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 その日の午後、その喫茶店は珍しく静かだった。普段は女性や若者を中心とした客層で賑わっているのだが、店には数人の客が三つほどテーブルを囲んでいるという状態だった。そんな静かな店内で、その女性はカウンターの後ろでコーヒーカップを拭いていた。

 からん、と ベルの音とともに、店のドアが開く。やってきたのは一人の男性だった。

「あら。お久しぶりです」

 女性が嬉しそうに言った。

「よぉ。本当に久しぶりだな。今日は結構空いてるんだな」

「そうですね、この時間帯はこんな感じです。あと三十分もすれば賑わうんですけど」

「そうなのか」

 親しげに男性は笑うと、カウンターの傍の席に腰掛けた。

「今日はおひとりですか」

「ああ。ちょっとな」

「隠し事ですか。ダメですよ、ばれたら後が怖いんですから」

 そう言って、女性は鈴を転がすような澄んだ声で笑った。

「いや、実は今日はちょっと……って、その前に注文、と」

「はいはい、毎度ありがとうございます」

 会話と雰囲気からして、二人の間柄は店の店員と常連客、という関係を超えているようだった。もっと親しい、それでいて恋愛感情が欠落している、まぁ古い知己と言ったところだろうか。

「じゃあ、エスプレッソをダブルで」

「はい、かしこまりました……で、本当の目的は何ですか」

「参ったな……何だか本末転倒で失礼なのはわかってるんだけどな」

 ぽりぽりと頭を掻く男性に、女性の笑みが広がる。

「実はな、こんなお呪いってないかなって」



 

 

 

 


 

 

 

 

 

 傍にいてくれれば

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 カツーン、と靴音が静かな廊下に響いた。その音の大きさに、俺は思わず顔をしかめた。

 時計を見ていないから正確な時間はわからないが、とっくに授業が始まっていたことぐらいはわかっていた。

 何の授業だろうか。皆目見当がつかないが、どうせどの科目でもついていけないだろうと理解していた。

 どうせ。だろう。

 何だかこの頃この六文字をよく使うようになった気がする。楽をするために使ったはずなのに、どこからともなく苦しさが積もっていく気がする。

 半ば息苦しさから逃れるようにして、最寄りの教室の扉を開いた。

「岡崎……」

 俺の顔を見て、俺の名前を呼んで、教師はため息をついた。その顔には覚えがあった。ああ、そうだ。俺の担任だ。名前は……忘れた。

 軽く頭を下げて、絡みつく侮蔑の視線を無視して、俺は自分の席に座った。

「岡崎君、遅刻です」

 大人しそうな女子が俺の前にわざわざやってきて教えてくれた。こいつも見覚えがあると思ったら、クラス委員長だった。

「ああ、そうだな」

「……その、遅刻はいけないと思います」

「ああ、そうだな」

 どうでもよさげに返事をすると、困ったようにクラス委員長は俯いた。すると

「あんた、何椋を困らせてるのよっ」

 不意に前の席に座っていた別の女子が絡んできた。

 椋。そうだ、クラス委員長の藤林椋。そしてこいつはその双子の姉の杏。

「なぁ、おい」

「何よ」

「お前確か、隣のクラスじゃなかったか」

 はぁ?と心底馬鹿にしたような顔をして、杏が俺の顔を凝視した。

「あんた何にも聞いてなかったの?今日は合同授業でしょ?何、先週からずっとサボってたわけ?あんた一体どこまでおめでたけりゃ気が済むのよ?」

「……ああ」

「そんなことより、話勝手に変えないでくれる?あんたねぇ、遅刻したり授業サボったり、そりゃ自分の人生を目茶目茶にするのはあんたの勝手よ?どーぞ、好きなだけ人生坂転落していってくださいな。だけどね、あたしの妹が委員長やってるんだからね、椋に迷惑かけたら許さないわよっ」

 厳しい一喝が頬を叩くように響いた。

「俺は……」

 喉の奥から絞るかのように声を出す。ひりついて上手く喋れない。

 そもそも、何と反論するべきなのだろうか。余計なお世話だと切り捨てればいいのだろうか。謝ればいいのだろうか。何と言えば杏の怒りは鎮まるのだろうか。

「俺は……」

 もう一度、答えも出ぬままに口を開いた時、がらがら、と扉が開いた。

「春原か……まったくお前たちと来たら」

「あん?岡崎、先来てたんだ」

 カバンを脇に、両手をポケットに突っこんだ格好で、春原がけだるそうに教室の中には行ってきた。教師の小言はなおも続いていたようだが、そんなものは聞いちゃいなかった。

「あれ、何で杏がここにいんの?隣のクラスじゃん」

「……はぁ。もう一度説明するのもしんどいし、朋也、あんた陽平に説明しときなさいよ」

 鋭く俺に言い放つと、杏はそっぽを向いた。いつの間にか藤林も席に戻っていったのか、姿が見えなかった。

「何の話?何で杏がここにいるの」

「合同授業だってさ」

「あれ?それって今日だっけ?ま、いっか」

 どっかと音を立てながら、春原が椅子に座った。周りでひそひそと煩い話し声が聞こえたが、それも春原が一睨みすると静かになった。

「そういやさ、岡崎。渚ちゃん、今日来てるかなぁ」

 渚。古河渚。俺の所属する演劇部の部長。確か病欠気味。

「さぁな」

「授業かったるいしねぇ。演劇部に顔出しに行くために学校来てるようなもんだしねぇ」

「お前そんなに演劇に熱心だったっけ」

「だってさぁ、何だかんだで女の子ばっかだし……あ、まぁ、杏は……女なのかな、あれ」

「おいおい……」

 前にもそんなことやって、と言いかけて、俺は体内に強い痛みを感じた。

 そうだった。俺はこいつと、あいつとで、そんなことをしたんだった。

「ま、放課後になるまで寝てるから、起こしてね」

 そう言って春原は一つあくびをした。




 退屈と感じた割に時間は早く過ぎ去り、気がつけば窓の外から茜色の夕日が差し込んでいた。

「朋也、あんた来るつもりあるの」

「ああ、今行くって」

 腰をあげて春原をつついた。

「おい、起きろ」

「んん……ああ、もう放課後……あふぅ」

 背伸びをしつつ、あくびを漏らす春原。そんな春原に、杏はほとほと呆れ切ったとでも言いたげな視線を送る。

「何よ陽平、あんたずっと寝てたの」

「何だよ杏、お前ずっとあんなの聞いてたのかよ」

「そりゃ学生なんだから当然でしょ」

 丁々発止のやりとりをする春原と杏。心なしか、俺には春原と接する時、杏の態度が少しだけ軟化していた気がした。

 いや、違う。俺だ。俺と接している時、杏は俺を憎み蔑むかのように話す。俺だけを忌み、俺だけを嫌っている。

「とにかく早く行くわよ」

 そう言って杏が俺と春原、そして藤林を先導した。廊下を通り、階段を上り、そして演劇部の部室に辿り着く。

「あ、ことみ、来てたんだ」

 部室に入るなり、杏が言った。肩越しに、部室の床にレジャーシートを広げて素足で本を読んでいる女生徒の姿が見えた。

「杏ちゃん、椋ちゃん、春原くん、朋也くん、こんにちは」

「はいはい、こんちは」

「こんにちは、ことみちゃん」

「ういっす」

 何の気兼ねもなく杏、藤林と春原がことみに挨拶をした。俺もそれに習って片手を挙げる。

「よお」

「……」

 しかし最初の挨拶以外、ことみはこちらを見ようともしなかった。そして演劇部の打ち合わせがそのまま始まる。

「でさあ、次の台本なんだけどね……」

「次の演目は『書き直し』がいいと思います」

「構成のことを考えると、配役に適しているのは……」

 めいめいやや興奮気味に演劇、特に次の機会について話し出した。俺は置いてきぼりにされる前に手を挙げた。

「で、俺は何をすればいいんだ」

 すると、沈黙が部室に発生した。三対の目が俺を不思議そうに凝視する。

「あれ、朋也、あんた何かやるつもりだったんだ……?」

「岡崎君、今、何か言いましたか」

「朋也くん、手伝ってくれるの」

 どことなく、投げかけられた質問の底、何気ない問いの表面下に、俺はどことなく悪意を感じた。それを裏付けるかのように、杏が言葉を続ける。

「覚えてるかしらね、創立者祭。あれのために渚も頑張ったようなものじゃない。なのに、あんた、何だっけ、ああ、そうそう、女と一緒にあちこち回ってたのよね」

 いちいち芝居がかった口調。声色からは敵意を感じないが、むしろ内容とのギャップが背筋を冷たくさせる。

「そんで、その女に捨てられたあんた。居場所のなくなったあんたを、かわいそうだからって拾ってやったようなものじゃない。なのにあんた、一日中やる気もないって感じでボサッとしちゃってさ。いい迷惑だったわ」

「お、お姉ちゃん……」

 藤林が窘めるが、杏は聞く耳を持たなかった。

「部長もかわいそうよねぇ。あんたを庇ったのに、肝心のあんたのせいで部内の空気はどっちらけるし、そんなんでイライラするあたしたちに頭まで下げて……なのに病気で寝込んでるのが一番頑張ってる部長で、使いようのないあんたが学校に来れるなんて最悪。いっそもう退学したら?来てても意味ないんでしょ。見てるこっちのやる気がなくなるんだし、来ないでいてくれたほうがマシよ」

 言いたいことを言いつくしたかのように吐き捨てると、ふん、と鼻を鳴らして杏はそっぽを向いた。しばらくの沈黙の後、椋がためらいがちに口を開いた。

「岡崎君、今日も、昨日も遅刻でしたよね」

「……」

「授業も、あまり出てきてくれませんよね。出ても、寝てるだけですよね」

「…………」

「私、岡崎君のこと、気になってました。このままじゃダメだって、そう思ってました。演劇部に入った時から、岡崎君とはクラスメートじゃなくて、仲間なんだと思ってました。友達だって思ってました」

 堰を切ったように、藤林が畳みかけた。

「私、一生懸命考えたんですっ!どうしたら岡崎君の助けになれるか。私じゃなきゃやらない、私ならできることはしてあげたいって、そう思って、毎朝声をかけたり、励ましたり、傍にいたり」

 それは、俺が一人じゃなかったという証明だった。俺にも仲間がいたのだという証明だった。それらは全て優しくて、眩しくて、温かくて

「だけど」

――――――全て過去形だった。

「どうせ、私の声なんて届いていないんですよね。私が何を言っても、雑音にしか聞こえないんですよね。いくら私が岡崎君を助けたくて、岡崎君に元気になって、岡崎君がまっすぐに岡崎君らしくなってほしくて声をかけても、ただただ迷惑なだけなんですよね」

 藤林が俯いて、自虐的に笑った。

「だから、もういいです。私も疲れました。岡崎君に構うの、疲れちゃったんです」

 最後の方は擦れた小声になっていた。

「朋也くん」

 慰める言葉も見つからないうちに、ことみが悲しげに俺を見た。

「朋也くん、どうして元気無くしちゃったの」

「……」

「朋也くん、あの時は、燃える部屋の中で、必死にコップにお水入れて、泣きじゃくるだけの私を助けようとしてくれてたの。それで、炎のように赤い夕焼けのあの部屋に籠ったまま、出られなくなって途方に暮れてた私に手を差し伸べてくれたの」

 一呼吸置いて、ことみが幾分か明るい口調で続けた。

「あの男の子と、あの時の朋也くん。二人が頑張ってくれたから、私も頑張らなきゃって、そう思ったの。いつか私も、誰かを助けたいって、そう思ったの。この美しい世界の、その美しさに貢献できるって、こんな私でも、そう思ってたの。そう思えたの。なのに」

 不意に顔が歪んで、笑顔が泣きじゃくる寸前に暗転する。

「朋也くん、どうしてやめちゃったの。どうして頑張るの、やめちゃったの」

「ことみ……」

「朋也くんが頑張るのやめちゃったら、私、頑張れないの。頑張る意味がないの。だって、朋也くんですら頑張れなくなるんだったら、私が頑張るのをやめるのはすぐだから。何かを持ち上げても、持ち上げる途中で手を放して壊しちゃうんだったら、持ち上げないままの方がいいから。大事な人を傷つけるよりは、人を大事に思わない方が誰も傷つかないから」

 ことみの声が、暗くなっていく部室に木霊した。



 

 いつの間にか、俺は部室を抜け出していた。

「ねぇ岡崎」

 隣で春原が静かに聞いてきた。

「やっぱあれだよね、部活なんてそもそも僕らには似合わないよね」

「それは……どういう意味だ」

「だってさ、結局は杏も委員長も、ちょっと近寄り難くなっちゃったしさ。ことみちゃんとはもともと接点なかったけど、それだって拒絶されてるって知るよりかましでしょ」

 頭の後ろで腕を組んで春原がへへんと笑った。

「だけど、俺は、あの時の古河を」

「見捨てられなかったって?ふぅん……だけどさ」

 不意に春原が笑顔を吹き消す。

「最初から見捨てるのと、途中からほっぽり投げるのと、どっちが傷つくだろうね」

「……俺はほっぽってない」

「…………へぇ、そう思う。ふぅん。まあいいけどさ」

 微妙な間の後、春原は感情の読めない声でそう言った。あるいは興味が本当になかったのかもしれない。あるいは深入りする気がなかったのかもしれない。

 あるいは、少し失望されたかもしれない。

「で、この後どうする?ゲーセンにでも行く」

「……そうだな」

 本当に何もやる気が起きない。今はこうして駄弁るのも億劫だった。と、そんな時、春原の足が止まった。

「ん。どうした」

「……いや、別に」

 春原が踵を返す。不審に思って目の前を見ると、そこには彼女が立っていた。

 思い出すまでもない。彼女の事はいつでも心にあった。

 

 坂上智代。俺の後輩で、俺の大事な恋人―――

「どうした、坂上。早くしないと会議に遅れるぞ」

 ―――だった奴だ。


 その隣に立つメガネの男は、名前は知らないけどよく覚えている。俺に何度も智代の件で突っかかってきた男子だ。確か生徒会のメンバーだった。

「……ああ、アンタか」

 智代より先に、その男が口を開いた。

「朋也、どうしてここに……」

「部活をしているわけじゃないんだったら、この時間にいるべきじゃないんだけどね、ここは。もっとも、良識のある三年生なら、今頃は家で受験勉強してるはずだ」

 智代の声に覆いかぶさるように、男子がせせら笑った。

「アンタ、本当にだらしないな。何の気迫もないんだね。見なよ坂上、こいつは所詮、どうしようもない奴なのさ」

 男子に話を向けられて、智代が悲しげな顔をした。

「……智代、俺は」

「へぇ、アンタ、自分がまだ坂上と口を利ける立場の人間だって思ってるんだ。驚いたね。呆れるのを通り越して、むしろその道化っぷりに拍手を送りたいね」

 言葉の一つ一つが痛く感じるのは、そこに紛れもない事実の欠片が混じっているからだろうか。すると、智代が表情を失くしたままでその男子に向かって言った。

「……すまない、先に行ってくれないか」

「……手短に頼むよ」

「ああ。すぐに終わるから」

 その声の冷たさに、俺は驚いた。すぐに終わらせるという彼女の決意に、冷たいものを感じた。

「……元気だったか」

「……ああ」

「報告したい事があるんだ。ここの桜は切られない。ようやくそういう方針で話が進むことになった」

「そうか」

「長かった。譲れない目標なんだ。それがようやく実現するんだ」

「夢を叶えたんだな」

 それは祝福するべき事態で、智代の笑顔はもっと幸せに満ちていていいはずなのだった。

 こんな、こんな困ったような辛いような笑顔であるべきではない。

「でも、まだちゃんと決まったわけではないんだ。むしろここからなんだ」

「そ、そうか、まぁ」

「だから」

 何かを言い繕おうとする前に、智代が俺の会話を切断した。

「だから、お前との縁を切らなければならない。お前とはずっと他人だったのだと、そういうことにしなければならない」

「…………え」

 笑顔のままで言い放たれた言葉が全く理解できずに、俺は聞き返した。

「みんなで話し合ったんだ。だけど、どう考えても、今のお前と、私が結びつくのはどうなのだろうな。昔のお前でも問題があったのに、今ではここまで来て全て崩壊するということもありえる。OBの協力も今なら何とか得られるが、朋也のことがまた浮上したら、支援は打ち切られるかもしれない。私としては、それだけは回避したい」

「それはどういう……」

「だから、これでお別れだ」

 その言葉には、いつも通りの智代の実直さと決意が含まれていて。

 だから俺にはわかったのだった。ああ、これでおしまいなのだと。

「桜並木が守られたら正式に報告するつもりだったのだが、まぁ、また会うこともないだろうな。では、元気で」

 そう言って、智代は俺に背を向けた。もう振り返ってくれる事はないのだとわかった。追おうと思ったが足が動いてくれず、そして





「がぁっ!はぁっ、はぁっ」

 俺の荒い呼吸音が、暗い部屋に響いた。左手で額の汗を拭う。体中にまとわりつく寝汗が気持ち悪かった。

「ここは……」

 辺りを見回した。衣類箪笥、本棚などの調度品。ランプが置いてあるベッドサイドテーブル、そして、ダブルベッド。薄暗がりだったのであまりよくわからなかったが、これらが印象に残った。

 ランプスタンドを付けると、少しばかり部屋の詳細がわかった。どことなく落ち着くような、温かいような感じがした。

「何だ朋也、起きていたのか」

 不意に戸口の方から声がして、俺はそちらに目を向けた。廊下の電気がついていたので若干逆光になっていたが、見間違えようがなかった。

 岡崎智代。俺の最愛の妻だった。

「智代……」

「何だ、呆けた顔をして。こんな夜更けにお前と顔を合わせる女性が、他に誰がいると思ったんだ」

 半ば呆れたような、半ば怒っているような、そんな声。だけど、俺にとってはかけがえのない声だった。智代が俺の隣に腰掛けるのを待って、俺は智代を抱きしめた。その柔らかさが、その温もりがたまらなく心地よかった。おずおずと智代も俺の背中に腕を回した。

「いきなりどうしたんだ。変な夢でも見たのか」

「夢……ああ、そうだな。変な夢だったんだ。学生の頃の夢でさ、何て言うか、みんなが俺のことを蔑んでてさ」

「そうか……で、私は」

「お前も結局俺に愛想尽かして行っちゃうって夢だったんだよ」

「それはただの夢だ。仕方のない奴だな」

 智代はそう笑うと、俺の頭に手を置いて、子供をあやすように撫でた。

「いいか朋也、私はお前の傍を離れない。そういうことなんだ。いや、そうなると言った方がいいかな」

「ん。どういうことだ、そうなるってのは」

「いや、忘れてくれ。とにかく、夢は夢なんだ。恐れる事はない」

「ああ……そうだな」

 すると、また戸口の方で声がした。

「とーさん、どーかしたの」

「さっき、へんなこえがきこえたぞ」

 見ると、俺によく似た男の子と、智代によく似た女の子が、俺たちを心配そうに見ていた。

「大丈夫だぞ。父さんがちょっと変な夢を見ただけなんだ。ほら、おいで」

『うん』

 声をそろえて、二人がこちらにやってきた。それは、俺と智代が本当にずっと一緒なのだという証だった。その二人が俺と智代の隣に座った。

「もうだいじょうぶなのか」

「ああ。母さんのおかげでもう安心できる」

「とーさんもわるいゆめにうなされるんだ。こわかったの」

「そうだな。母さんに嫌われる夢だからな」

「じゃあゆめだよ。かーさん、とーさんのこと、だいすきだからね」

「でも、かーさんはともえのほーがすきなんだ」

 そんな二人を、智代が優しそうに見て笑っていた。

「なぁ二人とも、今日は何の日だろうな」

 そう智代が聞くと、二人ははしゃいで手をあげた。

「あー、しってるしってるしってる、きょうはとーさんの」

「とーさんのたんじょーびだ」

「あっ、ずるいぞともえ、ぼくがさきにいおーとしてたのに」

「ふん、しってるしってるっていってるだけじゃだめなんだからな」

「こらこら、ケンカはいけないぞ。なぁ朋也、プレゼントは何がいいだろうな」

「そんなの決まってるさ」

 そう笑うと、息子が食い付いた。

「えっ!なになにっ!ぼく、ぜったいにみつけてくるよっ」

「見つけてこなくてもいいんだ。ここにあるから」

「え」

 俺は二人の子供を手招きして近寄らせると、一気に抱き上げて片膝に一人ずつ乗せた。

「父さんはな、母さんがいて、お前たちみたいなかわいい子供がいて、それでずっと傍にいてくれれば、それで幸せなんだからな。もう充分に、報われてるんだ」

 そうやって抱きしめると、不意に涙が出てきた。

 いろんなことがあった。辛いことがあった。大変なことがあった。だけど、頑張って前に進もうとしたからここまでこれた。

 今になってようやく気付いた。あの夢の世界。あれは、俺が頑張ることを放棄した世界だったんだ。智代と別れた後、そのまま堕ちていった俺の世界だったんだ。

 あの時は辛かった。智代と口も利けない日々がずっと続いて、俺が頑張っても一番声をかけてほしい奴からは何も来なくて、それでも頑張るしかなかった。だけど、今の自分と、あの夢の中の自分のことを考えると、頑張ってよかったと思う。

 これからも、恐らくいろいろと大変なことがあるのだろう。辛いことだってたくさんあるだろう。だけど、俺は。それでも、俺は



「もう、大丈夫だな」



 背後から抱きしめられる温もりを感じた。智代の顔は見えないが、不思議と振り返ろうという気分にはならなかった。

「ああ、大丈夫だ」

「これからも、頑張っていけるな」

「ああ、頑張れる、そう思う」

「そうか。うん、よかった」

「なぁ」

 俺は膝の上に両手を乗せた。そこに座っていたはずの俺たちの子供は、もういなかった。というより、部屋そのものがなくて、ただ明るくて温かい空間に智代と二人きりでいるような感じだった。いや、空間そのものが智代を連想させた。

「あんた、結局何なんだ」

 しばらくの間があって、智代の声が答えた。

「うん、そうだな。ちょっとした、魔法少女みたいなもの、とでも思ってくれればいい。どうだ、これはとても女の子らしいんじゃないか」

「魔法少女みたいなものって……おいおい」

「……女の子らしいかどうかはスルーなんだな」

 少し残念そうなため息が聞こえた。

「お前は今、すごく大変な時期なんだ」

 智代の声が、少し硬化するのがわかった。事実を淡々と告げるだけの声になっていた。

「絶望はしていないが、でもまぁそこからあまり遠くはない。お前の彼女も心配している。こら、あまり私の心労を増やしてくれるな」

「悪い」

 反射的に謝ってしまった。智代の声なのだから仕方がないのだろう。

「だからな、これはお前への誕生日プレゼントだ」

「誕生日……プレゼント?誰からのだ」

「おっと、それは言えない。だけど、お前が今見た光景、その幸せは、確かに存在する。そして、お前はそこに辿り着く事が出来る。ただし」

「頑張れば、だろ。望みを捨てなければ、辿り着けるってか。そんでもってその望みとやらを具体的に見せてくれるなんてな。正直、サービスが過ぎないか」

「私に言われても困る。私は、それらの光景を見せろと言われただけなのだから」

「それにしても、最初の悪夢はなんだったんだ。あれもプレゼントの一部か」

「いや、あれはまぁ副産物みたいなものだ。残念ながらこのお呪い、そこまでピンポイントじゃないのでな。でもまぁ、特売セールみたいで得した気分だろ」

「しねーよ」

 ふふ、と智代の声が笑った。

「では、もう行くな」

「ああ」

「くれぐれも私を大事にするんだぞ。とても繊細な女の子なんだからな」

「わかってるさ」

「……じゃあ、な」

「ああ。あと」

「うん、何だ」

「ありがとう、な」





 目覚ましの音で俺は目を覚ました。安い奴だったので、週日と週末を区別する機能がないのが少し不便だ。おかげで土曜日なのに結構朝早く起きてしまった。

 いつもの習慣で、俺は頭の中を整理した。

 俺の名前は岡崎朋也。年は十九歳。職業は電気工だ。

 ここは俺のアパートで、俺はここで一人暮らしをしている。

 不意に後頭部に手をやってみた。傷を縫った後がまだわずかに手に感じられた。今年の夏、俺は仕事場でのアクシデントで頭を打ち、手術はしてもらったものの、まだ記憶障害が残っている状態だ。と言っても、日常生活には支障はない。最初の頃は戸惑ったが、それでも何とかやっていけている。そこまで支えてくれたのが、俺の彼女の坂上智代だ。

 坂上智代。俺の彼女。

 俺が高校三年の頃に転入してきた一年後輩の女子で、弟に鷹文、異母妹にともがいる。今は遠くの大学にいるのでここにはいないが、それでもまだちゃんと続いている。

 それだけだった。俺が智代に関して覚えていることと言えば、本当にそれぐらいなのだ。どうやって会ったのか、どんな会話をしたのか、どこに行って何をしたのか。それらが全部欠落している。

 一番大事な彼女がそうなのだから、俺の周りの人や高校時代の仲間に関しては、言うまでもないだろう。

 何だか今見ていた夢に鍵があったような気もしたが、もやがかかっているように曖昧で、思い出そうとすればするほど消えていくようだった。

 だけど。

 本当によく覚えていない夢だけど、一つだけ覚えている部分があった。

 不意に聞こえた振動音と電子音で、俺は我に返った。急いで携帯を手にした。

「もしもし」

『もしもし、朋也か。私だ』

「おう、おはよう、花子」

『……私、と言って花子が頭に浮かんだか。そうか、私が大学に行っている間に、もうすでに浮気か』

「そんな怒るなって太郎」

『………………ほう。私を男の名前で呼んだか。ほう』

「スミマセンごめんなさいマジ勘弁してください調子に乗ってました」

『……』

「えーっと智代さん、オレオレ、ほら、オレだよオレ」

『…………………』

「いやっほーいっ!ともぴょん最高っ!!」

『近所迷惑だっ!そんな大声で叫ぶな、バカッ!!』

 照れ隠しに、智代が電話の向こうで怒鳴った。

『まったく、お前という奴は……』

「ははは。とにかくおはよう」

『何で朝の挨拶にこんなにエネルギーを浪費してるんだ……それよりおはよう、そしておめでとう」

「おめでとう?」

『忘れているのか?仕方のない奴だな。今日は何月何日だ』

「今日?十月……ああ、そういうことか。ありがとう」

 さっきの事実を訂正。俺はもう、二十歳を迎えたのだった。

『まったくお前は仕方のない奴だな。これはあれだ。私が傍で見張ってやらないとな』

 傍で、で思い出した。

「なぁ智代」

『うん』

「今朝な、すごくいい夢見たんだよな」

『へぇ……まさかエッチな夢じゃないだろうな』

「さあてな。それがよく覚えていないんだよな。思い出そうとするとどんどん忘れていっちまってさ」

『何だそれは……と言いたいが、お前の言うのもわかるな』

「ただな」

「うん」

 俺はあたかも智代が目の前にいるかのように微笑んだ。



 ただ、お前が傍にいてくれれば幸せだってのは、ずっと覚えてるんだ。

 

 

 

 

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