「はい、かーさん」

 岡崎巴が包装紙に包まれたプレゼントを智代に手渡した時、当の本人たちは気づかなかったのであろうが、空気が凍りついたという。

「ああ、ありがとう、巴」

「けっこうくろうしたが、かーさんがよろこぶときいたからな」

「ほほう?楽しみだな」

「ふふん。ここであけてもいいんだぞ」

 この一言で、その場の空気にヒビが入るのが聞こえたと、ある者は証言した。

「そうか?ではありがたく」

 がさがさと智代が包装紙を取り除く音だけが、異様に大きく聞こえたそうだ。

 本来なら微笑ましい事この上ないその光景を見ながら

 ある者は顔をこれでもかと言わんばかりに強張らせ

 ある者は止めるべきか否か最後まで迷い

 ある者は諦観に浸って呆け

 誰もがその後に続く惨劇に備えた。


「おや、これは……」





















 ハッピー?バースデー!チキチキ伝言ゲーム




















 十月七日。

 岡崎智代女史の誕生日をあと一週間に控えたある午後。

「お、チャイムだ」

 光坂高校の美術の授業を受けていた男子生徒が呟いた。

「あー、くそ。ヒトデ二十点のノルマこなせなかったな」

「うー、手がゴワゴワするよぉ」

「うおっ、誰だよこのリアルに彫ったヒトデ!マジキモッ」

 口々にいろいろなことを言いながら生徒たちが帰り支度を始めると

「お待ちなさい」

 伊吹風子教諭が教壇の上に立った。教壇に、ではなく、その上に。とはいえ、光坂高校ではそう別段特殊な行為でもなかった。伊吹先生は背が低いので、こうでもしないと気づかれないのである。普通の教師がそのようなことをすれば不適切な行為だうんたらかんたらと問題になるのだろうが、伊吹先生の場合はなぜか「ま、いっか」と言いたくなるような雰囲気に押され、誰も強いことが言えなかったりする。ある意味、伊吹先生の人望だった。

「ヒトデ祭りまであまりないのです。だから、皆さんの中でノルマが達成されてない方は、終わるまで居残りです」

 一瞬の沈黙の後、教室内は騒然とした。

「ええええええっ」

「ひでぇよ、ひどすぎるよふーちゃん先生」

「ふーちゃん先生、うち、塾あるんですけどぉ」

「ふーちゃん先生、テレビのゴールデンタイムは義務教育の一環だって言ってくれたじゃんか」

「シャラップです!ヒトデがあってこそのヒトデ祭り、ノルマ達成は譲れません」

『そんなぁ……』

 へたり込んだり机に突っ伏したりする生徒を見て、風子は腕を組んで厳かに言った。

「でも、風子も鬼ではありません。今なら特別にノルマを……」

『半分にしてくれるんですか?』

「二十五点にしてあげます!」

『増えてんじゃねぇかっ!!!』

 ギャーギャーと生徒たちが抗議の声を上げていると

「ふうこおねえちゃん!!」

 ガラリと教室の扉が開いて、風子より一回り小さな少女が入ってきた。

「と、巴ちゃんじゃないですか!まさか風子に会いに来てくれたんですか?」

「うん。ふうこおねえちゃんにどうしてもききたいことがあるんだ」

「そうですか……では仕方がありませんね。巴ちゃん、一緒に帰りながらお話しましょ」

「うん」

 その答えを聞くと、風子は教壇から降りて職員室に戻る準備を始めた。

「あのぉ、ふーちゃん先生、居残りは……」

「風子に、巴ちゃんのお願いを断れというのですか?わざわざ来てくれた巴ちゃんを、追い返せというのですか?できますか、そんなこと?」

「……できねぇっすよね」

「わかればいいのです。人生には、時々勉強よりも大事なものがあるのです」

 これ勉強だったの、と誰かがツッコむよりも早く、風子は巴の手を引いて教室を出て行ってしまった。





「つまりですね」

 公園のブランコに揺られながら、風子は巴に訊いた。

「智代さんがお誕生日のプレゼントに何がほしいのか、知りたいんですね」

「そうなんだ」

 ぷらぷらと足を揺らしながら巴が言った。

「岡崎さんに訊いてみたりは」

 巴は首を左右に振った。

「とーさんとかーさんはウンメーキョードータイのイッシンドータイだから、とーさんにはなすとかーさんにいってしまうかもしれない」

「賢明です」

 風子が厳かに断定した。

「岡崎さんは最悪です。智代さんに訊かれたら、絶対に口を割ってしまうでしょうし、もしかしたら自分から話してしまうかもしれません」

「……うん」

「ところで、では智代さんにさりげなく訊いたりは」

「だめ」

「どうしてダメなんですか」

「そうしたら、わたしがかーさんのほしがっているものをしらないということがばれてしまう。わたしはかーさんのむすめなのに、かーさんのことならなんでもしっていないといけないのにな」

 そう言うと、巴は寂しそうにうなだれてしまった。

「巴ちゃんは優しいんですね」

「ちがう。ただかーさんがすきなだけだ」

「そうですね。でも、優しいいい子です」

 そう言って風子は巴に微笑みかけ、その頭に手をおいた。

「そうやって、他の人のために悩めるのは優しいからだと、風子思います。そういう優しい巴ちゃんがくれた物なら、智代さんならきっと何だって受け取ってくれると思いますよ」

 うん、と巴は頷いた。

「でも、たんじょーびはかーさんのなんだ。どうせなら、わたしのためによろこんでくれるんじゃなくて、かーさんがかーさんのためによろこんでほしい」

「そうですね」

「それに、とーさんにはまけたくない」

 その一言に、風子の肩がぴくりと動いた。

「岡崎さんですか」

「うん。とーさんはかーさんのことをなんでもしってるから、いつもかーさんがいちばんよろこぶようなプレゼントをあげる。だから、いつもとーさんがかーさんからほっぺにチューをしてもらえるんだ。でも、ことしはともえがいっしょーけんめーかんがえて、かーさんのほっぺのチューをひとりじめするんだ」

「巴ちゃん!」

 風子はがし、と巴の手を握った。本来なら親子ほどの年齢差がある二人なのだが、風子が全体的にプチサイズなので、巴の手は痛くはならなかったりする。

「風子、俄然燃えてきましたっ!岡崎さんなら、相手に不足なしです!!頑張りましょう!!」

「うん、がんばるぞ」

「打倒岡崎さんです!」

「おーっ」

 夕日が街を赤く染める中、風子と巴は誓いを胸にしたのだった。





「というわけなんです」

「そうなんだ」

「そうなんです」

「ふぅちゃんは、それで巴ちゃんのお手伝いをしたいんだね」

「そうなんです。風子は頼れる大人ですから。近所でも評判ですから」

「そっかー。近所でも評判の頼れる大人さんかー。だったら、ね」

 引きつった笑顔で浮き上がろうとする青筋を隠しながら、芳野公子は言った。目の前には新聞紙が敷かれたちゃぶ台、その上に山のように積まれた木材が。

「だったら、ヒトデ祭りの準備を先に済ませて、他人に迷惑をかけないようにしなさい」

「意味がわかりません。他人に迷惑はかけていませんが」

「もうっ!結局お姉ちゃんと祐君がヒトデの制作に協力することになったでしょっ!一ヶ月前から言ったよね?『ヒトデ祭りをするんだったら、週末もヒトデをいっぱい彫らないと、あとで困るでしょ』って」

「お姉ちゃんと祐介さんは家族ですが?他人じゃないです」

「もうっ!屁理屈言わないのっ!」

 その時、先程から黙々とヒトデ職人と化していた芳野が、すっくと立ち上がった。そして無言のままで風子の前にやってきた。

「……祐君……?」

「祐介さん……?」

「風子ちゃん……」

 そう静かに言うと、芳野は風子の前に腰を下ろした。その真剣な目を見て、公子は息を呑んだ。

(祐君……まさか、びしっとふぅちゃんに言申すつもり?!でも、まさか大声で怒鳴ったりは……いいえ)

 公子は生唾を飲み込んだ。

(いつもは静かな人だけど、言うべき時は言う。岡崎さんだって、この前言ってたじゃない。祐君のお陰で仕事のやり方を学んだけど、現場ではいつも鬼のように厳しかったって……でも、その厳しさがあったからこそ今の自分があるんだって)

 多分芳野は風子の甘ったれた責任感が風子のためにならないと思ったのだろう。だから、もしかするとこれから言うことは、日頃甘やかされてきた風子を傷つけるかもしれない。だけど、それは必要な言葉なのだ。だから、もし風子が家を飛び出してしまう結果になっても、芳野を止めることはすまい、と公子は心に決めた。必要なことは言わせるべきだ。だけど、傷ついた風子をフォローすることは怠るまい。

(言ってやって、祐君……!)

「風子ちゃん」

「はい……」

「彫刻刀が鈍っている。それでは怪我をするぞ。俺のを使ったらいい」

「え、でも祐介さんのは」

「風子ちゃんのを研がせてもらうさ……公子?」

「お姉ちゃん、どうしたんですか突っ伏したりして?お行儀が悪いですよ」

「……そうだね」

 力のない声で答えると、公子はゆっくりと体を起こした。ズッコケた時にちゃぶ台にぶつけた額がヒリヒリした。

「そこで相談なんですけど、智代さんのような女性は、何をもらったら喜ぶんでしょうか」

「あれ?ふぅちゃん、近所で評判になるほど頼りになる大人じゃなかったの?大人なら、そういうの知っていないとなぁ」

 ちょっと意地悪がしたくなったので公子が茶々を入れると

「…………ハァ」

「え、ため息」

「風子と智代さんでは、大人のベクトルが違います。お姉ちゃんはそんなことも知らなかったんですか」

「ご、ごめんなさい」

 思わず謝ってしまった。

「いいですか。風子と智代さんでは、大人の風格が似ています。でも違います。この違いは重要です。強いて言えば……」

「強いて言えば」

「さぬきうどんと緑のたぬきほど違います」

「それ、結構違うよね」

「2ちゃんねると4chほど違います」

「それ、わかる人いるのかなぁ」

「イナバウアーとマトリックスの弾除けのシーンほど違います」

「何言ってるのかわかんないよ」

 芳野公子、とうとう白旗である。

「というわけで、智代さんのような女性が貰って喜ぶものを調べておいてくださいね、お姉ちゃん。宿題です」

「あ、はい……え、あれ」

 ふと気づいたら、やることが増えていた公子だった。





「というわけなんだけど……」

 公子が困った顔で言うと、渚も苦笑した。

「ごめんなさい。ちょっと私にもすぐにはわかりづらいです」

「そう……渚ちゃんなら知ってるかもしれないと思ったんだけど」

「え、どうしてですか」

「だって、おn……」

「……どうしましたか」

「いいえ、何でもないわ」

 そう言って公子は笑った。同じ世代、というと自分が何だか年を取った気がしたので急いで口を噤んだのだった。

「でも、渚ちゃんと智代さんは二人とも素敵な女性だから、共通点もあるんじゃないかって」

「わ、私と智代さんが、ですか」

「ええ、そうよ」

「な、何だか照れます……でも、私なんかが智代さんと同じだなんて、そんな」

「そう?でも、それはね、少しはベクトルは違うわよ?でも、私から見れば可愛らしい素敵な女性よ、二人とも」

「そ、そうですかっ」

「例えて見るならピンポンとスカッシュみたいな」

「そ、そうですか」

「あるいはMステとM78星雲みたいな」

「そ……そうですか……?」

「あるいはミルクとミルフィーユみたいな」

「……」

 いくら常識人に見えても、芳野公子は伊吹風子の姉なのであった。

「そ、それはともかく、どうしましょう」

「そうね。智代さんみたいな人……ね」

 考えこむ二人。

「智代さんって、凛々しいですよね。その線で行くのはどうでしょう」

「凛々しい、ね」

「今でも午前中は出勤しているビジネスウーマンですから、例えばビジネスウーマンの間の流行を調べるのはどうでしょうか」

「でも、そういうのを知ってそうな人っていうと……岡崎さんとか」

「でも、岡崎さんに相談したら、智代さん、勘が鋭いからバレてしまうかもしれません」

 トモトモーズのエスパーじみたお互いの察しの良さを思い出すと、公子は朋也に相談するという線を打ち消した。しかし、光坂市の表通りから外れた古河パンを贔屓にする客層は主に主婦、それも専業主婦だったりする。

 しばらくうーん、と唸っていると、渚があっと声を出した。

「春原さんですっ!春原さんがいます」

「春原さん?うーん……」

 春原の顔を思い浮かべて公子は考え込んだ。春原といえばあまり女性の繊細な機微に敏いイメージがなかったからだった。実際そうなのかどうかは別として、確かに一般イメージだけに従えば、公子が躊躇するのもわからなくもない。

「というより、ここは女性に頼みたいところだけど……」

「じゃあ、杏ちゃんはどうでしょう?杏ちゃんなら智代さんとも親しいですし、奥さん付き合いや幼稚園に来る親御さんたちとの会話で何かわかるかも知れないです」

「それは……いいアイディアね」

 公子はぱぁっと微笑んだ。渚も嬉しそうに頷く。

「はいっ」

「じゃあ、渚ちゃん、悪いけど杏さんに頼んでみてくれるかな」

「任せてくださいっ」

 その時、渚は即答したのだった。





「というわけで、ごめんね、渚ちゃん……あっ、ちょっと、それやめ……ごめんごめん。うん、ちょっと今夜は遅くなるって」

 肩と顔に無線式の受話器を挟みながら、春原は片目を手元のまな板に、もう片目を息子の翔に据え、娘の椿芽を抱き上げてあやした。

『そうですか。こちらこそごめんなさい、お忙しい中に』

「いや、そんな謝んなくていいんだけど……ちょっとそれやめて翔、マジ洒落にならないから」

 油を引いたフライパンが乗っているコンロの摘みに手を伸ばした翔を窘める春原。杏の帰りが遅い日は、春原が夕飯を作ることになっているのだが、レパトリーの中で子供たちが一番好き、というより食べてくれるのがチャーハンだった。本人はもっと幅を広げたいと思っているのだが、時間と体力がないのが痛い。

「まったく……あ、でもね、渚ちゃん、伝言ならメモっといて杏に渡しとくけど」

『いいんですか?すみません』

「いいっていいって……それで?確か現役で働いてるOLの間で流行ってるもの、だったよね」

『はい。ありがとうございますっ』

「ええっと、ペンと紙……っと。はい、オッケー、メモっとくよ」

『はいっ!では失礼します』

「あいよっと……現役の、OLの、間で……」

 春原がメモ帳にボールペンを走らせていると


 ゴトン


「うわっ」

 翔の素っ頓狂な声で春原が見上げると、息子の足から三センチほど離れた床に、包丁が突き刺さっていた。

「こら、何やってるんだよっ!!」

「え、ええ、で、でも、これ勝手に」

「包丁が勝手に落ちるわけないだろっ!さっきから変なことしてばっかりだろお前っ!!危なすぎるだろ!」

 さすがに息子の身に危険が及ぶようなことが多発すれば、春原も黙ってはいない。包丁を流しに置いて、これ以上危ないことが起こりようがないことを確認すると、春原は翔に正座させた。

「いいか、翔……」

 春原はツッコミのキレとコンボは高いものの、あまり怒ることはなかったりする。むしろ、杏が怒るのを宥めるのがいつもの役目で、実は結構温和だったりする。

 そして、えてして。

 そういう温和な人間ほど怒る時は怒るのだ。

 春原が説教を終えた時には、翔は突っ伏す他ないほどに足がしびれ、また、夕食の時間も遅れに遅れた。だから作業を再会する前に、メモ帳に「流行」と書き足しただけでも春原の記憶力を認めてやらないと酷である。

 その夜遅く。

 杏が玄関を開けた時には、翔と椿芽は既に寝ており、春原も居間で船を漕いでいた。

「ただいまー」

 小声で杏が挨拶すると、春原が「ふぁい」と半分寝ぼけたまま答えた。

「ごめんねー。昼間にレクチャーがあってさ。雑務が遅れちゃって」

「おつかれ。チャーハン、冷蔵庫にあるから」

「ごめんね。あと、ありがと」

「いいって……ふぁああ。んじゃ、お先」

「はいはい」

「あ、そうそう……あふぅ……渚ちゃんから伝言。何だか流行について質問だった」

「え、流行」

「うん……そこのメモに書いといたから。じゃあね」

「あ、うん。ありがと」

 そう言って杏はメモ帳に残されたメッセージを読んだ。

 今となっては詮無いことだが。

 その時、春原が伝言の内容を説明しなかったことも

 伝言を書いている最中に意識が他のことに集中してしまったことも

 杏がメモの内容を確認しなかったのも

 杏の受けたレクチャーが「インフルエンザの流行・傾向と対策」という題だったのも

 全て不運だったのだ。





『というわけなんだけど、椋、何だかわかる』

 姉からの質問に、柊椋は首を傾げた。

「わからないこともないけど……お姉ちゃん」

『うん、何』

「何で渚ちゃん、OLの間で流行しやすい病気のことなんて知りたいんだろうね」

『そうねぇ』

 杏が電話の向こうで肩をすくめる気配がした。無論、普通ならそんなことわかるはずもないのだが、杏と椋ならわかったりするのだったりする。

『多分、早苗パンの新作のアイディアとかじゃないかしら。万能薬パンとか』

「それ、むしろ食べたほうが体を壊しそうだよ」

『それもそうよね』

 杏の笑い声につられて、椋も笑った。そして真面目な顔をした。

「でも……そうだね。いろいろ思いつくよ?仕事張り切りすぎて無理すると、今の時期は風邪で寝込んだりする人多いみたいだし。寝不足とか過労とかで倒れたり」

『うーん……なるほどねぇ』

「でも、渚ちゃん、OLってわざわざ特定したんだよね?だったら、OL特有の、ってことかな」

『そうねぇ……』

「お姉ちゃん、渚ちゃんに確認してみたらどうかな」

『うん……でも怖い気もするし』

「怖いって」

『話してる最中にポロッと早苗パンの正体がバレたり』

「あー、それは怖いよね」

 ふふふ、と旧姓藤林姉妹は笑った。

「そうだね……まあ、じゃあ、OLの社会学っていうか、医療人類学に造詣の深い人の意見も必要だね」

『椋の周りにそんな特異な専門の奴なんているの』

「うーん、一応病院の同僚にも傾向とか訊いてみるけど、心当りがないわけでもないよ」

『へえ……すごいわね。じゃあ、お願いしちゃっていいかしら』

「うん、まかせて」

 そう言って電話を切ったあと、椋はパソコンの前に座った。

「ええっと……メールを新規作成っと……」



宛先 kichinose@

件名 ビジネス社会において活躍する女性の疫学的傾向について


拝啓 ことみちゃん


お元気ですか。

今、お姉ちゃんからの以来で、日本において働く女性の疫学的傾向について調べています。私の考えでは過労などによる体力低下・免疫力低下によって引き起こされるものが多いかと思いますが、何か見落としていないかどうか、ことみちゃんの意見を聞かせてくれれば幸いです。


つーか乳牛がおつむ使う機会与えられてるんだから、さっさと調べてくださいよね。


お返事お待ちしています。





「……ですからね、博士。その、わからないことはわからないとはっきり言ってもらえば、こちらでも対処の仕様があるんです」

「……ごめんなさいなの」

 一ノ瀬ことみはその頃、珍しく助手に叱られていた。

 図書館から本を借り出そうとしたところ、貸出システムがエラーを起こした。そこまではよくある話なのだが、その時ことみは二日ほど不眠で研究に没頭していたせいで、頭のなかが半ばトコロテンになっていた。ために、ふと気がついた時には

「ったく、最近はなかったから、その本のページを切り取る癖、治ったかなと思ってたのに」

「……しゅんなの」

「とにかく、これからは私に声をかけてくださいね。そんな珍しくも高くもない本だったからよかったけど……」

 ぶつくさとブーたれる助手に頭を下げると、ことみはしょげ返って研究室に戻った。しばらくの間資料を読んでいたが、どうも気乗りがしない。

「……何だか、やる気が起きないの」

 叱られた原因となった資料を読んでいるのでは、モチベーション低下も仕方がない。ことみはため息をつくと、気晴らしにメールを開いた。英文で書かれた研究内容についての問い合わせや、出版社からの原稿推敲依頼、スパムを機械的に処理していると、二通の邦文のメールに突き当たった。

 一通目は古くからの知り合い、というよりかけがえのない親友夫婦の誕生日祝いの詳細確認だった。ことみはこれに出席するのが毎年の楽しみで、ここのところの忙しさもそのためだった。顔をほころばせて詳細を確認したことを返信すると、もう一通の邦文メールを開いた。

「あ……椋ちゃんからなの」

 これもまた親友からのメールだった。短いメールだったけど、懐かしさがこみ上げてきて、思わず何度もメールを読み返した。働く日本人女性の疫学とはまた変わった依頼だ、とは思ったが、普段の仕事からちょっと離れたリサーチテーマも片手間のいい気晴らしになるだろうと思い、赤フラグを建てようとした時

「あっ」

 睡眠不足と精神的疲労で鈍った指先が、フラグをクリックしたはずがメールの文字を反転させてしまったのだった。

「どうも疲れているようなの。このリサーチが終わったら、少し休む……の……」

 そしてそのまま硬直した。なぜかといえば、本文を反転させたために、メールの印象をガラリと変える一文が浮かび上がったからだった。


拝啓 ことみちゃん


お元気ですか。

今、お姉ちゃんからの以来で、日本において働く女性の疫学的傾向について調べています。私の考えでは過労などによる体力低下・免疫力低下によって引き起こされるものが多いかと思いますが、何か見落としていないかどうか、ことみちゃんの意見を聞かせてくれれば幸いです。


つーか乳牛がおつむ使う機会与えられてるんだから、さっさと調べてくださいよね。


お返事お待ちしています。




「なのぉおおおおおおおっ」

 思わず絶叫してしまった。片手間に、気分転換になんてとんでもない。本気でうちかからないと、杏の妹にふさわしい慈悲のなさで断罪されてしまう。しかし半端な知識で挑んだらとんでもないことになる。わからない時は人に聞けと叱られたばかりのことみは、急いで一通のメールを日本の知り合いに向けて打った。





「あれ?メールだ」

 三島ともは振動する携帯のタッチスクリーンを操作してロックを解除すると、メールアプリを選択した。

「あ、ことみちゃんからだ」

「へー。ことみって、あれっしょ、あのナイスバディな」

「河南子、そんな言い方はないだろう。一ノ瀬の素晴らしさは、外見上のものではなく、その純真無垢かつ頭脳明晰なところだろう」

 妹たちに茶を淹れてやると、智代も湯呑みを手にした。

「うーん、このメールの内容からして、むしろ智代お姉ちゃん宛かなぁ」

「うん?誕生日パーティーのことか」

「ええっと、そうじゃなくて、あ、でも来られるとは書いてあるけど、そうじゃなくって、何だか日本のOLについて知りたいみたい」

「ふむ」

OLのことぉ?変なの」

 河南子、智代もともの携帯を覗きこんだ。

「なになに……ともちゃんへ、日本のOLがかかりやすい病気について調べています、ついてはOLの実態について教えていただけたらと思います……実態、ねぇ」

「抽象的でわかりにくいな。そもそもOLと言ってもピンキリだぞ」

「だよねぇ……じゃあさ、質問をもう少し具体的に解釈してみようよ。OLの一日とか」

「デスクワークですってか」

「そんな答えでは何もわからないだろう。この場合、労働環境とか、勤務パターンとか……私が返信してもいいか」

「はい」

 そう言ってともは智代に携帯を手渡した。智代の細い指が素早くスクリーンのキーボードを操作していく。

「近頃ではブラック企業とかよく耳にするからな。それについても言及しておこう」

「あ、それいいかもね」

 しばらくしてから、智代は携帯をともに返した。

「できたぞ」

「はい、ありがと。結構いっぱい書くことあったの」

「そうだな。データや数値だけではわかりにくいだろうと思ってな。昔聞いた話も添えておいた」

「へえ。どんなの」

 河南子が興味ありげに智代に話を催促した。

「ひどい話だぞ。就職難の時に入社した会社がブラック会社で、だけど他は全部蹴られて、だから殺人的と称された勤務表を手渡されても逆らえなくてな。数年後病院に担ぎ込まれたきり……」





「なのぉおおおおおおおおっ」

 智代が添えた「体験話」を読んで、一ノ瀬ことみはその日二度目の絶叫を発してしまった。


「あ、ことみちゃんからの返事だ。えーと、なになに……は?『いじめっこ』?何を血迷ったことを……あ、そうだ」


「あ、もしもし、椋?うん、今大丈夫。うん……うん……え?あー、なるほどね。ストレスね。うん、それは盲点だったわ。うん、伝えとく。さんきゅ」


「あ、杏ちゃんですか。はいっ!はい。はい?え?……はぁ……ストレスですか……わかり……ました?はい、ありがとうです……はー、ストレスが流行ってるって、どういうことでしょう……?あ、そうです、わかりましたっ」


「え、本当に杏さんはそう言ったの?ストレス発散が大事だって?そうなの……大変ね。わかった。ふぅちゃんにそう伝えておくわ。本当にありがとう、渚ちゃん」




 そんなこんなで巴の最初の問が捻れに捻れ、歪みに歪んだ後に智代に伝わってから数日後。

 トモトモーズの誕生日パーティーの会場で、この伝言ゲームの立役者たちが揃った。

「あっ、杏ちゃんですっ!椋ちゃんも」

「あ、渚」

「渚ちゃん、こんにちは」

「こんにちは。えへへ」

「ところで渚、OLのためのストレス発散パン、開発は進んでるの」

「……え」

「またまたぁ、とぼけちゃって」

「渚ちゃんがOLの疫学について知りたいのは、早苗パン開発のためじゃないかって話をしてたんです」

「……疫学、ですか」

「ほら、前あたしに訊いてたじゃない」

「……前に、訊きましたか、そんなこと」

 渚の触覚がはてなマークを作ったので、杏と椋は顔を見合わせた。

「ちょっとやだ、訊いたじゃない、電話で」

 杏が不安げに答えた時

「杏ちゃん、椋ちゃん、渚ちゃん、こんにちは」

「あ、ことみちゃんです」

「ことみ、来れたの!智代も朋也もよかったわねぇ」

「ことみちゃん、メールの返事、ありがとうです」

「ど……どういたしましてなのっ!一生懸命調べたのっ!だからいじめないでほしいのっ」

「椋ちゃんも、何か調べ事ですか」

 首を傾げる渚に、椋も戸惑いの色を隠せなくなった。

「私は、渚ちゃんがOLの間で流行している病気について調べてほしいと聞いたから」

「病気ですか?訊いてませんよ。私はOLの間でどういうものが流行っているかと」

「ええ、ですから……え」

「ちょっと待って渚、それって」

「ちょっと変ですけど、ファッションとか、そういう意味で、です」

 その言葉を聞いて、三人は固まった。そして


『えええええええええええええええええええっ』


「ちょっ、え、ええ、どういうこと」

「ですから、OLの間で何が流行なのか、春原さん経由で杏ちゃんに訊いたつもりだったんですけど」

「な、何でそんな」

「いじめる?いじめる」

「ホルスタインは黙っててくださいね邪魔だから。でも、どうしてそんなことを」

 と、そこへ公子が会話に加わった。

「どうかしたの?あ、渚ちゃん。先日はありがとうね。さっそくインターネットで調べて、ふぅちゃんに伝えておいたから。でも、あんなものがOLの間で流行してるなんてね」

「あ、あの、公子さん、風子に伝えるって……一体何を」

「え、プレゼントのアイディアの話、だけど……」

 それを聞いて、杏が一歩身を乗り出した。

「その話、少ぉし詳しく聞かせてくれませんか」


(間)


『ええええええええええええっ』

 さすがに五人の女性が悲鳴を上げれば、誰もが何かあったのだろうかと思うだろう。

「どうしたんだ、みんな?何かあったのか」

 智代が駆け寄ってきた。これはパーティーのホストとして務めを果たしていることになるのだが、状況がいささかまずかった。

「あ、いや、うん、大丈夫だからね」

「そうですっ、何でもないですっ」

「いじめないの、いじめないの」

「ごめんなさいね、大声出したりして」

「すみませんっ」

「……そうか?何かあったら言ってくれ」

 少しばかり納得していないながらも、そこまで言われれば引き下がる他はなかった。智代はさっきまでいた場所、つまり朋也の隣に戻っていった。

「じゃ、じゃあ、渚はあたしに普通に智代のプレゼントの相談をしてたの」

「そうですっ!……言ってませんでしたっけ」

「聞いてないわよっ!あたしは早苗パン開発の手助けをしてたのかと」

「そっちの方がありえないでしょ、お姉ちゃん」

 椋が杏にツッコんでいる間、公子は顔を紙より白くさせていた。

「じゃあ……待って……とすると、ふぅちゃんは……」

「そう、それ!公子さん、風子に何を薦めたんですか」

 四人の視線を受けて、公子は気が遠くなりそうになるのを堪えて、血を吐くような声で言った。


「ストレス発散のために、ボクシングとかで使うパンチミット」


「……最悪だ」

 智代がそれを受け取った時の状況を考えて、杏は呟いた。常に女の子らしさを意識している智代に、そんなものが誕生日プレゼントとして贈られたら、智代がどのような精神ダメージを受けるのか。ましてやそれが愛娘からの贈り物だったとしたら。

「な、何とか回収するとか」

「岡崎さんに頼んで、別のものと変えてもらうとか」

 と、いろいろと案を出し始めていると

「おーい、みんな、プレゼントの贈呈やるぞ。ちょっと来てくれ」

 時間切れだった。

「朋也ってさ、いっつも、どうしてこう、タイミングつーかさ」

 小声で罵詈雑言を浴びせながらも杏は会場の中央に向かった。他の四人も重い足取りで歩き出した。そして坂上雅臣氏を筆頭にプレゼントの贈呈が始まった。

「そういや、さっきどうなったんだ」

 プレゼントを渡す順番が最後の朋也が訊いてきたので、杏は小声でかいつまんで状況を説明した。みるみる青ざめる朋也。

「やべえだろ、それ」

「でしょ?だから何とかプレゼントの差し替えとか、そういうのできないの」

「えーと、だな、そうだな」

 と、その時

「では、つぎはわたしのばんだ」

 巴が胸を張って宣言した。会場内の六人の前に「絶望」の二字が点滅した。

「はい、かーさん」

 岡崎巴が包装紙に包まれたプレゼントを智代に手渡した時、当の本人たちは気づかなかったのであろうが、空気が凍りついたという。

「ああ、ありがとう、巴」

「けっこうくろうしたが、かーさんがよろこぶときいたからな」

「ほほう?楽しみだな」

「ふふん。ここであけてもいいんだぞ」

 この一言で、その場の空気にヒビが入るのが聞こえたと、ある者は証言した。

「そうか?ではありがたく」

 がさがさと智代が包装紙を取り除く音だけが、異様に大きく聞こえたそうだ。

 本来なら微笑ましい事この上ないその光景を見ながら

 ある者は顔をこれでもかと言わんばかりに強張らせ

 ある者は止めるべきか否か最後まで迷い

 ある者は諦観に浸って呆け

 各自、その後に続く惨劇に備えた。

「おや、これは……」

 そう言って智代が包装紙の中から取り出したものは



「…………ヒトデか」


「そうだ。かーさんのためにいっしょーけんめーふうこおねえちゃんといっしょにほったんだ」

「うん、そうか。これは本当にいいモノをもらった。ありがとう」

 そう言って、智代は巴を抱き上げると、ほっぺにキスをした。自然と拍手が参加者から溢れた。

「ねぇ、これ、どういうこと」

 拍手をしながら、杏が狐につままれたような顔をした。

「さあ……俺にもさっぱり」

「どうかしたんですか岡崎さん、いつにもまして呆けた顔をして」

「んだとこの」

 憎まれ口がした方を朋也が見ると、そこにはトンガリ帽子を被った風子がいた。

「ねえ風子、あんた、巴ちゃんとヒトデを彫ったの」

「ええ、そうですよ?風子がナマコ彫るなんてないですから」

「……あっそ。それでさ、風子。公子さんは、パンチングミットを薦めたのよね」

「ええそうです。ただ、まあ、ヒトデのほうが心の癒しになるのかと思って」

「グッジョブ、風子」

 サムアップする杏と風子。しかし朋也は風子の口調に何か違和感を感じたので、ぼそっと耳元で囁いた。

「……本音は」

「実は風子、今月お小遣いがピンチだったので、一番安上がりなプレゼントにしました」

「うわぁ……」

「はっ!岡崎さんの計略に引っかかって、ついダミーを漏らしてしまいましたっ!」

「嘘つけ!今メチャクチャ本音だっただろうが!!」

「岡崎さん、バツとしてプレゼントなしですっ!」

「何だとこら」

 こうして。

 智代のプレゼント大爆弾事件は平和裏に幕を閉じ、あとは

「岡崎さん最悪ですっ!!」

「言いやがったなチンチクリン!!」

 いつもの喧騒があるだけだった。





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