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「んじゃ、お先」

「あ、お疲れっす」

 俺が手を挙げて会釈すると、山萩が頭を下げた。作業服と私物の道具が詰まったバッグを肩にかけ直し、俺は事務所を後にした。

「ぶぅぉおおお、さぶぅ」

 北風が顔を叩くように吹きつけて来たので、俺は一瞬体を震わせた。辺りは夕焼けのオレンジに染まっており、地面に落ちた葉っぱが道を赤や黄色で彩っていた。

「朋也」

 不意に嬉しそうな声がしたので振り返ると、そこにはうきうきした感じがありありと取れる智代が立っていた。

「よぉ、何だ、早く終わったんだな」

「うん。予想外にもな。だから今日は朋也と一緒に帰れるかと思ったんだが、待ってた甲斐があった」

 そう言いながら自然な仕草で俺の左手に自分の右手の指を絡ませた。昔は恥ずかしいと思っていたこの仕草だけど、今じゃ素直にうれしかったりする。

「これからどこかに寄るのか」

「そういう予定は特にないが……」

「じゃあ、適当にブラブラ帰るか」

「うん、そうだな。そうしよう」

 背丈の違う二人の影が、地面に伸びる。北風がまた吹き、智代の長い髪が宙を舞った。それが夕焼けに伸びた影を揺らめかせ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。





 

 


口笛


 

 






「ちなみに知っているか」

 唐突に智代がいたずらっぽい笑顔で話しかけてきた。

「何を」

「私はな、二十四歳なんだ」

「ああ、知ってる。つーか一昨日誕生日祝ったばっかだろ」

 ぷにぷにと頬を指でつついた。

「わかっていない、わかっていないぞ朋也。私は二十四なんだ」

「……それがどうかしたのか?」

 ちょっと考えてみた。二十四。テレビドラマのタイトル。十二の二倍。一日にある時間の数。二十四の瞳。特に二十四歳だからどうとか乙女らしいとかそういうのはなさそうだった。

「この二週間の間だけ、私とお前は同い年なんだ。もう、同じが多すぎて困るな」

 まったく困っていない感じで、智代が告げた。しかし言いたいことはわかる。苗字、名前の発音(ただし一音違い)、誕生日と似通っているところが多い上に、この二週間だけは年齢も同じだ。どれだけ似通えばいいんだろう、と我ながら呆れる。

「でも、うれしい」

 ふと空を見上げて、智代が笑う。俺の大好きな、どことなく少女らしさを残した屈託のない笑顔だった。

「朋也と似たところが多いということは、それだけ私たちの相性がいいってことじゃないか。うん、何だか神様に認められているようだな」

 言われて、俺は少しだけ気が重くなった。

 俺と智代は二年前、ようやく結婚した。夫二十三歳妻二十二歳という年齢は、一般的に見れば若い方かもしれなかったが、俺たちにしてみれば長くて険しい道程を乗り越えて切ったゴールテープだった。俺たちにはそれだけの理由があったし、俺たちの周りの連中 − 家族や親しい友人 − にもわかってもらえた。だけど、そこまで事情を知らない連中からすれば、俺たちの結婚は上手くいきそうになかったらしい。俺の職場はそれなりにあけっぴろげなところがあり、また社員のほとんどが男だから陰湿なところはないが、智代の場合は違ったらしい。

 年が若すぎるんじゃないか、と陰口をたたかれたこともあったらしい。

 電気工とサラリーウーマンじゃ釣り合わないだろ、と断定されたこともあったらしい。

 できちゃった婚なんじゃないか、と邪推され、実際に上司に問いただされたこともあったと聞いた。

 無論、それで揺らぐ俺たちじゃない。これは前にも通った道で、今度は絶対に間違えないという自信があった。それでも入社したての女子社員というだけでも大変なのに、いろいろと言われているというのは疲れる。できることなら俺が何とか言って陰口を止ませたかったが、それでは事態を悪くするだけだった。俺にできたことと言えば、智代の強さを信じること、そして悩みや愚痴を聞いたりと精神的に支えてやることだった。

「智代」

 ぐっと握った手にもう少しだけ力を込めてみた。

「ん」

「その……何だ。うまく言えないけどな」

「何だ、急に改まって」

 笑う智代に、俺は真っすぐ向き合って言った。

「あれだ、うん、誰が認めようと、誰が認めまいと、その、お前は俺の嫁で、俺はお前の旦那で、もう絶対に離さない。そう決めてるからな」

 一瞬、ぽかんとした表情で智代が俺を見た。そしてゆっくりとそれは柔らかい笑顔にほぐれていった。

「うん、そうだな」

「だから、その、離さないから、智代もずっと傍にいろ」

 我ながら恥ずかしいことを言ったな、とその瞬間思った。もう少しちゃんとしたことが言えないのか、と自分に呆れかえった。まともに視線を合わせられなくて、俺は空を見上げた。不意にぽす、という音とともに、暖かい重みが俺に預けられた。

「当然だ。お前と出会ったんだ、手放したりしてたまるか」

「あ、ああ」

「……何だか恥ずかしいことを言った気がする」

「気にするな」

「そうか?」

 俺の方が十倍恥ずかしいからな。




「む」

 歩いていると、急に智代が俺の顔を見た。

「ん?どうした」

「いや……今のは?」

「今の?」

「今吹いていた口笛だ」

「……ああ」

 意識せずにいつの間にか吹いていたらしい。しかし困った。意識していなかったのでは、答えようもない。

「悪い、覚えていないんだ」

「覚えていない?何だ、急に耄碌してしまったのか」

 くすり、とおかしそうに智代が笑った。そういう仕草の一つ一つが、わざわざ主張しなくても智代が女の子らしい女性なのだと教えてくれる。

「……どこか懐かしい、そんな響きがしたんだ」

「懐かしい、か」

「うまくは言えないが、どこか遠い昔、聞いた覚えがある、そんな感じだ。すごく、優しい感じがした」

 優しい感じ。それは智代と出会うまでは俺にとって無縁な言葉だった。

 親父は、いろいろあったけど、それでも俺をここまで育て上げてくれた。だけど幼い頃の親父の記憶は優しい、とくくるには少しばかり男くさくて強かった。尊敬はできるし、感謝はしている。でも、優しい、とは形容できなかった。

 もしかすると、俺の口笛がそう聞こえるのは、俺自身が身近にそういう優しさを感じているからなのかもしれない。だとすれば、その優しさの源が誰か、考えるまでもないだろう。そしてそれを感じられるから、俺はこれからも優しい気分でいられる。傍にいる時の体温、近くに寄り添う時にくすぐる香り、その全てが俺を、例えどんな逆境にいたとしても、そんな俺を生き返らせてくれる。

「そういや、智代は小さい頃の記憶はあるか」

 何の気もなしに、そう聞いてみた。すると智代は困ったような顔をした。

「ああ。その、何だ。小さい頃の思い出は、だな、幸せだった頃の象徴とでもいおうか、そんな形で中学時代はよく思い出していたからな」

 その話に、俺は己の浅慮を恥じた。過去の話はタブーとまでは言わないが、心の古傷はどうしても消えずに残っていた。俺にとっての高校時代がそうであるように、智代にとっての中学時代はあまり思い出して気分のいいものではないはずだ。

「……悪い」

「いいんだ。ただ……ヘンだな」

 智代が首をかしげた。

「あの頃はしきりに思い返していたんだけどな。今ではその頃の記憶もだいぶおぼろげになってしまったな」

「そう、か」

「ああ……多分」

「多分?」

 ぎゅ、と腕が引き寄せられた。

「多分、今が幸せだからだと思う。満たされているから、昔を振り返る必要がないから、引出しにしまいっぱなしなんだと思う」

 一陣の風が通り過ぎ、枯れ葉とともに智代の長い髪を空に巻きあげた。たなびく髪を押さえながら、智代は目を細めた。

「でも、朋也との日々は全部覚えている。辛かった日々も、楽しかった時間も、今までのは全部だ」

「……智代」

「全部、かけがえのないものだからな。忘れることなんてできない」

 そこまで言うと、智代は体をこちらに向けて上目遣いにこっちを見た。しばらく見つめ合った後、どちらともなく腕を体に絡めて口づけをした。

 時期は十月。外気は厳しく、露出した肌はリンゴのように赤く染まる、そんな寒い日が続いた。吹く風は容赦なく体温を奪い、季節の美しさも春の華やかさや夏の活気とは打って変わった冷たい雰囲気を醸し出していた。

 それでも、その瞬間に感じた温もりは、消えることはなかった。いや、もしかするとずっと前からそれはあったのかもしれない。そしてこれからも、たとえどんな形あるものが消えていっても、この想い、この暖かさは残るのかもしれない。





 坂を登り終えると、そこにはこじんまりとした公園があった。

 傍の道は通勤路なので毎日通っていたが、その公園に立ち寄ったのはこの時が初めてだった。

「こんなところがあったんだな」

 そう言いながら、俺はペンキを塗ってまだ新しいベンチに腰けた。ちょこんと隣に智代が座る。ちょうどいい具合に町の一部がそのベンチからは見下ろせた。ところどころに灯りがつき始めた町は、どことなく温かくて優しそうだった。

「……きれいだな」

「……ああ、そうだな」

「私たちの、町だな」

「ああ。俺たちの町だ」

 正直、あまり心のこもった会話とは言えなかった。それだけ俺たちはその光景に心を奪われていたのだった。

 ふと、高校時代のことを思い出した。あの頃、俺はこの町が嫌いでたまらず、卒業したら出ていくことばかりを考えていた。智代と別れてから、その想いはなおさら強まった。就職先が市内だとわかった時、悔しくて仕方がなかった。だけど、今は残れたことが嬉しかった。

「なぁ朋也」

「ん。何だ」

「口笛、吹いてくれないか」

 音もなく、手袋で覆われた柔らかい手が、俺の手の甲に感触を残す。

「吹くっつっても、でたらめだぞ。さっき何吹いてたかなんて覚えてないし」

「いいんだ、それで。こうして二人で並んで、朋也の口笛を聞いていたいんだ」

「……わかった」

 そう微笑んでみたが、さて吹いてみろと言われて少しためらった。ためらった挙句、俺はでたらめに吹くことにした。ただし、心をこめて。節はでたらめでも、それに真剣な想いを乗せて。そうした方が、言葉にするよりももっと遠い、はるか彼方まで届きそうな気がした。



 俺と智代が似ているところの一つに、小さい時の記憶がある。

 俺は母親の顔を覚えておらず、長年育ててくれた親父ともケンカをして、高校時代は荒んだどころかないに等しい家庭環境の中で過ごしていた。智代は両親の仲が冷めきっていて、離婚直前に鷹文が命がけの行動に出たことで家族らしさを取り戻したものの、それでも辛かった時の記憶、家に自分の居場所のない焦燥感を絶えず感じていた時の記憶は今でも残っている。

 そんな俺たちだから、帰る家がある、自分の居場所があるということがもたらす安息がありがたかった。そんな俺たちだから、二人でいる時の温もり、安らぎが心地よかった。そしてそれがこれからも続くであろうことが、たまらなくうれしかった。

 長い間、それこそ子供のころから望んでいた家族というもの。ずっと続くであろう幸せ。自分の帰れる居場所。それはみな、今まで夢中で探していた物だったけど、同時にどこかで見つからないんじゃないかと諦めていた物だった。そういうものが自分の手に届くものだと実感できるまでには、あまりにもがらんとした玄関や、挨拶のない居間や、緊張で張り詰めた空気や、閉ざされた扉に馴れてしまっていた。

 だけど。

 だけど今は違う。やっと見つけた。やっと、俺たちは幼い頃に失い、それ以来ずっと探し求めていた物を見つけたのだった。最初はそれに巡り合えた時、続くはずがないと怯え、そして手放してしまった。だけど今なら怖がらずに踏み出せる。歩幅が合ってなくてもいい。頼りなくて、不揃いの影に見えてもいい。歩幅が合わないんだったら、合うように工夫する。不揃いでも、凸凹でも、それだったら努力して合わせる。

 智代。

 俺たちは、二人でいる。ずっとこれからも、ずっと笑顔で。

 もしこんな口笛が、乾いた風に乗って秋の空に澄み渡っていくんだったら、俺は俺たちの間にある戸惑いや不安がそれで溶けていってくれないだろうか、そう願った。



 いつの間にか、俺は口笛を吹くのをやめていた。そしていつの間にか、智代は俺の肩に頭を預けていた。

「……綺麗だった」

 ぽつりと智代が感想を漏らした。

「そうか?その、何だ、あんまり考えて吹いてたわけじゃないけどな」

「でも、優しかった。目を閉じて聞いていたら、優しく包まれるような、そんな気分になったんだ」

「……そっか」

 頬をかきながら、俺は照れ隠しにそっぽを向いた。その時、首筋に柔らかい感触を感じた。

「好きだぞ、朋也」

 甘えた声で智代が囁く。ふれあった部分から感じる温かさが温度を増した。

「ああ、俺も大好きだ」

「ずっとこうしていたい。こうして二人でいたいぞ、私は」

「大丈夫だ。絶対にそうなる。絶対にそうする。俺たちでそうしよう」

 頭を撫でると、いつもは子供扱いするなと嫌がるのに、この時だけは目を細めて甘えてきた。

「そうだな。私たちならできるな。だって私は、お前がいると何でもできるんだ。私が落ち込んでも、お前がいればまた元気になれる。くじけそうになっても、お前がいるからまた立ち上がれる。朋也、お前がいるなら、私は何度でも生き返れるんだ」

 その言葉に、俺は智代の顔をまじまじと見た。俺の顔を見つめ返す瞳には、慈愛と共にゆるぎない自信と誇りが光っていた。そしてその口が紡いだ言葉は、俺がずっと思っていたことと同じ音だった。

「朋也」

 俺はその言葉に含まれるニュアンスと、視線から語られる願いをくみ取って、右手を智代の頬に添える。

「智代」

 目を閉じ、距離を狭めながら、俺は囁いた。

 愛してる。




 公園を出た頃には、日はすっかり沈み、白い電灯が帰り道を照らしだしていた。

「さすがに暗いな」

「ふふ、よろけたら受け止めてくれ」

「いや、俺も一緒に転ぶ。そっちのほうが楽しそうだ」

「……お前という奴は、本当に私より年上なのか」

「今は同い年だろ」

「……仕方のない奴だな」

 肩をすくめ、ため息をつきながら智代が苦笑した。

「そういう仕方のない奴は、私がしっかり管理しなけりゃだめだな」

「ちげぇねぇ」

「でも、お前はいろいろと手がかかるからな、ずっとそばにいないと面倒が見きれるものではないな」

「はは、まぁそこんところはよろしく」

「……まったくお前は。ふふ」

 智代につられて、俺も笑った。そして心の中で、さっきのメロディーを必死になって思い出そうとした。そのでたらめなメロディーに、もう二つだけ願いを込めるために。



 こうやって過ごしている俺たちの現在が、途切れませんように。そしてどんな場面も二人で笑いながら、空に響き渡ったあの口笛のように優しい気持ちでいられますように。

 

 

 

 

 

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