まだ、物語は終わっていない。
もしかすると、本当の物語は始まってすらいなかったのかもしれない。
そう、これから私達は、また旅に出る。
朋也の、深いところまで届く、長い旅に。
私達はそこで、過去への鍵を手にする。
「LOST DAYS」
第三話 繰り返す夢
少し色あせた天井。
俺は重い瞼を開ける。
体を起こそうとした時に気づいた。見ると、俺の上に誰かが抱きついて寝ていた。
長髪の、顔の整った少女だった。いや、もう少女とはいえないかもしれない。綺麗な女性だった。掛け布団に隠されてよく見えないが、その白い肩や背中からして、昨夜二人でトランプをしながら寝たわけじゃないことは大体解った。
「ん……」
ゆっくりと女性が起きた。そして俺を見据える。
「ともや……?」
ともや。朋也。岡崎朋也。
俺の名前だ。
「どうしたんだ?私の顔に何か付いているのか?」
ゆっくりと首を振る。頭がぼやけて、状況がよく把握できない。
「……まさか」
「……」
「朋也、私のこと、わかるな?」
女性の表情が曇る。
「朋也、覚えているだろ?な?」
「……」
「なあ、まさか自分の恋人のことをまた忘れたわけじゃないだろ?」
「……恋人?」
女性が息をのむ。目に涙が浮かぶ。
「朋也……まさか本当に……」
「俺の記憶が確かなら……俺に恋人はいないはずだ」
「と……もや……」
女性が、否定するかのように頭を振る。目が、嘘だと言ってくれ、と訴えている。
「昨日付けで、最高の婚約者はいるが」
「え?」
「いや、だから俺とお前は婚約したって。まさか忘れたのか?」
「じゃ、じゃあ覚えているんだな」
「ああ。寝ぼけてて咄嗟に何が起きてるのかわからなかったけどな」
智代の顔が前髪に隠れる。あ、やべえ
「……朋也……」
「あ、え、えっと、智代?」
「ばかぁっ!!」
どげしっ!
衝撃が顔に響く。俺の頭は布団に叩きつけられる。そのまま智代はマウントを取って、枕を手に、うつ、打つ、打つっっ!!ゴングは鳴らないっ!武器の使用は反則だが、審判は賄賂を受け取っていてどこにも見当たらないっ!
「と、ちょっと、まっ、ぶは、ストッ、まじで」
「うるさいっ!お前という奴はっ!お前というやつはっっっ!!」
俺がその後蘇生できたのは、奇跡に近かった。
「全く、仕方のない奴だ」
ご飯をよそりながら、智代はぷんぷんと怒りながら言った。
「これじゃあ、私がずっといなければお前はダメ人間になってしまうぞ?」
「まあ、反論はしないわな。というわけでずっといてくれ」
「ぷい」
ははは、とごまかし笑いをしながら胡瓜の漬物をかじる。うまい。
「朋也、お味噌汁を最初に食べなくてはダメじゃないか」
「そうなのか?」
「そうだとも」
うんうん、と腕組みをして頷く智代。
「何だか、本当に母親らしいな智代は」
「……微妙な褒め方をするな」
「悪かった。智代ちゃんってば本当に女の子らしいざます」
「からかってないか?」
「半分な」
むぅ、と俺を睨んできた。
「ま、冗談はさておき、本当お前って……」
「私は何だ?言ってみろ」
智代が腕組みして、眉を潜める。うん、まあこれはこれで可愛らしい所があるな。
俺は口を智代の耳に近付けて言った。
「お前って、妻らしいよな」
ぼん、と智代の頭が爆発する。
「つつつつ妻って、ちょっと待て待てって、え、えええ、えええ?」
あたふたと箸としゃもじを持ったまま動転する。ヒットだ。
「い、いや妻が嫌ってわけじゃなくて、そうじゃないんだぞ?大体私だってそりゃお前のお嫁さんになるのを夢見ながらほうき星を探して徹夜したこともあったし宮沢さんのところに鷹文を生贄に連れて行ったこともあったし挙句の果てにはキリスト教に入信し神への信仰の一環として第九次十字軍に加わって倫敦の戦地に赴いたこともあったけど、だからと言ってそそそそれはまだ早いんじゃないか?まだ入籍も終わってないし」
……
何だかすげえ、と思った。
智代の今の暴露もそうだけど。
そんな黒魔術に関わったり最後の大隊を相手に活躍した智代に惚れて、無謀にも昨日プロポーズして、無傷でオッケー貰った俺ってもしかするとすごくね?
「まあ、しかし何だか恥ずかしいのは確かだな」
「そ、そうか?うん、まあ、私だって恥ずかしいが……」
真っ赤な頬に手を添えて俯きながら、智代は微笑んだ。クリティカルヒットだ。
「そういや、指輪、どうしようか?」
「私は、朋也が選んでくれた指輪なら、絶対に喜んで受け取るぞ?きっと素敵な指輪だろうから」
「そんな過度な期待はしないでくれよ。だって俺の給料の三ヶ月分と言ったら……」
三ヶ月分と言ったら……
三ヶ月分……
そうだよな、そうだったな、おっかしいよな。雀の涙みたいな三ヶ月分の給料で一体どんな指輪が買えるんだよ?あ、あれだろ?ガシャポンとかに入ってるプラスチックの指輪で、時間がたてばメッキが剥がれてきちゃって、それで智代が緑の紙を俺に突き出して。大体何でこんなに器量よしで聡明な美人が俺の嫁になれるんだ?ねえよな。ああ、これはあれだ、幸せすぎて起きると無性に辛くなる性質の悪い夢だ。どうせ起きたら親父が隣で「朋也君、起こしてしまったかい?」とかいう最悪の目覚めなんだろうな畜生。ははは、どうかしてるな、俺。
「大丈夫か朋也?」
「ははは、甲斐性なしの俺が妻?ないないって」
「朋也は甲斐性なしなんかじゃないぞ?今の私よりもずっと稼いでるじゃないか」
ええええ、今の智代さんよりは稼いでますよ?でもね?俺は怖いっす。智代が卒業して就職して初給料の明細を見せてもらうと、さんさんと輝くその時まで高校卒業からずっと働き詰めだった俺の給料よりも高い金額が。
「大体、私はそんなことで朋也の傍にいたいわけじゃないんだからな。私の男を見る目をそう馬鹿にしないでほしいな」
ぎゅ、と手を握られる。
「何度でも言う。朋也は私を唯一幸せにできる、最高の男だ」
「……全くお前はどうしてそう恥ずかしいこと言ってくれるかねぇ」
そう言って智代の頬を「そんなことを言うのはこの口か」してみようと思って手を伸ばした。
「全く、仕方のない奴だな」
二十分にも渡る頬の抓り合い勝負の勝者がため息をつきながら朝ごはんの片づけをした。
俺、絶対に一生智代に頭上がんないな、と自覚した瞬間だった。
「実はちょっと話があるんだ」
その夜、布団を二人分敷いて、横になっていると、智代が俺のパジャマの裾を心許無さそうに掴んで聞いてきた。
「結婚のことだが、来年の六月まで待ってくれないだろうか」
「来年の六月?」
「ああ。大学を卒業してから式を挙げたい。い、いやまあ朋也が早い方がいいというのなら、それでもいいが」
「いや、俺は構わないよ。どうせこれからずっと一緒なんだから。でも、何で夏まで?」
「六月だと、その、あれだ。ジューンブライドって奴だからだ」
「……お前本当に可愛いな」
わしわしと頭を撫でる。
「すまない、私のわがままで」
「気にするなって。こういうのは焦らずに行こうな。その方が、ドタバタしているよりもいいだろうし」
「うん。しかし何だか朋也といるとドタバタしているのが普通な気もするが?」
「そうか?」
「特に朝仕事に行くときとか」
「……ソウデスカ?」
「もうちょっと早く起きることを心掛けてくれ」
「……ハイ、ワカリマシタ」
「なら、いいんだ……おやすみ、朋也」
そう言って軽く唇を重ねると、智代は俺の上に頭を乗せて、じきにくぅくぅと静かな寝息を立てた。俺もそのさらさらな髪をくしゃ、と撫でると、目を瞑った。
どこまでも広がる、金色のお花畑。
青い空。白い雲。
その中を、手を引かれて僕は歩く。
見上げるけど、僕の手を握る優しい手の持ち主の顔は見えない。
口を開けて何か喋ろうとする。
「――――――――――」
声が出ない。喋っているのに、声が出ない。
ああ、違う。
声が出ないんじゃなくて、僕は自分の声が聞こえないんだ。
そして僕達は、目の前にある大きな山へと歩いて行く。そこの先のどこかへ。
僕達は、どこへ行くんだろう?
不意に肩を掴まれ、揺すられる。
「朋也」
大きな掌の人が僕を呼んでいるんだろうか。
「朋也、起きろ、朝だぞ」
見慣れた天井。見慣れた顔。見慣れた、俺の居場所。
「どうしたんだ?また寝ぼけてるのか」
「……ああ」
「よし、じゃあ、私が起こしてやろう」
「……ああ」
「お前は、甲斐性なしか?」
「……ああ」
「だろうな。前からそう思っていた」
「……ああ」
「そういうわけで、別れよう」
「あ……って、ええええええええええええええ!!」
がばっとはね起きる。
「ほら起きた」
「智代、わか、わ、わか」
「和歌は日本の文化の一種でな、いろんな形式があるが、五七五七七の形式をとる短歌が一般的だ」
「じゃなくて、別れるってのは」
「冗談だ。昨日もう少し早く起きると言ったのに起きなかった罰だ」
実にさわやかな笑顔を俺に向ける。急にへなへなと床に座り込む。
「ほら、早く支度をしないと仕事に遅れるぞ?布団を片付けてくれないと朝ご飯の支度もできないし」
「ああ」
俺は目をこすりながら布団を押し入れに畳んで戻した。不意に、さっきの夢のことを思い出す。
あれは、何だったんだろうな。
「そこはそうじゃないだろ?」
スパナの先でこつんと軽くかわいい後輩(のはず)である山萩のヘルメットを叩く。
「対角線のこと、いい加減覚えような?そうしないと、斜めに留まってボルト全部閉まらないぞ」
「ういっす……あの、岡崎さんもう大丈夫なんですか?」
「……まあな」
あの後、やっぱり命綱に体重を預けるのには少し抵抗というか、恐怖はあった。いや、今でも時々怖いと思うことがある。それでも、いつまでも怖いとか言ってはいられなかった。
「心配してくれるんなら、今日の仕事は全部お前に任せた」
「ええええええ?!」
「もうそろそろできるだろ?」
「無理っす!岡崎さんヘルプっす!」
「悪いがビートルズには興味ないんだ」
「そこでボケないで下さい!」
「いいから、ほらネジ落とすんじゃないぞ」
きりり、きりりとラチェット式ドライバーの音を聞きながら、俺は空を見た。今日は少し温かくなりそうだ。
先週の終末、智代は大学に戻っていった。やっぱり寂しくはなったけど、でも夏休みの終わりの時とは違って、笑顔で手を振って別れることができたのが嬉しかった。今頃何をしてるんだろうか。智代のことだから講義のない時間でも図書館とかに行っているのかもしれない。それとも後輩の面倒を見ているんだろうか。
「岡崎さん」
「どうした?何か困ったことでもあるのか?」
「いや」
山萩が白けた視線を俺に向けてきた。
「そのにやにや、やめてもらえませんか?マジで引くっす」
取り合えず山萩のスパナを腰から抜いて電柱の根元に落とし、取りに行かせる刑を実行してやった。
僕は木陰の涼しさを感じながら歩いた。
どこまでも続く、田舎道。
青く茂る葉っぱを見上げながら、木漏れ日の眩しさに目を細める。
不意に名前を呼ばれた気がした。
僕の前で、誰かが僕を待っていた。その人に駆け寄ると、大きな手を差しのべられた。
いつの間にか、手を繋いでいた。
僕よりも背の高い茂み。ごつごつとした白褐色の道。その並木道を出て、僕は息を呑む。
どこまでも広がる金色のお花畑。
青い空。白い雲。
僕ははしゃいで、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。すると、僕の手を握ったいる人が頷いて見せた。そして、お花畑へと進んでいく。
口を開けて何か喋ろうとする。
「――――――――――」
声が出ない。喋っているのに、声が出ない。
ああ、違う。
声が出ないんじゃなくて、僕は自分の声が聞こえないんだ。
そして僕達は、目の前にある大きな山へと歩いて行く。そこの先のどこかへ。
目覚しがいつの間にか鳴っていた。俺は寝ぐせの付いた頭を掻くと、背伸びをして外を見る。季節変りの雨がしとしとと降っていた。
事務所では、書類仕事が待っていた。
「そう言えば岡崎君、噂で聞いたんだけどね、結婚するんだって?」
親方が人懐っこい笑みを浮かべて聞いてきた。
「は、はあ」
「それはいいね。おめでとう」
「ありがとうございます。すいません、内緒にしてるつもりはなかったんですけど」
「いやいや。相手は、あの美人の……ああ、坂上さんだったっけ?お弁当持ってきてくれたりしてた子でしょ?」
「ええ……」
顔が熱くなって、親方の顔を直視できない。
「いいねえ。で、先方の親御さんには報告したのかい?」
「あ、いえ、まだです」
「うーん、懐かしいねえ。僕はね、かみさんのご両親に挨拶しに行ったらさ、親父さんが出刃包丁持ってきててね」
「まじっすか?」
「うん。『わしの娘、それほど欲しけりゃ指一本置いていけ』って脅されてね」
「……で、どうなったんですか」
「覚悟決めて包丁取ったら『それでいい』って言われてねえ。僕もあの時は本当にびっくりしたよ」
……怖ええ……
何より、それが他人事に感じられなくて怖くてしょうがない。坂上さんとは、前に何度か屋台で飯を食べたりしたから、付き合っていることに関しては納得してもらっているけど、結婚ともなれば話は別だろう。そして智代のお母さんは俺のことをあんまり認めていない節がある。
そもそも、坂上家の「家族の絆」というのが少々、その、あれだ。任侠、とはちょっと違って、「家族と一緒に時間を過ごせない奴は、本当の男じゃない」とか「ファミリーじゃない者に自分の考えを口にするものじゃない」とか言いそうなそんな雰囲気だ。実は坂上さんは蔭でいろんな人の名付け親になっているのかもしれない。
もしかすると、挨拶しに坂上家に入ったが最後、生きて出られないかもしれない……
「ところで岡崎君の親御さんは?」
「あ……」
「まだ、話してないのかな?」
「ええ、まぁ」
親父とは、独立してから全然喋ってもいない。今更話すことなんてないと思う。
でも、やっぱり話すべきなんだろうか。
「話しておいた方が、坂上さんも安心すると思うんだけどね」
「……そうですよね」
俺は茶を濁しておいた。
丸太でできた柵が見えた。その先は、高い崖になっていた。
潮の匂い。静かな波の音。
僕は、一人だった。カモメの声が遠くで聞こえる。
カバンからおもちゃを取り出すと、僕は一人でそれで遊んだ。
後ろを振り返る。緑の林が途切れて、長い歩道がここまで続いている。その先には、さっき越えた山が見えた。
不意に世界が変わる。青かった空がオレンジ色に染まる。カモメもいなくなって、波の音だけがかすかに聞こえる。
じゃり
近づいてくる足音に振り替えると、崖の近くで誰かがこちらを見ていた。そして、僕の傍にはさっきの掌が。
「朋也」
名前を呼ばれる。僕はその手を握る。
「朋也、その、手を握ってくれたのはありがたいが、もうそろそろ起きてくれ」
重い瞼をこじ開ける。
「おはよう朋也。今日もいい天気だぞ」
「ああ」
そう言えば、もう春だった。春と言えば春休み。春休みと言えば無論、ともぴょんリターンズなわけで、よってまた俺達は仲良く同棲している。
「早く起きてくれ。今日は私の両親に報告しに行く日じゃないか」
「……」
このまま布団に潜ってガクブルしていたほうがよっぽどましな気がした。
えーっと智代さん、それって、俺が坂上家に行くってことですよね?
「そうだが……?」
それって、崑崙山よりも高い敷居を持つ、あの坂上家に上がっていくってことですよね?
「そこまでうちの敷居は高くないだろう?」
それって、智代の父君に「智代を俺に下さい」とか言うってことですよね?
「朋也の熱い台詞、期待しているぞ。何となれば、芳野さん仕込みだからな」
実刑判決を喰らった囚人のような俺とは対照的に、智代がまぶしく笑った。
結果を報告しよう。無事報告を済ませることができた。
坂上さんとしては、逆に娘とここまで進んでおいて責任を取らなかったらそれこそただじゃ済まさない、という心境だったらしい。だから案外すんなりと祝福してくれた。
そのあとでぼそりと呟いた「でもまあ、ファミリーの仕事を手伝わせるのにはまだ早いか」という言葉がすごく気になったが。どういう仕事だ。
「朋也……」
帰り道に、智代が手を握ってくる。
「その、お前のお父さんとは、まだ……?」
「……ああ」
悲しげな眼で俺を見た。
「私は、お前と直幸さんの仲が良くなってほしい、と考えているんだ。その……」
「大丈夫だよ。あの人はきっと俺とお前の結婚に関してだって、あまり関心を示しはしない。反対されるはずないさ」
「そういう話じゃないんだ。私はお前が心のなかに蟠りを残しているのが辛いんだ」
体ごと俺の方を向き、手を取った。
「私にできることなら何でもする。今すぐにとは言わない。でも、いつか、ゆっくりでいいから、直幸さんに歩み寄ってくれないか?」
その真摯な目。それを見て俺は理解する。
こいつは今、本当に俺だけのことを想ってこういうことを言ってくれているんだと。
家族の心がバラバラだということがどれくらい痛いか知っているから、どれくらい辛いか解っているから、智代は俺にそんな思いをし続けてほしくないと思っているから。
それでも
「……いつか、な」
俺は頷くことができなかった。
「変な夢?」
智代が怪訝そうな顔をした。俺は頷く。
「夢なんだが、嫌に連続性のある夢でさ。たくさんあるシーンを繋いでいくと、一つの絵ができるような感じだ」
「それは……朋也の記憶じゃないのか?」
「記憶?だけどそんな光景……」
「朋也は結構普通じゃない方法で記憶を取り戻したからな。昔の忘れてしまった記憶もぶり返しているのかもしれないな」
智代はちゃぶ台の向かい側に座ると、考え込んだ。
「ちなみに朋也は昔どこに住んでいたんだ?」
「昔?そうだな、覚えている限りではあの家だったけど……」
「じゃあ、生まれもここなのか?」
「……いや、そうじゃないかもしれないな」
なぜかそんな気がした。俺はここで生まれたんじゃない。小さい頃ここに来たんだと、頭の奥で何かが告げていた。
「もしかすると、その時の記憶じゃないか?子供の頃、そんな田舎で育っていたんじゃないか?」
でも、そうだとすると、それは俺と親父の記憶になる。
そんなものを今更知ってどうする?むしろ忘れたい。親父の記憶なんて、いらない。
そう、いらないんだ。
「気にしなくていい。大したことじゃないと思うんだ」
「朋也……でも、変じゃないか?大したことじゃない記憶が夢でずっと現れるなんて……」
「いいんだよ。お前は心配しなくていい」
「……うん」
そうは言ったものの、智代は納得したようには見えなかった。
『もしもし』
三回目のコール音で、受話器が取られた。俺は口を開き、一瞬戸惑った後、しゃべった。
「忘れ物があるんだ」
『ああ、朋也君。久しぶりだね』
「これから取りに行きたいんだけど、いいか?」
『……ああ、いいよ。私は先に休ませていただくけど、いいかな?』
「ああ、そうしておいてくれ。じゃあ」
携帯を切ると、俺は深呼吸をした。そして、布団の中で寝ている智代に心の中で謝ると、部屋を出た。
実際に家の前にいざ立ってみると、それ以上先に行こうとするのを足が拒んだ。情けないとは解っていても、俺は玄関の前で逡巡していた。すると
「入らないのか?」
誰だ、と聞くまでもなかった。振り返ると、智代がコートを羽織って俺を見ていた。
「智代……」
「何だ、私がお前が部屋を出るのに気付かなかったと思ったのか?お前が布団から抜け出た時点で、私は気付いていたぞ?」
「……そう、だったんだ」
「とにかく中に入ろう。話はそれからだ」
手を掴まれて、俺は半ば強引に家に入った。
部屋に入って最初に智代がやったのは
パンッ
頬に痛みを感じた。智代はしばらく無言でいたが、目尻に涙をためて言った。
「朋也の馬鹿っ」
「……智代」
「私は、お前の何だ?婚約者だろう?悩んでいるんなら、正直に話せ。一人で背負い込むなと言ったのは、朋也だろう?」
「……ああ」
「そんなに私は頼りないのか?そんなに私に何かを頼むのが嫌なのか?」
「いや……そうじゃない。ごめんな」
「私は朋也の力になりたいんだ。朋也が私を助けてくれたみたいに、朋也を助けたいんだ。なのに、何も言わずに一人で行ってしまっては、私はどうしたらいいんだ?」
涙がぽろぽろと頬を伝って落ちた。それでも、智代は俺から答えを聞こうと、じっと俺を見ていた。
「本当に、馬鹿だな、俺」
「ああ、そうだな」
「ごめんな、智代。俺、智代に心配だけはかけたくなかったんだ。でも、そんな風に思ってたなんて全然知らなくてさ……」
「……全く、仕方のない奴だな」
「そうだな」
そっと頬を手で触れて、涙を拭った。
「これからは、ちゃんと言うよ。助けがいる時は、ちゃんと頼る」
「うん」
「だから智代、ちょっと助けてほしい」
「ああ。何をしてほしいんだ?」
俺は押入れを指さすと、頭にあったことを話した。
「この中にアルバムとか手紙とか、そういうものがあると思うんだ。それにもしかするとヒントがあるかもしれない」
「わかった。何だかともの時みたいだな」
そう言うと、智代はようやく笑ってくれた。
それから数時間後。
「なあ朋也、これはどうだろう?」
「何だそれは?」
智代が見せてくれたのは、古い封筒だった。宛名は親父になっている。そして差出人は
「岡崎志乃、という名前に覚えはないか?」
「……いや、ないな」
はっきり言って、俺は親父以外の家族なんて知らない。
「もしかすると、ここは直幸さんの実家なのかもしれないな」
封筒の裏にある住所を俺に見せながら、智代が言った。
比嘉氏十里。そこが、親父の実家らしい。
(次は、比嘉氏十里、ひがしどおり。降りられるお客様、忘れ物のご確認をして、足元にご注意ください)
(朋也、降りよう)
あ。
どこかで聞いたことがあった。
「何か思い出したか、朋也?」
「ああ……本当にここかもしれないな」
封筒を開けてみると、中には手紙と一枚の写真があった。手紙の方は大分傷んでいて、インクが滲んでいるため読むのは困難だった。しかし写真を見た時、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
山を背景に、目一杯広がる黄色の花畑。
間違いない、あの光景だ。
「これ……か」
智代は手帳を取り出すと、封筒の裏に書かれていた住所をメモした。
「朋也、そう言えばゴールデンウィークは休みは取れるのか?」
「あ、ああ。確か大丈夫だと思う……じゃあ」
「うん、行ってみる価値はある」
俺と智代は目を合わせると、しっかりと頷いた。
次回予告
「俺さ、お前と会った時はさ、まさか二人でここまで来るなんて思ってなくてさ。そもそも誰かと付き合うってことにすら興味なくて、初めて会った時も、『ああ、面白い奴だな』ぐらいにしか思ってなくて」
「ひどいな、それは」
「ははは。だからさ、そんな二人がこんなところで、こんな会話をしてるのが未だに信じられない。
何だか、奇跡みたいだなって」「……そうだな」
最後の鍵をようやく手にして、私達は失われた日々を取り戻す最後の旅に出た。
「それで、充分だ」「そう、か?」
「ああ。その言葉で、みんな救われる」
「本当に?」
「ああ。私が保証する」
「LOST DAYS」
最終話 失われた日々を取り戻して
「全く、仕方のない奴だ」