第一章 第二章
今日は岡崎朋也の誕生日となっていた。それでも彼は有給をとることなく会社に出勤しては仕事に勤しむ。
そうして肉体労働の疲れを引き下げて家路へと足を運ばせていた所でした。
おんぼろアパートが見えてきた頃。その手前に愛娘の姿も一緒に見えた。
どうやら汐が父親の帰りを待っていてくれたようです。
朋也の姿が見えると嬉しそうに手を振っていました。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「どうしてこんな所で待っていたんだ?」
「パパに早く会いたかったんだもん」
「マジ天使!―――って、ありゃ?」
娘の愛らしさについつい抱きつこうとする朋也。しかし汐の軽い身のこなしでそれは避けられてしまった。
「仕事帰りで抱きつくのは禁止です〜」
「そうでした」残念無念
昔は父親が仕事から帰ってくれば汐の方から抱きついてきたというのに…
今では匂いや汗が移ったら嫌だと、お触りは風呂上りでないと許可を貰えない。
娘の成長を嬉しく思う反面。寂しいと思うこともあったり。
「ねえ?それよりもパパ?」
「皆まで言うな。パパもよ〜く分かっているぞ」
何か気付かない?気付いたら言ってくれないの?
その台詞を口にせずとも、朋也も娘が求めていることを理解できていました。
なんたって、娘の容姿がいつもと違えば気がつかない方がおかしいくらいですから。
「可愛いぞ」
「ええ〜 可愛いだけ?」
「おっと、これは失礼しましたお姫様。もちろん。可愛くてお美しいかぎりです」
「パパ大好き」ちゅっ
これでよろしいでしょうか?
そんな表情で朋也が娘を見ると、汐はキスをもってして感謝のおかえしをしてくれました。
「その口紅はどうしたんだ?ママにでもしてもらったのか?」
「ううん。早苗さんから貰ったの」
「へえ〜」
汐は今日この日のために秘密の特訓をしていたのでした。
全ては朋也を驚かせるため?
それも理由の一つでしたが、実はもっと大きな理由が隠されていたのです。
「お姫様のキスでパパは明日も頑張れそうだ」
「それならいっぱいキスしてあげる」(いい調子♪)
この後、汐が予定していたことに好都合な展開が舞い込んできちゃいました。
父親の娘の可愛がりようは汐も理解しているところ。
それを見越しての『おねだり作戦』行っちゃいましょう!!
「パパ〜 私、温泉旅行に行きたいな〜」
娘がいっぱい甘えてきました。朋也もさぞ大満足していることでしょう。
そこで次の一手。あま〜いボイスでおねだりを要求。
これで父親もイチコロであります。
「このおねだり上手め。今日はパパの誕生日なんだぞ?」
「それはこれから沢山祝ってあげるから。ねえ?だ〜め?」
「う〜ん、次の家族サービスは温泉旅行で決まりかな」
「スキーもしたいな」
「スキーか… 少しだけ時期が早いな」
「それなら北海道に旅行に行こう!」
「北海道!?それはちょっと…」
「だめなの?」
「二カ月くらい待てばこっちでも雪が降るからさ。それで我慢しような」
「むう…」
「ふくれ面になってもダメなものはダメだ」
「ケチ」
「ケチで結構」
娘に甘い父親でも何度も要求に応えてはくれなかったようです。
それでも旅行は決定。さらに雪が降る時期にはスキーが待っている。
とりあえずはおねだり作戦は成功のようでした。
◇◇◇
暖かいやりとりをしていようとも寒空の中にいれば、やっぱり身体が冷えてきてしまう。
親子は自宅へと戻ることにしました。
その道中で汐はルージュをふき取ってしまいました。
なにせ沢山キスを繰り返して薄れてしまっていましたから。
それにこの後に控えているであろう第二の作戦のためでもあります。
おねだりの次は――――悪戯の始まりはじまり。
「ただいま」
「おかえりなさい」
待ちに待った主役の登場に渚の声色はいつにも増して嬉しそうでした。
仕事帰りで疲れている旦那様を笑顔で出迎える。これも良妻の務めであります。
と、渚ならそんなことを考えずとも普通にしてくれることでしょう。
この日もいつものように出迎えようと玄関へと出向いてゆくと…
朋也の顔を見た渚は凍りついたように固まって歩みを止めてしまった。
「ともやくん… それは…」
「渚?それってなんだ?」
「朋也くんはそんなことする人じゃないと信じていました…」
「でもわたしの自惚れだったようです」
「は?」
「いいえ。朋也くんに愛想つかされてしまうことをした、わたしがいけなかったのですよね」
「あの〜 いかがなさいましたか?渚さ〜ん」
「とぼやくんが… うわぎしぢゃいばしだ」
浮気。その台詞を発して渚は床に崩れて大泣きを始めてしまいました。
一体全体どういう流れでそうなったのか。まったく理解できない朋也は混乱するばかり。
急いで渚に駆け寄ってみてもその手を払いのけられてしまう。
「優しくしないでください。わたし、また誤解してしまいます」
「誤解もなにも俺は渚を愛しているんだ。優しくして当たり前だろ?」
「この期に及んでその台詞を口にしますか!」
苛立ちを眼力に込めて、渚は朋也を見ていた。
こんな彼女の姿など、朋也はこれまで見たことがなかった。
それほど渚には感情を爆発させる出来事があったのでしょう。
ただそれが朋也には知らないこと。だからその胸の内を語ってほしいのですが…
「おちつけって、何か勘違いしてないか?」
「してました!だからこうして朋也くんが浮気しちゃったのです」
「それが誤解だって。俺は浮気なんてしてない」
「ならその沢山のキスのあとはなんですか!」
「キス?」
渚は夫の頬に沢山あるキスマークを指差した。
紅いキスマーク。それはたしか…
「わたしに見せつけるためですか?そこまでわたしを嫌いに…」
「キスって…あっ…」
朋也もここで理解が追いついた。どうやら渚の誤解とみて間違いないようです。
「そこまで嫌いなら離婚もやむなしです。でもわたしは…わたしは…」グズッ
「やっぱり朋也くんが大好きで離れたくありません」
「わたしを捨てないでください。もっと好かれるように頑張りますから」ふえ〜ん
朋也に抱きつき胸の中で泣きじゃくる渚。どうやらこの天然さんはまたボケてくれたようです。
(またかよ…)
『妻が娘に嫉妬』『娘の悪戯に振り回される妻』
岡崎家ではもう恒例行事となりつつあります。いい加減、渚も前回の教訓を活かしてほしい。
そこも含めての愛らしい嫁さんなのですけど。
それなら早速その誤解を解いてやりましょう。
「このキスマークな。汐がしてくれたものなんだ」
「しおちゃんが?」
「ごめんなさいママ」
汐の予想してた通りの母親の反応。しかし効果は想像以上だったようで、悪戯を反省しているようでした。
まあ、このくらいの悪戯なら両親は怒らないのでしょう。可愛いものです。
種明かしもしたことですし、渚も泣きやんでくれるでしょう。
「たとえしおちゃんでも浮気は許しません。朋也くんはわたしの旦那様です」むぎゅっ
「でもわたしのパパでもあるよ」むぎゅっ
「困ったなぁ…」
岡崎家では度々行われる嫁と娘の朋也争奪戦。両手に花。
困ったような嬉しいような。この日はその後、頑なに朋也から離れようとはしなかった渚に軍配があがりました。
◇◇◇
岡崎家での誕生祝いは平穏そのものでした。
これが古河家で行われていたらと思うと…
誰を祝っているのか分からない騒ぎになっていたのかもしれません。
それはそれで楽しみ方の一つなのかも。
そんな朋也は二人の天使に挟まれて至福の時を過ごしていたことでしょう。
今日は祝いの日。少しぐらい羽目を外してもよいではないですか。
シャンパンをひと飲みして酔わずにいれた渚は、
もう少しアルコール度数が高いお酒も挑戦してみることにしたそうです。
しかし超が付くほどの下戸な渚がこれ以上お酒を飲もうものなら酔っぱらうこと間違いなし。
と、そこで彼女が何処からともなく持ってきた、グラスに注がれていたのは無色透明な日本酒?
いくらなんでもそれは挑戦しすぎやしませんかね?
朋也も当然制止しました。しかし渚は特別なお酒でアルコール度数は低いと言います。
それならと朋也も軽い気持ちで許してしまったのが失敗でした。
次にはできあがってしまった渚がいましたとさ。
さて、これからどんな色っぽい妻が見れるのか。それを恐ろし楽しみ不安を感じながら待つとしましょう。
「素敵な旦那様と出会えて。可愛い娘を授かって。わたしはなんて幸せ者なのでしょう」
「それもこれも朋也くんのご両親が朋也くんをこの世に誕生させてくれたからです」
「ありがとうございます」ぺこり
渚は天に向かって感謝をしていました。この程度ならまだ可愛いものです。
「親父はまだ星になってないぞ」
「そうでした!それならご実家に向かって」ぺこり
「もう好きにしてくれ…」
渚のボケに突っ込む朋也も律儀なものです。
「ところで朋也くん!」
「おう、今度は何だ?」
「今宵は一緒のお布団で寝ましょう」
油断も隙もあったものではない。爆弾発言がとうとう投下されてしまいました。
「ぶはっ!?娘の前でなんてこと口走ってんだコラ!!」
「いつからか朋也くんは冷たくなっちゃいました…」
「しおちゃんが物心ついてからは特に。とっても寂しいです」グスン
娘も中学生。深夜に声を押し殺しながら行われるプロレスごっこなど誰が信用してもらえるでしょうか?
そうなると互いの愛を確かめ合う行為は娘が居ない時に行うしかありません。
それが古河家に汐が泊まりに行った時。どうやら渚はご無沙汰気味に不満を持っているようでした。
しかしですね… それは娘がいない所で話し合って解決してほしいものです。
それに近々引っ越しを検討していたりもしました。
防音されていればどんなことをしようと二人の勝手。それまで待てないものなのでしょうか…
「もう少しだけ辛抱しような?」
「朋也くんは勘違いしているようですね。わたしは『ただお互いの温もりを確かめ合うだけ』」
「それだけでよかったのに、男の子っていつもえっちなことしか考えてくれません」
「朋也くんは我慢もできないのでしょうか?」
「はめられた… どう考えても悪意のある誘導だぜ」
「今からアッキーのところに泊まりに行こうかな〜」
「子供は余計な心配をするんじゃありません!」
それなら母親をどうにかしてください。
なんて言っても一度暴走し始めた酔っ払いは手が付けられない。
子供ながらにいらぬ気遣いだけを憶えていく汐なのでした。
こうなれば妥協案もやむなし。一緒に寝るだけなら仲良し夫婦というだけ。
朋也はこれ以上妻の要求がエスカレートしてゆく前に、渚の要求の呑んで満足させてしまうことにしました。
「分かった。一緒に寝てあげるから機嫌直そうな」
「約束のちゅうしてくれたら許してあげます」
「はいはい。ちゅうでもキスでも口づけでもなんでも応えてやるさ」
酒気が漂うキスはなんともムードに欠ける。
そんなことは言ってられずに朋也は軽い口づけを交わし合いました。
(まったく酒臭くなかったな。これくらいで酔うなら始めから飲ませるんじゃなかったぜ…)
ひと騒動はありましたが、なんとか柔らかい解決案で鎮静化してくれました。
次からはこの教訓を踏まえて、根本から原因を取り除いてしまうことがベストなのでしょう。
その原因を作った酒を朋也は取り上げることにしました。
これ以上、渚に飲酒をさせるわけにはいきません。
「それとこれ以上の飲酒は禁止。この酒も募集だ」
「えへへ、久しぶりに朋也くんに沢山甘えられます」
渚はすでにお酒に未練はないようです。このまま酔いも醒めていつもの渚に戻ってくれれば無事解決であります。
「よかったね。ところでママ?」
「はい?」
「ママって本当に酔ってるの?」
なぜ汐はそう思ったのか?
母親の行動はいつもより大胆でした。それが何よりも酔っている証拠になっていたはず。
汐も始めはそう思っていました。しかし、途中で母親の表情を見てから疑問を持つようになっていました。
『顔が赤く染まってない』
酔うと耳まで真っ赤になるほど下戸な母親。それが今日はまったくの変化なしでありました。
そこで汐は『渚が一芝居打っている』と判断したのでした。
「………酔ってますよ。もうとってもグデングデン状態です」
「ほほう。こいつは面白い情報を得た」
朋也は渚の飲みかけだったお酒を眺めて、そのまま口に含もうとしていました。
「あっ!?それは朋也くんの口に合いませんから飲んじゃダメです」
「汐、やっちまえ」
「らじゃー」
そうはさせまいと渚が駆け寄ってきました。しかしそれは可愛らしい警察官によって拘束されてしまう。
「離してください。二人で共闘なんてズルいです!」
「さて、コイツを確かめれば全てが判明する」んくっ
「ああっ…」
全ては水の泡。渚の演技は泡沫のように切ない結末を迎えました。
「ぶわっ… 不味すぎる…」
「汐も飲んでみ?」
「未成年なのにいいの?」
「飲んでみれば分かる」
「ふ〜ん、ならひとくちだけ」
もう抵抗する気さえ起きない。渚は床に力なく崩れ落ちていました。
「うえ… これ砂糖水だよ」
「渚さ〜ん、どうしてあなたは砂糖水なんかで酔ってしまわれたのでしょうか?」
「甘いお酒です」えへへ///
「こんなクソマズイ酒があってたまるか!」
「ふえ〜ん、ごめんなさいです」
「まあまあ、パパも許してあげよう。毎月一回はある、ママの甘えん坊タイムだから」ね?
「しおちゃんにまで同情されてしまいました…」
渚も学校行事とはいえ舞台に立って役を演じていたはずなのに…
パン屋の手伝いをする普通の主婦。それが渚にはお似合いのようでした。
お酒の力を借りて甘えちゃおう作戦は失敗に終わりました。
そんなこんなでおませでキュートな娘と天然で嫉妬深い妻に囲まれた
岡崎朋也の平穏な日常は幕を閉じたのであった。
これを期に引っ越しをしまして、もう一人妹でもこさえて。
家族四人で平穏に暮らす。なんて未来があってもいいのかもしれません。
第一章 第二章