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「ん……」

 ガタン、という音で目が覚めた。近くの席で、中年の男が慌てて荷物ラックから落ちた自分のスーツケースを拾い上げているところだった。

 頭を動かそうとして、その時に何かが私の頭によりかかっていることに気付く。髪の毛の感触で、それが朋也だと気付く。いつの間にか二人で寄り添いながら寝ていたらしい。

 私達は今、朋也の実家であると思われる比嘉氏十里に向かっている列車の中だ。片道で一日半かかる、結構長い旅になる。もしかすると本当にゴールデンウィークを全部使い切るようなことになるかもしれない。それでも、私達は行かなければならなかった。

「う……ん」

 朋也が隣で呟いた。こんな年下の女性に甘えて寝るなんて、仕方のない奴だなと思う反面、寝顔が案外可愛かったので特別に許してやった。

 

 

 

 途中の町で、その夜は宿をとった。

 小奇麗な旅館で、温泉とかそういうものはないが、静かなところだった。窓から見える夜桜が見事だった。

「うん、桜はやっぱり緋桜だな」

「ああ……」

「しかし星空がきれいだな。手に取れる気がするぞ」

「ああ……」

「さっきからどうしたんだ、朋也?大丈夫か?」

「ああ……」

 見ると、居心地悪そうに視線をそらす。顔が赤くなっていた。

「その……似合わないか?」

 私は浴衣の袖を引っ張ってみた。自分では結構似合っていると思ったのだが、どうも違うらしい。所詮私のような元不良の暴力女が普通の女の子らしく振舞おうというのが間違いだったようだ。ああ、こんなことでは、朋也は私といるのが辛くなってしまうに違いないな。そして悩みに悩んだ挙句、「別れよう」と。朋也に捨てられた私はあてもなくいろんな所を彷徨い、気づけば北海道の崖の上。冬の波が激しく砕ける中、父さんと母さん、そして鷹文に先立つ不孝を詫びて

「違う違う違う!!」

 朋也が私の手を取って首を振った。

「そうじゃなくてだな、その、あれだ、えっと」

「何だ……やっぱり似合わないか」

「いや、むしろその逆で、その、似合いすぎっつーか……」

 最後の方はぼそぼそと小声で、しかも私から顔を背けていた。

「よく聞こえないな。もう一度言ってくれ」

 すると朋也は辺りに誰もいないことを確認すると(部屋の中だから私達二人だけなのだが)、顔を真っ赤にして言った。

「智代、似合いすぎだ」

「な……う、嘘じゃないだろうな」

「嘘じゃないって。何つーか、このままじゃその、理性というか」

「って、お前は何を言ってるんだっ!」

「和服って胸がでかいと似合わないとかってのは、案外嘘なんだなって感じで……」

「お前にはデリカシーというものはないのかっ!ちょっと、朋也っ!鼻の下がっ!」

「ごめん」

「謝るなっ!あと、その手のわきわきも!!」

 もしかすると電車に乗っていた時よりも疲れたかもしれない夜だった。

 

 

 

 そ、それはともかく。

 次の日の昼ごろ、私達は比嘉氏十里のバス停に降りた。春なのにまだ結構肌寒いな、と思いながら、鞄から青いジャンパーを取り出した。

「ここから……どう行くんだろうな」

 目の前には舗装されていない田舎道が続いていた。はっきり言って、私には右も左も解らなかった。

「こっち……かな」

 不意に朋也がふらっと歩き出した。

「知っているのか?」

「何だかな……まあ、勘かもしれないが」

 しかし、歩いて行くうちに朋也の足取りが確かなものに変わっていくのがわかった。木漏れ日の心地よい林道を通り、更に歩いて行くと、それは私達を待っていた。

 金色に輝く野原。遠くに見える山、そしてその麓にある森。

 間違いない。ここが写真の風景だった。

「ここ……だな」

「ああ」

 朋也はじっと花畑を眺めていたが、不意に私の手を取った。

「行こう。この道をずっと進んでいくと、海に出るはずだ」

 風に乗って、微かに潮の香りがした。

 

 

 

 どれほど歩いただろうか。

 私達は森の中を抜け、山道を歩いた。森を抜けると、また野原に出て、そこには段になっている道が続いていた。朋也が足を止める。

「……ここ、前にも来た気がする」

「覚えてるのか?」

「何だか……そんな気がしただけだ」

 歩くにつれて潮の匂いも強まってくる。あたかもそれを追い求めるように歩くと、私達は、柵で覆われた小さな丘に辿り着いた。柵の近くにはベンチが設置されており、近くには小ぢんまりとした灯台もあった。そしてその柵の向こうには、果てしなく海が広がっていた。波の音が、静かに不特定なリズムを刻む。それに混じって、カモメの鳴き声も時たま聞こえた。

「ここ……だ。ここが、終着点みたいだ」

「そうか」

 私たちは立ち尽くした。ここにきて、何が起こるとわかってきたわけではない。ただ、ここに来なければならない気がした。それだけだった。

 朋也は柵まで歩くと、身を乗り出して海を見た。

「でも変な話だよな」

「ん?」

「俺さ、お前と会った時はさ、まさか二人でここまで来るなんて思ってなくてさ。そもそも誰かと付き合うってことにすら興味なくて、初めて会った時も、『ああ、面白い奴だな』ぐらいにしか思ってなくて」

「ひどいな、それは」

 私は苦笑して軽く朋也をぐーぱんした。

「ははは。だからさ、そんな二人がこんなところで、こんな会話をしてるのが未だに信じられない。何だか、奇跡みたいだなって」

「……そうだな」

 私達の上を、カモメが一羽飛んで行った。

「なあ智代、変なんだけどな」

「今度は何だ」

「俺……何だかどうでもよくなっちまった気がする」

「どうでもいい?」

 朋也が振り返って笑った。

「ああ。ここにきて、この海見てたらさ、本当にもうどうでもいいやって。親父とは、そりゃいろいろあったから、うまく話したりできないと思うけど、帰ったら婚約の報告ぐらいはしようと思うんだ」

「朋也……」

「そしてさ、何年になるかわからないけど、もしかすると俺達二人で、握手できる距離まで歩み寄れるかもしれない。そんな気がしてきた」

 この時、私はとうとうたどり着けた、と思った。とうとう、探していた鍵を手にすることができた、と。だから、二人で胸を張って帰れる。そう思っていた。

「帰ろう、智代」

「ああっ」

 そう答えて、私は朋也の差し出した手を握った。

 その時

「あら……」

 不意に後ろから声が聞こえた。振り返ると、落ち着いた色の着物を着た小柄な女性が、意外そうな顔で私達を見ていた。

「これは珍しい。ここに人が来るなんてこと、滅多にないのですが」

「そうなんですか」

「あなた方はどちらから?」

 上品な笑みを浮かべて、老女が聞いてきた。私達の町の名を告げると、女性ははっとしたようだったが、すぐに元の笑顔に戻った。

「それはそれは……ずいぶん遠くからいらっしゃったのですね」

「ええ……あの、ここにはよくこられるんですか?」

「ええ。時々ここに来て、海を眺めては昔のことを思い出したりします。しかし珍しいこと。これも何かの縁かもしれませんね。私は、岡崎志乃、と申します」

 目の前が一瞬揺れて見えた。

 岡崎志乃。あの手紙の差出人だ。

「これは……偶然、ですか」

「偶然?どうかなさったのですか?」

「あ、あの……俺……」

 朋也も狼狽しながら、言葉を探した。

「俺、岡崎朋也と言います。恐らく、あなたの親戚だと思います」

 波の音だけが、しばしの間その場を独占した。やがて、志乃さんが口を開いた。

「……光坂市、と聞いた時から、もしやと思っておりました。朋也さん、私はあなたの父親、岡崎直幸の母親です。つまり、あなたの祖母に当たる者です」

 息を飲んだまま、私と朋也は立ちつくした。しばらくして、少しお話しませんか、と志乃さんはほほ笑んだ。

 

 

 

 私達は、ベンチに座って海を眺めた。

「でもまぁ、大きくなりましたね、朋也さん」

「……すみません。お会いした記憶がないんです」

 ふふ、と片手で手を隠しながら志乃さんが笑った。

「そうですよね。あの頃のあなたは、本当に小さかったのですもの。それが今では結婚なされるところまで来ているとはねぇ。時の速さを感じずにはいられません」

 その一言でなぜか顔が赤くなる私。

「あなたと会ったのは、あなたのお母さん、敦子さんが亡くなられた後のことです。直幸に手を引かれて、あなたはここに来ました。時に、直幸は……元気にしているでしょうか?」

「……」

 朋也が俯く。謝罪の言葉を言おうとする前に、私は言った。

「ええ。元気です。今では工場の仕事に就かれています」

 朋也が驚いて私を見たが、志乃さんは息をほうと吐くと、笑った。

「ありがとうございます、坂上さん……朋也さん」

「はい」

「あなたのことは、少しばかりは直幸から聞いております。ですからあなたと直幸の間が、今どのようになっているのか、それは私の聞くべきことではないのでしょう。ですが、もしよければ私の話をお聞きいただけますか?」

 否も応もなかった。なぜかこの話を聞くためにここまで来た、という気がした。

「直幸と敦子さんは、学生の頃に知り合い、恋に落ち、そして結婚すると私に告げました。もちろん周りは反対しましたが、それを押し切って二人は結婚。直幸は高校を中退して狭いアパートを借りました」

 どきり、とした。もし私達が高校の頃、あのまま周囲をものともせずにそのままの関係を続けていたら、あるいはそうなっていたかもしれない。

「それは大変な生活だったのでしょうね。それでも、親の贔屓目から見てもあの二人は幸せに見えました。直幸にとって、愛する人を守れる、ただそれだけで幸せだったのでしょう。そんな幸せの中で生まれたのが、朋也さん、あなたです」

 

 病院に行くお金がなかったから、自宅で出産した。本当に危なかったけど、赤ちゃんも母親も無事でいてくれた。かけがえのない息子には、これからいろんな人を助け、いろんな人に助けられて友人を作っていく幸福を味わってもらいたくて「朋也」と名付けた。

 

 朋也は俯いたままで、その表情は見えなかった。

 

「でも、その幸せは長くは続きませんでした」

 

 

 買い物の帰りだった。

 敦子さんは、朋也の好きなハンバーグを作ってあげたくて、ちょっと遠いけど安いスーパーに歩いて行った。買い物が終わって、ハンバーグを食べる朋也の笑顔を思い浮かべていたら笑みがこぼれてきて。

 そしてそこで日常は途切れてしまった。

 

「敦子さんが事故で亡くなられた後、あの子は苦しみ嘆きました。あの子にとってそれは立ち直れなくなるほどのショックだったのでしょう」

 でも、と志乃さんは穏やかな声に威厳をにじませながら言った。

「それでもあの子は絶望しなかった。絶望するわけにはいかなかったのです。朋也さん、直幸には、まだ幼いあなたが残されていたからですよ」

 ぴく、と朋也の肩が震え、そして顔を志乃さんに向けた。目が見開かれていた。

「『この子だけは自分の手で育て上げるから』。直幸はそう言って、あなたの手を取ってこの場所から歩いて行ったのですよ」

 

 そして語られる、直幸さんと幼い朋也の日々。それは砂漠の中で宝石を探すような苦難の日々だった。何度も首になり、てんてんとあちこちを旅した。時には駅のトイレで一晩を明かしたこともあった。時には熱を無視して体を引きずって仕事場に行った途端に首を宣告されたこともあった。

 しかし、そんな日々の中でも、直幸さんは、朋也の手を離さなかった。


 なけなしのお金でおもちゃを買った。

 すぐに壊れてしまうような安いおもちゃだったけど、朋也は喜んだ。そしてそれが壊れた時、朋也が泣き疲れて寝てしまうまで髪を撫でてやった。

 


 自分の食費を削ってお菓子を買った。

 次の日は空腹と疲労で、帰って来た時途端に玄関で眠ってしまった。それでも、朋也がうれしそうにお菓子を食べてくれた、それだけで立ち上がれた。

 


 自分の運や成功する機会も、朋也のためにならないのなら切り捨てた。

 中には再婚の話や、朋也を実家に預ければ安定した賃金をもらえるという話もあった。断った途端にその職場にいられなくなり、朋也の手を取って雪の降る夜道を歩いた。

 

 子育てなんて知らなかったから、厳しすぎたり乱暴だったりしたこともあった。そんな夜、人知れず朋也に泣いて詫びた。

 

 全て、朋也を育て上げるためにやった、ぎりぎりの生活だった。そしてそんなぎりぎりの生活の中、仕事の辛さを紛らわすために酒に頼った。正気に戻った時には、朋也との間に埋めることのできない溝を作ってしまった。


「それでも、あなたと生きることをあの子は選んだのです。そして、あなたが自分の人生を決められる年になった頃には、直幸は全てを失っていました。仕事も信頼も、運も、友も。何もかも」

 一陣の風が、私達の間を通り抜けた。波の音が、遠く聞こえた。

「それでどうするべきだと申し上げているのではありません。ただ、私にはあの子がどういう覚悟で父親としていたのか、それをあなたに知ってほしかった」

 しばらくして、朋也が呟くように言った。

「お菓子をよく……買ってもらいました。手を繋いで、散歩に行って……何で忘れてたんだろ?」

 自嘲した。それは事故とは関係なく、正に失われていた日々だった。

「朋也さん、直幸は駄目な父親だったと思いますか?」

 しばし考えた後、朋也は首を横に振った。

「いえ。俺の方がよっぽど駄目な人間です。何も知らずに育って、親父を恨んで、疎んで、傷つけて……弱くて、弱すぎて、情けないです」

 すると志乃さんは破顔した。

「あの子もそうなんです。弱くて情けなくて不器用で……それでも、子供のあなたにはできる限りのことをしました」

 志乃さんは海に目をやった。いや、見ているのはその先にある何か、誰かなのだろうか。

「朋也さん、私はあの子のことを、こう思いたいのです。人間としてはだめだったけれども、父親としては立派だった、と」

「俺も、そう思います」

 私も、そう思った。できることは少なかったかもしれないが、それでも直幸さんは、少なくとも私の両親なんかよりもずっと素晴らしい、最高の親だった。

「ありがとうございます」

 潮のせいなのだろうか。志野さんの言葉は、少し湿っていた。

 

 

 

 志乃さんと別れてから、私達は丘を下りて海辺に立った。

 朋也は砂浜に座り込み、じっと海を眺めていた。私は何か言おうと思っていたが、言葉が見つからずに、結局傍で一緒に海を見ているだけだった。風が強くて、私の長い髪と白いスカートが流れるようにはためいた。

 空が赤く染まり、海が黒くなり始めた時、朋也が口を開いた。

「なぁ智代」

「うん」

「親父のこと……知ってたんだな」

「……ああ。朋也が入院した時、私が直幸さんに連絡しておいた」

 恐らく朋也は「余計なことをするな」と言っただろう。しかしそれでも、私は直幸さんは知らなければならない、と思った。

「黙っていてすまなかった」

「いや……いいんだ。それより教えてくれ。あの人は今何をしてるんだ?」

「直幸さんはさっきも言った通り、工場で毎日働いている。小さなところで、古い知り合いを通しての仕事だそうだ」

「元気……なんだよな。無理してないよな」

「ああ。元気そうだった」

朋也は言葉を切って静かに来る波を見つめた。やがて、ため息を吐いた。

「あの人の人生って、一体何だったんだろうな」

「え?」

「一番幸せな時に、愛する人を亡くして、それで俺と二人っきりで、こんな、こんな親不孝者のために全部投げ出して……」

 

「それで?」

「……え?」

 私は朋也の隣に座った。

「まだ、終わっていない。話は続いているじゃないか。さっき言ってたじゃないか、いつか一緒に手を握れる時が来るって」

「俺は……そんな資格なんてないかもしれない。あの人に会わせる顔がないんだ」

「朋也、そんなことを言うな。直幸さんは、お前を待っているぞ」

 え?と驚いた声を上げた。

「直幸さんの家に行った時、何か気付かなかったか?」

「何かって……いや、特に……あ」

「どうだ?」

「……いろいろと片づけられてたな。俺があの家を出た時は、ゴミとかそこら辺に転がってた」

「そうだな。私が朋也の事故について言いに行った時もそうなってた。でも、次に会いに行った時、家中が綺麗になっていたんだ」

「何で、そんな」

 私は不思議に思って、不躾ながら岡崎家を出た後そっと窓から家の中を覗いてみた。すると、しばらくして直幸さんは家中を掃除し始めたのだった。廊下を、柱を、ちゃぶ台や家具を、真剣な顔で丁寧に拭いていた。そんな直幸さんを見ていて、ふと気付いてしまった。

「お前がいつ帰ってきてもいいように、だ。いつお前が直幸さんを頼ってきてもいいように、そうやって掃除していたんだ。朋也の記憶が元に戻ったと知らせても、また再発するかもしれないから、と言っていらした。あの人の中では朋也は自分の息子で、心配なさってくれているんだ。直幸さんは、朋也を待っている」

 朋也が目を見開いた。そして俯くと、きっと口を結んだ。しばらくして、その閉じられた歯の間から嗚咽が零れ出した。

「……俺、知らなかったんだ……今まで、大事なこと忘れてて……今になって、思い出してきて……あの人の手とか……一緒に食べた夕飯とか……」

『朋也!ほら、お菓子だ』

「ずっと……恨んでた……肩が上がらなくなった時、心底憎んだ……」

『父さん、また出かけるけど、食べ過ぎないようにするんだぞ』

「親父が俺を……朋也君って呼び出したとき……もう全部嫌になって……それで」

『いつもさみしくさせて、ごめんな。帰ってきたら、夕飯ちゃんと作るから』

「それで……全部、全部捨てたくて……家を飛び出て……でも、本当は……」

『二人で食べよう』

「本当は、息子として見てほしかった……ちゃんと家族として、暮したかった……」

『な?朋也』

 

「俺は、あの人を、親父を、父親として愛したかったっ!息子として、愛してほしかったっ!」

 

 絞り出された声は、夕暮れの海辺に木霊した。そしてまた波が静寂を運んでくる。

 私はそっと朋也の肩を抱いた。

「それで、充分だ」

「そう、か?」

「ああ。その言葉で、みんな救われる」

「本当に?」

「ああ。私が保証する」

 すると、朋也は目をぐしぐしとこすると、洟を啜って笑った。

「じゃあ、帰ろうか」

「ああ。帰ろう。お父さんが待ってるぞ」

 最後の鍵をようやく手にして、私達は失われた日々を取り戻す最後の旅に出た。

 

 

 

  「LOST DAYS」
  最終話 失われた日々を取り戻して

 

 

 

 桜の匂いがまだ仄かにした。私達は「岡崎」と書かれた表札の前で立ち尽くしていた。

「……行こう」

「ああ」

 朋也が私の手を確かめるように引いて、扉を開けた。

 週末なので、直幸さんは家にいらっしゃるはずだった。玄関に入った時、朋也はためらいがちに「ただいま」と言い、私も「お邪魔します」と言った。返事は、なかった。

 直幸さんは、居間でラジオを聞きながら寝ていた。朋也はそんな直幸さんの姿を見てしばし呆然と立ち尽くしていたが、やがてゆっくりとラジオに歩み寄り、電源を切った。それに反応するかのように、直幸さんの肩がぴくりと動いた。

「ああ、朋也君。それと坂上さんも」

「お邪魔してます、直幸さん」

「……ただいま」

「ああ、おかえり」

「老けたな、親父」

「ああ」

 朋也が直幸さんの前に座ると、私もおずおずと朋也の隣に正座した。

「……あんたの母親に会ってきた」

 ぴくりと直幸さんの眉が上がる。

「……へぇ」

「こいつと一緒に行ってきた。ずっと北の、あんたが昔俺を連れてってくれたところだ」

「そうか」

「……いろんな話を聞いたよ……大変だったんだな。俺もいろいろ、思い出した」

「……朋也君、頭の方はもう大丈夫なのかい?治ったって聞いたけど……」

 その一言で、その労わりの言葉で、何かが決壊した。

 

「何で」

「うん?」

「何で、こんな俺のこと、今心配してんだよ……こんな、あんたがずたぼろになってまで育ててくれたのに、感謝の一つもしない馬鹿息子に……」

「……朋也君」

「あんた、何もかも捨てて、俺をここまで育てて、こんな出来の悪い息子のために、人生投げ出して……もう、もう充分だよ」

 俯いて、必死に堪えるけど、それでも激情の迸りは止まらない。

「ごめん……ごめん親父。俺、何も知らないで、ガキのままで、ずっと吠えて、憎んで、あんたを一人にして……ごめん……」

 すると、ぽん、と朋也の頭に優しい掌が乗った。

「朋也君、ありがとう」

「……親父」

「ありがとう。その言葉で、わかったよ。もう、やり終えていたんだな」

 ぐ、と嗚咽をかみ殺して朋也が言った。

「ありがとう、親父。今まで、本当にありがとう」

 

 

「俺、こいつと一緒になるんだ」

 落ち着いた声で、朋也が言った。直幸さんが私を目を細めてみた。

「そうか……それはよかった。おめでとう。坂上……智代さんと言ったかな」

「はい」

 背を伸ばして、先生にあてられた小学生のような声で答えた。

「朋也君を、これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いします」

「式、来年の六月なんだ。来てくれるよな?」

「いいのかい?」

「来てほしいんだ。親父にはできれば絶対に」

「……わかった。絶対に行くよ」

 そうして直幸さんは笑った。

 すごくいい笑顔だった。

 

 

 

 

「しっかしまぁ、本当に女の子女の子しちゃって」

「からかわないでくれ。そ、その、あまり自信はないんだ」

 私はドレスの裾を摘まんで赤面した。

 短いトレーンにAラインのドレスは、私と朋也で選んだ物だったのだが、いざ着て見ると、結構恥ずかしかった。

「なぁに寝ぼけたこと言ってくれちゃうのかしらねぇ。あんた、今全国の女の子が夢見るような立場にいるのよ?幸せ税としてこれぐらい受け取りなさいな」

 そう言ってからからと杏が笑う。そう言う彼女だって、ダークグリーンのドレスがよく似合っている。

「でも本当にここまで来るんだから、正直驚いたわ」

「そうか?」

「ええ。いつあんたが朋也に愛想尽かすか、結構心配だったわよ?」

「朋也に愛想を尽かすなんてことはないぞ?」

「ふーん、へぇええ、ほうぅぉおおお」

「……何だそれは?」

「ぶぇっつぅにぃい?あーやだやだ。年下のくせにあたしより早く結婚しちゃって、これで幸せにならなきゃ本気で怒るわよ?」

「期待に添えるよう努力しよう」

 そう言って、二人で笑った。すると

「やっほー!智代ちゃん!」

 二人で同時にジト目をする。

「あんた、何しにきたの?」

「え?いやぁ、智代ちゃんの準備どうなってるかなぁって思って」

「そうか。しかし、何でお前がここにいるんだ?」

「え?いやだから」

「結婚式は、明日だぞ?」

「え?や、やだなぁ、じゃあそのドレス何なの?」

「これは明日のためのリハーサルだ。杏に一応確認してもらおうと思ってな」

「え……そ、そうなの?」

「ああ。じゃあ、また明日な」

 そう言うと、春原は首をかしげながら部屋を出て行った。

「……あれを信じちゃうんだものねぇ」

「まあ、学生の頃はいろいろあったからな。ささやかなお礼だ」

 すると部屋の扉がバタンと開いた。

「いや考えてみればもう他のみんなもちゃんと来てるし!」

「結構早かったな」

「惜しかったわね」

「ちょっと失礼」

 その時、春原を押しのけるように鷹文が入ってきた。

「あ、準備できたようだね」

「ああ。しかし普通は実父が付添人をするはずなんだが」

 すると鷹文が肩をすくめた。

「しょうがないよ。今いろんな人から相談事持ちかけられてるからさ。『娘の結婚式に持ってこられた頼み事は断れないのがしきたりだ』だって」

 すると杏と春原の顔にすだれがかかった。

「ねえ杏、智代ちゃんのお父さんってさ……」

「そう言えば智代が生徒会長だった時、オメルタがどうのこうの……」

「血は争えないってことなのかな……」

「何の話だ?」

「い、いえ、何でもありません!」

「とにかく行こう。あんまり待たせると、にぃちゃん、ねぇちゃんに捨てられたとか思い始めるから」

 緊張して祭壇の前でうろうろし始めるタキシード姿の朋也を思い浮かべて、私は笑った。

「全く、仕方のない奴だ」

そう言って、私達は控室を出て、チャペルの扉を開けた。

 

 

 

 

 

 この話を私が聞いたのは、私がとある事情で入院した時のことだった。

 病室には私と、この話の語り手である女性がベッドを並べていた。

 女性にはいろいろな見舞客が来ていたが、それらがいなくなると決まって、その女性は大きくなったお腹に手を添えて、愛おしげに撫でながらこの昔話をまだ見ぬ子供に語っていた。そんな時、私は失礼だと解っていながら眠ったふりをして、この少し不思議な愛の物語に耳を傾けていた。

 やがて、私の退院が決まった。奇しくもその日、女性はその物語を語り終え、誇らしげに笑うと、お腹をまた優しくさすった。私はこの気高い母親に心の中で祝福の言葉を述べると、付添い人に支えられて立ち上がった。

 部屋を出ようとした時、スーツ姿の男とすれ違った。男は私に会釈をすると、件の女性の傍に座った。

「ああ、朋也」

「よお。昼休みになったんで、ちょいとな。調子はどうだ?」

「ああ。今日は気分がいいんだ」

「そうか……智代」

「うん?」

 私は二人の声を聞きながら部屋を出た。

 

 だから、この二人が果たしてこの後、私の聞いた物語の当事者として相応しい熱い接吻を交わしたかどうか、私は知らない。

 

 

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