「綺麗な月だな」
私は朋也に笑いかけた。
「ああ、そうだな」
辺りは白い光に照らされ、まだ十月の初めだというのに雪化粧をしたようだった。物音一つしない、二人だけの世界にいるかのようだった。
「もしかすると、本当にお月様にはウサギがいて、今頃ダンゴを作ってるかもしれないぞ」
「それは古河さんから聞いた話か?」
「いや、古河はしきりにダンゴ星のことを話してた」
ダンゴがいっぱい飛び跳ねてるんだってさ、と朋也は屈託のない笑顔を見せた。私の大好きな笑顔だ。
「なぁ」
「うん?どうした」
笑いながら、視線を外してしまった。改めて言うと恥ずかしいものだな。
「手を……繋ぎたいんだ」
「……ほら」
声が少し遠い。朋也も向こうを向いてしまったんだろうか。まったく、二人そろって似た物同士だな。
そろそろ、と指が動く。見えないから、手探りで朋也の手を探す。これこそ本当の手探りか。
触れた。
少しざらざらしてて、ごわごわしてるけど、優しくて暖かい。まるで、朋也という人を表すかのようだった。そう思うと、自然に笑いが漏れた。
Waltz pour Deux - Just the Two of Us
帰ってきてみると、ちゃぶ台の上に、ダンゴが山盛りされていた。
「ん?ああ、十五夜だからな。帰りに古河パンに寄ったら、ダンゴ大祭とかで作るの手伝わされて、それでこれはおすそ分けなんだってさ」
あっけらかんと言う朋也を見て、私は苦笑してしまった。ふらっと立ち寄ったはいいものの、成り行きに流されてせっせと台所でダンゴを丸める朋也の姿が容易に思い浮かんだ。
「何だよ」
「いや、やっぱり朋也は朋也だなって思ってな」
そう言いながら私はスーツを脱いで私服に着替えた。少し寒くなってきたから、白い長袖のシャツにチェックのスカートにした。
「お疲れ、智代」
朋也が笑いかけてくれる。それだけで、疲れが消えていく。
「お前こそ、寒くなってきているのに大変じゃないか」
「まぁ、大丈夫だな。それより見てくれ、今日は少しうまくできたと思うぞ」
そう言って私の手をとると、台所に連れて行く。コンロの前には、チャーハンの入ったフライパンがあった。
「では、少し摘ませてもらうぞ?」
「おう、どうぞ」
お箸を出して、少し味見をしてみる。うん、まぁ充分及第点だ。
「よっしゃあ!」
「あとはチャーハン以外の料理もできるといいな、朋也」
私の帰りが遅いときは、朋也が料理したりする。私が大学に通っていた頃は一人暮らしをしていたわけだから、私は簡単な物ならできるかな、と思っていた。しかし実際はコンビニですでに料理された物や電子レンジでチンする物を買っていたようである。全く仕方のない奴なので、基本中の基本を教えてやることにした。べ、別に二人で台所で肩を並べ、談笑しながら料理するのが楽しかったからしたわけじゃないぞ?そこは誤解されてもらっては困る。
「なぁ智代」
「……飲み物ならいらないからな」
またか、とため息をついた。夕食が終わってから、二人で朋也の通信教育に取り掛かっていたのだが、集中力が足りないといおうか、勉強にそもそも向いていないといおうか、すぐにあの手この手を使って中断させようとする。今夜だけでも飲み物を持ってくること三回、肩揉みのお誘い二回、キス未遂十五回と、まぁいつもに比べてはおとなしいがそれでもぜんぜん捗らない。
「だぁああっ!」
あ、ついに壊れた。
「大体、こんな綺麗な月夜の晩に、何でなんで勉強なんてしなきゃいけないんだ!」
「大学を卒業したいからだろ」
「……うぐぅ」
「そ、そんな捨てられた小熊のような目で私を見るなっ!」
「熊って普通飼わないのな」
畳の上に寝転ぶ朋也。
「あーっくそ、こんなことよりともぴょんとお出かけしたい、お月見したいしたい」
一気に幼児退行する朋也。本当に、どっちが先輩だかな……
「よし、じゃあこうしよう。今日の課題が終わったら、二人でお月見をしに行こう」
「……えー」
「ほら、早くしないと、朝になってしまうぞ?」
そう言うと、むくりと起き上がって朋也はちゃぶ台に広げてあるノートに何かを書き入れ始めた。ふぅ、まったく、困ったさんめ。
「なぁ智代、肩、凝らないか」
「言ってる傍からそれかっ!!」
とまぁ何だかんだでようやく勉強も一段落つき、私たちは今外にいる。結構時間がかかってしまったため遅くなってしまったが、何だか二人だけの舞台を歩いている気がした。
「綺麗だな」
並んでブランコに座っている朋也がポツリと呟いた。私は月を見上げたまま頷いた。
「そうだな。ハッとしてしまうな」
「まぁな……だけど」
朋也が手を握りなおした。指と指が絡まる感じの、もう離さないといわんばかりの繋ぎ方だった。
「……お前もな」
「ん?どうした?今何か言ったか?」
いや別に、とかその何だあれだ、とか口ごもった後、朋也は顔を赤くしながら、私の耳にささやいた。
「そんな月に照らされたお前も綺麗だなぁって思ってさ」
かぁぁあああああああああああ
「ば、バカッ!そ、そんな恥ずかしいこと、言うなっ!」
「ダメか?」
「……うー」
上目遣いで朋也を睨んだ。すると
くしゃ
頭を撫でられた。
「朋也?私を子ども扱いしているのか?」
「いや、ただ可愛くてさ」
「そんな言葉でごまかそうとしても、そうはいかないからな。全く朋也は」
言葉を終わらせることはできなかった。見開かれた目の前には、朋也の瞳があった。
「……ぁ……いきなり、だな」
「そうだな」
「やっぱり子ども扱いしてるだろ」
「してないって。ただ、可愛くて愛しい。それだけだよ」
「……そうか」
今度は目を閉じて、そして幾分かぎこちなさを減らして、朋也の首に腕を回した。
「本当に俺たちだけみたいだな」
肩を抱かれながら、そんな朋也の言葉に頷く。こうされると、自分が朋也の手のひらに肩がすっぽり納まるくらいの女の子だと実感する。私が小さいのか、朋也が大きいのか、多分両方なんだろう。
「智代」
「ん?」
「好きだぞ」
幾分かの照れ笑いと、少しばかりのいたずらっぽさを含んだ声で、朋也が小さく言う。
「私も朋也が好きだ。でも」
「でも?」
「どうせ私たちだけなんだ。もう少し、大きく言って欲しい」
本当のことを言うと、半分は素直じゃなかった。半分はただ朋也が恥ずかしがって「バカ、言えるかよ」とか言うところを見たかった。
しかし、さすがは朋也だ。私の想像の斜め上を行くようなことをしでかした。
「なっ、とっ朋也ッ!何をッ!!」
肩を抱かれたまま、膝の裏にも腕を回され、そのまま持ち上げられる。いわゆる
「何って……お姫様抱っこだが」
誰も見ていないとわかっていながらも、結構恥ずかしかった。
「いきなりお前はっ!こら、ちょっとっ!」
「いや、何。小さく言われただけじゃ物足りないんだったら、どうせこれぐらいはしようと思ってさ」
「降ろせ!朋也!」
ぽかぽか。
あまり強くは叩いていなかったが、結局朋也は私を降ろした。しかし、依然として肩は抱いたままで、そして左手で私の右手を握っていた。
「これは踊りの誘いか?」
「ま、誘いってもぜんぜん知らないんだけどな」
そのままぐるぐると回る。
「確かリズムとかそういうのがあったと思うぞ。ほら、アン、ドゥ、トゥワーって」
「よく知ってるなぁ」
「ちょっとバレエに興味があったから調べたんだ。女の子らしいだろ?」
そう冗談めかして言うと、案外真顔な返事が返ってきた。
「らしいも何も、俺は智代ほど女の子らしい奴は知らないって」
「……調子のいいことを」
「本当だって。だってな」
額と額が触れ合う。鼻をくっつけ合わせながら、朋也が少し笑った。
「お前ほど、俺のこと好きでいてくれる奴なんて、いないしな」
それだけは、そのことだけは私は自信があった。岡崎朋也を世界で一番愛しているのは、岡崎智代だ。
「ありがとな」
接吻をしながら、思った。やっぱり朋也はキス魔だな。
アン、ドゥ、トゥワー。アン、ドゥ、トゥワー。
軽くステップを踏む。さっきからこの繰り返しだった。
「ようやく慣れてきたぞ」
どんなもんだい、と言わんばかりに朋也が得意な顔をした。よかった、まだ飽きてはいないようだ。
ワルツは前には進まない。ただ廻るだけ。だけどそれは私たちにはできないことだった。
朋也と出会って、私は変わった。朋也も変わっていった。二人が結ばれても、歩む足は止まらない。後戻りはできない。そうやって行くことは悪いことじゃないのだろう。しかし、もしかすると私たちは焦って急かしすぎているのかもしれない。
だから、こんな風に止まって、二人だけの時間をしばしの間楽しめるのは、とても嬉しい。
アン、ドゥ、トゥワー。アン、ドゥ、トゥワー。
それとも、本当に変わっていっているのだろうか。私は、強くなったのだろうか。直接的な強さではなく、いかなる困難でも乗り越えていけるようになったのだろうか。実は、前に進んでいるつもりでも、足踏みしているだけなのか。
アン、ドゥ。トゥワー。
不意に、朋也が止まる。それで、今まで目まぐるしく廻っていた世界はまた静止する。静寂が戻ってくる。
「今夜はこれぐらいにしておこうか」
「……うん。そうだな」
本当は終わらないで欲しかった。もう少し、もう少しだけ、今の時間が続いて欲しかった。
「また、来ような」
「ああ、そうだな」
後戻りのできない時間。今夜の、この時間は、この場所は、もう来れない。一夜限りのステージは、閉幕を最後に現の世界から消える。
「なぁ智代」
「何だ」
「次は、ちゃんとステップとかおさらいしておくからな」
そう言うと、朋也はいたずらっぽく笑った。この笑顔も、実は好きだ。
「うん、そうだなっ」
朋也がそう言うと、何だか本当に何でも起きそうな気がした。
帰り道、ふと気づいた。
もしかすると、私は今でもワルツを踊っているんじゃないか。ステップは踏む。動きはある。成長は、していっていると思う。
だけど。
一つだけ、変わらないもの。それを中心に、私たちの日々は廻っているのではないだろうか。
「朋也」
ん?という顔をする朋也の腕に、自分のを滑り込ませて絡めた。
「大好きだからな」