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「今日はおぬしに、カツ丼の作り方を教えて進ぜよう」

 いつもは寡黙な板長が、その威厳プンプンな巨体を軋ませて恭一の前に立ちはだかった。

「おぬし、未だに恐怖が取れぬか?」

「取れるも何も、一通りすべての食べ物にトラウマができたんで、比較的大丈夫っす」

「そうか。それでようやく料理人の踏み場に立てたわけだな」

 何だかどこか間違っている気がするも、恭一は頷いた。

「おぬし、料理がどこで行われるか、心得ているか?」

「……厨房?」

 ずばんっ!と鉈のごとき包丁が、恭一の足元に振り落とされた。

「おぬしはそれでも料理人の端くれかっ!それでも厨房に立つ者かっ!!渇!!」

 声だけで吹き飛ばされそうになった。

「料理人の腕が試されるのは、まずはその目からだ」

「目?」

「応。その目で素材を確かめ、そしてその素材を生かしきって料理を作るのだ」

 そして板長はずい、と腕ほどもある長い包丁を恭一に手渡した。

「さあ、これでカツ丼の肉を削りだせ。魂を取り出して来い」

 振り向くと、そこには豚が草を食べていた。

 ごくり

 恭一はゆっくりとその豚に近づいていく。

 

「君さぁ、僕を食べる気?」

 

 不意に豚が語りかける。

「は?」

「僕を食べるつもりでしょ。ああ、弁解はいいよ。もう悟ったから」

「さ、悟った?!」

「悟りっていいねぇ。極彩色の七面鳥に乗ってチンギスハーンがツイスト踊っててさぁ」

 するとキンキン声が足元からした。

「勝ちゃん、あなたはもっと勉強するザマス。勉強してハーヴァードに主席入学するザマス」

「はい、ママ」

 見ると、鶏がメガネをかけて、卵に本をせっついていた。

「そういや、カツ丼には卵も必要だったな」

 恭一はふらっと鶏の前に屈み込んだ。

「なぁ」

「はいは……これはこれは消費者様。どうかしたザマスか」

「ああ、その……卵くれないか?カツ丼つくるんだけどよ」

「まぁそうザマス?結構ザマスよおーっほっほっほ」

「んじゃ、遠慮なく」

 しかし手を伸ばそうとすると、卵が言った。

「僕はまだダメだよ。僕はこれからハーヴァードに入学するんだ」

「卵が大学入ってどうするよ?」

「まっ、ご存じないザマスの?カツ丼用の卵は、ハーヴァードを卒業して、ケンブリッジの大学院で博士号を取る義務があるザマス」

 カツ丼の材料にしては、スペック高えなぁ、おい。

「そんなことも知らない馬の骨に、勝ちゃんはあげられないザマス」

「でさぁ、ラスプーチンとカエサルが僕にしきりにコーク勧めててさ」

「連隊のパンツはいいパンツ。うまいぞぉ、うまいぞぉ」

「はあっはっはっは、余の生徒会役員は、毎日五リットルのバルサミコ酢の摂取が求められておるぞ」

 

 

 

はっ

 

 

 腕時計を見ると、二時半だった。恭一は目をこすると、何の気もなしに二段ベッドの下の段を覗いてみた。

「うっわ……すげぇ」

 誠は服も脱がず、まさに倒れこむような感じでベッドで寝ていた。

「つーか、呼吸してんのかこいつは?」

 そう言えば寝息が聞こえない。ここのところ部屋に帰るのは、物凄く遅かった。噂によると、中央棟の座学室とかいう所で勉強させられているということだったが、まぁ連隊が主催しているため、往復ビンタや腕立てなどの罰則は当たり前なわけで。

 つまり結局は普通に訓練しているよりも大変そうだった。

「何でそんなに頑張るかねぇ……」

 入学式頃は六十人ほどいた新隊士だったが、今ではそれの半分以下ぐらいに減っていた。やめていった連中の話からすると、やっぱり連隊というところは半端じゃないらしい。誠はそれほど話したりしないが、そんじょそこらの体育会系の部活なんて目じゃないという話だ。

「あ、そういやあおっちが原因かよ」

 ふと思い出した。青葉明日華。誠の同級生で、生徒会役員の書記を務めている女子にして、とんでもなく馬鹿な手違いから誠がフルコンタクトボコリクラブに入ってしまった理由。そういや、もし二人が付き合い出したら、俺はこの部屋からよく「ちょっと外に行ってて」とか言われるんだろうか。で、戻ってきてみると何ともいえない微妙な匂いが。おい谷塚、この薄緑の布、何だ?うわああああ、ちょ、お前向こう行ってろよ!隠すなよ、え?何々?

 

 ふと気づくと、さっき目が覚めた時に縁を切ったと思っていたヒッピーな豚と教育鶏が可愛そうなものを見る目で恭一を眺めていた。

 

 

* * *

 

 

 よし、と明日華は気合をこめた。

 シャーペンを取ると、くるりとそれを指先だけで一回転させ、そして試験問題に目を通す。

 カツカツ、カッカッカ

 一枚の紙越しに、木の机と鉛筆の芯がぶつかる音が耳に入る。「うわぁ」とか「うっそぉ」とかいう悲鳴が聞こえるが、それはこの際無視するべきだった。

 流れるようにシャーペンが解答用紙を埋めていく。教室の壁にかかっている時計を見ても、ペースは上々。このままだったら、早めに終わる。

「うぅ……ひぐぅ……おぇあ……」 

 不意に、嗚咽が聞こえる。ちら、とそちらを見る。明日華の席、そこから斜め二十五度の席に座っている男子が、机に突っ伏して男泣きをしていた。

 あまり意識せずに解答を進める。そう、意識してはダメだ。ここまで、そう、期末試験の最後の日まで頑張ってきたんだ。私はやってやる。どうだ、母さん、父さん、それに姉に妹よ、私を見ているか?

 勝手に自分が家族を殺してしまったことに気づきもせず、明日華はそのまま書き続ける。消しゴムをこする音、ため息や苦悩の声が微かに聞こえる。

 鼓動が早まり、時々シャーペンの後ろについた消しゴムで額を軽く叩く。落ち着け私。この問題の答え方なら、昨夜確認しただろう?そう、できる。絶対にできる……ほら、できたぞっ!うんうん、よくやった明日華。お前はやればできる子だったんだ。後でアイスを奢ってあげよう。む、しかし自分自身に奢ると言うのも、また変な話だな。進呈?サービス?どうなんだろう……って、集中しろ、私っ!!

 不意に教師が歩いてくる。そして明日華の右後ろの生徒のそばに立つと、小声で何か話した後、紙のこすれる音が聞こえた。足音。どうやら早く終わった生徒がいるらしい。ふ、ふん、落ち着いていいんだ。そうだ、私は私だ。できる子なんだ。試験解答早撃ち大会じゃないんだから、時間が終わるまでに書き終えればいいだけのこと。フレー、フレー、あ・す・かっ!いけるぞやれるぞわったっしっ!

「おし、そこまで。シャーペン置け」

 教師の声が聞こえたのは、明日華が最後の問いを答え終わってから三.一七秒後のことだった。

「ふぃー、終わったよぉ」

「あーくそ、もうやけだっ!」

「ねぇねぇ、どうだった?」

「うん、最後の質問は大変だったねぇ。特に、裏の問25」

「え?」

 明日華の隣の女子が冷えた声で言った。

「ね、ねぇ青葉さん、冗談よね?裏に質問なんてなかったよね?ねぇ?」

「……すまない」

 裏には5問、計20点分の質問があった、と言う前に、その女子は教室の外に走り出て行ってしまった。

 そういえば。

 そう言えば、先ほど泣き崩れていた男子生徒はどうなったんだろうか。見ると、友人たちに囲まれて慰められていた。どこかで彼の顔を見たな、考えていたら、ふと思い当たった。そう言えば、彼も天栄祭の防御陣の後ろで装備とかを運んでいたな。さては連隊士か。泣いた理由と言えば、ではあんなに苦労したのにいざ問われてみれば答えられなくて悔しかったからとか?それとも何だ、その手の質問に対しては、泣き出したくなるほどのトラウマを抱えているとか?どっちも嫌だな。

 そこまで考えて、明日華は振り向いた。そして、今は半ば空となった教室、その机の一つまで歩いていき、腰掛けた。

 目の前には、腕に顔を埋めて撃沈しているもの一名。

「生きてるか、谷塚君」

 返事は返ってこなかった。それでも、彼が起きていたら返しただろう答えを思い浮かべて、明日華は笑った。

「連隊士だから大丈夫、とか言うんだろう?君はいつもそれだからな。これではいつか脳みそまで連隊付属筋肉になってしまうんじゃないか、と私はかねてから危惧している」

 さて、と言って明日華は立ち上がった。

「今起こすのは無粋だからな。しかしかと言ってこのままここにいたら麻部先輩にまた変な想像をされるからな。私はここで失礼させてもらう。まぁ何だ、明日は休日だしな。来週からはまたいろいろと面白いことをしようではないか、なぁ?」

 そして鞄を手にする。教室を出る一歩前、明日華は振り返ると小さく呟いた。

「ではな。お疲れ様、谷塚君」

 

 

* * *

 

 

「で、結局はどうだったよ?」

 昼休み、例によって誠と恭一は誠の教室でパンをかじっていた。

「ま、一応八十以上、って感じで」

「くぉおおおお、うらやましいぜ。俺にも少しばかり成績分けてくれよ。大体、どうしたらそんなにいい点取れたんだ?」

 恭一にしてみれば、何の含みもないただの質問だったが、その一言で誠の顔に簾がかかる。

「……あのな、人にはわからなくてもいいことってのがあるんだ」

「そうだな。例えば今現在世界経済がどれほどどん底なのか、よって私たちが卒業した時点でどれくらいお先真っ暗なのか、正確な数値が出たとしても、誰も知りたがらないだろうな」

「そうそう……って、あのな」

 言いかけて誠は振り向く。恭一もその向こうを見た。

「いい加減気配を消して会話に参加するなよ。心臓に悪いんだから」

「ふむ。しかしでは私は何だ、ファンファーレでも鳴らしながらリオのカーニバルさながら踊り子を引き連れて登場すればいい訳なのか?」

「そんな極端な……」

 すると明日華が意地悪く笑う。

「それに、気配を消さないと、君たちが私の陰口を叩いているかどうかわからないじゃないか」

「陰険だなぁ……もし叩いていたら?」

「別に何もないさ。ただ君たち二人に死亡フラグが立つ、それだけのことだ」

「大事だって、それ」

「そういや」恭一が身を乗り出す。「あおっち、生徒会は?」

「会長がいい天気だからと言ってキャンセルしたそうだ。まぁ、あの人を常識で捕らえるのはやめたほうが精神衛生上好ましいからな、深くは考えるな」

 確かに。もしかすると神谷鉄也は光合成するのかもしれないし、吸血鬼だから日光に弱いのかもしれないし、発作でラリラリグルーヴを踊りたくなるのかもしれない。ラリラリグルーヴって何だ?

 何の気もなしに、外を見た。絵の具を塗ったような青い空に、馬鹿でかい雲。

「もうそろそろ、夏が来るな」

 

 誠はゆったり流れる雲を見ながら、ふと笑った。

 

 

 

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