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 布団の中でため息をついた。

 俺はベッドの中で寝返りを打ち、しばらくの間眠ろうと努力した。しかし、今までの習慣ではもう起き出す頃だし、そもそも、目は三十分ほど前から覚めきっていた。俺は布団から出て、ほの暗い部屋のカーテンを開けた。昨日の雪はもう止んでいて、白い静寂が窓の外に広がっていた。

 ふと、誰かに頬をつねってほしくなった。今日は、俺が長い間夢で待ち望み、望み焦がれていた日だった。それが現実となったことが、よく理解できなかった。

 そもそも、昨日の出来事が本当にあったのか、それとも雪の中で蜃気楼でも見たのか、確かではなかった。あの腕の中のぬくもり、あの耳に響いた言葉、あの透き通った涙。


「……よし」

 

 俺は服を着ると、軽く飯を食べてコートを着込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 残雪

 

 

 

 

 

 

 

 雪は所々で溶け始めていた。俺は凍った雪や溶けてぐずぐずになったかき氷みたいな雪に足を取られないように気をつけながら歩いた。あいつは……そう言えばブーツだったな。まぁ、あいつに限って転んだりはしないとは思うが。

 そう思っていると、目の前を白い物がはらはらと落ちた。それはあまりにも軽く儚げに空に舞い、風に流されていった。

「……桜?」

 俺は驚いて上を見た。しかしそこにあったのは満開の白桜の木ではなくて、枝に雪をぎっしりと乗せた老木だった。どうやらさっきの花弁は、この枝の上の雪が少し落ちたもののようだった。

「それにしてもな……」

 雪を桜と見間違えるなんて、どうやら末期のようだった。世界の隅々が、あいつの世界を形成しているようで、少しばかり怖くなった。こんな不安定な精神状態で、俺はあいつに会えるんだろうか。まだ夢と現を彷徨っているような状況で、俺は自分の犯した間違いと対峙できるんだろうか。

 俺は老木の枝を眺めた。そこに乗っている雪は朝の光を受けて眩く輝いていた。眩しすぎるほどに、美しすぎるほどに。俺は目を細めつつも、それを眺め続けた。そしてしばらくしてから、また歩き始めた。

 歩きながら考えた。俺は確かにこんな結末を、もし赦されるのであれば、この日のことを望んでいたのだった。実際に起こるとは思っていなかった。一度壊れたものは、壊したものは、簡単に直るはずもなかった。そもそも、直ってはいけないから、どこかが変わらなければいけなかったから壊したのだった。だから元通りになるということはない。何かが変わっていなければいけない。

 しかし、俺の歩く道は昨日と少しも変わっていない。世界が光に満ちているようにも見えなければ、歓喜に溢れているとも思えなかった。

 もし、何も変わっていなかったら?

 ふと、そんな思いが頭の中をよぎる。もしも本当にただ壊れた破片をつなぎ合わせて元通りにしただけだとしたら。これは前進ではなくて、苦しみと悲しみの延長、欺瞞に溢れた頽廃の再開だとしたら。

 ぎし、と俺は足を踏みしめた。違う。これは繰り返しじゃない。俺は、俺達は、また前に進める。前に進む。

 

 

 

 

 腕時計を見た。十時十五分前。念のために、シンプルなデザインの公園の時計も確認してみた。十時二十分前。約束の時間には、まだ早い。

 なのに

 なのにどうしてこいつは、すでにベンチに座って俺を待っているんだろうか。

 俺は我に返ると、苦笑した。その白い息が見えたのか、あいつは俺を見つけて、うれしそうに、本当にうれしそうに笑った。

「朋也っ!」

「よぉ」

 俺は智代の隣に座った。智代がはちきれんばかりの笑顔を俺に向ける。

「早いじゃないか。私はてっきり遅れてくるものだとばっかり思っていたぞ」

「いや、その……まぁな。それよりお前こそ、俺が遅れるって思っていたんだったら、何でこんな早くにいるんだ?」

「む……そうだな。強いて言えば」

「強いて言えば?」

「何となく、そんな気がしただけなんだ。直観というやつだろうか。うん、女の直感だな。これは女の子らしいとは思わないか」

「……そうだな」

 女の子らしいとは思わないか、か。

 智代が俺をまじまじと見た。

「どうしたんだ、急に黙りこんだりして」

「いや……お前のその口癖、本当に久しぶりだなって」

「……実は、私自身言うのも久しぶりなんだ」

 少し俯いて、寂しそうな笑顔になる智代。

「私には、女の子と認めてほしい奴が、いなかったからな」

「……智代」

 その手を取った。あまりの冷たさに、少しびっくりした。女の直感とやらだって?そんなものを信じて、俺を待っていたって?指がこんなに冷たくなるまで?

「智代」

 もう一度、その名を呼んでみた。

「すごく、最高に女の子らしいと思うぞ」

 すると、智代の表情から寂しさが消え、広がるのは春のような歓喜の色。

「そうか、そう言ってくれると、うん、すごくうれしい」

 その笑顔につられて、俺も笑った。どこか澄んだような、いつの間にか忘れてしまったような笑いだった。

 

 

 

 

「弟だっけ……光坂に入れそうか?」

 並んで歩きながら、俺は智代に聞いてみた。

「鷹文か?うん、四月からは私達の後輩だな」

「そっか。よかったな」

 本当はもっと言葉をかけてやりたかった。智代の悲願が達成されたんだから、他に言ってやれることはあったはずだった。

「うん。鷹文は頑張り屋さんだからな。それに、成績だって悪くはない。うん、自慢の弟なんだ」

 智代が話を続けてくれた。誇らしげな笑みを見ているうちに、俺も笑った。

「そうか……そうだよな」

「ただ……」

 不意に、智代がため息をついた。

「ただ?」

「いつの間にかパソコンを覚えてしまっていて、今じゃそっちにのめり込んでしまっているんだ。考えてもみろ、これから青春を謳歌しようとしている健全な男の子が、一日中スクリーンの前に座ってカタカタやっているんだぞ?これはあまりよくないんじゃないか」

「いや、そんなSSサイトで小説を読む読者の心をえぐるような発言をしてもな……」

「読者?何だそれは」

「と、とにかく、何だか面白そうじゃないか、それだって。少なくとも俺みたいになるよりはましだろ」

 すると智代はこっちが驚くほど勢いよくぶんぶん、と首を振った。

「そんなことはないっ、朋也みたいな奴になってくれれば、私だって言うことはないぞっ!むしろ、みんなお前を見習うべきだっ」

「おまっ、ちょっと……っ」

 あまりにも大きな声で言われたので、俺は顔を赤くして俯いた。辺りから降り注ぐ視線がきつい。

「……何だか、喉、乾かないか」

「……あ、ああ」

 多分に恥ずかしさのこもった会話をしながら、俺たちは歩きだした。

 

 

 

 

「智代は、何にする?」

 薄っぺらい喫茶店のメニューを眺めながら、俺は聞いた。

「そうだな……紅茶にしよう」

「そうか。俺は、そうだな……」

 すると智代がふふっ、と顔を綻ばせた。

「コーヒーをブラック、無糖で、だろ」

「……何で知ってる?」

「ずっと前に、話してくれたじゃないか」

 話した覚えがなかった。それはいつのことだったんだろうか。しかし正しいということを考えれば、いつか話したことがあるんだろう。俺は苦笑しながらウェイトレスに合図した。

「仕事の方は、どんなところなんだ?電気工、と聞いたが」

「ああ。ほら、前に学校で結婚式やったことあっただろ」

「うん、覚えてる。確か伊吹公子さんと、芳野祐介さん、という人達だったな」

「ああ。その芳野って人の紹介なんだ。そんなにでかい事務所じゃないし、給料だって安いけどな」

「けど、朋也はもう自分の足で立ってる」

 ふと見ると、智代がまっすぐ俺を見ていた。

「朋也は、もう大人じゃないか。私なんかが歩いている道よりずっと大変な道を、それでも一人で歩きだそうとしてるんじゃないか」

 言下に否定することもできた。でも、俺にはその視線から目をそらすことができず、苦笑することもできずに黙り込んだ。

「……そうだ、智代は春休みの予定とかって、あるのか」

「いや、特にこれと言ってないな。まぁ、三年に向けて勉強などをしなければならないんだろうが」

「え?春休みなのに勉強するのか?新学年始まってないのに?」

「進学校の三年目が始まるところだぞ?それともしないのか?」

「……何で俺の内申があんなに悪かったのか、わかった気がする」

 テーブルの上に突っ伏した。すると智代が慌てて俺を励ます。

「で、でも、それは人それぞれであってだな、だいたい朋也はもう社会人なんだからな、そんな些細なことを気にしないでだな、うん、ほら、私が応援してやろうっ、フレーッ、フレーッ、と・も・や」

 何だかそんな慌てふためく智代がとんでもなくかわいく見えた。こういうところは後輩らしいんだろうか。いやしかし、その智代にここまで励まされなきゃいけない俺というか、相対的に見てそんな智代よりもだらしない俺は、やっぱり先輩には見えない。

「どっちが先輩だかな」

「……本当にな」

 ふふ、と二人で笑ったところで、コーヒーと紅茶が来た。

「で、さっきの話なんだが」

「うん、春休みの予定の話だな」

「ああ。実は春原がさ、明後日実家に帰るんだ」

 すると智代は複雑そうな顔をした。

「……そうか」

「俺は荷作りだの何だのと手伝いに行くんだが、一緒に来ないか」

「ふむ」

「お前がいてくれると百人力なんだけどな」

 そう言うと、智代は大きく頷いた。

「わかった。お前たち二人に任せると、とんでもないことになりそうだしな。全く、二人とも仕方のない奴らなんだから」

 はい、ごもっとも。

「しかし、春原の部屋か……まさかとは思うが、変な物が棲みついていたりしないだろうな?」

「いないと言いたいが、何とも言えない。というか、春原が棲んでいる」

「そうか……そうだったな」

 笑顔が心なしか硬い。やっぱりいろいろと抵抗とか拒絶感とか、そういうものがあるんだろう。まぁ、普通の反応だとは思うが。

「しょうがない。ムツゴロウさんに頼んで引き取ってもらおう」

「そうだな……って、そんなことできるのかっ」

「まぁ、ケージとトラックがあれば楽勝じゃね?」

「そういう物理的問題の話をしているんじゃない」

「捕獲は麻酔銃で」

「そうか、今までもそうするべきじゃなかった……って、そういう話でもないっ!ムツゴロウさんに人の面倒を頼めるかっ」

 すると俺は智代の肩に手を置いた。

「なぁ智代、あれが、あの春原が人間に見えるか?」

「き、金髪を何とかすれば普通の人じゃないか」

「あんなに蹴っ飛ばされたり顔から辞書を生やしたり顔面に全速力で硬球ぶつけられても一瞬後には回復している奴が?」

「……む」

 考え込む智代に、俺は諭すように言った。

「春原は、ここだけの話、春原科春原目に属する生き物で、学名をSunoharanthropus hetaria japonicaというんだ。人間によく似た生物で、その生命力が注目されて研究の材料にされるほどだったんだ」

「そんな大層な学名があるんだったら、何で他にいっぱいいないんだ?」

「その研究が曲者でさ、科学者が乱獲したから絶滅寸前になっちまったんだ。ちなみに、研究自体は失敗。副産物としてSunoharanthropus kitagawajun japonicaとかSunoharanthropus kinnikuwasshoi japonicaとかSunoharanthropus osakachaunen japonicaとかができちゃったわけだ」

「し、知らなかった……私は天然記念物に何て事をしてしまったんだ!」

 ずん、とテーブルに突っ伏す智代。

「こ、これでは女の子らしくなんかないじゃないかっ」

「あー、でも春原目の生命力は、厳しい環境でのみ発達するって話だからな。そうしなきゃ逆に死んじゃうらしい」

「そうか……生存本能に乏しい生き物だな」

「だからある意味、お前や杏は春原を強くしたんだ。命の恩人とも言えるんだ。聖母だぞ聖母」

 すると、智代は少し笑った。

「そうか、それは女の子らしいな……春原、野生で強く生きるんだぞ」

 遠い空を見上げて智代が呟いた。

 

 

 

 

「なぁ朋也、その……」

 喫茶店を出ると、智代が目を逸らしながら俺に話しかけてきた。

「どうした」

「腕を、組まないか」

 腕を、組む。

「こうか」

 腕組みをして、しかめっ面を作った。

「いや、勘違いも甚だしいが朋也マジ男前、と言ってほしいんだろうが、私の言いたいことはそうではなくてだな……というか、その顔は何なんだ」

 真面目な顔で話していたが、智代は不意に吹き出してしまい、そして顔を赤くして俺をにらんだ。

「って、人が真面目な話をしているのに、笑わせようとする奴がいるかっ」

 怒られてしまった。

「悪い悪い。で、何だっけ」

「二人で、腕を組まないかと……そう言ったんだ」

 言いつつ、やっぱり顔を背ける智代。見ると、耳の後ろまで真っ赤に染まっていた。

「……私達はその、うん、また二人に戻ったわけなんだし……」

「……そうだな」

 ぎこちなく、智代は俺の腕に自分の腕を通した。違和感があるどころではなく、しばらく俺達は一歩も踏み出せずにいた。

「……歩くか」

「……そうだな」

 しかし口に出してみたものの、俺達はしばらく硬直したまま、どちらかが最初の一歩を踏み出すのを待っていた。それでも智代が踏み出さないので、俺が歩きだそうとすると

「……!」

 智代も一歩踏み出していた。

「これじゃあまるで……」

「……何だ」

「いや、いい」

「よくない。言いかけてやめないでくれ。まるで何なんだ」

「……二人三脚」

 ぼそりと呟くと、隣でずぅぅううん、という音がした。驚いてみると、俯いた智代の頭上に暗い雲のようなものができていた。

「私達の仲は……運動会だったんだな」

「いや、そうは言っていない。ただ、その、ほらあれだしな、動きにくくないか」

「……そうだな」

 寂しそうに智代が俺の腕から離れた。

「それよりもさ、買い物するんだったっけな。ほら、昨日のクマ」

「うん、そうだったな」

「あれ、本当に可愛かったよな。人気あるんじゃないか」

 すると智代がぱぁっと笑う。

「朋也もそう思うか?うん、私もそう思ったんだ。もう私の中じゃお気に入りだぞ」

「つまり買い手が多いだろうなぁ。人気商品だもんなぁ」

 ぴし、と智代の笑顔にひびが入る。

「ああいう手の込んだものって、結構ストックないんだろうなぁ。実はあのディスプレイに飾ってあったのが、たった一つのクマさんだったりしてさ」

「……」

「もしかすると、手作りとか?職人がその国宝並みの技術と指で紡ぎました、ってな感じで。だとすると、売り切れたらもう買えないかもな」

「…………」

「そういや、春原が前言ってたんだけどな。あるところに限定フィギュアがほしくてたまらない奴がいてさ、秋葉原に四日前から張り込んでて……」

「そんな話はどうでもいいっ!早く行くぞ朋也っ!!」

 俺の腕をぐい、と引っ張ると、智代は駈け出した。雪の上を。風のように。

 自業自得とは言え、引っ張り回される俺は生きた心地がしなかった。

 

 

 

 

「全く、朋也は意地悪なんだから」

 ぷんぷん、と言わんばかりに智代が俺を叱る。

「あんなかわいいクマさんが、世界に一つしかないなんて、悲しいことじゃないか。そんなことを言う朋也は、仕方のない奴だな」

「まぁ、否定はしないがな」

 ちなみにあのクマさんにはまだ十二人も兄弟が店の中にあった。兄弟を離れ離れにするのはいけないな、と悩んだりしたところが智代らしかった。

「でも、うん、買えてよかった」

「これで……何匹目なんだ?」

「うん?」

「いや、だからこのクマさんで何匹目になるんだ?」

 智代は少し考えるように空を見上げ、そして指を折り始めた。そんなにいるのかよ。

「このクマさんで九匹目だ」

「そうか……道は遠いな」

 するとびっくりして見上げられた。

「遠いのかっ!?」

「ああ、まだまだ頂上までの道程は遠いな」

「頂上なんてあったのか……というより、道なんてあったのかっ!!」

「ん?知らなかったのか?二十世紀に入って間もなく、エドワード=ウィルベア伯爵というイギリスの紳士がな、『クマのぬいぐるみを愛でる者たちへ』という本を書いたんだ。その本はクマのぬいぐるみ愛好家達にどうあるべし、と説いた本なんだ。知る人ぞ知る、その筋の人達の間では伝説の名書と呼ばれているんだ」

「し、知らなかった……そんな奥深い教本が存在しただなんて……」

「まぁ、自家出版だったからな。世界中に百冊とは回っていないと思うぞ」

「……趣味に凝るイギリス貴族なら、あり得ない話じゃない……ありがとう、朋也。私はいつかその高みに立ってみせる」

「まぁ、嘘なわけだが」

「……」

 ミシリ、と音を立てて、空気にクモの巣状のひびが入る。

「……あー、その、なんだ。悪い」

「……」

「いや、智代があんまり純粋なんで、ちょっとからかいたくなってさ」

「……」

「その場の勢いでやった。今は反省している」

「……」

 きっ、と智代が俺を睨む。怖っ!!つーか、怖っ!!

「……朋也は私の乙女心を弄んで、楽しいのか」

「もっ、猛省しとりますっ」

「……全く、朋也は意地悪なんだから。悪いにもほどがあるぞ」

「はっ、猛省しとります」

「……知らないからな」

 そう言って、智代がすたすたと歩き出した。

「はっ、猛省……って、そんな場合じゃない。智代っ」

 

 

 

 

 

 謝りに謝って謝り疲れた頃、ようやく許されて、俺達はベンチに座った。

 三月の青空は綺麗に澄んでいて、厳しいほどに冷たかった。俺は自分の吐息が白い綿くずとなって消えていく様を眺めていた。

「……なぁ朋也」

「ん」

「手を、つなごう」

 俺が振り向くと、智代はぎこちなく笑いながら、これまたぎこちなく手を差し出していた。

「何でまた」

「いや、ふとそうしたくなってな……嫌か」

「いや、別に嫌じゃない。ただ少し驚いただけだ」

 そっとその手を握る。そして少しばかり冷たくなったそれをほぐすように包み込んだ。

「……こうしたほうが、恋人らしいんじゃないか、そう思ったんだけどな」

 不意に智代が漏らした。

 恋人、か。

 未だに実感が湧かない。俺が智代のことを好きだというのはわかるし、智代が俺のことを好いてくれているのも感じられる。ただ、じゃあ自分達は胸を張って恋人同士だと言えるのかと問われると、少し悩んでしまう。

「……変、だな」

「変か」

「うん……何だか付き合っていた頃のことが、ずっと昔のような感じだ」

 智代が寂しく笑う。

「朋也、少しだけ私の話を聞いてくれないか。ただ、そこにいて、聞いてくれるだけでいい」

「ああ。聞きたい」

 つないだ手を、もう少し強く握った。白くて華奢に見える指が応えてくれた。

「私は、どこかで元通りになるんじゃないかって、お前とまた話せたらまた昔の私達に戻れるんじゃないかって、そう期待していたんだ」

 辺りの喧騒が、急に静かになった気がした。

「私はお前が好きだ。お前のことは片時も忘れていなかった。ずっと、好きだった。前よりも、もっと、な」

「……俺もだよ。結局は、お前のことを忘れようとして、でもできなくて、もうどうしようもなくなってた」

 今になって思えば、俺はみんなに謝らなければならないのかもしれない。古河にも、オッサンや早苗さんにも、杏や藤林にも、春原にも、ことみにも、仁科や杉坂、幸村のじいさんにも。みんな、俺のことを演劇部のために頑張っているいい奴、と思って協力してくれたり、励ましてくれたり、感謝してくれた。確かにそういう奴らのために何かしてやりたいとは思った。でも、心の奥底には智代のことがあって、智代のことを忘れたくて、何かしていないとおかしくなってしまいそうで。

 俺は、やっぱり勝手な奴なんだと、そう思う。

「でも、もうあの頃には戻れないんだな」

 悲しげに智代が呟く。俯いて前髪が表情を隠した。

「私達は、もう以前の私たちじゃないんだな。すべては、私の幻想……楽しい夢だった」

 ほう、と大きくため息をつくと、智代は目を潤ませながら俺に笑った。悲しい笑顔だった。

「ありがとう、朋也。楽しかった」

 そしてそのまま立ち上がり、俺の手からすり抜け

 

 

 

「……朋也」

 

 

 

 なかった。俺の耳元で智代が少し驚いたように俺を呼ぶ。さらさらの髪が俺の頬をなでた。

「智代、あの頃には、恐らくもう戻れない」

「……うん」

「でも、それでいいんだ。戻っちゃいけないんだ。繰り返しちゃいけないんだ。俺もお前も、あそこに立ち止まってちゃいけない。前に進まなきゃいけないんだ」

 はっ、と息を呑む声が聞こえた。

「智代に導かれるだけじゃだめだ。俺も、自分の足で立って、自分の足で歩いて、前に進んで、お前のところに行きたい。お前の傍に堂々と立っていたい」

「……来て、くれるのか。立ってくれるか」

 祈るように、縋るように、智代が訊いてきた。

「立つとも。そして二人で進んでいこう。もう一度、今度は二人並んで、手をつないで歩こう。俺達ならできるさ」

「……そうだな」

 俺は抱きしめる腕に力を込めた。

 ずっと昔から、言いたい言葉があった。

 とある夏の午後、日蔭の下のベンチで、言いたかったことが、言えないことがあった。

 八ヶ月の呪縛を解いて、俺はそれを告げた。

「だってな、智代」

「……うん」

「俺の想いは、恋だから。ずっと恋だったから」

「……うん。うんっ」

 噛みしめるように智代は頷き、言った。もしかすると、俺がずっと言いたかったのと同じように、こいつもこの一言を待っていてくれたんだろうか。そうだったらいいな、とふと思った。

 今はまだ、ぎこちなくてもいい。儚げでもいい。傍から見れば全然だめでもいい。でも、いつかは揃えてみせる。足を合わせて歩いてみせる。この想いが胸にある限り、俺達ならできる。

「……もう少し、歩くか」

「……そうだな」

「……手、つなぐか」

「つないだら楽しいだろうな」

「智代」

「うん、何だ」

 少しためらった後で、俺はなるたけさりげなく言った。

「好きだ」

「うん、私も好きだ」

 そう言って、俺達は顔を合わせた。透明な水滴がすっと智代の頬を落ち、そして消えていった。残ったのは、輝く笑顔だけ。

「行こう」

「ああ、行こう」

 

 

 

 

 

 帰り道、俺はふと立ち止まった。ぎゅ、と手を握られる。

「どうしたんだ、朋也」

 怪訝そうに訊かれたが、俺はそのまましばらく立ちつくして、木を見上げていた。透き通った水が、枝から滴り落ちていた。

「いや、大したことじゃないよ」

 そう言って、俺は智代と肩を並べた。再開される二人の歩み。

「何だったんだ、さっきは」

「本当に大したことじゃないんだ。ただ」

「ただ?」

 首をかしげる仕草が可愛かったので、俺は頬にキスをした。

 

 

 

「雪、溶けたなって」

 

 

 

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