間接照明に照らされた仄暗いバーのカウンターで、男はうめいた。
「私は……知らなかったんだ」
男の目の前には開封されたA4サイズのマニラ封筒、数ページの文書、そして数枚の写真があった。無機質なプラスチックと真鍮、そして白いライトで彩られたバーとは対照的に、その写真の中の風景は夏の青空と菜の花畑と緑の木々が写されていた。
そしてその写真の中央に立つは、一人の少女。
セミロングとも言えるその髪を左右で少しまとめているその少女は、向日葵のような笑顔をこちらに向けていた。その笑顔に、男は昔愛人として付き合っていた女性の面影を認めてしまった。そしてその蒼い瞳は、彼の娘と息子にも受け継がれている、紛れもなく自分の物だった。
「……今更こんなことを言っても始まらんのだが」
はぁ、と体全体から絞り出すようなため息をつくと、男は先ほどから黙って隣で座っている青年に話しかけた。
「有子は……本当に何も言わなかったんだ。別れる時も、ほとんど何も言わずに……」
手の中に顔をうずめると、あの時の光景が瞼の裏で再生された。別れようと言った際、有子は何も言わずに哀しそうに男を見つめたのだった。説明も何も求めずに、有子は頷いた。その気丈な態度に、男は思わず説明しなければいけなくなった。
家内とよりを戻そうと思うんだ。息子が入院している。私のせいなんだ。
言葉を紡ぐ度に自分の矮小さがひしひしと実感できた。例えどんな事情があろうと、男は自分を愛してくれた女性に一方的な別れを告げているのだから。
いっそ泣きわめいてくれた方が、罵倒し非難してくれた方がどれだけ気が楽になっただろうか。それでも有子は気丈にも涙をこらえつつ幾度か頷いただけだった。
俯き言葉を失くしたまま立ちつくす男に、有子は言葉をかけた。
でも、いろいろいただきましたから。
あなたのおかげで、本当の愛を知ることができましたから。
はっと顔をあげると、有子は儚そうに、辛そうに笑っていた。
だから、ありがとうございます。
それが別れの言葉だった。
「まさか、亡くなっていたとはな……確かに一瞬一瞬が繊細で、今にも崩れてしまいそうな、そう、蜻蛉のような印象のした女性だったが……そうか」
言葉の端に、湿った何かが混じっていた。そして男は黙り込んだ。青年は敢えて何も言わずにいるつもりのようだ。
バーのBGMがピアノソロから物哀しげなサックスのブルースに変わった時、男はゆっくりと頭を擡げた。
「なぁ朋也君、私の……私の娘の名前は、何と言うんだ」
「ともです。三島、とも」
改めて名前を聞かされて、男は目をつぶった。奇しくも、彼の長女の名前もともで始まり、またその夫である青年も、同じようにともで始まる名前を持っている。
「とも……か」
噛みしめるように名前を呼んだ後、男は青年に向き直った。
「それで、ともは元気なのかね」
「ええ。いつも活発で、元気だと聞いています」
「そうか……なぁ朋也君」
「はい」
「私は、彼女に、娘に会っていいのだろうか。それは、許されることなのだろうか」
懺悔するように、男は青年を見つめた。その視線を真摯に受け止めて、青年は答えた。
「その答えは、俺からじゃなくて、二人の女性から出るものなんじゃないですか」
「…………そう、そうだな」
しばし考えた後、男は頷いた。