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『想い』









「……」

 小さな吐息を漏らす。それはこの世界を覆う凍てついた空気によってすぐに白くそまって、雲に覆われた空へと舞い上がって行く。その行き先を眺めやることもせずに、智代はゆっくりと歩いていた。彼女の片手には買い物袋が、もう片手にはショートケーキの入った箱がぶら下げられていた。

 余りにも早い冬の訪れであった。

 例年ならば凍えるほどの寒さが訪れることもない季節なのだ。秋と冬を隔てる、そんな時期にも関わらず、今この町を覆うのは雪の世界だった。

 彼女がかつて過ごしたあの町では雪の景色自体が珍しかったが、あの町から遠く離れたこの場所では、真冬ともなれば雪景色自体はそれほど珍しいものではなかったが、いくらなんでも時期が早すぎる。

 ただ、彼女がどれほど不満を持っていても雪が消えてなくなるわけではない。ただそれでも、彼女はせめて今日は晴れていてほしかったのだ。

「……今日は朋也の誕生日だから」

 そう呟く。

 愛する彼の、一年に一度の記念日。だから、精一杯祝ってあげたかった。

 足元に積もった雪を確かめるように歩を進める。その雪はそれほど厚く積もっているわけでもなく、智代が歩くたびに黒く汚れれた靴痕が雪の上に刻まれていく。その隙間からアスファルトで舗装されている道路が見えた。

 彼女の目指す場所は、もうすぐだった。少なくとも彼女が先ほどまでアルバイトをしていたコンビニからの距離を考えれば、遥かに近い。

 本当はこんなにゆっくり歩かずに急いで帰りたかった。けれど、まだまだ不慣れな雪道の歩き方を彼女の体はしみこませてはおらず、万が一にも転倒するようなことがあれば、彼女がこれから向かう――正確には帰る場所で待っていてくれているはずの彼を心配させてしまうことになってしまう。

 そんな事は嫌だった。

「……」

 もう一度吐息を漏らす。白く舞い上がるそれを見やることもせずに、智代は視線をまっすぐ前に向けた。ここからは直接眺めることはできないけれど、この道をもう少しだけまっすぐに歩き、それから路地に入って何度か角を曲がればたどり着くことのできる彼女が帰る――そして大切な彼とともに同じ時間を刻めるアパートが存在している。

「……朋也」

 智代は小さくつぶやく。それは誰の耳に届くこともなく、彼女の長く美しい髪を弄ぶように吹き抜ける冬の風にどこかにさらわれていく。

 心配されることが嫌なのではない。むしろ、心配してくれるということはそれだけの想いを彼が向けてくれている、ということの証左であり、そのことを智代は理解していた。

 けれど、嫌だったのだ。心配されることが、ではなく、彼の言葉がどこまで本心であるのか、心のどこかで疑っている――というよりも、彼の想いが奈辺に向けれているのか、ということが分からなくなってきていたからだった。

 いや、おそらくはそれさえも正確ではないのだろう。怖いのだ。彼に本心からの想いを向けられていないと知ってしまった時のことを思うと。

 だから彼に、心配をしてほしくはなかった。それがうわべだけの言葉である、などということを知りたくはなかったから。

「……あれから」

 小さくつぶやいて空を見上げる。夜の帳に覆われた世界のはるか上に、黒く染まった雲が空を覆い尽くしている。

「あれから、3年か……」

 智代が抱いていた夢――というよりも希望というべきものであったが――が儚く散ってしまってから過ぎた月日。そして彼女にとって大切な存在がただ一人だけになってしまってからの日々。

 朋也が学校を卒業したその日に彼女もまた在籍していた学校を中退し、その直後に逮捕されてしまった朋也の父親がもたらした負の感情に追いやられるようにふたりであの町を逃げ出し、そしてたどり着いた新しいこの町ので日々。

 それらを思い出しながら、智代は空を見上げることを止めようと視線を元に戻そうとした。

 その直前、智代の視界の端に小さな白い冬の精がゆっくりと舞い落ちてくるのが見えた。

「……雪」

 つい数日前、本来ならば誰にも邪魔されることのない休日を共に過ごせなかったことを思い出してしまう。   それは不可抗力ではあった。智代のバイト先で急な欠員が出てしまい、智代が借り出された、おそらくはどこにでもあるささやかな悲劇であったろう。そのことを彼女は理性の面ではどうにか受け入れてはいたが、彼に向けられた想いが示すような部分ではついに受け入れられないでいた。

「……寒いな」

 早く帰りたかった。彼の温もりを味わいたかった。特にこんな雪の降る日は、何度も抱きしめたかった。

 彼の想いがどこまで本心からのものであるのか、などということをいささかも気にすることの出来ない、二人だけの熱い夜を過ごしたかった。あるいはそれがもう、彼と彼女を繋ぐ細い一本の糸、そう呼ぶべきものであったからかもしれなかった。決してそうだと彼女は思ってはいなかった――あるいはそうではないのだと信じ込もうとしていたけれど、心のどこかでは常に不安を抱き続けている。

 だから、彼の温もりを追い求めるように毎晩のように体を重ね合わせるのだろう。

 少なくとも朋也が智代を抱いているその間だけは、朋也の心にも体にも智代以外の影を見出すことはありえないのだから。そして彼の体の一部を受け入れる彼女自身も、彼の温もりと想いのすべてを象徴するような熱いものを胎内に感じることが出来るのだから。

 いつかは子どもが欲しい、そう真剣に願う。いや、いつか、ではないのだろう。今すぐにでも欲しかった。

 そう思うのは、朋也がいまだ結婚に同意してくれないから、と言うのも含まれていた。ふたりとも既に成人し、形式上はともかく、法律上は親権者の同意を必要としていない。そして例え形式を守ろうとしてもふたりとも親権者とは半ば絶縁状態であった。だから、ふたりの意思さえ重なり合うならばいつでも結婚できるのだ。けれど、彼はそうしようはしなかった。彼女が間接的にではあってもそのことを口にしても、彼は一切首を縦に振ろうとはしなかった。そして智代は、あまりにしつこく口にすることで彼に嫌われてしまうことを怖れて、最近はあまり口にしなくなっていた。

 子はかすがいなどと言うが、智代が子どもを欲しいと願うのは、皮肉な言い方をするならばその表現が最も相応しいのかもしれない。子どもを授かること、愛する人の遺伝子を継ぐ子どもをおなかに宿せることは間違いなく幸福なことに違いない。ただそれは同時に、彼にとっての鎖になってくれるかもしれない、という思いを内包させていた。

「……だから、かもしれないな」

 何度目かの小さな吐息を漏らす。白く染まった吐息が空へとわずかな時間のダンスを見せながら舞い上がろうとするその様子を見つめた。

 だからこそ、子どもを授からないのかもしれない。そんなことを考えているから、子どもが鎖であればいい、などと考えてしまうから……そんなところにはコウノトリは舞い降りてはくれないだろう。

 視線を前に向ける。空から舞い降りてくる雪が周囲にゆっくりと降り積もりだしていた。

 智代は小さく身震いすると、ようやく見え始めたアパートの一部に目を向けて、そして愛する彼との家に戻るべく、路地へと入っていき、そして数分後にはアパートにたどり着く。だが、ふたりの部屋には明かりはついていかなかった。

 それは誰もいないということの証左であった。さび付いた階段を上がり、部屋の前にたどり着いても、常夜灯のわずかな明かりさえも見出すことが出来ず、落胆の吐息を漏らす。扉の脇につけられているふたりの表札――岡崎、坂上のふたつ――をそっとなぞるようにした。それは冬の冷たい空気によって、温もりのかけらさえも見出すことが出来ないほどの冷たさを智代に伝えてくる。それがまるでふたりの関係であるような気さえしてしまう。

 視線をそらすように扉に向け、そのドアノブにポケットから取り出した鍵を差し込む。カチリ、と音がして、カギが開かれたことを智代に伝えてくる。

 鍵をポケットに戻し、ドアノブを回して扉を開く。古ぼけたアパートと同じ年月を経た廊下を照らす小さな蛍光灯が、開けられた扉から室内へと差し込み、ふたりの思いが込められているはずのその空間を照らし出した。

 誰もいない部屋は廊下から差し込む蛍光灯の明かり以外には完全に闇に閉ざされている。

それがあまりにも寂しく感じられた。照らされている視界のなかには、小さな玄関の隅に置かれた小さな靴箱と、そしてその玄関から少しだけ段を上げて繋がっている部屋の片隅だけを見ることができた。

 朋也はどうしたのだろうか。まだ仕事なのだろうか。それとも――。

 ダメだな、と智代は思う。いつも朋也のことを不安に思ってしまう。

 脳裏によぎった不安――朋也が別の女性と会っているのではないか――そんなものを追いだそうとかぶりを振る。銀の美しい髪が蛍光灯の弱々しい光を浴びて、美しく舞う。けれどそれを見つめる相手もおらず、今すぐに冷えた彼女の体を抱きしめてくれる大切な彼もいなかった。

 今は待つべきなのだろう。彼の仕事は時折残業をすることがあった。この時間まで残業をしていたことが一度もないというわけでもない。そしてそのときに、彼の身を包む作業服から彼の汗のにおい以外の体臭が――女性のにおいがすることは一度もなかったのだから。

 智代はゆっくりと部屋の中に体を入れた。探しに行きたい思いをねじ伏せ、愛する彼のために食事を作ることに意識を向けた。

 照明のスイッチを入れていない室内は玄関のごく一部を除けば暗闇に閉ざされている。

 冷蔵庫の中には何が入っていただろう。そんなことを考えながら、室内と外の世界を隔てる扉を閉めようとした。一瞬、扉を閉めようとする手の動きが止まる。これを閉めてしまえば、もしかすれば朋也が帰ってこないのではないか、などという幼児が暗闇を無条件に怖れるような思考をなんとか心の中から追い出すと、扉をしっかりと閉めた。

 そうしてしまえば、部屋の中はあまりに暗かった。もし外が昼間であるならば、窓越しに太陽の光が室内を照らしてくれたであろうが、それも今はない。思わず泣き出しそうになる自らの弱い部分を押し殺し、息をゆっくりと吐き出した。

 慣れた手つきで壁に設置されている照明のスイッチを押した。それだけ目の前を覆う闇は綺麗に吹き払われる。

 無論、そこには誰もいない。ただ静かに安物の目覚まし時計が時を刻む音が、わずかに智代の耳に届いた。

「……朋也」

 寂しい、と思った。そしてすぐにでも帰ってきてほしいと願う。

 心から愛していると、そう断言できたから。

 あの日――夢がすべて失われてしまったのだということを朋也とふたりきりの空き教室で知った日から、彼女にとっての大切な存在は彼だけになってしまったのだから。

 この町での時間が決して喜びのかけらもないということはなかったが、それでも大切なものを忘れてきてしまった、そう思い続けてきた日々でもあった。それでも、この町には朋也がいる。何もかもを喪ってしまった彼女にとって最愛の彼が。

 持っていた荷物を冷蔵庫にしまいこみ、厚手のコートをハンガーにかけた。

 壁に掛けられた時計は、十分に夜の支配を認めざるを得ないだけの時刻を指し示していたが、まだアパートの階段が軋みを上げる音は聞こえてこなかった。

 今は朋也の帰りを待つべきだった。そして疲れて帰ってくるであろう彼のために、ささやかな誕生日を祝う晩餐と小さなショートケーキを用意しておくべきなのだ。

 けれど、そうするためにおそらくは必要な心の中にあるはずの想いが、どこかで悲鳴をあげている。

 この月はふたりにとって記念となるはずの月だった。智代と朋也の誕生日は同じ月にあるからだ。

 だが、彼女の誕生日に彼はケーキを買ってきてくれて二人で小さなお祝いもしたけれど、それだけであった。ふたりだけのささやかな晩餐に彼の想いがかけらも込められてはいないとは思ってもいなかったが、彼の思いのすべてが込められている、とも思えなかった。彼は智代のことを今でも愛してくれている――すくなくとも彼はそれを否定しなかった――けれど。

 きっと怖いのだろう。いつか朋也が、別れの言葉を口にしてしまうことが。智代にとっての朋也がいかなる価値を有しているのかをいまさら問い直す必要を感じないほどに、その想いは彼女の心に刻まれている。だが、その逆はどうなのだろう。

「……」

 思わずつきそうになる何度目かのため息を押し殺し、よし、と自らに気合を入れる。

 頑張って料理を作ろう。彼が今でも彼女のことを愛してくれているというのならば、それを忘れないでいてくれるだけのものを。

 もし今ではもう心からは愛してくれていないというのならば――。

 視線を俯かせそうになりながら、智代は願う。

 もう一度愛してくれるような。せめて、そばにいてくれるだけの思いを込めた料理を。

 だから、頑張ろう。

 わたしに温もりを与えてくれるのは彼だけだから。

 外は今も雪が降っているはずだ。

 けれど、明日の朝は晴れてくれると嬉しいと思う。

「わたしは好きなんだ、朋也。あの時から――ずっと」

 想いが、この心からの想いが彼の心にもう一度届いたことを教えてくれるような。



 

 

 

 

 

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