ちょっと待ってくれ。車は通るんだな」
朋也お兄ちゃんが後ろから声をかけてきた。
「え、うん。っていうか、今通ったでしょ」
「結構、通るんだな」
「うん、そう言ったよ」
「どうしたんだ、朋也」
私と智代お姉ちゃんがキョトンとして朋也お兄ちゃんを見ると
「いや、その、別に大したことじゃないんだけどな……」
頭を掻きつつ
「河南子が変な騒動巻き起こしてないといいけどな」
『何……だと……』
四つの声が重なった。
「い、いやちょっと待ってよ、いくら何でもさ、河南子だってそこまで」
「とも、すまないが走るぞっ」
「そうだねっ」
「何かがあってからでは遅いかもしれんっ」
「事は一刻を争いますよっ」
「急げっ」
ものすごいスピードで私たちは走り出した。背後で鷹文お兄ちゃんが「どんだけ信用ないんだよ、僕の彼女っ!?」とか叫んでいた気もしたけど、到底ツッコめるような状況ではなかった。
息を切らして、汗を拭う暇も惜しんで私たちは坂を駆け上った。
だから、山の頂上、つまり町への入口の前で河南さんを見つけた時、私たちは安堵のため息をついた。
「え、どうしたのみんな」
「い、いや、お前が変なことに巻き込まれていないかと思って……あいてっ」
素直過ぎた朋也お兄ちゃんの顔に、ぐーぱんが炸裂した。
「あたしは歩く問題発生器かっ」
「あら、違いましたか」
ぼそっと言った伽羅さんの声は、幸か不幸か河南さんの耳には届かなかったようだ。
「そういえば鷹文は」
「え、あ、ああ……あれ」
振り返ると、鷹文お兄ちゃんだけいなかった。
「まだ来ていないのか?仕方のない奴だな」
「ふぅん、陸上部の顧問なのに」
「困ったものだな」
「そういえばみなさんこんな話をご存知ですか? 昔より山の精が人に紛れて遊ぶ時、記憶を操作してそこに自分がいることを自然であるかのように……」
「いるよっ!僕いるよっ!!」
息を切らして鷹文お兄ちゃんがやってきた。
「つーか、みんな早すぎ……」
「お前が遅いだけだろ」
「本当に仕方のないやつだな」
やれやれ、とトモトモーズが肩をすくめて首を左右に振った。
「鷹文、そんなことで陸上部は世界を狙えるのか」
「いや、狙わないし」
「狙わないのですか。世界ぐらい目でもないと。狙うは銀河一ですか。道は遠いでしょうね」
「何でそう解釈するのっ?!」
「やーい、鷹文のバーカ、鷹文のバーカ」
「何で僕がよりにもよってお前にくそみそに言われなきゃなんないんだよっ」
ぐぬぬ、と歯ぎしりする鷹文お兄ちゃんを尻目に、智代お姉ちゃんが河南さんに聞いた。
「ところで河南子は何でここで待っていたんだ」
「え、あ、そうだった。これこれ、これが見せたかったんですよ」
そして河南さんが指差したのは、木陰に守られた小さめの銅像で、それこそが私がわざわざ歩いてまで見せたかったものだった。何せバスに乗って境之山前を通り越すと、次は町の中に入ってからでないと停車しないので、この銅像は一瞬しか見られないものなのだ。
「こ、この銅像はっ」
「ん?どうかした、先輩」
「い、いや、どうもしない。どうもしないぞ」
そう言う割には、智代お姉ちゃんの顔色はあまりよくなかった。見てみると、朋也お兄ちゃんも何故か愕然としている。
「……・まさか、本当に作るとは……」
「大丈夫、朋也お兄ちゃん」
「あ、ああ。大丈夫だ。と、とも、これは、何の像なんだ」
「これはね」
私は像に向き直って微笑んだ。
「昔ね、この町がまだ村だった頃、とても可憐な女の子がいたんだって。その女の子は、誰にでも優しくて、笑顔をいっぱい振りまいて、みんなに活力を与えてたんだって」
『いや、ないない』
トモトモーズが声を合わせて手を振った。
「え、どうしたの」
「い、いや、何でもない。続けてくれ」
妙に平坦な声で智代お姉ちゃんが先を促した。
「そう?……でね、その女の子がある日、村人たちと山に入ると、急に獰猛なクマが襲ってきて」
「襲ってなんかいないっ!獰猛じゃないっ!!」
智代お姉ちゃんが怒鳴ったので、みんなの目が点になった。しばらく気まずい空気が流れたあと、朋也お兄ちゃんが咳をして、続きをせがんだ。何なんだろう、さっきから。
「でね、村人たちを逃がすために、女の子は身を挺して囮になったの。これは、そんな村人たちを救った、とある少女のお話を記念するための像なんだよね」
「そうか。いいはなしだなー」
「あれ、朋也お兄ちゃん、声が棒読みだけど、大丈夫」
「へーき、へーき。な、智代」
「獰猛……じゃないもん……えぐっ……襲ってないもん……ぐすん」
「よしよし、智代。俺はわかってるからな」
「違うもん」
「ああ、違うな。ところで智代、愛してる」
「うん、私もだ……ぐす」
何だかよくわからないけど、智代お姉ちゃんが拗ねた。うーん、やっぱり朋也お兄ちゃんがかわいいというのがわかるなぁ。
「確かに美談ではあるが……」
父がどことなく物足りなさそうに言った。確かにこんな話があるんだよ、程度では、(河南さん騒動も含めて)ここまで徒歩で来た甲斐があるかと聞かれれば、あまり強くあるとは答えられない。
でも、これならどうだろう。
「この銅像の女の子、どことなく河南さんに似てませんか」
一瞬の沈黙の後、みんながどよめいた。
「いやぁ、それは無理があるでしょ」
「何だてめー、あたしがヒロインじゃ不満なのかよ。ほほー、やっぱお姉さまでないといけないってか」
「その話かよっ!つーか生きてるじゃん、河南子っ」
鷹文お兄ちゃんと河南さんがいがみあっている(イチャついてる?)と、朋也お兄ちゃんがぼそ、と言った。
「……………………覚えていないのか」
「………………………………………恐らくは」
「覚えていないって何のこと」
訊いてみたとたん、二人がものすごい勢いで首を左右に振った。いつもながら素晴らしいシンクロ率です。
「何でもない、何でもない」
「うん、何でもないんだ。ただ私が朋也の好物がなんだったか覚えていないというだけでな」
「ふっ、智代の飯ならなんでも……じゃなくて、そうそう、ははは、そそっかしいなぁ、智代は」
はははは、と笑い飛ばす。何なんでしょうこの二人、さっきからすっごく怪しい……
「まぁ、ネタとして受け取っておきましょう」
「ん?でも、似てなくもないんじゃないか」
父がそう言うと、ぎく、とトモトモーズが肩をこわばらせ、滝のような汗を流し始めた。
「そ、そうですかぁ……?」
「ん。お、この角度からだと、尚更そう思えてくるなぁ」
「き、気のせいだろう、父さん」
「そうか?ううむ、微妙だなぁ」
すると、河南さんがケラケラ笑い出した。
「みんなさ、マジになって考えてるけどさ、この像の子があたしなわけないじゃん」
「え、何で」
すると、河南さんはその質問自体わからないと言いたげな顔をした。
「だって、あたしの方が十倍可愛いじゃん」
トモトモーズが見事にずっこけた。五輪に出てもおかしくないくらい完璧なシンクロで。
「あれ、ともちゃんじゃねえか」
「おお、ともちゃん」
街の中に入ると、吾郎さんと田吾作さんが声をかけてきた。
「おかえりー。ひゅー、いつの間にかこんなにでっかくなっちまってまぁ」
「吾郎さん、私、向こうに行ってから身長変わってないですよー」
「いいや、わしにはわかる。ともちゃん、都会に行ってから、随分と……ええと、近頃の横文字では何と言ったっけな……そうじゃ、アダルトになったっ」
「そこは普通に『大人』にしてくださいっ」
あっはっはと笑うと、吾郎さんは私の家族を見つけて目を剥いた。
「ともちゃんっ!何だこの二枚目はっ!!」
「………………………………………………俺?」
突きつけられた指を凝視して、朋也お兄ちゃんが(悪いけど)間抜けた声を出した。
「ともちゃん、これがともちゃんのボーイフレンド、かね」
「えええっ」
「何っ」
私と智代お姉ちゃんが同時に大声を出した。
「朋也嘘だろ嘘だと言ってくれなあ朋也嘘なんだろそう言ってくれ朋也どうした朋也何で答えないんだ朋也おい朋也まさか朋也嘘だろ本当なのか」
「とりあえずねぇちゃん、動揺してるのわかってるけど、にぃちゃんの胸倉掴んで揺さぶりながら聞くのはよそうよ。死にそうだし」
「え、あ、ああっ!朋也っ!死ぬなっ!そんな、嫌だっ!死ぬな死ぬな死ぬな朋也っ」
「だから胸ぐら掴んで揺さぶるのやめっ」
朋也お兄ちゃんのHPバーがどんどん短くなっていっている間、私の方でも吾郎さんたちに必死に弁解していた。
「ち、違うよっ!朋也お兄ちゃんは智代お姉ちゃんの旦那さんで、私の義理のお兄ちゃんだよっ」
「ふぅん、義理のお兄ちゃん」
「そうそう。疚しいことなんで何にもないよ」
「そういう血の繋がっていない身近な男性が、一番怪しい」
「そうそ……えええええっ」
二度目の絶叫。
「なななな何でそうなるのっ」
「だって、なぁ」
「『夜明け前に一服』ではそういう関係のもつれが事件の糸口だったり……なあ」
へ。
「夜明け前に一服」って、何のこと?
そう思っていると、父がずい、と二人の前に立った。
「もし、そこの人」
「え……誰だ、あんた」
吾郎さんが警戒心を露わにして父を睨みつけた。
「つかぬことをお聞きしますが……」
ごく、と田吾作さんが喉を鳴らした。
「近頃の草田真一演じる灰島刑事、どう思われる」
一瞬、私たちは父の聞いた質問の意味を理解できなかった。
しかし
「愚問だね」
吾郎さん、そして隣で頷いている田吾作さんには伝わったらしい。
「草田真一っつーたら、最近駆け出しのアイドルグループやってるチャラい男じゃないか。そんなんがあの渋い灰島まともに演じられるわけないだろ」
「では、草田はあくまで若い層を惹きつけるだけに起用されたと」
「まあ、昔の高岡健一も、今は激渋男優で通っておるがの、最初に出演し始めた頃は若手の経験不足のと笑われたがの」
「おお、高岡健一!」
父が感極まって呟いた。
「高岡の灰島っつーたら、『夜明け前に一服』の黄金期の象徴だよなぁ」
「んだんだ」
すると父は、がっしと二人の手を握った。
「私はずっと、高岡健一が引退した時に『夜明け前に一服』も幕にするべきと思っていたんだ。あれほどの俳優、もう来ることもないだろうと実感していた……私は、間違っていなかったんだなっ」
「ああ……それは……俺も思ったっ!!」
「何を隠そう……わしもじゃっ!!」
三人は手を取り合い、そして同時に言った。
『友よっ!!』
「ん?呼んだか」
「いや、呼んでないと思うよ……多分ハードボイルド連載テレビドラマか何かの話でしょ」
感動にむせび泣く三人を見て、鷹文お兄ちゃんが冷めた口調で言った。
「ところで……あんた誰」
ふと我に返って、吾郎さんが聞いた。
「これは失礼した。私は……」
父が笑って自己紹介しようとした時
「ともちゃんっ」
私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると
「あっ!真菜さんっ」
私が手を振って答えると、真菜さんが駆け寄ってきた。
「お帰り、ともちゃん。さっき駅についてバスで来るってメール、あれでもうそろそろかなぁ、って思ってたのよ。でも、まぁ強いて言えばちょっと予想よりも遅かったわね」
「あ、あははは」
私は苦笑いしながら河南さんの方を見た。
「お久しぶりです、真菜さん」
「こんにちは、智代さん。本当にお久しぶりですね。あ、河南ちゃんも、元気にしてた」
「オッス!久しぶり、おばさん」
「お……おば……あ、あはは、あははは」
真菜さんが引きつった笑いを浮かべる傍ら、伽羅さんが処置なしと言いたげにため息をついた。
「鷹文くんも、お久しぶりです」
「はい、お久しぶり」
二人の挨拶が結構あっさりとしているのは、智代お姉ちゃん、朋也お兄ちゃんと河南さんがここに来ている間、鷹文お兄ちゃんが私と一緒に残ってくれたからなのかもしれない。
そして、真菜さんは朋也お兄ちゃんの前につかつかと歩み寄った。
「お久しぶりです、真菜さん」
「こんにちは、朋也さん」
しばらく二人は黙って互いを見つめ合った。ロマンチックな雰囲気とか、そういうものではなく、どことなく後ろめた気な、どことなく剣呑な、そんな視線の交差だった。
そして朋也お兄ちゃんが小さく頭を下げるのを見ると、真菜さんは深い溜息をついた。
「そして、あなたがたが」
真菜さんは無表情のまま、伽羅さんと父に向き直った。吾郎さんと田吾作さんは「え、何が起きたの」と言いたげな顔だった。
「はじめまして。坂上伽羅と申します。坂上智代と鷹文の母、そして坂上雅臣の家内でございます」
「はじめまして。三島ともの後見人を務めております、倉島真菜と申します」
「まぁ、そうでしたか。この度はいろいろとご迷惑をおかけします」
「いえ、迷惑などではありませんので、お気遣いなく」
淡々と交わされる挨拶。むしろ何の感情も感じ取られないことが、どことないぎこちなさを醸し出していた。父も最初はどうしたらいいのか戸惑っていたようだったが、二人の会話がふつっと途切れたところで、一歩進み出た。
「申し遅れました、私は……」
「坂上雅臣さんですね」
歩み寄ろうとしたところを一気に詰め込まれたかのように、父は戸惑いながらも頷いた。
「ええ」
「三島ともの、お父様ですね」
「はい」
今度は躊躇なく、はっきりと答えた。
「そうですか……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
吾郎さんがもうたまらん、と言わんばかりに聞いた。
「え、この人が、その、ともちゃんの、え、お父さん」
「でででででも、ともちゃんのお父さんは、その」
しどろもどろになる二人の前で、父は気まずそうに顔を背けた。ここで全部話すのは、父を辱めることになるんじゃないかと思って私が声をかけようとすると
「ともちゃんのお父さんって、宇宙人に攫われたんじゃなかったんだっけな」
「…………………………………………は」
目が点になるというのは、このことだった。
「ちょ、まっ、えええっ」
「おい、吾郎、そりゃちがうじゃろ」
「え、違ったっけ」
田吾作さんが諭すように言ったので、動悸が収まりかけた。
「ともちゃんのお父さんはなぁ、ずっと昔、聖剣えくすかりばあを探す旅に出て行ってしまったんじゃよ」
「そうそ……えええええええええええええっ」
動悸がぶり返した。
「ちょ、え、まっ、どういう」
「混乱するのも無理もない。わしらだって、最初聞いた時は驚いたさ。しかし絶対本当だと言われたのでなぁ」
「何で言ってくれなかったの、誰もっ」
「ともちゃんが大人になってから、教えてあげよう、それまでは黙っていようと、みんなで決めていたんじゃが……もう戻ってきとったんですか」
しみじみと田吾作さんが言った。
「それで、えくすかりばあは見つかりましたか」
「え、あ、ええっと……」
「宇宙人の円盤ってのはどういうのだったんだい?やっぱあれか、地球の独立記念日で出てたのみたいな感じだったか」
「いやぁ、そのぉ」
父が困ったように私を見た。
「ええっと……あ、そうそう、えくすかりばあを見つけた時点で宇宙人に攫われたので、それと交換で地球に還してもらったんだよねっ!そうだよねっ!!」
「え、あ、ああ、そうだったそうだったっ」
父が相槌を打つと
「なななんだってー、そんな大冒険がー、あったのかー」
「はじめてきくぞー」
トモトモーズの棒読み支援、ありがとうございました。
「じゃ、じゃあ、あの話は本当だったのかっ」
「え、まあ、とりあえず」
「じゃ、じゃあ、宇宙船の構造とかも」
「……とりあえず」
「じゃ、じゃあ、じゃあ、地球侵略を企んでいるのもっ」
「とりあえず」
「うわぎゃあああああああああああああっ」
田吾作さんが(割と残り少ないというのは酷だろうか)髪の毛を掻き毟った。
「吾郎、何しとるっ!早くすぺえすしゃとるに乗らんと」
「田吾作さん、その前に引越しの準備っ」
その前に、スペースシャトル、もう飛びませんけど。
「だ、大丈夫だって、そこは何とか交渉しといたからっ」
「そ、そうですっ!エクスカリバー?の釣りとして、地球侵略はなしってことにしましたからっ」
「そうだったのかー」
「さすがとうさんだー」
父の声(アンド白々しいほどの棒読み)に、田吾作さんと吾郎さんは慌てふためくのをやめた。
「な、なあんだ、そうだったのか」
「あー、びっくりしたなぁ、もう」
それはこっちだってお互い様ですっ
見ると、真菜さんが顔を背けたまま、肩を小刻みに揺らしていた。笑うのを必死に堪えていたらしい。伽羅さんはと見ると、素知らぬ顔でそっぽを向いていたけど、よく見ると口元が引きつっていた。
すると、河南さんが不意に
「おっさん」
父の肩を叩き
「すっげえな!あたしだってそこまで無茶はしないよっ?!」
その後、吾郎さんの「とにかくめでてぇ、これじゃあ飲まないわけにはいかねぇ」という提案があり、「まぁ、当初の予定の雰囲気ではないでしょうな」と父も頷いたこともあって、私たちはなし崩しに吾郎さんのうちにお邪魔することになった。
吾郎さん、田吾作さん、父、朋也お兄ちゃん、鷹文お兄ちゃん、そして智代お姉ちゃん、伽羅さん、河南さん、真菜さんと私がちゃぶ台を囲んだ。すると
「ちーっす、ともちゃんがここにいるって聞いたんすけどぉ」
「おいっす、ともちゃん、いる」
「ちわー、ともちゃん帰ってきたって」
町のみんながどかどかと上がってきた。
「おー、何だお前ら、随分早いな」
「だってまぁ、ともちゃんだからよ」
「ともちゃんつーたら、俺の娘だろ」
「俺の娘だよ」
「俺の嫁だよ」
『あァっ』
「今のナシっ」
集まってきたみんな、父、朋也お兄ちゃんに鷹文お兄ちゃんまで加わった血管浮き出し拳の羅列に、自称私の旦那が結婚を取り消した。
「って、あんたがともちゃんのお父さん?へえ、よく迎に来れたなぁ」
「え、あ、その」
「アトランティス、見つかったのか」
「……はぁ」
「え、何、見つかったの?すごくね」
「とりあえずは」
「俺は猫型ロボットの開発って聞いてたけど、どうだい、目処が立ったんかい」
「とりあえずは」
「人類起源の謎を解き明かすために、エチオピアで化石を掘っていたと聞いてたんすけど、マジっすか」
「とりあえずは」
父、万能すぎ。
「ねぇ、真菜さん、いくら何でもデタラメすぎでしょ」
勝手に盛り上がっている男性陣に聞こえないよう、私が小声で真菜さんに言うと、真菜さんも囁き返してきた。
「あれは、私が言ったんじゃないわよ」
「え」
「失礼ね。そんな非常識なことすると思う」
「じゃあ、誰が」
ひとしきり大きな笑い声が聞こえた。真菜さんはそっちの方を見て、顔色を変えずに答えた。
「……有子さんよ」
「え」
「有子さんがね、みんながお見舞いに来たりする時、そういうふうに言ってたのよ。とものお父さんは何してるとか、どこに行ってるとか」
「そう、なんだ」
何で母はそんなことをしたんだろう。そう考えて、思い至った。
例えば、もし父のことを母が正確にみんなに話していたら、父がこの町に来た時、一悶着あったのではないだろうか。
もし母が父のことをまっすぐ話していたら、父が私と会いに来る時、不都合が生じるのではないだろうか。
それはつまり。
母は、やはり父のことを信頼していて、いつか私と父が会うことがあると信じ、その時のためにできるだけ障害を減らしておこうと考えたんだろう。そして、母は決して父を恨んでいたり憎んでいたりしたのではなかった。母の遺した言葉は、私が父に告げなくてはならない言葉は、母の偽らざる本心なのだった。
「つーわけで、酒、飲むか」
「おー、いいね」
「ともちゃんはビールだよな」
あ、やばい。
そう言えば朋也お兄ちゃんに前ツッコまれたから覚えてるけど、吾郎さんって「ビールなんて酒のうちじゃない」って豪語してる人だった。
そんなことを言ったら、智代お姉ちゃんや伽羅さんが何て言うか……
「ともは未成年だから、ビールはダメだ」
案の定、智代お姉ちゃんからダメ出しが来た。
「え、でもビールはお酒じゃないっしょ」
「ビールは立派にアルコール飲料だ。二十からと書いてあるだろう」
「え、でも」
「お気持ちはありがたいが、却下だ」
「え、あ」
「な」
「え、あ、そう?わ、わかった」
始終揺るぐことのない智代お姉ちゃんの笑顔が印象的だった。
ちょっとした飲み合いだったはずの宴会は、結局一晩かかった大げさなものになった。
私たちが吾郎さんのところから出て(五郎さんは泊まって行けと言ってくれたけど、さすがにそれは悪かったから辞退した)当初の予定通り真菜さんの病院に向かったのが午前一時ほどだったけど、その時にはもう私はこてんと倒れて寝ていた。私だけでなく、河南さんや鷹文お兄ちゃん、智代お姉ちゃんも朋也お兄ちゃんの膝に頭を乗せて寝てしまっていた。
宴もたけなわとなった頃、ちゃぶ台の上に錯乱した空瓶や缶、それからおつまみのゴミとかを見かねて、伽羅さんが(智代お姉ちゃんを朋也お兄ちゃんの膝から下ろすのを手伝ってから)朋也お兄ちゃんを引き連れて片付けや洗い物のために吾郎さんの台所を借りた。
だから、その光景を見たのは、私と当事者だけだろうし、当事者はそのことを認めるわけがないから、これは私の見た夢だと思ってもらっても構わない。
他に誰もいなくなるのを見計らってか、まず田吾作さんが低い声で言った。
「で、坂上さん、あんた、ともちゃんのお父さんじゃな」
「ええ、そうです」
「ともちゃん、あんたと暮らすんじゃろか」
「さあ……早急に答えを出せるような問題じゃないと思います。ともさんにとって何がベストなのかを考えて、ともさんの意見も聞いて、それからどうするか決めたいと思います」
「なあ坂上さん、でも、あんた、認めるんだよな、ともちゃん、あんたの娘って認めるんだよな」
「それはもちろんさせていただく。それが最低限の責務でしょう」
「何かあったら、坂上さん、ともちゃん、助けてやれるよな」
「無論です」
すると、がくん、と吾郎さんが頭を垂れた。
「俺もみんなも、ともちゃんのこと、娘みたいだと思ってたんだけどさ、できるだけ親父みたいになってやろうって、そうやったんだけどさ、それでもどうしても寂しそうな顔するんだよ、時々。絶対に認めるわけないけどな」
「……」
「ともちゃんには、やっぱり、父親が必要なんじゃ。わしらがいくら頑張ったって、結局は血の繋がらない他人じゃからの。どうしても最後の一踏ん張りが効かん」
「朋也さんとかも、力になっちゃくれそうだけど、ありゃ兄貴だ。俺も同じだけど、全部背負えるわけじゃねぇ。だから」
吾郎さんが父の肩を掴んだ。
「お願いだ。もう、ともちゃんを一人にさせないでくれろ。もう、ともちゃんに淋しい思いなんかさせないでくれろ。俺らがいくら頑張っても、ともちゃんの父親にはなれなかった。だけど、もう大丈夫だって、お父さんがちゃんとついてるって、そう思わせてやってくれ。そんであんたが、これから、ずっとともちゃんを守ってくれ」
頼む、という声は、絞り出すような、無念と懇願に満ちた声だった。
父が答える前に、伽羅さんと朋也お兄ちゃんの足音が聞こえたので、三人はいつも通りに飲み続けた。その素振りが自然だったので、やはりこの話は私の見た夢なんだと、そう思うことにした。
この町には二つの墓地がある。
ひとつは、町の西の方にある公営霊園で、これは町がそれなりの規模になった数年前に建てられたものだった。もう一つ、真菜さんの住んでいる、元は病院で今は診療所にダウンサイズしたところのそばの霊園に、母は眠っている。
こっちのほうの霊園は、村が起こされた時からあるものらしい。その中でも結構奥の方に、「三島家之墓」という墓石が立っている。三島家と言っても、母は天涯孤独で、頼れる身内もいなかったから、今は母だけの場所となっている。
父は母の墓の前に立つと、しばらくの間何も言えずに呆然としていた。
「……今更何を言っても始まらないが」
父が掠れた声で言った。伽羅さんと真菜さんは席を外して二人だけで話をしていたので、ここにいたのは父と母、そして私だけだった。
「もう会わないと別れてから、君のことは、ただただ幸せを願っていた、それだけなんだ。君がどこかで幸せを掴んでいてほしいと、私のなんかではなく、本物の愛情を受けてほしいと、そう願っていた」
ほう、とため息をついた。私は静かに聞いた。
「まずは、お掃除しましょうか」
「……そうだな」
箒で落ち葉などを払い、雑巾で墓石を拭いた。柄杓で水をすくって墓石にかけ、花と真菜さんの畑で採れた野菜を備え、お線香に火を灯した。そのあと、私と父は目を閉じた。
お母さん。
お父さんと、会えたよ。
お父さん、ちゃんと会ってくれたよ。朋也お兄ちゃんがセットアップしてくれたおかげだけど、お父さん、ちゃんと伽羅さんと話し合って、二人で私と会ってくれたんだ。
お父さん、私のこと、知らなかったんだって。会いたくなかったわけじゃなかったよ。嫌っていたわけでもなかったよ。本当に、娘がもうひとりいるって知らなかったんだね。
だからね。
約束だからね。
私、ちゃんと覚えてるよ。お母さんと私の約束。
お母さん、みんなにお父さんのこと、言わないでいてくれたんだね。
お父さんがみんなと会っても恥ずかしい思いしないように。恨み言も何もなく、いつでも会いに来られるように。
大丈夫。
ちゃんと言えるから。
見ててね、お母さん。
父が深く息を吐いたのを聞いて、私も目をゆっくりと開けた。
「一瞬、奇跡を期待してしまったよ」
「奇跡、ですか」
父が頷いた。ゆっくり、というよりはのろのろという具合に。
「有子さんの声が聞こえるかもしれない、そう思ってしまってね」
「……聞こえていたら、母は何て言ったと思いますか」
「さあて……」
しばらく考えてから、父は苦笑した。
「責められて罵声を浴びせられてもしかたがないのだが……もし、叶うなら、ともさんをよろしくとでも言ってもらいたかったのだろうか……私なんかに赦されることではないが」
父の顔に自嘲気味の笑いが浮かんだ。
「坂上雅臣さん」
「はい」
「母から、あなたに言伝があります」
「……はい」
毅然と父は私を見据えた。
「でも、その前に一つだけ、誤解、と言いますか、私も犯していた間違いを、正したいと思います」
父は一瞬怪訝そうな顔をしたけど、すぐに頷いた。
「どうぞ」
「あなたは、私に言いましたよね。一人にしてすまなかった、母を一人で逝かせてすまなかったと」
「はい」
「一人じゃなかったですよ」
「……え」
私は、噛んで含めるようにまた言った。
「一人じゃなかったです、私も、私の母も。朋也お兄ちゃんのおかげで、私と母は、最後の時間を一緒に過ごすことができた。そして、村のみんなとも一緒だった」
私はしばらくの間、あの時の光景を脳裏に浮かべた。
「母の最期の時には、みんなが集まってきてくれました。母の病室に私が呼ばれた時には、ほとんど身動きの取れないくらいほどの人がいてくれました」
あの夏の光景は、今まで振り返りたくない記憶の類だった。思い出すと胸が締め付けられ、悲しみにくれてしまいそうだったから。だけど、母のことを考えると、どうなのだろうかと思う。
母のことは、実はあまりよく知らない。夜の仕事をしていたと聞いたけど、それも身寄りがないからだと聞いていた。母の傍に寄り添ってくれた人を、私はこの町に来るまでは誰も知らなかった。
母は、この町に辿り着くまで、本当に一人だった。私すら抱きかかえられないほど一人だった。
それは父のせいなのだろうか。確かに父は最後の最後で家族を捨てずに母と別れた。だけど、そのことについて恨み言を聞いたことはない。母は父と会うべきではなかったのだろうか。いつか別れるのならば、ただ一人愛した男性と会うべきではなかったと、そういう結論なのだろうか。違うのなら、母が一人だったのは、父のせいではないだろう。母と出会う前のことを父の責任にすることはできないし、出会ってからの母の人生は、私を置いて行ってしまったことも含めて母の決めたことだ。
そして、長い間一人で暮らした母は、最後に、みんなに囲まれ、私を抱き寄せ、そして確かに笑った。
「亡くなる前に、母は私を抱き寄せて、泣きながら、でも笑ってこう言ったんです。私は強い子だって。だって」
ともは……ね……
ひと……り……じゃない……から
まなさ……んが……ついてる……さとみ……せんせい……ついてる……
むら……の……みなさ……ん……みんなが……とも……といっしょ……だよ……
それ……に……
おねえ……ちゃんも……おにいちゃ……んも……いるか……ら……
おか……あさん……も……いっしょ……
ね……とも……
ひと……りじゃ……ないでしょ……
だから……つよ……い……つよくいら……れる……
おぼえてて……ね……
「寂しいと感じたこともありました。ひとりぼっちだと思っていた時もありました。だけど、今は違う。今ならわかります。私も、母も、あなたと出会って、あなたの家族と出会ってから、一人じゃなくなった。いろんな人に支えられ、いろんな人に笑顔をもらった。だから、あなたは私に謝る必要はないんです。いいえ、謝ってはいけないんです。私たちを支えてきてくれた人たちのためにも」
父は、黙って私の話を聞いた後、小さく頷いた。
「ともさん、あなたが本当にそう思っていらっしゃるなら、私も家内も、これ以上その件に触れるのは控えさせてもらう。どうやら、言葉を重ねるのが無粋に感じられるほど、あなたの想いは強く尊いのだから」
「ありがとうございます……では」
頭を一度下げて、背筋を伸ばした。
「母の、あなたへの言伝です」
父の目は、もう悲愴めいた負い目の色を放たなくなった。父は、どんな言葉であれ、母の残したメッセージを受け入れるだろう。それを確信して、私は息を吸った。
「ありがとう」
「……え」
「ありがとう、と母は言いました。もし私があなたに会うことがあるとしたら、ありがとう、と告げてくれ、と」
私と会ってくれてありがとう。
私を愛してくれてありがとう。
私に愛されてくれてありがとう。
私に教えてくれてありがとう。
私にともを残してくれてありがとう。そして
「私の娘に会ってくれて、ありがとう、と」
その言葉を聞いて、父はよろめき、地面に手を付き、声を殺して泣き始めた。
「許すも何も、母はあなたを憎んでいなかったんです。母にとって、あなたは、自分を捨てた男ではなくて、自分にいろんなものをくれたかけがえのない方だったんです。だから、私は母の意志を尊重したい。だから、私はあなたを、母の言った通りの人と認識したい。だめですか」
「私は……私は……そうか……ありがとう、ともさん……」
「それと、私からも、お礼を言わせてください」
私はかがみ込み、父の手を取った。
「あの夏……十年前の夏、私は母に捨てられたことがありました」
母に捨てられた時の、胸を刺されるような思いは、今でも思い出せる。だけど、それしか道はなかった。
「そんな時に私を見つけてくれたのが鷹文お兄ちゃん。そして、私を引き取ってくれたのが朋也お兄ちゃんと智代お姉ちゃんでした」
それは奇跡にも似た偶然。父や伽羅さんに見つかる前に、鷹文お兄ちゃんが私を見つけてくれた。そして自分で考えて、あの時考えうる最高の結論に達してくれた。その二つが重なってようやく私はここにいる。
「あの夏、私たちが一緒にいられたのはほんの短い間だったけど、それでも私はかけがえのない宝物を手に入れました」
あの夏は、別離と、孤独と、悲しみと死に彩られながら
世界の残酷さと醜悪さを克明に提示しておきながら
なおも美しかった。
「だから、一つだけ言いたかったんです」
息を吸って、私は胸の内を言葉に乗せた。
「私をこの世界に産んでくれてありがとう。私を智代お姉ちゃんに会わせてくれてありがとう。この醜くも美しい世界を見せてくれて、ほんとうに」
ありがとう、お父さん。
昼間と打って変わった夜の静寂の中、朋也お兄ちゃんたちの電車が到着することを告げるアナウンスが、駅内に響いた。
「お、もうこんな時間か。時の流れは早いものだな」
そう言って、父はソフト帽をかぶり直した。そして列車に乗り込むと、窓を開けて身を乗り出した。
「では、またな、とも」
「うん。またね、お父さん」
「何かあったら、すぐに連絡しなさい。困ったことがあれば、どんどん聞いてくるといい。あと、告白なんてしてきた男子がいたら、名前と住所を教えなさい。もれなく私と」
「俺と」
「僕が」
「直談判しに来るからね」
「何を言っているんですかあなたたちは」
伽羅さんが呆れてため息をついた。私は苦笑いを浮かべて一応頷いた。
あの後私と一緒に霊園を出ると、父は伽羅さんと真菜さんの三人で話し合いを始めた。そして日が暮れる頃に三人の出した結論は、基本的に私は中学卒業までこの町に残ること、高校になってからのことは再度話し合って決めるということ、私の養育費などは(詳細は聞いていないが)折り合いがついたということだった。
もう一晩泊まっていってほしかったけど、みんな明日からまた仕事なのだということで夜の最終に乗って帰るということになったのだった。
「真菜さん、この子がもうしばらく厄介になりますが、何かあったらぜひ教えてください。あと、これからのことは」
「心配なさらずとも、私と伽羅さんでちゃんと話し合いをしてありますからね」
詳細は聞かせたくなかったのだろう、真菜さんが笑いながら父を遮った。バツの悪そうに頭を下げる父。
「ともさん」
「はい」
「ともさん、私は、あなたの母親にはなれません」
その一言に、みんなが伽羅さんを凝視した。
「……はい」
「あなたの母親は、三島有子という立派な方です。あなたには真菜さんという立派な後見人がついていらっしゃる。真菜さんはね、ともさんのことが大好きなんです。一度はずっと育てていこうと、そう決意なされた方なんです。だから、私が母親として出る幕はなさそうです。ですから」
伽羅さんは私の手を取って、そして微笑んだ。
「私とともさんは、少しばかり奇妙な縁で結ばれた、友達のような家族。そうですね、叔母と姪御、そのような関係からスタートするということでどうでしょうか」
私が真菜さんを見ると、真菜さんは笑って頷いた。
「いい、んですね」
「無論です。ともさんは私のお気に入りですもの。でも、今までどおり伽羅さんでいいです。伽羅おばさんは堪忍してください」
その一言で、みんなが笑った。
「ともさん、また遊びに来るからねー。松ぼっくり、また投げ合おうね」
「河南さん、私、松ぼっくりの投げ合いっこなんてしたことないよ」
「ともも、こっちに遊びにおいでよ。学校が休みの時は特に一緒にいられるからさ」
「うん、そうするね」
ぽんぽん、と鷹文お兄ちゃんが私の頭を撫でた。そして、最後の二人。
「智代お姉ちゃん」
「……うん」
さっきから涙をこらえているのか、智代お姉ちゃんの目は赤かった。
「小指、出してくれないかな」
「小指、を」
「うん。約束したいことがあるんだ」
すると、智代お姉ちゃんは頷いて、指きりげんまんのために小指を出した。それに私の小指を絡めて、私は言った。
「前の競争は決着がつかないって言うかさ、つきようがないからさ。約束のほうがいいなって」
「そうだな……その通りだ」
「じゃあ」
どんなつらいことがあっても
私たちは乗り越えてみせるから
私たちは独りじゃないから
お互いにがんばろう
これからもがんばろう
みんなで一緒に、笑おう
指切ったっ
「うん……うんっ……」
智代お姉ちゃんの涙は透き通って光って見えて。
そしてその笑顔は、朝日のように輝いていた。
あと、一人。
「朋也お兄ちゃん」
「とも」
「…………」
「…………」
何を言っていいのかわからなかった。朋也お兄ちゃんが今まで何をしてきてくれたのか、よくわからなかったし、本人も言わない。だから感謝しても、受け取ってもらえないかもしれない。
だったら。
過去のことではなく。
未来のことを。
そう思って笑うと、朋也お兄ちゃんも同時に笑った。そして
ぱんっ
お互いの手を叩き合って、私たちは言った。
「がんばるよっ」
「おう、がんばれよっ」
列車の発車を告げるベルが、プラットフォームに鳴り響いた。
ままへ
ともはげんきです。ままはげんき
おてがみかいてみました。おへんじきたらいいな。
ともね。ままだいすき
またあそんでね
とも
穏やかな風が吹くこの夏を
僕らだけの歌と名づけ大切にしまった
狭い部屋 過ぎ去る思い出と 待ってた 待ってたあの日と同じ空
一人で僕らは歩けるか
誰もいなくなってもそれでも
手を取り過ごしてきた今日までをまだ見ぬ誰かの明日へと
伸びすぎた髪はもう束ねてる
古い映画のような出会いなどないまま
大切にしていくものは何?
待ってる 待ってる きっとあと数歩
二人になっても歩くんだ
強さは互いの心と信じた
うまく合わない足でもゆっくり歩けば揃った
一人になっても歩くんだ
誰もいなくなってもそれでも
震えを忘れないこの命は希望を刻んで進むんだ
口ずさむのは僕らの歌
みんなで描いた青い空
もう合わすことができない足でも歩けば未来を目指すんだ
ともアフター
最終話 口ずさむのは僕らの歌
子供の鳴き声が聞こえる。
夏のとある日の午後、一件の家の玄関先で、えーんえーんと泣きじゃくる子がいた。
小さな女の子だ。それなりに長い髪を、リボンでくくっている。手にはクマのぬいぐるみがあった。
私は女の子の前にしゃがみこんだ。
「どうしたの、大声で泣いちゃって」
「えーん……ばかあにきが……けねでぃをだめにしちゃった……しょーとあそんで、だめにしちゃったんだっ」
何でこの子がケネディ大統領暗殺のことを知っているんだろうかと考えて、それがクマのぬいぐるみの名前だとわかった。
「けねでぃ、どこが悪いの」
「みぎのおてて……とれそうなんだ……うわーん、ともゆきのばかっ」
見ると、確かに右腕が肩のところで結び目がほつれ、白い綿が見える。腕を掴んで振り回したのだろうか。
「これなら、私が縫ってあげるから。それに、智代お姉ちゃんだってすぐに治せるよ」
「ほんとうに」
「うん。だから、おうちに入ろうね」
こくん、と頷いて、女の子 ― 私の大事な姪っ子だ ― が玄関の扉を開けた。
玄関の表札には「岡崎」と掘られてあった。
玄関のそばにある踊り場で、一人の少年が ― 私の大事な甥っ子だ ― がバツの悪そうな顔をしていた。
「あ、ともえ、さっきはごめ……」
「このっ、ばかあにきっ」
私の大事な姪っ子は、足のバネをフルに使い、ドロップキックを私の大事な甥っ子に炸裂させた。うーん、この子、世界を目指せるんじゃないかな。でもその前に靴を脱ごうよ。
「いってぇ、なにするんだよ、ともえっ」
「うるさいっ!ぜんぶおまえがわるいっ!しょーもわるいけど、おまえがわるいっ」
「わけわかんないよっ」
いがみ合う二人を見て、一瞬微笑むと、私は声高に宣言した。
「もうっ!だめだよ喧嘩したら。ともが聞くから、仲直りするのっ」