智代は俯いた。しばらくの間、壁にかけた時計の音だけが部屋に響いた。
「……残酷だ」
小さく漏らすと、朋也も深いため息をついた。
「辛いのは、辛くなるってのはわかってる」
「わかってない。わかってないぞ朋也。ともはな、まだ子供なんだぞ」
硬い口調で智代が返す。俯いたままの顔から、朋也は智代の表情を読み取ることができなかった。
「子供なんだ。そんなに強くないんだ。なのに、お前は、私は、私たちは、そんなことをさせるのか」
「ともは子供かもしれない」
重い口調で朋也が答えた。
「でも、俺はともの強さを信じる。あいつは、いつだって逃げ出さなかった。母親に捨てられたときだって、探そうとした。母親が死ぬときだって、傍にいた。そして、辛い時は泣いたかもしれないけど、けどな、いつだって笑ってた」
「でも……でも……」
「智代」
朋也がちゃぶ台に置かれた智代の手を取った。握りしめられたそれを解すように包み込む。
「このままじゃいけない。そう合意したばかりだろ」
「……」
「いつまでも同じところに立っているわけにはいかないんだ、俺も、お前も、ともも、みんなも」
「……わかってる」
「今はギリギリでまだいいかもしれない。今まではここまで来れなかったかもしれない。だけど、これからはダメだ。これからはここの先を歩いていかないといけないんだ」
「……そんなの、わかっている」
いくらか強い口調で、自分に言い聞かせるように智代が言った。
「わかっているんだ。でも……」
「でも」
「それでも、辛いことには変わりはない。ともは、今までずっと私たちに手紙を書いてくれてたじゃないか。私たちをずっと慕ってくれてたんだ。それを、急にこんな風にするなんて」
「裏切るようで悪い、そんな感じか」
智代は一瞬口を開きかけたが、そのまま黙りこんだ。その沈黙を肯定と見なして、朋也は諭すように言った。
「ともに辛い、ってのはわかる。だけど、このままじゃともは、すげぇ大事な宝物をなくすかもしれないんだぞ」
「……私がいる。朋也がいる。鷹文も可南子もいるじゃないか」
「それじゃ、あの夏のままじゃないか。俺もお前も、ともを支えきれないから、だからともは遠いところに暮らしてるんじゃないか」
「でもっ」
大声を出し、そして智代は唇をかんだ。昔ならいとも簡単に吐き捨てられた言葉。だけど、今はそれを口にするのは躊躇われた。それはつまり、それだけ信頼が生まれ育まれたという意味だった。ようやく智代は言葉を選んだ末にそれを口にした。
「でも……もしも、だぞ。あの人に嫌な言葉を言われたりしたら……」
「それも考えた。俺だけじゃなくて、二人で考えた。だけど、どうしようもないだろ。それこそ、いなかったかのように振る舞う方が酷じゃないか。それに」
「それに」
朋也は苦笑した。あまり好かれていないのは当の本人がよく知っているだけに、言いづらかった。
「あの人、そんな物事の道理をわからない人じゃないだろ。俺のことだって、まぁ、わからないでもないしな」
「そんなっ!朋也がバカでだらしなくて甲斐性がなくてただの高卒でしっかりしてないなんて、酷過ぎるじゃないか」
「……いや、まぁ。事実だし」
「バカでだらしなくて甲斐性がなくてただの高卒でしっかりしていない、だぞ?あんまりだ」
「……悪い、智代、それ、あんまり繰り返さないでくれ」
事実だと自覚している分だけ、繰り返されると痛いらしい。
智代はため息をつくと、じっくり考えた後で訊いた。
「本当に、これが最良なんだな」
「ああ」
「乗り越えなきゃいけない壁なんだな」
「そうだ」
「わかった」
ふー、と長く深い息を吐くと、智代は立ち上がった。
「まず電話を。少し話がしたい」