ウィッチの目は見逃さない
事件編
二〇〇〇年の英国対ヘンリー事件、御存じですか?
あれは奇妙としか言いようのない事件だったんです。実際に起こったのは、ここから結構遠い町なんですけどね、当時は地方紙の前面を独り占めしてた事件でしたから。
被告は、キャサリン=ヘンリーっていう四十八歳のおばさんだったんです。自分の夫と息子と娘の四人でアパート暮らししてたんです。で、そのアパートの前を、ある時一人の男が通り過ぎると、居間が何だか焼けてるような感じだったんです。もう、何だか真っ赤に光ってたって。で、その頃何だかその辺りでは放火魔による小規模のボヤが頻発してたそうで、男はそれを思い出して急いで警察に通報した、と。警察は無論急いで飛びついたんですよ。何しろ小さな町でしたからね。放火魔を野放しにしてるだけで大きな失態になっちまうんです。
警察がそのアパートに乗りこんだ時、確かに変な匂いはしたんだそうです。で、居間にはもう消えてはいたけど、何か燃えた形跡はあったと。家の人は煙草がどうのこうのって言ってたんだけど、どうもそんな小さな火じゃなかった。そのうち、火の跡から変な物が出てきちまって、それでもうボヤだのなんだの言ってられなくなったんです。
― 何だったんだ?
爪、ですよ。
人の爪。
裏にべったり血と脂がくっついてる、親指の爪でした。
鑑定の結果、ホトケさんはキャサリン=ヘンリーの夫、ジェームズ=ヘンリーだってことがわかったんです。で、息子の方は盲だったから何も見えなかったんですけど、娘の方は証言したんです。居間で父親と母親が口論していたら、父親が母親を打った、と。あ、口論の内容はわからなかったそうです。ちょっと理解できなかったんですね、この頃娘の方は十七歳、息子はまだ十二歳でしたから。で、倒れ込んだ母親に、父親が拳を作って殴りかかろうとしたその時……
― 何があった?言ってみろ
急に、父親の方が燃えだしたそうです。
母親の方も少し髪の毛が焼けたりしましたが、それ以外は全くの無傷だったようです。本当に親父だけ。父親だけがほとんど何も残さず燃え尽きちゃって、他の被害らしい被害はまあカーペットだけだったそうです。ちなみにその時の部屋の匂いのせいで、そこの警察署の警官、特に若い連中はそれから結構の間バーベキューがだめだったそうです。
無論母親があやしい、ってことで裁判になりましたよ。息子も娘も、結構離れていたそうなんですね、父親から。だけど発火したんだとしたら、服に燐とかそういうのがつくはずなんですよ。でもそんな形跡なし。発火装置だって、見当たりませんでした。そりゃ、料理のコンロを点火するための小型ガスバーナーはあったんでしょうけど、ほらライターに毛の生えた程度のやつ。でもそんなんじゃ一瞬で人を燃やすことはできない。結局、証拠不十分で釈放になりました。それを見て地方紙の前面が「人体自然発火」。
みんな納得してない、やめてくれって、向こうで勤務してる友人がこぼしてました。
青い芯を持つオレンジの炎が揺らめいたかと思うと、ふっと消えた。後に残るのは、白い煙と、紙を焼いた匂いだけ。
「自然発火、ね」
ライアン=デイヴィーズは紫煙を吐きながらそう呟いた。
「ディケンズの小説、『デイビット・カパーフィールド』じゃねえな……そうそう、『荒涼館』辺りだっけ、その類の話かと思ったんだが」
「そりゃあ、我々だって納得はしていませんよ。でも結局は手を引かざるを得なかった」
ピーターズ警部補は苦り切った顔で言った。まだ若いのに俺みたいなのが出てくる件に回されて大変だな、とライアンはふと思った。
「で?続きがあるんだろ?」
そうでもなければ、人体自然発火ごときでライアンみたいな者が呼ばれることはない。
「ええ、厄介なことに。とにかくヘンリー一家はあそこまで新聞に書き立てられたりしたから、その町にはいられなくなったんです。で、いろんなところを彷徨ったわけです。ハーストン、プリムボロー、ステニッチ……で、最後に辿り着いたのが」
「この町、というわけか」
ピーターズ警部補はゆっくりと頷いた。
「でも後から厄介なものが付いて回るんですよ、ヘンリー一家には。大方そのせいで様々な町を出て行ったんじゃないですかね」
「厄介なもの?」
「噂、ですよ」
「……なるほど」
ヘンリー一家がこの町の外れにある半壊したアパート群に住みついたのは、三年前のことだ。その三年の間に、噂はなくなるどころか徐々に固まり、悪意の結晶となった。そしてその結晶の光はいつも同じことを信じる者に告げる。
キャサリン=ヘンリーは魔女だ、と。
ある者はキャサリン=ヘンリーが前の町で何をやっていたのかをまことしやかにパブで話し、ある者はヘンリー一家が昔から「変」だったと「知り合いから聞いた」と言う。そしてそれは更に新たな噂を生み、敵意の根を伸ばしていくこととなる。
ヘンリー一家はクリスマスも復活祭も祝わない。いや、実は教会に行ったことすらない、神を恐れぬ悪魔の家族だ。
ヘンリー一家が住んでいるビルがどれだか見分ける方法はあるんだ。屋根にカラスや黒猫が集まっているやつがそれでね。連中はそういう動物を使い魔としているんだとよ。
息子のデイビッド=ヘンリーのこと、御存じ?目が見えないのよねぇ。やっぱりあれかしら?ほら、悪魔の血筋って、そういうものじゃなくて?
「全く、悪魔だの何だのと、迷信深くて困る。これだから小さな町は嫌だな」
ライアンが不快そうに呟いた。
実際、噂のほとんどが荒唐無稽で、しかも悪質なほどに不公平なものだった。英国ではクリスマスは休日となっていて、家族で過ごすものというふうになっている。そんな休日に、誰がヘンリー一家のことをわざわざ見に行ったりしたのだろう?大体、キリスト教徒の数は毎年激減しており、普通の子だって学校の行事でもなければ教会なんかにはいかない。行くのは生粋のキリスト教徒と保守派の家庭だけで、そういう連中はそもそもヘンリー一家みたいな得体のしれない部外者などは悪意以外向けないのだから、ヘンリー一家が教会に行かないのも頷ける。カラスや野良猫が群れをなすのは、どんな町でも同じことだ。デイビッド=ヘンリーの件に関しては、小学校の頃の事故で失明してしまったということがわかっている。これはピーターズ自身が病院から記録をファックスしてもらった。
理不尽。その一言に尽きた。あまりにも馬鹿げたものばかりで、公平な物の見方をする大人が論理的に考えれば、そんな噂は信じるに値しないということぐらいわかるだろう。
しかし人はえてしていつも公平に物事を見るわけではなく、また常に論理的であるわけでもなく、そして未知の恐怖の前では大人として振舞うことなんかない。噂は噂、所詮作り話だ。上辺ではそう言い繕いながらも、結構露骨に人々はヘンリー一家を避けていた。
「風船みたいなもんですよ。出口がないところにどんどん吹いていけば、結局は圧力に耐え切れずに決壊しちまう。この町も、遅かれ早かれ決壊してましたよ」
ライアンはふん、と鼻を鳴らした。ピーターズを馬鹿にしているわけじゃない。むしろ賛同していた。ヘンリー一家はこんな小さな町に住むべきではなかったのだ。住むならいっそ都会に移ればよかったんだ。こんな中途半端にでかい町にいたら、大人数で暴れられるのが落ちだ。
「そして二週間前、その風船に穴を開けてやろうと思った馬鹿がいたんです」
その日はアンディ=ヒギンズにしてみれば最悪と呼ぶには言葉が足りないほどの日だった。朝、三年間付き合っていた彼女と些細なこと − 確かゴミ出しがどうこう言っていた気がする − で大ゲンカをした。バイトがあったからその日は急いで出なければいけなかったのに、こんなことで時間を取られたくなかった彼は、しまいには「好きにしろ」と怒鳴って玄関のドアをガタンと閉めた。結局はそのケンカのせいで遅刻になり、アンディは一時間ほど怒鳴られた挙げ句、ようやく見つけたバイトも首になった。意気消沈して自分のボロアパートに戻ってきたアンディを迎えたのは、出て行った彼女が(もとい、元彼女が)家に置いておいた現金のほとんどを持って行ってしまったという事実だった。アンディはしばらく茫然と居間に座り込んでいたが、やがて冷蔵庫を開けるとステラ=アートワの缶を一本抜き出してタブを開けた。
飲み始めてゆうに十二時間は過ぎたと思われる頃、アンディは自分から地面を引きはがすと、ふと思いついた。
自分がこうも不幸なのは、行いがよくないからなんじゃないのか?だったら、正しいことをすれば、全てがまたよくなるんじゃないか?
そして短絡的に思いついたのが、誰もが知っている悪。
魔女。
唾棄すべき存在、ヘンリー一家。
アンディはふらつく足を引きずって、ヘンリー一家の住むとされているボロアパートまでたどり着いた。そしてそこで思いつく限りの罵詈雑言や怨呪の言葉、果ては暴力の行使まで仄めかし始めた。それでも何の反応も見せないヘンリー一家に業を煮やしたアンディは、ぶら下げていたビールのボトルを床に叩きつけて割ると、アパートの入り口に歩いていこうとした。
その時アンディが見たのは、鮮やかなまでの橙色だったという。
熱い竜の息吹を、顔に吹き付けられた気がした。
そのまま進んでいれば、アンディはこのような証言もできないうちに、それこそ骨も残さず燃え尽きていただろう。
アンディは、目の前にいきなり現れた炎の壁を前に、逃げることも叫ぶこともできずにへたり込むしかなかった。
「二週間、か」
ライアンはふん、と鼻を鳴らした。
「ヒギンズはその後あちこちでその出来事を話しまわった。結果として、ヘンリー一家が魔女だということは、もう誰も口にはしません」
決してもう信じていないからではなかった。
もう論じる必要がないから
もう疑いようがないから
もう安心して後ろ指をさせないから
「それでアドヴォケートに連絡したわけか」
「その通りです。もうこれは我々の手に負える話じゃない」
ピーターズは半ばすがるようにライアンを見た。
アドヴォケート。正式名称:英国対魔法代理士連盟。一九〇九年に設立された、総員二五〇〇名ほどの「調律師」の連合。「魔法」と一般的に括られる超自然的事件を「双方の納得のいくように」解決するのが主な目的の、「あっち側」でも「こっち側」でもない者の集まり。
今回はこの町の警察からの依頼で、すでに「コングレス」とはアドヴォケートの介入に関しては連絡済みである。ちなみにコングレスの返答は「協力的肯定」。両サイドの者から「手伝ってやるから何とかしろ」と言われていることになる。
新しい煙草を口に銜えながら、ライアンはじっと虚空を見つめた。
「まずはそのヒギンズとやらにちょいと話を聞いてみるか」
「え?でも事情聴取で言っていたことは全部話しましたよ?」
するとライアンはクックック、と皮肉気に笑った。坊や、よく頑張ったね。でもね坊や、世の中にはおじちゃんに任せておいた方がいいこともあるんだよ。ほら、飴玉やるから向こう行ってな。
「あんたらが行ったのは、『犯行に関して必要な情報』の収集を目的とした尋問だ。俺らが知りたいのは、その過程で『特に必要とは思えない』とされた邪魔な部分だよ」
例えば「本能」。
例えば「恐怖」。
例えば「幻覚」。
本来なら関係のない「戯言」とされるそれらの中に、アドヴォケートはヒントを得る。
「あと、あんたらヘンリーには何にもしない方がいい。これはアドヴォケートとしての公式な助言な」
そう言うと、ライアンはそのまま雑踏の中に紛れ込んで行った。
わたしは、逃げられない。
これは、わたしの血に流れる呪縛。
あの焔は、わたしの視界から消えてくれない。
すべて焼く
すべて厄き尽くす
母は言った。すまない、と。
父は呪った。全て家系が悪いと、言わなかった母が悪いと。
弟は何も言わない。
怖い。
恐い。
コワイ。
わたしが怖い。次に何を犠牲にしてしまうのか見えるこの目が怖い。
明日が恐い。ずっと続くこの破滅の日々がまた来るのが恐い。
セカイガコワイ。アシタワタシニナニヲサセルノカ、ソレガワカラナイセカイガコワイ。
「あんた今までどこに行ってたんだっ!」
ライアンがピーターズ警部補の上司、グロウヴズ警部から浴びせられた罵りや怒り任せの言葉を要約すれば、そう言った意味の文になった。
「ちょいと北に」
「北ぁ?こっちはそれどころじゃないんだよこのド馬鹿野郎!こっちじゃキャサリン=ヘンリーの正式な逮捕命令が出てるんだぞ!」
すると、ライアンの顔から皮肉気な笑みが消えた。その代りに顔に現れたのは、お面のような完璧なる無表情。怒りもなく、憎しみもなく、慈悲もなく、容赦もない、無。
「逮捕命令、だと?」
「私有物への無断侵入、及び放火の疑惑。当然だ」
「あいつらには何もするなと、厳密に言ったはずだが?」
「ピーターズから聞いた。あの若造に何を言ったのかわからんが、迷惑なんだよ、あんたらみたいな連中に現場を引っかき回されちゃ」
グロウヴズの目は明らかに「アドヴォケートなんて信用しちゃいない」という無言のメッセージを帯びていた。
能面の向こうでライアンは舌打ちをした。
これだから田舎町は。都会だったらアドヴォケートの「助言」を無視するなんてバカなことをする連中はいないのに。
するとピーターズが慌ててグロウヴズのデスクに歩み寄った。
「……すみません」
「いや、いい」ライアンは短くそう言った。
「……現在、警官隊がヘンリー一家の家の周りで包囲陣をしく用意をしています。突入は三時間後」
「警部、あんた今、何を始めようとしているのかわかっているのか?」
「何もなければ、数時間の勾留で終わる。しかし……」
「そんなことはどうでもいい」ライアンの無表情にひびが入り、わずかに憤怒が漏れ始めた。「この際、キャサリン=ヘンリーの容疑が何であろうと、またお前らが何を考えてるかはどうでもいい。あんた、あいつらが何をできるか、知っている……」
その時、オフィスのドアを打ち破らんばかりの勢いで若い警官が開いた。
「警部!大変なことになりました!」
雨で色あせてしまったコンクリートのアパート。粘土質の濁った土。窓という窓はガラスが割られた状態で放置されており、恐らく部屋の状態はひどい有様なのだろう。
そんなアパートを、対暴徒用の透明強化プラスチックの楯が囲む。後方にはゴム銃を、前方には耐熱装備に身を包んでバトンを構えた警官達が、きっと鋭い視線で前を睨んでいた。ライアンは不快感を隠すのにしばらく時間を要した。こんなにあからさまに悪意や恐怖を示せば、友好な解決など望めるはずもないじゃないか。これじゃあ大惨事が起こってほしいと言ってるようなものだろう。
だからこそ、結果的には全員が呆気にとられるような結末になってよかった、とライアンはその時思った。
その老婆 − キャサリン=ヘンリー − の写真を見たことはあった。数年前の写真だったが、それでもストレスによる影響は外見に色濃く影を落としていた。しかし、今アパートの入口から娘に支えられて歩き出ている女性とは、かすかな面影以外は似ているところなどは皆無だった。鑿で削られたかのような皺や、しょぼついた目、光沢も何もない白髪は、キャサリン=ヘンリーを二十年は老いてみせた。娘、確かエリザベスと言っただろうか、はすらっとしていて、その流れる川のような金髪や整った顔は二十代半ばごろの母親に似ていいた。しかし、こちらにも疲弊の色が濃く表れていた。
二人はおどおどと、あたかも何かに狙われているかのように歩いた。もしかすると、周辺でこの光景をスコープ越しに見ている狙撃班に気づいているのかもしれない、とライアンはふと思った。
ライアンとピーターズを押しのけて、グロウヴズが警官隊の前に出てキャサリン=ヘンリーと対峙した。
「キャサリン=ヘンリーです。私に用があると聞きました」
「グロウヴズ警部です。ご協力に感謝します、マム。ご同行願います」
「罪状は?」
「私有地の違法侵入」
ふん、とキャサリン=ヘンリーは鼻を鳴らした。あなた、私に向かって魔女と呼ぶことすらできないのね?
「用件はわかりました。急ぎましょう、時間がありません」
グロウヴズの目が細まった。
「時間がない、とは?」
「言葉通りの意味です。さあ、早く」
グロウヴズは怪訝そうな顔のままだったが、キャサリン=ヘンリーの気迫に押されるような形で彼女をパトカーに乗せると、運転席の横に乗りこんだ。
パトカーが動き出した時、辺りの緊張が解けたかのように静寂が引いていき、警官隊も列を崩して鉄網などで強化されたバンに乗り込んだ。
ピーターズはパトカーの走っていった方向を怖い顔で見つめるエリザベスの肩に手を置いた。
「心配なさるのはわかりますが、大丈夫ですよ。何もなければ数日で釈放されます」
「ええ……」
その時、若い警官がピーターズに向かって走ってきた。
「大変です警部補!」
「ん?どうしたんだ?」
「パトカーが……ヘンリー容疑者を乗せたパトカーがっ!」
ピーターズは目を大きく見開いた。急に崩れ落ちるようにへたり込んだエリザベスの嗚咽だけが、やけに大きく聞こえた。