「……暑いな」
そろそろ、16時になろうとしているとき俺はそう言った。
「……あつい」
小学校1年生になった娘の汐も俺と同じことを言う。
意図して返答したのかは疑問だが。
「プールもいいんだが混んでる上に時間がなぁ……」
「……うん」
先日、プールに行ったのだがその事を汐は思い出しているのだろう。
大混雑で泳いだのではなく、浸かった。
もしくは流れるプールで流されたと言った方が正しいと思う。
「海は遠いし……」
車の免許は持っているのだが哀しいことに家には車がない
それにこの時間から海やプールに行っても道は混んでいるし中途半端だろう。
「どうしたものかな……」
ちなみにクーラーは故障中。
修理の電話をしても『回線が混雑しておりまして現在繋がりません』の一辺倒。
自分で修理をしようとしたが材料がないため断念。
「……お風呂は?」
……なるほど、その手があったか。
俺と娘が見た湯けむりは優しさで包まれて
家で水風呂もいいが、もっと大きな湯船に浸かりたいと俺は思った。
汐は銭湯なんて行ったことないはずだし、それで構わないだろう。
正直、俺が行きたいだけで汐が行きたくないなんて思っていたりもするが。
銭湯に行く用意などをしていてふと思い出す。
「昔、渚と一緒に行った場所があるんだけどな」
5年以上前の話だ。
今も変わらずにあるのだろうか?
「ママと?」
『渚と』と言う言葉に汐が反応する
「ああ、一緒に行ったんだぞ」
遠い記憶になる。
あの時も渚は優しく微笑んでいたなぁ……。
……渚ぁ!!
「そこにいきたい!」
内心、漢泣きしている状態で喋りかけられる。
渚の話をすると歳相応な姿を見せる汐。
意識してか無意識なのかはわからないが渚の影を追いかけるようになった。
渚がいた証を刻むように。
「そうだな、行こうか」
そうでもしなければ渚がいた証を刻んでいると実感しないのだろう。
「……ほんと?」
汐は確認するような上目遣いで俺を見上げる。
「ああ、本当だ」
だが、まだあの場所はあるのだろうか?
そのことを踏まえて、汐に伝える。
「……でもな汐、あの場所はまだあるかどうかわからないんだ」
「……え?」
少々言い方を間違えたか……。
と思っていたが汐はこう答えた。
「でも、しかたがないとおもう」
「何がだ?」
汐が呟いた言葉に反応する俺。
「だって、かわらないものはないから」
その言葉に詰まってしまう。
「……そうだな」
哀しいことだが、真実だった。
しかし……。
「でも、渚が行った場所には変わりないだろ?」
「……うん!」
この子はさっき自分が言った言葉の半分も理解していないのだろう。
これから理解すればいい。
俺はそう思った。
「んじゃ、行くか」
「おーっ!」
手を上げて汐は応えた。
玄関を開け、階段を降りる。
アパートの駐輪場から自転車を外に運ぶ。
夕方なのにこれだけで汗をかくのは夏なんだと実感してしまう。
と同時に地球温暖化を自覚した。
自転車に俺はまたぐ。
そして、後ろの荷台に汐を乗せて。
「しっかり捕まってろよ?」
俺の腰をしっかりと掴んでいるのと汐が頷くのを確認して俺はペダルに体重を乗せる。
自転車はゆっくりと車輪を回し、徐々にスピードを上げていく。
「おー……」
徐々に速度が上がっていくのを汐は感嘆したのだろう。
と勝手に自分で納得した。
「結構速いだろ?」
「うん……」
坂道になっている歩道を自電車で駆け抜ける。
横目で渋滞になっている車たちを見返した。
どうだ、俺の方が速いだろうと優越感に浸ってみる。
柄にもないことだが。
「パパ」
不意に汐が俺を呼ぶ。
「どやがお、きをつけたほうがいいとおもう」
汐よ、お前結構厳しいな。
「しかしだな、世の中にはドヤ顔でも売れる奴があるんだぞ?」
「たとえば?」
そうだな……。
「カードゲームの主人公とかさ」
「ずっと、おれのたーんのひと?」
言った俺が思うのもなんだが……。
オッサン、やっぱり10歳にもなっていない女の子に教えるのはどうかと思うぞ。
「まぁ、例を上げればな」
どんな例だよと思った。
しばらく、汐と喋りながら自転車を漕いでいたが目的の場所にたどり着く。
俺の腕時計では16時半を指している。
「それにしてもあんまり変わってなくてよかったよ」
あの時以来に来たが全くと言っていいほど変わっていなかった。
天を指すようなあの煙突が煤で多少汚れていた。
けれど、それが銭湯なんだと思わせてくれる。
「……」
汐はあの煙突を見上げていて声を失っていた。
初めて見る場所に驚いているのだろう。
「太くて、硬そうで、大きい……」
NA,NANDATTE!!!!!!?????
「う、汐さん?」
「……?」
あのさ『わたし、なにかいった?』みたいな目で俺を見ないでくれよ……。
「い、いやなんでもない……」
もう、何も言うまい。
「……風呂に入るか」
「うん」
さっきのはなかったことにして俺たちは暖簾をくぐる。
その先に見知った顔が多数あった。
メンバーが杏、椋、智代、風子、公子さん、早苗さん。
中でも、一番久々に見た顔が。
「……あら〜、岡崎じゃな〜い!、久しぶりね」
美佐枝さんだった。
少し、離れた位置に美佐枝が俺たちにいち早く気づいた。
「本当だな、美佐枝さん」
そう言うと汐が不安そうな顔で俺を見上げる。
そうだったな、会ったことないよな。
「紹介するよ美佐枝さん、こいつは……」
「……汐ちゃん」
俺が言うよりも早く美佐枝さんは答えた。
「でしょ?」
ああ、この人は来てたんだったな……。
俺の中で、世界で一番哀しい日に。
だから、知っていてもおかしくない。
「……ああ、汐、挨拶しなさい」
何も言わずにいてくれた美佐枝さんの心遣いは正直、嬉しかった。
あの日は俺にとっても哀しい日だったが、それ以上に汐は何も知らない日だったから。
「こんにちわ……」
俺の背に隠れた汐が挨拶する。
「―――はい、こんにちわ」
優しく笑って、美佐枝さんは答えた。
一瞬、寂しそうな顔をしたが汐の頭を撫でる。
「みんなで、風呂に入りに来たのか?」
話題を変えようとして疑問に思っていたことを聞く。
「いいえ、私意外はみんなで来たんでしょうね」
ふむ、なるほど。
恐らくだが、杏と椋と智代、風子と公子さん、早苗さんとオッサンだろうな。
このメンツを見ると。
「同窓会じゃないのに集まるなんて……、世の中小さいな」
「全くね」
言って笑う。
その笑い声に気づいたのか下の方向から音が聞こえた。
というより……。
「誘拐しようとするなよ」
俺の言葉にそいつは動きを止める。
一人しかいないが。
「なぜ、バレたんですっ?!」
「いや、お前しかいないからさ」
だって、ワンパターンだし。
「うぅ、不覚ですっ!」
「不覚も何も失敗するのが目に見えてる」
世の中それを無様って言うのを知ってるか?
「とてもバカにされてる気がしますっ」
ちっ、鋭いな……。
「そういや、皆はもう帰るのか?」
「ううん、全員来たところよ」
美佐枝さんは俺の問いに答える。
小さな声で風子が『話を逸らしましたね……』と聞こえたが気のせいだろう。
「あれ、朋也と汐ちゃんじゃない、いつ来たの?」
杏は俺たちに気づき声を掛けてきた。
それに反応し、椋、智代、公子さん、早苗さんが振り向く。
「ついさっきだ、相変わらず仲がいいな?」
「そりゃね、朋也たちも暑気払いって言うか汗払い?」
汗払いって……、なんかエロいな。
「まぁ、そんなとこだ」
特に突っ込んだ事は言わない方が身のためだろうな。
「俺はとりあえず、風呂に入るけど……、汐は杏たちと一緒の方がいいな?」
「うん、きょうせんせーたちとはいる」
汐は知った人たちと入るのは初めてだからな、順位はそっちの方が高いよな。
「わかった、んじゃ頼むな」
俺は了解し、杏に任せる。
「任されますっ!」
「なんで、お前だよ……」
風子が元気よく応えてくれた。
「その前によだれを拭いて、息を整えてくれるか……」
男なら通報もんだぞ、その表情。
「はっ、失礼しましたっ」
服の裾でよだれをごしごしと拭う。
「それじゃな」
男と書かれた暖簾を潜り、脱衣室に入る。
不安要素は風子だけだし、あのメンツなら任せでも大丈夫だろ。
「それにしても久々だな……」
服を脱ぎ、タオルで男の象徴を隠し扉を開く。
待っていたのは地獄だった……。
「俺の釘を打つ拳を受けやがれぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
「戦いに勝者などいない、全てが弱者なんだ!!」
ちゅどーん。
「何、この惨劇?」
裸のまま倒れている商店街の皆さんとか風呂に入って来たんであろうじいさんたちの燃え尽きた姿。
正に地獄絵図と言えるだろう。
見知った顔がそこにいた。
黒髪にして存在感の薄い奴、……誰だっけ?
「あんた、ひどすきません?!」
それは動いた、顔の原型を留めていなかった。
「……ああ、アオテナガフクロオオスノハラモドキか」
「そのネタ、まだ続いてたんすか?!」
「略して春原、この状況は一体どういう事だ?」
春原は満身創痍だった。
それだけ、この惨劇の凄まじさが見て取れる。
「ここ失楽園(エデン)からあの壁の向こう側にある理想郷(ユートピア)を一目見ようとして、それの優先順位で戦争に発展しちゃってさ……」
「……かなり、どうでもいいな」
オッサンと芳野さんは奥さんがいるだろうに……。
「芳野さんは止める為に戦って、古河の旦那は覗く為に戦ってるんだ」
根源はオッサンか。
いい年して何やってんだよ。
「岡崎、見届けるんだ……二人の戦いを」
言って春原は気絶した。
……俺に押し付けるなよ。
「戦争の終わりはどちらかが滅びるまでだぁ!」
オッサンは力を足に込め、手を地につき、四足歩行の体勢になる。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
力を解放し、タイルの上を1p浮きながら駆ける!
って、オッサンあんた化け物か?!
「俺は……死なない!」
こんなんで死んでどうするんですかっ。
なんでか芳野さんの背後に翼の生えた機械が見えたような気がする。
何処から出したのは疑問だがかなりでかいライフルの形をした機械の塊から衝撃波を出す。
オッサンはそれをギリギリのところで回避した。
「ちぃ、中々やりやがるぜっ」
「気を抜いたら……やられる!」
「こうなったら、電圧室で特訓した銀河を彷彿させるマグナムでトドメだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
オッサン、技名叫んだだけで吹き飛ばす技を使うのか?!
「俺もドイツの英雄から教わったブローで……」
「ダメだ、芳野さんの技はキャラ名が割れるからダメだぁ!!」
著作権侵害はダメゼッタイ。
「「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」」
二人の拳が交差した瞬間……。
「ぐぅあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
吹き飛んだのは芳野さんだった。
無残にも頭から湯船に突っ込み、ぷかぁと身体が浮かぶ。
「お、岡崎……」
そんな状態にも関わらず、意識のある芳野さん。
「何です、芳野さん?」
「死ぬほど痛いぞ……」
でしょうね……。
「おぅ、小僧来てたのか……」
覗闘(しとう)を制したオッサンが俺に声をかける。
いつもは余裕があるオッサンだが、ボロボロと化したタオルを腰に巻き身体は傷だらけだった。
タオルがボロボロなだけに隠し切れていない。
「お前も戦うか?」
「遠慮するよ」
「そうか……、理想郷(ユートピア)に俺が到達するとこを見届けてくれ」
言って壁をよじ登り始める。
まるで、ゴキブリのようだ。
「あと少しなんだ……、皆の夢を俺が背負ってるんだ、落ちるわけにはいかないっ!!」
頂上に到達し、顔を出すオッサン。
『ごくろうさまオジサマ、そして、さよならオジサマ』
杏の声が風呂場内に響く。
まぁ、あれだけ騒いでたら気づくか……。
「あれは、ゲート・オブ・バ……」
どかーん。
「哀れだなオッサン……」
本って頑丈な上に爆発機能もあるんだなぁ。
「それにしても、いい湯だ……」
これでこそ、風呂に来た甲斐がある。
「……景色は最悪だけどな」
辺りは男たちがゴロゴロしている。
『みさえさんって、おっぱいおおきい……』
……俺に対しての試練かむすめよ。
いかん、早く身体を洗い、直ぐに出よう。
俺もやられる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛気持ちい゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛」
風呂に来たならばマッサージチェアに座ることだ!
ちなみに風呂上がりにコーヒー牛乳は既に飲んでいる。
「あれ、岡崎くん早いんだね?」
「椋、男の風呂ってこんなもんだろ」
「こんなもんかな?」
よいしょとベンチに腰を落ち着かせる。
「汐ちゃんはそろそろ出てくるよ」
「そうか、ありがとう」
会話はそれで終わった。
何も気まずくは無い。
自分たちのリラックス出来る状態でいるからだが。
長い付き合いになるとそうなる。
次いで智代と公子さんが一緒に出てくる。
結構、めずらしい組み合わせだ。
「優しく諭すのは難しいな、どうしても手が先に出てしまう」
「坂上さんなら大丈夫よ、……岡崎さん早いんですね?」
公子さんが俺に声をかける。
「こんなもんですよ、風子とは一緒じゃないんですか?
「ふぅちゃんはまだ髪を洗ってもらってますよ、……汐ちゃんに」
苦笑いで公子さん。
「朋也、伊吹先生って凄いな」
「俺もそう思う」
確かに俺も公子さんに先生をしてほしいくらいだ。
「岡崎さん、祐くんはまだお風呂かしら?」
「え、ええ、そうですけど……」
あれ、なんでだろう?
空気と言うか世界が変わった気がするんだけど……。
「そう、オシオキしないと……ネ」
俺は思わずひぃと声を上げたくなったがすんでの所で堪えた。
かなり怖い、てかマジ怖い。
「朋也、伊吹先生って本当に凄いな」
「ああ、俺もそう思う」
人の怒りを買う言動や行動に気をつけよう……。
芳野さんが風呂場から死屍累々で出て来たけど公子さんにオシオキをされていた時、早苗さんと風子が出てくる。
「朋也さん、秋生さんはまだお風呂から出てないんですか?」
「はい、まだ浸かっていると思いますよ?」
浸かっていると言うより、沈んでいるって言った方が正しいか……。
「風子、汐と一緒じゃないのか?」
「汐ちゃんは美佐枝さんと杏さんと一緒です」
ふむ、……そういう事か。
「わかった、……芳野さんを助けなくていいのか?」
そう思った俺は風子に尋ねてみる。
「風子は我が身がかわいいので」
「薄情だな……」
まさか、公子さん武闘派だったのか……。
あ、両手を上下に分けて、芳野さんを反らせ側面から入り込んでからの投げだ。
うわぁ、投げた後のマウントとってフルボッコって……。
「……早苗さんは?」
見れなくなって、話題を変える。
「いえ、知りませんけど?」
風子に尋ねるが答えは知らないみたいだ。
見回すと、バスケットの中からパンを取り出していた。
「さ、早苗さん? そのパンは誰の分ですか?」
「はい? 秋生さんの分ですよ?」
お風呂に長く浸かってカロリーを消費したでしょうからと満面の笑みで言われると……。
オッサンに思わず心の中で合掌するしかなかった。
風子もそう思ったようで胸の前で十字を切っていた。
早苗さんから手渡されたパンを批判したのであろう、早苗さんが泣きながら走って駆けて行った。
うん、いつものことだ。
「ふぅ、良いお湯だったわぁ」
杏はタオルを首に巻き暖簾から出て来る。
その足元で汐が美佐枝さんに貰ったフルーツ牛乳を両手で受け取っていた。
「お、面倒ありがとな」
「ううん、汐ちゃんとゆっくりお話しできて楽しかったわ」
杏は満面の笑顔で応える。
「そっか……」
確かに数ヶ月間だと言えど環境が変われば話したい事だってあるだろうしな。
杏は椋と智代を連れて引き上げた。
明日、仕事があるとの事だ。
大変だな、教諭関係の仕事って。
美佐枝さんがまだ湿った髪をタオルで当てながら俺に近寄ってきた。
「岡崎、汐ちゃんっていい子ね?」
「ああ、俺の娘だし、……何より渚の娘だ」
「……そうね」
美佐枝さんは寂しそうな優しい頬笑みで答えてくれた。
「……私も帰ろうかしらね?」
「ああ、寮母も相変わらず大変だな」
「あんた達みたいなのがいない分、楽よ」
笑って、ドアを開き出て行った。
サッパリとした別れ方は美佐枝さんらしかった。
汐は飲んでいたフルーツ牛乳を一度止めて、手を振る。
それに気づいた美佐枝さんは目線の高さをなるべく汐に合わせるように腰を低くして手を振った。
芳野さんはボロボロになってもカッコよさだけは保ちながら風子さんと公子さんを連れて帰って行った。
早苗さんとオッサンは帰って来ないから放っておいても大丈夫だろう。
「帰るか、汐」
「うん」
汐は飲み干したフルーツ牛乳をビン入れに入れた。
ドアを開け、駐輪場から自転車を持ってくる。
汐はドアの前で待っていて行きと同じように汐を乗せる。
「んじゃ、行くぞ?」
「おーっ!」
手を上げ汐は応えた。
夏の夜独特のジメッとした暑さだったが下り坂になっている道を行けば風呂上がりだけであって涼しい。
「楽しかったか、汐?」
「うん、ママのおはなしきけてよかった」
「……よかったな」
本当にこいつは……。
親泣かせだよ、全く。
「また、みんなとおふろにはいりたい!」
「そうだな、今度は約束してさ」
うんっと汐は返事をする。
いつかでいい、その日が来ますように。
汐が胸を張って笑える大人になっていますように。
なんて、自転車を漕ぎながら家へ帰る道で河川敷に一匹の蛍を見つけそんな未来を願ってみる。