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あとがきにかえて 〜かくも世界は素晴らしい〜

 

 

 

 今回ほど己の力量のなさを痛感した作品もなかった。

 「登場人物の問題を全て解決してハッピーエンドを迎える」ということを目的とするCLANNADに対し、智代アフターはいろいろな事柄を未解決にしたまま幕を閉じた。一人残された智代は無論のこと、鷹文も河南子もどういうふうに前に進んでいくのかは明確にはされていない。しかし、その中でも最も大きな未解決問題は間違いなく三島ともの「これから」だろう。智代アフターではともは一人村に残され、父親に会うことなく暮らしていくというふうに終わる。

 それがあるいは麻枝氏の狙っていたことなのではないかとも思う。人生に結末などはなく、故に進行形のまま区切りをつけるべきだと、そんな意図を感じる。智代アフターという作品を良くも悪くも特別なものにしているのは、そういうありのままの現実を画面に叩きつけていることなのではないだろうか。

 しかし、智代のその後(智代アフターのままならば「ともざくら」、キネマクラナ座独自の時間軸では「LOST DAYS」)や、鷹文と河南子のその後(「ゴールライン」)はそれなりに思い浮かべることができたが、三島ともに関しては一筋縄ではいかなかった。血のつながりもない子供を引き取ることは、誰にとっても楽なことではない。幼子の時ならまだ何とかなるだろう、とは思えても、その子供が年を経るに連れ、維持費用は高くなっていく ― 食費、学校の制服、学費、教材費 ― ので、生半可な覚悟では子供も里親も不幸になるだけだ。そういう不幸路線もまあなくもないが、あまり書きたいという意欲が起きなかった。

 一応試しに単発作品として「ともアフター 〜口ずさむのは僕らの歌〜」というものを書いてみたが、すぐにこれは単発作品にするには深すぎるものだと気づき、すぐに連載の構成を練った。

 こりゃじっくり腰を据える必要があるな。そう思ったところから、この連載は始まった。

 

 

三島とも

 

 三島ともの台本を書くにあたって気をつけたのは「若者らしさ」を演出することだった。

 特定の口調・口癖なく、ただし少しばかりいたずらが好きな活発な子。そこに神経を払って言葉を選んだ。

 しかし、一層深く覗くと、そこには普段は見えない、ともが絶対に見せようとしない一面が浮かび上がってくる。

 父親の欠如。母親との死別。そして血の繋がっていない人に育てられていることに対する不安と負い目。

 いつしかそれらは彼女に対して、ある諦観を押し付けるようになった。「私はいてはいけない子だから、父は会いに来たりはしない。いてはいけない子だから、いつか一人になってしまう。だから、いつ一人になってもいいように構えていなければならない」

 これが、連載を始めた時点でともを縛り付けていた鎖である。それをともが他人と触れ合っていく上でどう解いて前に進んでいくのかが今回の小乗的なテーマである。そしてそれは、大乗的なテーマである「強さ」とも関係していく。

 ともは古河渚との会話で、「強さとは他人を、自分を、そして自分の世界を信じること」という答えにたどり着いた。そして父と会い、坂上伽羅と再会し、そして自分たちの誰もが誰にも悪意を抱いていないことに気づいた。そこから物語が紡がれていくことを示して今回は幕としたが、これからもともがどこでどのようにその強さを発揮していくのか、見守っていただければ幸いである。

 

 

岡崎智代

 

 普段はメインヒロイン的ポジションに立つ岡崎(妻)だが、今回は可愛い妹のため、出演シーンの機会を比較的少なくさせていただいた。最初は自分が女性らしさに欠けるので出番が少ないのか、やがて降板させられるのか、つまりは私は朋也の嫁にふさわしくないのかと危惧されていたが、とものためだと言った途端に二つ返事で了解してくださった。すんません、智代さん。

 そう、今回は智代さんの出番は控えめなのだ。しかし、だからと言って大事な役を果たしていないわけではない。智代さんには今回、ともを見守る、いわば母親の役を務めてもらった。誰かを導くほど強く動くわけでもなく、だけど支えが必要な時はそこにいて、ともを信じ、ともを優しく暖かく受け止める役である。

 たいしてやることがないように思えて、これは結構辛い役である。ともが苦しみ、答えを探す中、ただ信じて見守ってやる他ないのである。解説し助言してやることも、答えを教えてやることも、全部止めにすることもできない。なぜかと言えば、智代さんにとっての強さとは、「他人を信じること」であるのに対して、ともの見つけた強さとは「自分を信じること」であるので、そもそもたどり着く先が違う。同じ信じる行為だとしても、智代さんの「信じる」とは、自分を認めて生きていくための手段ではなく、他人、例えば朋也君の意志を尊重し、助けるための前提とも言えるのだから。智代さんはそうする自分を受け入れ、それが強い自分なのだと納得している。恐らくは朋也くんの記憶喪失を経て得た結果なのだろうが、この結果だけをともに当てはめても、歪な方向に捻じ曲がっていくだけなのである。

 智代アフターでも村に行ってからはむしろ河南子が活躍し、智代さんにいい出番はなかった。しかし同じ消極的なポジションと言えども、今回の夏の智代さんは上記のとおり辛く、苦しく、しかし大事な位置に立った。まさに彼女の強さが試されたわけである。今回の智代さんをあの夏の彼女と比べて、「ああ、強くなったな」と思っていただければ幸いである。

 

 

岡崎朋也

 

 今回の黒幕其の一である。朋也君には、日頃の爆発しろ的な行いの報いとして、暗躍する悪者的ポジションを演ってもらったわけだが、結構ノリノリだったので脱力した。くそ、誰かこいつを止めろ。

 朋也君は、とものあの夏のポジションが一番よくわかっていたのである。ともの仲間でありながら、情に流されることなく冷静に判断し、社会人としての経験も交えた上で、彼にはこんな状況が続かないだろうとわかっていた。だから、いつになるかわからないが、真菜さんとこれからのこと、具体的には有子さんが亡くなった後のことを話し合った。

 そして真菜さんがともの成長を見守る中、朋也君は坂上家の絆が取り戻される時をずっと待っていたのである。家族が歓談するところも言い争うところも全部見て、表面では笑ったり動揺したりしつつ、心の底では「いけそうか?いや、まだだ」と判断し続けていたのである。

 そしてもう大丈夫だと朋也君が判断したところから、この夏は始まる。まず、真菜さんにその時が訪れたことを告げ、坂上氏にとものことを話し、坂上氏と伽羅さんの話し合いの結果を聞いた上で、ともを呼んだ。そしてともが笑い、再会を喜び、楽しいひと時を過ごしているのを見ていたのである。その後続くであろう苦しみや涙を予想しながら。

 ただし、いたずらに策士的ポジションを与えたわけではない。ともの状況は打開しなければどうにもならなかったものだし、それの段取りをつけられたのは、ともの危うい立ち位置を理解できており、坂上氏からの信頼も厚い朋也君以外になかった。結果として、全部朋也君の思惑通り大団円を迎えることができた。

 それもまあ、癪と言っては癪なのだけれども。

 

 

坂上鷹文

 

 鷹文の役目は、坂上家長男で、春原分が控えめな本シリーズでのツッコミ属性いじられキャラ、そして河南子の手綱キャラ、のはずなのだが、三つ目のお役目は残念ながら見事と言いたくなるほど果たせていない。

 智代アフターで描かれた鷹文の苦悩の結末は、別の機会にて書かせていただいた故、鷹文の出番も少なげになっているが、それでも大事な役割を果たしている。理性的ないじられキャラとして絶縁を何度も喰らっているのにも関わらず、めげずに出演するさまは涙すら誘う、という話(だけ)ではないのでご安心を。

 鷹文はあまり目立ってはいないが、坂上家長男としての立場が朋也をサポートしている。一応坂上氏の信頼を得ている朋也君だが、それでも鷹文が入院する結果となった家族危機においては部外者である。でしゃばりすぎると坂上氏に疎まれ、協力を失ってしまうかもしれない。そこで鷹文がサポートをする。この一連の話において常に当事者のひとりであり、また家族機器の時一番傷ついた(身体的にだけでなく、恩師との決別や夢の喪失などの形にできないものも含めて)鷹文が一緒に説得に周り、調整に努めれば、坂上氏も首を横に振ることは難しいだろうし、伽羅さんも今まで築き上げてきた家族の絆を毀すようなことはしないだろう。目立たないが、やはり重要な奴なのである。

 

 

 入谷河南子

 

 誰だコイツをキャストに入れたのはっ!!

 河南子ならこのシリアスになりがちな話にちょうどいい潤いを与えてくれるかなあとか思っていたが、大間違いであった。はっきり言おう。最終話の前半があんなに長引いたのは、コイツがしっちゃかめっちゃか暴れまくってくれたからである。これでは鷹文では御しきれないわけだ。

 それでも改めて見れば何とか河南子は河南子らしくこの話を盛り上げてくれた。「ちょっとこれじゃあ物足りないな……」「んだ?じゃああたしが盛り上げてやろう」「いや、いいです」「遠慮するなよー。っつーわけで」「ぎゃああああああっ」というところも何度かあったが、今ではいい思い出である。その自由奔放なところが、どうかチャームポイントとして出ていましたように。

 

 

 坂上雅臣&坂上伽羅

 

 もう半ばどころかほとんどオリジナルキャラの二人であるが、今回は珍しく表舞台に出てきてもらった。

 この二人がどういう人物なのか決めるのがものすごく難しかった。坂上氏の器次第で、この話は全く違った結末になっただろう。また、伽羅さんがこのことを受け止めることができるかという点も、エンディングを決める上で大事なポイントだった。

 考えてみれば、ともが坂上氏の娘であるという確たる証拠はまだないのだ。その気になれば「三島有子?知らんな。娘?DNA鑑定したのかね?寝言を言ってもらっては困るよ」と言い逃れることだって出来た。しかし、本人がそのようなことをして自分を許せるほど器用でないことは、娘である智代さんを見れば一目瞭然である。それに、そもそもそんなゲスなオヤジとして坂上氏を書きたくはなかった。だから敢えて「罪を背負い、償いの道を探そうとする真摯な姿」を描いた。理想論結構、非現実的上等。みんなが前に進める大団円こそが、キネマクラナ座のテーマである。

 さて、伽羅さんのほうはいささか事情が違う。娘も何も、本当に赤の他人なのである。だから、いくら時効だと言ってもともを受け入れることには抵抗があるだろうし、そもそも接し方もわからないのだ。そこで、いろいろと抜け道を作らせていただいた。偶然の出会いでともに対して好印象を持ったり、会う前に朋也と坂上氏、そして鷹文を交えて話をしたり、町に行くまでの道のりでともといろんな話をしたり、吾郎の家ではやっぱり朋也君と食器片付けと言いつつ話をしたり……これらの舞台裏のシーンは、折を見て書くかもしれないし、書かないかもしれないが、ともあれこの作品がシリーズ化を要した理由の一つが「如何にして伽羅さんのともを受け入れる負担を減らすかが、短編では書ききれなかったから」というのがあった。

 

 

 無謀にも程がある。僕にはこんな重いテーマを語るほどの人生経験もなければ、多少強引でも読者を引き込めるような筆力もなかったのだから。正直、何度も「こんなのお前が書けるようなことじゃないだろ」と後悔した。「彼女の福音」とは比べ物にならないくらいノロノロペースの更新で、話数も恥ずかしいくらい少ないが、「彼女の福音」以上に考えさせられる話だった。

 しかし悩みつつ、後悔しつつも、読者の皆様に励まされ、尻を叩かれ、ようやく完結にこぎ着くことができた。皆様のコメントのおかげで「なるほど、そういうふうに捉えることもできるな」と思ったり、次の話を書く気力が湧いてきたりした。ここまでお付き合いいただいたということは、物書きとしてとても幸せだと思う。

 作品に幕を引く時の名残惜しさと、最後まで書き切ったんだという達成感が胸の中で色褪せないよう、またこれからも精進していきます。よろしくお願いします。

 

 

 

 

 弐千壱拾弐年玖月弐拾肆日    クロイ≠レイ

 

 

 

 

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