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 智代お姉ちゃんへ


 父の日に、こんなことを聞くのってずるいと思う。でも、一つ教えてください。

 私たちのお父さんって、どんな人?



 (未投函のまま)





 

 


 

 

ともアフター

第九話 信じた

 

 

 

 

 

 

 

 


 ドアが開くと、カウンターの後ろで暇そうにしていた男の人がこちらを見た。

「いらっしゃい……って、何だ、渚か」

「悠馬君、お父さんとお母さんはどこですか」

「早苗さんなら町内会に行ってる。あと、オッサンなら草野球じゃないかな」

「そうですか。悠馬君、少し席を外してくれますか」

 そう言われて、悠馬さん − 渚さんの旦那さん − は渚さんをまじまじと見ると、ほう、とため息をついた。

「しょうがねえな。ちょっくらオッサンのところに行ってくるわ。店番頼んだぞ」

 そう言って悠馬さんは来ていたエプロンを外して店から出ていった。

「……すみません」

 私は悠馬さんを負いだした事を渚さんに謝った。

「いいんです。それに、悠馬君、うれしそうでしたし」

「……うれしそう?」

「はい。最近まともに出番がなかったから、よかったです」

「?」

「セリフがあるだなんて、本当に久しぶりですっ!破格の待遇ですっ」

「はぁ」

 首をかしげていると、渚さんがストールを店の奥から持ってきてくれて、カウンターの傍に置いた。

「何か飲みますか、ともさん」

「あ、いえ、結構です」

「そうですか。では」

 よいしょ、と可愛らしく掛け声をかけて、渚さんがストールに腰掛けた。私もそれに倣う。

「で、ともさんのさっきの質問でしたよね」

「……はい」

 私が訊いたのは、強さとは何か、という問いだった。しかし、知りたいことはいっぱいあった。ただ、強さとは何かを知れば、強さを正しく求める事が出来れば、私は私の問いへの糸口がつかめるかもしれないと思ったのだった。

「どうして、そんなことを聞くんですか」

 あたかも強さを追い求める事が無意味であるかのような口調に、私は驚いて渚さんを見た。渚さんのあどけなさそうな笑顔からは、何も読みとれなかった。

「……いけないでしょうか」

「いいえ。それどころか、私、ともさんの力になりたいです」

「だったら」

「でも、何も知らずにともさんに自分の経験だけから話すのは、力になってる気がしないと思います」

 笑顔の後ろから真剣さを滲ませて、渚さんは私を遮った。そしてしばらく間をおいた後、また訊いた。

「ともさん、何で『強さとは何か』って知りたいんですか」

「……それがわからないと、強くなれない気がしたから」

「そうですか。ともさんは今、中学二年生でしたよね」

「はい」

「強くならなきゃいけない理由って、あるんですか」

 渚さんは、そのままの笑顔。だけどその言葉は、私の中に深く響いた。

「……どうして、そんなことを聞くんですか」

 今度は、私はその質問を口にする番だった。すると、渚さんは驚いて手と首をぶんぶん振った。

「え、あ、その、ちょっと不思議に思っただけですっ!責めたりとかしてませんっ」

「いや、そうは思ってないですけど……何だか変ですか」

「変じゃないですっ……けど」

「けど?」

「何だか、ともさんが生き急いでいる気がしてしまったんです。ともさんには、智代さんや岡崎さん、それに鷹文さんや河南子さんがいるのに、自分で強くなりたい、ならなきゃ、っていう感じがしたので」

「だってそれは……っ」

 思わず衝動に駆られて叫びたくなった。

 だって、私はあの人たちとは違うもの。

 だって、私はいてはいけない子だもの。

 だって、そうでもしないと一緒にいてはいけないんだもの。

 

 それらの言葉を飲み込んで、私は黙り込んだ。そんな私を、渚さんは静かに微笑んだまま見ていた。

「……私、智代お姉ちゃんに、自分の父親に会わないかって聞かれたんです」

「……ともさんのお父さん、ですか」

 渚さんが戸惑いがちに聞いてきた。こくんと頷く。

「長い、長い話になると、思います」





 そして私は訥々と語った。

 私が生まれる前の話。お母さんと、坂上家の関わりの話。

 私が智代お姉ちゃんから聞いた話。鷹文お兄ちゃんの事故の話。

 私が生まれてからの話。私とお母さんの話。

 私が智代お姉ちゃんと朋也お兄ちゃん、そして鷹文お兄ちゃんと河南さんと出会ってからの話。あの夏の思い出の話。

 そして最後に、今朝の話。

 それら全ての話を終えると、日はもう傾きかけていた。自分で話してみて、ようやく実感できる、自分の話の長さ。順序を追って話してみて、改めて思い知らされる自分の業の深さ。

 渚さんはそんな話を、時々質問をするだけ以外はずっと黙って聞いてくれた。そして、話が終わるとすっと席を立って店の奥に行ってしまった。

 一人になった時に、私は自分の話を思い起こしてみた。そう、私はそもそも、智代お姉ちゃんの両親が不仲でなければ生まれるはずもない子だったのだ。私は智代お姉ちゃんの家庭の不幸が前提となって生まれた子だった。

 強くなれたら、そんなハンデが生む状況にも耐えられる。

 強くなれたら、他人の同情や非難、好奇心や不快感の混じった視線をも無視できる。

 強くなれたら、私はこんな過酷な世界でも生きていける。

「はい、おまちどうさまですっ」

 そう言って渚さんは私の目の前に、麦茶の入ったコップを置いた。

「ありがとうございます」

 渚さんはどういたしまして、と笑ったが、その後少し翳りのある表情になった。

「ともさん、すごく礼儀が正しいですね」

「え……そうかな」

「はいっ!時々お店にともさんと同じくらいの年齢のお客さんが来たりします。でも、中にはちょっと嫌な人もいます。怖い感じの人もいます」

「はぁ」

「ともさんのお母さんは礼儀に厳しい人だったんですか」

 少し考えた後、私は苦笑いをした。

「どうでしょう。特別厳しかったという覚えはないです。でも」

「でも」

「ちゃんと人に挨拶したり、行儀を良くしたり、迷惑をかけないようにしたり、そういうことは教わりました」

「そうだったんですか。とてもいいお母さんだったんですね」

「……」

 そうかもしれない。そうかもしれないんだけどね。

 あのね、渚さん。

 私は、そんなお母さんに捨てられてるんだよ。

「ともさん、お母さんに教わったこと、今でも覚えてるんですね」

「そう、ですね」

 こくんと頷いた。

「そうですよ。だって、礼儀が正しいところとか、お行儀がいいところとか、人の事をいたわったり気にかけたりしてますから、ともさんは、お母さんに教わったことをちゃんとやっています」

 確かにそうかもしれない。母に手をあげられた覚えはなく、そもそも声を荒げられた記憶すらない。だけど母は、私が母の言いつけを守らなかったりすると、とても悲しそうな顔をした。私はそんな悲しそうな顔をする母を見たくなくて、母にはいつも笑ってもらいたくて、それで母の言いつけをできるだけ守ろうとしたのだった。

「ともさん、少し確認してもいいですか」

 不意に声をかけられたので、私はびっくりして渚さんを見た。

「確認、ですか」

 こくん、と渚さんが頷いた。

「まず、ともさんと智代さんは、すごく仲がいいんですよね」

「はい……そうだと、思います」

 最初は肯定したものの、急に不安になって少し付け足した。私がそう思ったとしても、もしかするとそれすらも幻影で、実は智代お姉ちゃんの重荷になっているのかもしれなかったから。

「智代さんはともさんとどういう風に接していますか」

「え……」

「すごく親しそうにしていますか。それとも消極的ですか」

「親しそうにしています」

 すると渚さんはぱっと顔を明るくさせた。

「だったら大丈夫ですっ!智代さんは、すごく物事をはっきりさせる方ですからっ」

 そう言われてみて、私は納得した。確かに智代お姉ちゃんは好き嫌いをはっきりさせるところがある。嫌いなのに好きな振りをする、という仕草ができない人だった。不器用だと言えばそうなのだろうが、そのまっすぐな所に魅かれるのは私や朋也お兄ちゃんだけじゃないだろう。

「次にですね、ともさんはともさんのお母さんのことを、今でもよく覚えていますか」

「はい、覚えてます。忘れられるわけ、ないから」

 中学二年生にして、私の中にある母の記憶は、すでに人生の三分の一分に減っていた。でも、その短い日々は、できるだけ風化しないように努めてきたつもりだった。

「お母さんは、ともさんのこと大好きだったんですよね」

「……よく、わからないです」

 大好きだったら、娘を捨てるのだろうか。

 本当に好きだったら、どこまでも一緒だったんじゃないだろうか。

 父親がいないことも、母に死なれたことも、仕方のないことなのかもしれない。少なくとも、ある程度はそう割り切っていくことができた。だけど、実の母親に捨てられたことは、私の心の中に岩のように深く沈んでいる。そしてその岩は、辺りの、そう自信という部分に細かいひびをいれていた。

「……そうですか」

 渚さんはそう呟くと、しばらくの間、俯いていた。そして、最後に、と前置きを言って、こう切り出した。

「最後に確認したいです。ともさんが強くなりたいと思う理由を」

「……」

「ともさんは、智代さんと約束を守りたい、守らなきゃ、と思う気持ちがあるんじゃないですか」

「……あります」


 あの夏の日、別れ際に、姉は私に言った。



 とも…


 これから、どんなことがあっても…


 どんなつらいことがあっても…


 私はのりこえてみせるから…


 だからともも…


 がんばるんだぞ…


 どっちがつよくなれるか、競争だな……

 まけないぞ…



 そしてその言葉に、私は頷いたのだった。

 それは、契約であり、宣誓だった。私たちは、二人で強くなるのだと。智代お姉ちゃんが強くあろうとするのなら、私もそれに応えなければならない。私が強くなる努力を怠ってしまえば、私は智代お姉ちゃんを裏切ることになる。

「……ともさん」

 渚さんが、不意に真剣な目で私を覗き込んでいた。思わず私はそのまま返事をしてしまった。

「はい」

「それだけじゃなくて、ともさんは、もしかしたらですけど、強くならないと智代さんや岡崎さんに見捨てられる、そう思ってるところ、ないですか」

「……」

「あるいは、いつかは捨てられるから、その時のためにも強くならなければいけないと、そう思っているんじゃないですか」

「…………」

 言葉は出なかった。渚さんの言ったことは、正しくその通りだった。頷くのは簡単だった。

 だけど。

 だけどそれは。

 口に出してみれば、どうしようもなく寂しい事実だった。

「ともさん」

「……はい」

「私、残念ですけど、ともさんのこと、あまりよくわかってないです。もちろん、これからいっぱい知っていくつもりですし、もっと仲良くなりたいです」

「……はい」

「だから、これから言うのは、私自身の経験と、私の知っている智代さんから導き出した答えです。間違ってるかもしれませんけど、精一杯考えました」

「はい」

 途切れがちの言葉。でもそれらには真剣に考えた後のゆるぎない態度と、自分のできる限りを出してそこまで辿り着いたという真摯さが込められてあった。

「まず最初に一つ。智代さんがともさんを見捨てることなんてないです。岡崎さんも同じです」

 さらっと、あまりにもさらっと言ってのけたので、その断言はむしろ無責任に聞こえた。

「……そうとは限らないんじゃないですか」

「いいえ。智代さんも岡崎さんも、誰かを見捨てることなんてないです」

「どうしてそこまで言い切れるんですか」

 すると渚さんは優しく諭すように笑った。太陽を連想させるような笑みだった。

「だって、私たちはまだみんなと一緒ですから。ことみちゃんがアメリカに行ってしまっても、春原さんが遠くの町に移ってしまっても、私が病気で伏せって学校を一緒に卒業できなくても、岡崎さんも智代さんもずっと繋がってくれてましたから」

 笑顔で語られた言葉の、その背景には、私が想像していなかった事情が顔をのぞかせていた。

 一ノ瀬博士……いや、ことみちゃんは、高校卒業とともにアメリカに留学。それから数年は帰国することもままならず、今でも日本にいる時間よりはアメリカや他の国にいる事の方が多いという。

 朋也お兄ちゃんとすごく仲のいい春原さんは、ここからは列車に乗って結構遠い町に住んでいるらしい。杏さんと付き合いだしてからはそれなりに光坂に来るようになったらしいけど、高校卒業後すぐに就職した朋也お兄ちゃんにしてみれば、春原さんに会いに行く暇も、またその逆もほとんどなかっただろう。

 渚さんの病気についてはあまりよく知らない。でも、長期間学校に登校しなくなると、見舞客も減っていくというのは容易に想像できる。そして卒業したら、その後の交流は途絶えてしまうのだろう。

 それらの生涯を乗り越えて今に至るには、ことみちゃんや春原さんや渚さんの努力だけでは足りない。いくら努力しても、それを受け入れる心がなくては報われない。つまり智代お姉ちゃんも朋也お兄ちゃんも、そうやって離れ離れになっていくであろう知人を捨てなかった、手を放さなかった、そういうことになる。

「私たちみたいな他人でもそうなんです。家族、しかも自分より年下のともさんを見捨てるなんてこと、絶対にないです」

 その言葉は、私が求めていた物だった。

 縋りたかった。

 受け入れてほしかった。

 受け入れてくれると思いたかった。

 信じたかった。

 だけど、今まで誰も信じられなかった。いつかはみんな、私を置いていってしまうのだと、そう心が冷たく囁いた。それは私の勝手な思い込みではなく、実際に起こったことだから。

「でも……それでも、私はそうじゃないです」

 毒を吐くように、私は言った。唇に、口の中に、喉の奥に、形容しがたい苦みが広がる。

 あるいは普通の子供だったらそうだっただろう。あるいは普通の家族だったら、そう信じられるのだろう。

 しかし、私は違う。

 私は、存在そのものが家族の絆を断つ災厄。私は坂上家という噛み合ったジグソーパズルを瓦解させる黒いピース。私は、いてはいけない子。

 それゆえに、母からも見捨てられ、鷹文お兄ちゃんが気を利かせてくれなければ全てを破壊した後にどこかで野たれ死んでいたであろう存在だった。

 私は忘れてはいけない。私は、自分を生んだ母親ですらも見捨てた者だと。なのであれば、実の母親よりも絆の薄い者が私を見捨てない道理など、あろうはずがない。

「もう一つ、いいですか」

「……ええ」

「ともさんが、お母さんに見捨てられた、ということですけど、もう一度よく思い出してほしいです」

「……え」

「お母さんは、何でともさんを坂上家に預けようとしたんでしょう」

「……母は、その頃にはもう余命が少ないという状態でした。そんな状態では、私は重たすぎて抱える事の出来ない重荷だったんだろうと、いや、そうだったんでしょう」

「……そうでしょうか」

「そうですよ。だって、そうじゃなかったら、母はどんなことがあっても、私を手放さなかったでしょうから。私と母はずっと一緒だったんです。最後まで一緒だったはずだったんです。少なくとも、私はそれでよかった。だけど、母は繋いでいた手を放した。放したんです」

 母と二人きりの生活は、楽しかったけど辛いこともあった。それでも私は、それでよかった。母と一緒だったらそんなことにでも耐える事が出来た。極端な話、母が死ぬ時、一緒に連れていってくれても、それでもよかった。

「……ごめんなさい、ともさん。それは間違ってると思います」

 目を伏せて、それでも渚さんは強く言い切った。

「だって、ともさんから見れば世界はそれだけであっても、ともさんのお母さんはそれを望んでいなかったでしょうから」

「……」

「いいですか」

 渚さんは不意に私の手を握った。そして目をまっすぐ覗き込んだ。

「自分の都合だけで子供を手放す母親なんて、いません」

「……それは」

「いいえ。これは譲れません。口ではどんなことを言っても、母親が子供の手を放す理由はいつだって一つです。それは、自分が与えられる幸せよりも、自分の元を離れていって子供が得られるであろう幸せの方が多い場合です」

 勢いに任せて反論しようとして、私はふと思い出した。この人は一般論や常識だけで物を言っているのではない。この人だって、一児の母親なのだった。

「私は、娘を産む時、結構いろんな人に反対されました。もしかすると死ぬかもしれない、そうお医者さんからも言われました。でも、それでも譲りませんでした。それはですね、私よりも、しおちゃんのほうが大事だったからです」

 自分よりも娘が大事。そう言い切る渚さんを、私は凝視した。

「例え私がどうなっても、私にはしおちゃんに幸せを与えたかった。私の周りにいる人たちに会ってほしかった。私が貰った幸せを、しおちゃんにも与えてほしかった」

 今だから言えることなんですけどね、と渚さんはおどけて笑って見せた後、また真剣な顔に戻った。

「子供を産むというのは、そういうことなんです。それだけ辛くて、それだけ痛くて、それだけ嬉しいことなんです」

「……じゃあ、私の母も」

「ともさんがお母さんを慕う気持ちはわかります。だけど、お母さんはともさんを一人ぼっちにして置いておきたくはなかったんだと、そう思います。ましてや、一緒に死なせるだなんて、絶対に許せなかったんだと思います。だから、坂上さんを信じたんだと、そう思います」

 そう言われて、私は一かけらの過去を思い出した。

 智代お姉ちゃんに連れられて、私は久しぶりに自分の生まれ育ったアパートの前に戻った。そしてそこには、母が立っていた。

「ママっ」

 そう言って私は駈け出した。そんな私に、母は別れの挨拶を告げたのだった。

 今までそれは、私が見捨てられた決定的な場面として、胸に深く抉られた棘と化して残っていた。しかし、その場には朋也お兄ちゃんも智代お姉ちゃんもいたのだった。そして呆然と立ち尽くす私を、智代お姉ちゃんは抱きしめてくれた。私のために泣いてくれた。

 あれはつまり、私を見捨てたのではなくて

 私を、朋也お兄ちゃんと智代お姉ちゃんに託した、そういうことだったのだろうか。

「それに、ともさんのお母さんは、ちゃんとともさんを躾けてくれました。子供を躾けるのって、実はすごく大変なんです。すぐにできることじゃないです。時間をかけて、真摯にじっくりと取りかからないとうまくいかないです。でも、ともさんのお母さんは、それをちゃんと果たしました。そんなにともさんのことを愛していたと、そういうことです。そんなお母さんが、ともさんを見捨てるなんて考えにくいです」

 その言葉で、私の中の何か、どす黒く凝り固まった澱のような何かが、音もなくすぅっと消えていく気がした。そしてその向こうに広がるのは、果てしない青空。眩しい光。

「私は」

 私は、捨てられたんじゃなかったのかな。

 私は、最後の最後まで、愛されていたのかな。

 もしかすると、私は

「渚さん」

 目先が滲み、心臓が激しく脈打つのを感じながら、私は訊いた。

「私、ここにいてもいいんですか。生きていていいんですか。この世界で存在して、本当にいいんですか」

 返って来たのは、間違えようのない答え。

「もちろんですっ」

 握られた手が、向けられた笑顔が、かけられた言葉が優しすぎて、私は堪え切れずに泣き出した。渚さんの手に顔をうずめて、泣きじゃくった。

「ともさんは、いてはいけない子なんかじゃないです。私、ともさんと会えてうれしかったです。きっと、ふぅちゃんもお父さんもお母さんも、春原さんも杏ちゃんも、そして智代さんも岡崎さんも、みんなそう思ってます。いてくれて、ありがとうって、みんなそう思ってます」

 優しく頭を撫でながら、渚さんが心を解すように諭してくれた。





 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 私が泣き止むのを待って、渚さんは再度私と向き合った。

「これから、ともさんはどうしたいですか」

「……よく、わかりません。でも」

「でも」

「今度こそは答えが出ると思います」

 そう言って、不器用ながらも渚さんに笑って見せた。渚さんは嬉しそうに頷いてくれた。

「父がどんな人なのか、わかりません。また、智代お姉ちゃんのお母さんがどんな人なのかも、どういう風に私を見るのかも。だけど、今になって父が会いたい、そう言ってきたからには、何か理由があるんだと、そう思います」

 言葉を紡ぐ度に、渚さんは私を力づけるかのように頷いた。

「もしかすると、会ってもうまくいかないかもしれない。ううん、そうなって当然です。だけど、それでも、私は、頑張っていける。そんな気がします」

「うまくいきますよ。だって、ともさんには岡崎さんも智代さんもついているんですから」

 そう言われると、本当に何でも大丈夫みたいな気がしたから不思議だった。

「では、最後の答えです」

 渚さんがこほんと咳払いをして言った。

「強さとは、何でしょう」

「……」

 その質問においては、私はまだ答えを出せずにいた。

「いろいろと強さには形があるんだと思います。ともさんにはともさんの強さが、智代さんには智代さんの強さが、私には私なりの強さが」

 それは昔、聡美先生が私に諭してくれた答えと同じだった。

「だから、私なりの解釈を言っても、ともさんがいつか出す答えとは違うのかもしれませんが、参考までに」

「聞かせてください、お願いします」

「そんな、お願いなんてされると照れちゃいますっ」

 恥ずかしげに笑う渚さん。年上の彼女に言うのは失礼なのだろうが、そんな仕草がとてもかわいらしかった。

「笑顔、です」

「笑顔?」

 訊ね返すと、渚さんははにかんで首肯した。

「私、ずっと昔は追い目ばかり感じて、自分に自信がなくて、何もかもが続かない気がして、それで笑えずにいたんです。だけど、あるきっかけを境に、私、自分のことをもっと信じられると思えるようになりました。もっと強くなろうと、がんばろうと思いました。そうしたら、私、自分でも驚くくらい笑えるようになったんです」

「……その、何だか変ですけど、渚さん」

「はい」

「渚さんの笑顔、すごく好きです。すごく優しくて、力強い笑顔だと思います」

「ありがとうございますっ」

「……ねぇ、渚さん」

「はい」

「私、もっと信じることができるかな。もっと自分の周りのことを信じる事が出来るでしょうか。もっと自分のことを信じる事が出来るでしょうか。もっとこの世界を信じる事ができれば」

 もっと信じる事が出来れば、あるいは私は、何があってもめげずに歩いていけるのではないだろうか。

 あるいはずっと自分でいられるのではないだろうか。

 あるいは


 …………あ。


「答えが、出ましたね」

 気付いたら、渚さんが茫然とした私の前でほほ笑んでいた。

「悩みも問題も、方向が分かったら、がんばれます。だから、もう、大丈夫ですね」

「……はい」

「これからどんなことがあっても、自分の方向を見失わなければ、歩いて行けますね」

「はい」

「ともさん」

「はい?」

 そして私たちは笑顔を交わし合った。

「がんばりましょうっ」

「はいっ」




 古河パンを出る前に、私は渚さんに頭を下げた。

「渚さん、本当にいろいろとありがとうございました」

「いいえ。私も、これでともさんのことをもっとよく知ることができました。とってもうれしかったです」

 そう言ってくれたものの、私はそれだけでは気が済まなかった。

「何かお礼をさせてください。いつか必ず、返しに来ますから」

「そうですか。じゃあ、一つだけ」

「はい」

 そして渚さんは私の手を再度取って笑った。

「幸せになってくださいね」

 その言葉に、体が震撼した。心が揺れた。

「……はい」

「それから、また会いに来てくださいね。会いに来て、幸せだって話してくださいね」

「……はい」

 一瞬だけ俯いて、それでも私は渚さんに向き直った。

「必ず、必ずそうします。強くなって、幸せになって、それでまた会いに来ます」

「待ってます」

 そう笑って、私たちは別れた。

 紅に染まったコンクリートの道路と塀の家路を歩いた。いろんなことがあって、正直頭がどうかなりそうだったけど、心の中に積み重ねられた重さがすとんと落ちた気がした。その軽さのせいか、いつの間にか朋也お兄ちゃんの家についていた。扉の前に立った時、そのノブを回すのが躊躇われた。ほっつき歩いた挙句にこんな時間に戻ることについて、どれくらい礼儀知らずなことかぐらい、私にもわかっていた。

 しかしその時、ノブが向こうから回った。

『あ……』

 私と智代お姉ちゃんは同時に声をあげた。

「あ、あの……その」

 私が何かを言える前に、智代お姉ちゃんが私を抱きしめた。

「智代、お姉ちゃん……」

「とも、おかえり」

「あ……」

「何も言わなくていいんだ。いろいろあっただろうに、大変だったろう」

 ぎゅ、と抱きしめる肩に、頭を乗せた。

「智代お姉ちゃん、あのね」

「うん、何だ」

「私、智代お姉ちゃんのお父さんに、会うよ」

 智代お姉ちゃんが一瞬体を強張らせた。

「とも……」

「私、智代お姉ちゃんと、朋也お兄ちゃんと、自分を信じるってことにしたんだ。だから、二人が信じる道を、私も信じる」

「……そうか」

「それから智代お姉ちゃん」

「うん、何だ」

 智代お姉ちゃんを抱きしめ返しながら、私はそっと言った。


「ただいま」

「おかえり」



 

 

 

 

 

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