ドアが開くまでの一瞬が長く感じられた。
毎回来るたびにバカげた妄想だと自分に言い聞かせるのだが、岡崎直幸はどうしても玄関口で仁王立ちする息子に「帰れ」と言われる最悪の事態を頭からぬぐいきることができずにいた。
「ああ、お義父さん。お待ちしていました」
扉を開けてくれたのは、息子の嫁、岡崎智代だった。その純粋な笑顔に、直幸は安堵した。
「やあ智代さん。すまないね、勝手に押しかけてしまって」
「何を言うんですか。来てくれてどうもありがとう」
「お。親父」
破顔する智代の後ろから、頭一つ分背の高い朋也がのっそりと来た。その顔にある照れくさそうな笑みは、今度こそ直幸を安心させた。
「やあ朋也くん。お邪魔するよ」
「ああ。入ってくれ」
短い廊下を通り、居間 − 六畳間に通された。一緒に住んでいた頃、直幸が見た限りでは朋也はそれほど掃除などに気を配るようなタイプではなかった。少なくともこの居間の仕上がり具合は、昔の朋也では無理だった。これは自分が来るからわざわざ掃除してくれたのだろうか。それとも―――
「智代だよ」
智代がお茶を沸かしに台所に向かって言ったのを見計らって、朋也がぼそりと言った。
「うん?」
「智代がさ、『家の掃除は、時間が許すのなら特に念入りに。どうだ、これは女の子らしいんじゃないか』とか言ってさ」
「……ああ」
直幸は苦笑せざるを得なかった。女の子らしい、というのは完璧に近い智代の、欠点とも言えなくもない、そんな程度の問題だった。外見からすればどこをどう見ても女性にしか見えず、しかもあだ名に○○小町と付くような女性だった。口調は男性らしいところがあるが、それでもその後ろに見え隠れする女性特有の労わりや優しさは隠しようがない。だというのに皮肉なことに智代は女の子らしさを追い求め、時には少し的外れな事もしてしまうのだった。
「いや、笑うけどな。智代の掃除ってのは半端じゃないんだ。こう、何ていうか、問答無用、情け容赦待ったなし、てな具合でさ」
やっぱり智代の女の子らしさが今度も暴走したらしい。
「もう指の感覚がないっていうかさ、普通仕事でもこんなになったことはないんだけどな」
「そうかい。それは、困ったね」
「あ、笑ったな。くそ、親父のためにも少し片づけを残しておくべきだったか」
そうふくれっ面をする息子の仕草に、直幸は静かに笑った。
「自分の父親に家事の手伝いをさせる息子がどこにいる。そもそもだ、私が自分の義父にそんなことをさせると思ったか」
半ば呆れ半ば怒ったような口調で智代が急須と湯呑茶碗を三つお盆に載せて戻ってきた。
「だいたい、掃除は人間として生きるのに必要な事だぞ。掃除を疎かにしたら、人はどんどん堕ちていってしまうぞ」
「ま、まぁそうなんだけどな」
「それとも何だ、朋也は、掃除をする女性は嫌いなのか」
「は」
「そうか……前から疑ってはいたんだがな……バカだな私も。こんな完璧なまでに私と合致するような男性など、いるはずがないじゃないか。朋也とはわかりあえている、そう思っていたんだがな、やっぱり私の勘違いだったようだ。滑稽だな、これは。何も知らずにメルヘンチックな夢の世界の住人だったというわけか。ふふふ、そうか、そうだな……こんな、こんな何の取り柄もない女が朋也みたいな男性と一緒になること自体が……」
「智代」
「……慰めの言葉なら要らないぞ。朋也は優しい、優しいが、時にはその優しさが辛いんだ」
「そうか。だけどお前は一つ大きな間違いを犯してるぞ。俺はな、智代、お前の何もかもが好きなんだ。掃除をしている智代はきらめいて見えるんだ。何つーか、すごく女の子らしくて、安心できるような、そんな感じなんだ」
「朋也……バカ」
「ははは。とにかくだ、うん、俺がお前のことを好きじゃないなんてのは誤解だ。そんなことは絶対にありえない。俺はお前のことを一生愛し続けるぞ」
「朋也……」
「智代……」
「朋也」
「智代」
「朋也っ」
「智代っ」
最初は見つめ合い、次に手をつなぎ、最後に抱きしめあったところで、直幸は咳払いをした。はっと我に返る二人を見ながら、直幸は苦笑した。この二人のラブラブ空間を最初見た時は空気を読んでほっておこうかと思ったが、放置すると永久機関のごとく愛のボルテージが勝手に高まり、終いには空気を歪ませるほどの熱を放ったこともあったので、今ではぼやが起きる前に介入することにしていた。その点で親・義父の冷静なしわぶきほど熱を冷やす物はないだろう。
しかし。
しかし直幸にしてみれば、程々にとどめておいてくれれば、朋也と智代の仲が親密なのはとても喜ばしいことだった。父親として朋也の幸せを願っているということもあるが、生涯の伴侶を亡くしている直幸にはせめて朋也にはずっと隣で道を歩いてくれる女性がいてくれればという想いがあった。
ふと、電話が鳴り響き、智代が席を立った。
「相変わらずのおしどりぶりだね」
「え、あ、ああ」
他の者に言われたのなら「まーな、俺と智代の絆は隕石衝突ハルマゲドンが来ても壊れないだろうからな」だのとのたまうのだろうが、父親に向かってそんな口を利くほど朋也は厚顔無恥ではなかった。
「そういえば、坂上さんとこの間ばったり会ってね」
「え、坂上さんと?」
「うん。話をしているうちに、朋也くんたちのことになってね。近所じゃ噂だって言うのがね」
「……」
「今に古河さんたち――あのマラソンをされる方たちの方だよ――の上を行くバカップルになるんじゃないかって話も聞くし」
「あー……その、な」
「『お互い苦労しますなぁ』って笑ってその時は終わりになったんだけどね」
「……ああ」
さすがに他人からどう思われているのか、特に義父のコメントなどは朋也にとっても恥ずかしいものらしい。ばつが悪そうにそっぽを向いた。
「でも、まぁ、夫婦仲ってのは大事だからね」
「ああ……そうだな」
「で、いつになったら孫の顔が見れるのかな」
「っ!!」
喉に何かが詰まったような顔をする朋也。孫、それは直幸の持つ数少ない「許された」朋也への武器だった。
「智代さん似でも朋也くん似でもいいね。私はもう、楽しみで楽しみで仕方がないんだけどね」
「えーと、あはは、何の話をしてたんだっけなぁ。ここんところ物忘れがひどくてな」
とぼけて笑う朋也に、直幸は目を細めた。と、その時
「すまない、直幸さん。今戻った」
「ふーん、誰だったんだ」
「杏からだ」
キョウ。杏。藤林杏。
直幸は小さく頷いた。確か、前に直幸と智代を他人だと勘違いし、智代が浮気しているのではと早合点し、そしてもう一人の友人 ― 確か園原だったか、篠原だったか ― と一緒に乗りこんできた元気なお嬢さんだ。
「それで、直幸さん、あなたには来週の土曜日、何か予定は入っているだろうか」
「いや、何もありませんが……」
そう答えると、智代が破顔した。
「よかった。実は杏や春原が私と朋也の誕生日を来週末祝ってくれるということになったんです。それでもしよろしければ直幸さんも一緒にパーティーに来てくれないだろうかと」
「へぇ、そういう話だったのか」
「うん。で、どうだろうか」
嬉しそうに聞く智代にノーと言えないのは、どうも朋也も直幸も同じだった。そして承諾した後の智代の笑顔に癒されるのも。
しかし、そうか。
「もう、そんな時期なのか」
「ん?何か言ったか」
「いや……独り言だよ」
朋也の笑顔に、直幸も笑って応えた。
十月の記憶
どこか遠くの町。はるか遠い時間。
直幸は部屋の寒さに目を覚ました。布団も何もない部屋。電気代やガス代を節約するために、ヒーターは弱に設定されている。その傍には、毛布にくるまって眠る朋也の姿があった。朋也の寝息だけが、音すらも冷え切った静寂の中で響いた。
仕事を探して転々と動く二人には、荷物らしい荷物なんてなかった。だから寝具も、毛布が三枚。そしてこの古ぼけたアパートは、破格の安さと引き換えに寝具などは置いていなかった。ならば、と直幸は考えた。毛布は朋也が使えばいい。俺は、コートを着て寝れば平気だから。朋也を守るためなら、いくらでも強くなれるから。
背中を伸ばすと、体の節々がぼきりぼきりと音を立てた。そのまま顔を洗うと、ふとカレンダーに目がいった。
十月三十日。朋也の誕生日だった。
直幸はふっと微笑むと、この日のために取っておいた物を押し入れの中から取り出してちゃぶ台の上に置いた。様々な電子ゲーム機やソフトが店内で飾ってあったオモチャ屋さん。そこで手に入れた消防車のオモチャは、確かに店の中ではあまりぱっとしなかったかもしれないが、こうしてちゃぶ台に置いてみると結構迫力があった。直幸は朋也が目を覚ました時にそれを見て喜ぶ姿を思い浮かべると、メモ帳にメッセージを書いた。
「ともやへ
おたんじょうびおめでとう。これはとうさんからのぷれぜんとです。
とうさんはまたしごとがおそくなります。ばんごはんのおかずはれいぞうこにあります。ごはんもたいておきますから、さきにたべておいてください。
でも、たんじょうびケーキはかってきますので、ふたりでたべましょう。
ようちえんにいくまえに、ひーたーをけしてとじまりをきをつけてください とうさん」
荷物の入ったバッグを肩に背負うと、直幸は朋也の傍に寄って、その頭を撫でた。
「誕生日、おめでとうな、朋也」
玄関で靴を履くと、直幸はもう一度だけ部屋を振り返ってから仕事へと出かけた。
外気は水のように服の隙間から入りこみ、針のように体を刺した。直幸は体を震わせると、仕事場へと足を運んだ。
「よお」
あと少しで到着、という時に、不意に肩を叩かれた。振り返ると、そこには見知った顔が。
「やあ、おはようございます」
「あんたも早いね。うおお、さびぃ」
そういうと、熊の様な体躯を持った男は体を震わせた。
「まぁ、今日ぐらいはね」
「そうさなぁ。今日ぐらいは、早く顔出したって罰は当たらねえよなぁ」
「三ヶ月、ですか。長かったような、短かったような」
「ん。まあ、俺にしてみれば長かったな」
ごそごそと煙草の箱を取り出し、男はマッチを擦って火を付けた。
「今日でここの工事もおしまいか……あんた、これからどうするつもりだ」
「さあ……職安の人によると、あと半月ほどでまた工事があるそうだから、その時まで食い繋いでられればね」
直幸は頭をかいた。
「そういやあんたは、子供と一緒にこの町に住んでるんだっけな」
「ええ。何だか近くの幼稚園も息子は気にいったようだし、ここに残るのも悪くはないかなって」
「そうか、子供がねぇ……うらやまいしいぜ」
そう呟くと、男は紫煙を吐きだした。それは凍った息と混じって秋の風に流されていった。
直幸の日々は楽ではない。朝早くに起きて自分と朋也の弁当を作り、そして仕事場へ。工事現場の朝のシフトを終えると、朋也を幼稚園に迎えに行く。夕飯を素早く済ませると、朋也を寝かしつけて夜の工場で生産ラインの仕事をする。睡眠時間は多い時でも五時間ほどだろうか。
それでも。
「先週、な。娘の誕生日だったんだよ」
ぽつりと漏らした男の顔は寂しかった。
「プレゼントは、赤いランドセル。来年の春から小学生でよ。女房の話だと、ずっと背負ったまま寝ようともしなかったんだと」
「……そうだったんですか」
男は直幸には答えずに、どこか遠くを眺めた。
「俺、来年の四月、何やってっかなぁ。恐らく雪子の入学式には行けねえんだろうなぁ」
その時、直幸は不謹慎ながらも自分の運の良さを実感せざるを得なかった。
俺には、朋也がいる。
最後のシフト、その終わりを告げるベルは、何の感慨も感じさせずに響いた。あちこちで感嘆の声が漏れるが、直幸の中で達成感が湧きあがらないのは、もしかするとシフト上仕上げは違う班に任されるからなのかもしれない。背伸びをすると、背中が悲鳴を上げた。この頃、無理をしているのかもしれない。本当はゆっくりと熱い湯船につかりたいところだが、それはまぁもう少し余裕ができた時まで取っておこう。そう考えていると、男が体つきに似合った声を出した。
「おー、終わった終わった。あーあ、何だか最終シフトまで残ってやりたい気分だぜ」
「そうですね。何だか終わりを見ないなんて後味悪い気もするなぁ」
そう言いながら直幸はヘルメットを外した。十月の風が、熱のこもった髪の毛に心地よかった。
「さてと……で、あんた、これから半月どうするよ」
「実は、その、もう当てがあるんですよ」
半分以上は申し訳なく思いながら、直幸は打ち明けた。ちょうど知り合いの友人に衣類生産工場を営んでいる人がいて、ここでの仕事が終わり次第、顔を出しに行くことになっていた。
「そうかい……じゃあ、まあ何だ、達者でな」
「はい。そちらもお元気で」
男は何も答えずに背を向けたまま手を振った。それをしばらく見送った後、直幸はポケットから小さく折りたたんだ紙を取り出した。
「さてと、今度はこっちか……町の反対側だな」
直幸はメガネをかけ直すと、紙に書かれた地図を頼りに歩き出した。
途中で、子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。地図から顔を上げると、そこには朋也の通う幼稚園が見えた。直幸はお昼休みの間、自由に遊ぶ子供たちを目を細めて見ていた。すると
「おーい、ともやー、サッカーしよーぜー」
「ああ、いまいく」
元気に返事をして朋也が駈け出した。走る先には同じ年齢の友人たち。弾むボール。響く笑い声。それを見て、直幸は心底この町に残ることができて幸運だと思った。
ふと、このままこの町で暮らしていった先に見える未来を思い浮かべてみた。工場で働いて、それで徐々に名前を知られて、気付けばチームの監督とかを任される。温かい部屋の中で起きて、日当たりのいい部屋のカーテンを開ける。二人分の朝食を作るうちに朋也が起きてくる。
「おはよう、朋也」
「おはよう、父さん。今日もごくろうさん」
「ああ。お前も今朝は早いな」
「まあな。部活の朝連でさ、何だか今年は結構上を狙えそうなんだ」
「ほう、そうかい。じゃあ、試合は見にいかないとな」
そういうと、朋也は恥ずかしそうに笑う。
「いいよ。休みの時ぐらい休んでりゃいいだろ」
「そうもいかない。朋也の出る試合なら、ぜひとも観戦させてもらうさ」
「……早く朝飯にしよう。遅れると困るから」
そう言って赤くなった顔を背けながら朋也が食器を戸棚から取り出す。直幸はそんな朋也の仕草に笑いをこらえながら、目玉焼きを作り終える。
「な、何だよにやにやして」
「いやぁ、何でもないよ」
そんなくすぐったい朝のひと時も、あってもいいんじゃないだろうか。少なくとも、俺はそれぐらいの希望を持ってもいいんじゃないか。
直幸の質問に答える者はいなかった。
どこかおかしいと気付くのにはそんなに時間はかからなかった。それでも、足は動くのをやめなかった。
近くに来ると何が起こったかは一目瞭然で、本当ならすぐに行動するべきだった。だけど、体が動かなかった。脳が執拗に現実から目を背けようとしていた。
地図を疑ってみたりした。番地を間違えたのだろうとか、その隣の敷地が目的地なのだと、思いこもうとしてみた。しかし現実がどうしようもなく立ちはだかったその時、それでも直幸はもがきあがいて通りかかった人に縋った。
「あ、あの」
「はい」
「こ、この中村クローズ製作所のことなんですけど……」
それまで訝しげだった老婦人の目つきが、はっきりと鋭くなった。
「あんた、まさか借金の追い立てに来たんじゃないだろうね」
……ああ。
「い、いえ、その、俺は……」
「ここに来たって一銭ももらえやしないよ。中村さんはどっか姿くらましちまったんだからね。まったく、いい人たちだったのにさ……」
見るからに一週間以上は放置されている工場から顔を背けながら、老婦人は吐き捨てるように言った。そしてくるりと背を向けると、すたすたと歩き出してしまった。直幸は慌てて追いかけた。
「あのっ!中村さんがいなくなったのは、いつの話ですか」
「さあね。二週間ぐらいだったかね。あの時は大変だったよ。うちまで変な若者が押し掛けてくるんだから。迷惑ったらありゃしない。あんないい人たちだったのに」
「その、どこに行ったとかは」
その質問をした途端、老婦人はくるりと振り返って直幸を睨みつけた。
「あんたもやっぱり借金取りって口かえっ?!知らないったら知らないよっ!だいたい知ってたってあんたらみたいな人でなしなんかに教えるもんかい。血も涙もない、まったく、地獄の鬼もいいところだね」
「いえ、俺は……」
「騙そうったって、そうはいかないよっ!そんな善人面して、何だい、隙あらばあたしからとろうって気かえ?そうは問屋がおろさないよっ」
罵るだけ罵ると、老婦人は今度こそ背中を向けて歩き去っていってしまった。直幸は何も言えないまま、その場に立ちつくしていた。
嘘だろ。
なぁ、誰か嘘だと言ってくれよ。
だって、俺、もう信じちゃったんだぞ?このままここで朋也と一緒に暮らせるって、ようやく人並みの人生送れるって信じちゃったんだぞ?冗談だろ?
直幸はもう一度だけ、工場を見てみた。本来なら開かれているはずの二階の鎧戸は閉められたままで、不気味なほどの静寂が辺りに漂っていた。表戸にはたくさんの張り紙が何かの封印であるかのようにびっしりと貼られていた。白い壁にはスプレー缶やらペンキやらで落書きが書かれていた。「金返せ」「バカヤロー」「沈めるぞ」などの殴り書きを見ながら、直幸は、この工場の持ち主がよほど性質の悪い連中から借金をしていたのだな、と頭のどこかで思った。
不意に、先ほどの老婦人の言葉が頭の中で繰り返された。リフレインされる言葉を聞く度に、自分がどんどん沈んでいっていくような、そんな気がした。
どれくらい、そうしていたのだろうか。直幸はふと、カツカツという硬質の足音を聞いて、顔を上げた。見ると、そこには痩せぎすの男が、猫背を丸めてこちらをつまらなそうに見ていた。
「あんた、ここの関係者?」
低い声で男が聞いてきた。
「俺は……」
「フん。まぁ、よほどの間抜けでもない限り、今頃のこのこ戻ってくるわけぁないわな。だから無駄足だって言ってるってのにな」
そういうと、男は顔をしかめたまま歩き去ろうとした。直幸は絞り出すような声で言った。
「なぁ」
「ん」
「俺は……」
どうすりゃいい?
その言葉は、空気を震わせ、辺りに響き、そして消えていった。音の残響が消え去った後、男は再度「フん」と鼻を鳴らした。
「なぁあんた、そりゃ男が聞いちゃいけない質問だろうがよ」
「……」
「てめぇのケツぐらい、てめぇで拭きな。そんな貧相な面してたって、貧乏神じゃなきゃ誰も寄ってこねえぞ」
「……」
「男だろうがよ、あんた。やることやって、とっとと失せな」
その言葉が引き金となった。直幸は立ち上がると、そのまま歩き出した。やがて歩く速さが増していき、そしてとうとう走り出していった。
まとめるのに時間がかかるほど、荷物は多くはなかった。
衣類はほとんど朋也のものだったし、おもちゃだってそうそうあるわけではない。食料はタッパーに詰め込んだ。貴重品はいつも一か所に保管していたから、かき集めるまでもなかった。
家賃は前払いだったから、十月分はもう払ってあったし、十一月分を払うまでにはちょうど一日あった。直幸は大家に電話をすると、アパートを引き払う旨を伝えた。全ての荷物をスーツケース一つに入れている間に、大家が飛んできた。鍵を返し、そして物を全部持ったことを確認すると、直幸は傷んだスーツケースを転がした。角を曲がる前に、もう一度だけアパートを見上げた。この三ヶ月間朋也と一緒に住んだその場所は、もう何の光も放たなくなっていた。未練がないことを確認すると、直幸は足を進めた。
幼稚園に行く途中で、直幸はふと思い当って近くのスーパーに立ち寄った。確かに今日一日でいろんなことが変わってしまったかもしれない。だけど、やってはいけないことが二つだけあった。約束を破ること。そして生まれてきたことを祝わないことだった。
日毎弱まっていく太陽が沈みだした頃、直幸は幼稚園に辿り着いた。いろんな準備をするのに時間がかかってしまったので、朋也を迎えに行くのが遅れてしまった。がらんとした幼稚園、その正門で、朋也は先生と一緒にぽつんと立っていた。
スーツケースを持った直幸を見て、幼稚園の教師は顔を強張らせた。彼女は恐らく朋也から自分たちの家庭の事情を聞いているのだろう。そしてそんな生活がどれくらい不安定なものなのかも、おぼろげには想像できるのだろう。
「朋也、待たせてごめんな」
「とーさんっ」
笑顔で走ってくる朋也の無垢さが痛かった。抱きついてきた時に感じた温もりが辛かった。
「……あ、あの、岡崎さん」
「今日まで、朋也の面倒を見てくださってありがとうございます。朋也は本当に楽しそうに、毎日のことを教えてくれました」
「ねー、とーさん、なんですーつけーすがここにあるの?」
朋也の邪気の欠片もない質問が、激しく痛んだ。直幸は震える膝を抑えつけて、朋也と同じ高さになるまでかがみこんだ。
「朋也、父さんな、また新しい仕事が見つかったんだ。すごくいい仕事なんだ。だけどちょっと遠いかな。だからな、朋也、父さんと一緒に来ないか」
本当に怖かった。朋也がそこで嫌な顔をしたら、直幸には自分を制御できるかどうか自信が全くなかった。今まで、ここまで直幸を駆り立てたのは、朋也を守る、ただそれだけの衝動だった。さっき知り合いに電話したときだって、ちゃんと考えて電話したのではなく、その衝動に従ってほぼ思考停止の状態で受話器を手にしたのだった。そして、その衝動は朋也の泣き顔でふっとかき消されてしまう。
「うん、いく。とーさん、いいおしごとあったんだ。すごいや」
救われたと思う反面、罪悪感が込み上げてきた。朋也は今の自分の状況を理解していない。自分がさっきまであんなに楽しく遊んでいた友人たちと挨拶もなしに別れるなんて、わかっていない。その罪悪感に、直幸が押しつぶされそうになった時、朋也の担任が口を開いた。
「朋也くんは……すごくいい子で、みんなから好かれていましたよ」
見上げると、担任は直幸を責めるように歪な笑顔を作っていた。
「いつもみんなと一緒に遊んで……今日だって、みんなでお誕生会をやったんです」
笑顔の奥底に潜む、彼の無力さを呪い責める声。それが直幸を止めるためのものだったとすれば、それはまったく逆効果だった。
あなたは、朋也が幼稚園にいる時面倒を見てくれていた。だけど、俺は違う。俺は、朋也を幼稚園に入れるために、飯を食わせるために、風邪引かずにちゃんとしたところで寝られるように、死ぬ気でいるんだ。朋也のためなら、何べんでも死んでやるつもりなんだ。ここに残って朋也が今までどおりの生活ができるなら、俺だって引っ越したりはしない。だけどな、あんた、ここに俺たちが残って朋也が栄養失調で倒れたり、風邪こじらせて肺炎になったりしたら、責任とれるのか?俺が朋也にまともな飯を食わせられずに、朋也がちゃんと成長しなくても、それでもここに残れって言えるのか?
ふざけるなよ。あんたの背負った朋也の重さと、俺が背負い、そしてこれからも背負い続ける朋也の重さは違うんだ。
「……今まで、お世話になりました」
視線に自分の決意を込めると、直幸は朋也の手を持った。そしてそれ以上言葉を交わすことなく、直幸と朋也は幼稚園に、その中に広がっていた世界に、別れを告げた。
二人だけの誕生会は、誰もいない駅の待合室で行われた。
その日の最終の切符を買い、あとは電車に乗って見知らぬ街へと旅立つだけ。そんな時、ふと直幸の頭の中に、ケーキのことが浮かんだのだった。
「なぁ朋也、バースデーケーキ、食べないか」
「うんっ」
それまで新しい消防車で遊んでいた朋也は、嬉しそうに直幸の隣に座った。そして直幸がコンビニの袋から取り出したケーキを見て、目を丸くした。
「うわあ、すごーい」
はしゃぐ朋也とは対照的に、直幸は顔をしかめた。ケーキは、スーツケース片手にあちこちを歩いたせいでぐしゃぐしゃになってしまっていて、食べることはできるもの、惨めな外見だった。
「ねぇねぇ、とーさん、うた、うたって」
「あ……ああ、そうだな」
無理に笑顔を作って、直幸はハッピーバースデーとくちずさんだ。それに重なる朋也の元気な歌声。やがて短いデュエットが終わり、直幸はコンビニで一緒に買ったプラスティックのナイフでケーキを切った。
「あれ、とーさん、こっちのほうがおおきいよ」
「いいんだ。それが朋也のだよ」
「えー、いいの。はんぶんこじゃないよ」
「いいんだよ。今日は朋也の誕生日だからね、特別なんだ」
「わーい」
ケーキにフォークをつきたて、朋也が一口目を頬張った。
「おいしいっ」
「……そうか。よかった……」
「うんっ」
うなずいて、朋也はがつがつとケーキを食べた。頬にクリームを付け、幸せそうにケーキを味わう朋也を見ながら、直幸は叫びたくなった。
何で朋也はこんなところでこんなことをしているんだろう。
何でもっとましなところで、もっといいもの食べて、もっと楽しいことができないんだろう。
朋也の特別な日、無条件でみんなに祝ってもらえる日に、俺がしたことって一体何なんだろう。
声は出なかった。しかしその代わりに涙が頬を伝った。己の非力さが疎ましかった。己の貧乏が憎らしかった。己の不甲斐なさが情けなかった。
なぁ敦子。
俺、朋也を守るって言っておきながら、どんどん辛くさせてるんじゃないか。
俺なんかが朋也といても、朋也を尚更不幸にさせてるんじゃないか。
なぁ、どうなんだろうな、敦子。
ぽん
不意に、小さい掌が頭の上に乗せられた。直幸が顔をあげると、朋也が心配そうにこちらを見ていた。
「とーさん、だいじょーぶ?」
「あ……ああ、悪いな。父さん、ちょっと疲れちゃったんだ」
「そっか。とーさんいつもがんばってるからね」
その言葉が、心の中に沁み渡った。直幸は俯くと、ぼそりと呟いた。
「朋也」
「うん」
「朋也は、父さんといて幸せか」
すると朋也は難しそうな顔をした。
「しあわせって、どういういみ」
「えっと、な、楽しいとか、嬉しいとか、そういう意味だ」
「じゃあ、しあわせだよ。だって、とーさんといっしょだもん」
だって。
とーさんといっしょだもん。
頭が意味を理解するのに、しばしの時間が必要だった。しかし、体は瞬時に反応した。自分でも気付かないうちに、直幸は朋也を抱きしめていた。
「とーさん?どうしたの」
「朋也……おまえ……お前は……うん、いい子だ。お前はすごくいい子だ」
「え?とーさん、どうしちゃったのさ」
「何でもない。何でもないんだ、朋也。ただ、ただな」
「うん」
父さんも、お前といられて幸せだ。
「……じ。おい、親父」
肩をゆすられて、直幸は我に返った。鮮明に思い浮かんだ過去の記憶のせいか、はたまた熱さのせいか、しばらくの間ぼっとしていたようだ。
「おっと、すまないね」
「大丈夫か。湯あたりとかしてないよな」
「ああ、大丈夫だよ。心配かけてしまったようだね」
照れくさそうに笑いながら、直幸はメガネをかけ直した。そんな直幸に、朋也がガラスの瓶を手渡した。
「ほい、コーヒー牛乳」
「おや、ありがとう。悪いね、何だか」
「何言ってんだよ。勝手に夕飯付き合わせた揚句に、勝手に銭湯まで連れ込んだんだから」
そうは言うものの、直幸にしてみれば朋也と智代と一緒に食べた夕食はかけがえのない時間だったし、こうして二人で銭湯に連れ立てるなんて夢のようだった。幼い頃はそれだけの金はなかったし、朋也が大きくなってからはそんなことを口にできるような関係ですらなかったのだから。
「ひゅう、気持ちいいな」
のれんをくぐると、秋の風が熱い体を冷ましてくれた。まだそう遅い時間でもないのに、星空がきれいだった。
「しかし……そうか、もう誕生日か」
朋也がしみじみと呟いた。自分の誕生日をそんな風に感じるほど朋也が年を取ったとは。直幸は時間の流れの速さを改めて実感した。
「何だかまた一年分しわが増えたなって」
「何を言ってるんだい。そんなに年を取ったようには見えないよ」
「親父にしてみりゃそうだろうけどな」
ははは、と二人で笑った。その笑い声が夜空に消えた頃、朋也がまた口を開いた。
「何だか思い出すなぁ。親父に誕生日を祝ってもらった時のこと」
「ほう」
「よく覚えていないんだけどな。二人だけでケーキ分けたり、歌、歌ったり。楽しかったな」
楽しげに過去を振り返る朋也の、その横顔を直幸が見つめた。その視界が歪んで見えるのは、年のせいではないだろう。
「楽しかった、かい」
「ああ。何だかさ、親父と一緒ってのがすごくうれしかった」
「……そうかい。それは、よかった」
直幸は顔を背け、そして朋也に見られないように目をぬぐった。
もし朋也の記憶に、あの頃の辛さや苦しさが残らず、代わりに楽しかったことや嬉しかったことだけが残ったのだとしたら、それはそれでよかったのだ。辛い記憶は、俺だけが背負えばいい。朋也には、残ったいい記憶だけを。
相変わらず秋の夜は冷え込んだが、直幸の心は親子の温もりを感じていた。