その時、一年二組の春日井優香は結構真面目に困っていた。
目の前にはスタンプラリーのボード。しかし肝心のスタンプと、それを押す生徒会役員の姿が見られない。
辺りを見回す。がらんとした教室である。しかし戸口には「生徒会スタンプラリー(はぁと)」とあったからには、ここにいるはずだ。いやしかし、トイレにでも行ったのだろうか?ここは他の役員を見つけて戻ってきた方が戦術的理に適っていないだろうか?
否。
あの戸口のサインからして、相当にフザケタ感覚の持ち主に違いない。なのにこんなに簡単にスタンプボードが放置されているなんて、ありえない。そう、ここまでフザケテいる奴なら、トイレに行くのなら「うははははは、スタンプ欲しくば男子トイレまでお越し願いたい。がぁっはっははは」とまで言うんじゃないだろうか。
もう一度教室を見渡す。机は整然と並んでいる。隠れられるところはない。
しかしそうだろうか?
空気に浮いている一種の期待を感じとって、優香は振り向いた。そしてにやりと笑った。
段ボールが一つ。
これはあれか?某固体化した蛇のつもりか?ダンボールでこのあたしから逃げられると思っているのか?ふははは、舐めんなよ生徒会。これでもあたしは伊達にあのシリーズを二週間完徹で遊んでいない。そんなもので、このあたしがだまされると思ったらおおまちが
ぴぴぴ、ぴーぴー
不意にロッカーから電子音がした。と共に、非常に大きなため息が聞こえた。
「まったく無粋も無粋よな。これからがお楽しみタイムだというに……おいこら林、余の楽しみをぶち壊しおって……」
そうぼやきながら筋肉と威厳と存在感の塊がロッカーから出てきた。その不満そうな顔はしかし、一瞬で凍りつく。
「それはまた……野暮な連中だなぁ……よぉし、今行く」
ぴ、と携帯を切ると、罰が悪そうにそれは優香に笑いかけた。
「すまん、少し厄介なことが起こっておるようでなぁ……まあ、スタンプを押してやる、というだけではつまらんだろうが、他にできることがないんだよ。時間がちと惜しくてなぁ」
はぁ、と答えるうちにぽん、とスタンプが押される。
「目の付け処は良かった。だがなぁ、ベタもベタ、ベタだったなぁ。忘れるな。ロッカーは諜報活動における必需品だ。古来より多くのスパイがロッカーを活用し任務を成功に導いてきた。それでは」
そう言い残すと、それは部屋から一歩出て、そして振り返った。
「ああそうだ。好奇心でいっぱいになるかもしれんのだが、その段ボールの中身、確認せん方がいいと思うぞ」
そしてそれは走り去って行った。
優香はしばらく唖然としていたが、不意に自分が開けようとしていた段ボールに手を伸ばして、そして止めた。確かにあれはフザケタ奴だ。そんな奴のトラップ。何が起こるかわかったもんじゃない。
* * *
腕が重い。
竹刀が空を切って誠に襲い掛かる。そのがら空きになった脇を蹴る。本来なら体を折って悶絶するところだろうが、疲労によるスピード不足で腹を押さえて数歩下がるだけだった。無効化までは行っていない。舌打ちをしたい気分で、相手の顔を殴る。衝撃。拳がいい加減痛い。
肩で息をしながら、誠は拳を構えた。重い。体の一部のはずなのだが、鉛の塊のようだ。木銃は先ほど金属バットを振り回していた奴にへし折られてしまった。片目が腫れて、視界が万全ではない。しかし負傷がそれだけですんでめっけものだともいえる。
「くそ、いい加減にしやがれ」
良二が吐き捨てた。そう言えばこいつはさっきから左腕で殴っている。右腕がどうかしたんだろうか。仁は無傷そうだが、三人とも汗をかく段階を超して、体から塩を噴いている。
どうにかしないと。
そんな考えが焦りを生み
「しまったっ!」
気づけば相手に深入りしすぎたのだろう、三人ほど脇を掠めて正門に走って行った。追いかけようにも、前にいる奴が邪魔だった。
思った。抜かれてしまったと。これで背後にも気を配らなければいけなくなり、俄然形勢は不利になる。
思った。この馬鹿野郎、と。勇み足を踏んだ様がこれか。
思った。失敗だ、と。通って行ったのは少数。しかし一度正門をくぐれば、ゲリラ戦法で混乱を引き起こすのはそう難しくない。
しかしそれはすべて杞憂だった。
三人が正門にたどり着こうとした時
「!!くそっ」
一人が舌打ちをした。そして身を翻したところで良二の拳を鼻っ面に受けた。
壁。
まさしく、黄金色に輝く木銃、その白いタンポの壁が、そしてその背後にある絶対死守の気魄が正門を守る壁となってそびえていた。
「そこの三名、後退しろ」
二年生の声がした。最後の一撃とばかりに横蹴りを、あるいは刺突を、あるいはパンチを浴びせて三人は正門を通った。
「こちら正門。アルファ、ブラボー、チャーリーの回収完了。テスチュード布陣完了。最終防衛線構築中」
見ると、かがみ込んで木銃を斜め上(ちょうど股間の高さだ)に構えている最初の列の二年生は、黒い箱みたいなものを並べていた。そして二列目はその黒い箱を屋根のように並べ、物を投げられてもいいようにしていた。
「あれ、何ですか?」
通信をしていた二年生に聞いてみる。
「何って……背嚢だろ?あれ、テスチュードとかファランクスとかやってない?」
「さぁ……」
「そんなんでよく今まで持ったな。よくやったじゃん」
にや、といい笑顔で笑いかけてくれた。よく見ると確かに背嚢だった。どうやら中身を空にして、背中に当たる部分に板を仕込んだらしい。そう言えばよくわからないジッパーとかあったな、と誠は思い返した。
『こちら裏門。特応班が出た。持ちこたえられるか』
「こちら正門、了解」
「何が起こってるんですか?」
「ん?ああ」
二年生は少しばかり言葉に詰まって逡巡すると、短く答えた。
「もうすぐ終わる」
* * *
和馬は年老いた夫婦が林道を上ってくるのを見て、舌打ちしたい気分になった。何でこんなに次から次へときやがるんだ?さっさと帰っちまえよおら。
「あ、すいません。天栄際に来たんですよね?」
「え、ええ……」
「何か今日ドタキャンでして。今みんなで祭りの物を片付けてるんですよ」
「ドタキャン?え、どういうこと?」
「さあ……何か今朝になって連絡が入ったんですけど……俺らには詳しく教えてくれなくて」
「そうなんですか……あの、何かお手伝いできるようなことがあったら……」
なんでいつもそうなんだ?何でいつも糞お節介なんだよ。いらねえよ。帰れったら帰れよ。
「大丈夫です。我々で何とかしますんで」
「そうですか……残念ね」
「うむ」
「じゃあ、お疲れ様です」
そう言って二人はとぼとぼともと来た道を歩き出した。ふぅ、と和馬がため息をついた時
「おう、ご苦労さん」
「楽勝っすよ。まったくどいつもこいつも……」
そこで和馬の意識は途絶える。
「まだか、おい?」
杉さん、と呼ばれる男が煙草をくゆらせて吐き捨てた。
「まだみたいっすね。何やってんだか」
「ちっ、とろくさい奴らばっかだな」
足を組みなおした。ふくらはぎの下からは、エンジンの軽い振動が伝わってくる。
今回の乱入、その仕上げとなるのが、杉とかっちゃん、そして連れ二名からなるバイクチームだった。正門への突破口が確保された時点で四台のバイクが乱入、大規模な混乱を悪化させた後引き上げるという作戦だ。天栄学園はもともと気に食わなかったし、そいつらの飼っている「連隊」とやらは目障りだった。天栄学園の祭りをめちゃくちゃにして、そして連隊の面目も丸潰しにする。それがこの騒動の直接的な目標だった。
「まあいい。そんなにとろいんだったら、こっちから発破かけてやるか」
「え?杉さん何を……」
返事代わりにエンジンをふかすと、杉はかっちゃんを見た。かっちゃんの顔に獰猛な笑みが浮かんだその時
「ん?」
視界の端に、一台のバイクが見えた。それ自体は不自然じゃない。むしろ、そのバイクはさっきからそこにあった。問題は
乗り手はどうした?
その質問を口にする前に、「ぐえっ」といううめき声がした。振り返ると、さっきまで話しかけていた奴がこっちを向きながら不自然な格好で道の両脇にある林に後ろ歩きしていた。
いや
「く……そっ!」
かっちゃんが先に身構えたが、それはもう関係のないことだった。二人しか残っていない時点で負けだった。いや、もしかすると四人で別働隊を組んだ時点で負けだったのかもしれない。
バイクは直線に動く乗り物だ。前方にいる相手には突っ込むことで恐怖を与えることができるし、後方の敵は振りきればいい。しかし、横からの敵に、しかも停止している状態で攻撃されたら、防ぐことはできない。
だがそれだけではなかった。木の葉のかする音しか聞こえなかった林道。しかし一刹那後、木の後ろから、茂みから、ありとあらゆる方向から、予想すらできないほどの数の影が一斉に躍りかかってきたら、誰でも恐慌状態に陥るだろう。
結局、手も足も出ないまま、別動隊は制圧された。
* * *
「残念だけど、結構大ごとになっちゃったな」
池田は双眼鏡を覗き込みながら言った。正門の周りは連隊が固めてあり、状況を把握しているので普通に行動するよう呼びかけてはいるが、それでも注目を浴びているのは確かだ。
「まあしょうがないですよ。右腕骨折一件入っちゃいましたし」
屋上のフェンスによりかかりながら笑っているかのように林副官がさらっと言う。笑い事じゃないだろ、と言いかけて池田はやめた。こいつはいつもこんな口調だ。たしなめても変わることはない。
「おおっ、別動隊が制圧されたようだな。さすが特応班、手際がいいよなぁ」
神谷の声に、池田が双眼鏡を動かした。見ると、さっきから気になっていたバイク部隊は、左右に展開された特別対応班、つまり特応班の襲撃を受けて、縄でふん縛られていた。素早く彼らを木に縛り付けると、特応班のメンバーはそのまま林道を駆け上がっていく。
「ある程度接近したら、隠れながらスナッチするわけです」
何も言わずに望遠鏡を覗いている黒村生徒幕僚長に代わって、林が説明した。すると、屋上の床に置かれたラジオから囁くような声が聞こえてくる。
『こちら特応班。目標の背後に展開。スナッチを開始する』
『了解、こちら正門。状況変化とともに前進する』
「スナッチ、とは?」
池田が聞いた。しかしそれを林が答えるより前に、神谷が呆れた声を出した。
「おいおい、知らんのか?貴様、連隊の経験もないのか、ん?」
まるでそれが当り前であるかのような声だったが、「鉄神」のあだ名で通る神谷の常識ですべてを図られても困る。
「目標の確保だよ。死角を縫って、周りに悟られないように目標を沈黙、しかる後に確保だ。そうやって一人ずつ削っていくのさ」
「いやぁ、さすがは『アジンクール』を最短時間で攻略した神谷さん、何でもございだ。連隊の一番の失敗は、神谷さんが連隊から出てくのを止められなかったことだな」
「まあそう言うな。だからこうやって連隊の作戦にもついていけるんじゃないか。それはさておき」
不意に、神谷が笑った。その笑みには容赦もなく、呵責もなく、慈悲もなく、情けもなかった。溢れんばかりの敵意と残虐性を帯びながら、神谷鉄也は狩りを命令した。
「生徒幕僚長に命じる」
無言の肯定を返す黒村。
「蹂躙せよ。一人残らず崩し倒せ。天栄の桜紋に牙を向け、わが校の生徒に危害を加えんと為す痴れ者共に、手心は無用。力を示したくば礼を持って叩き潰さん。今日の地獄は、余が許す」
その言葉が聞こえたとは思えないが、ラジオは応じるかのように、事態の終幕のベルを鳴らした。
* * *
『特応班。感づかれた』
「了解」
通信を担当していた二年生は短くそう告げると、正門の壁に向かって怒鳴った。
「全員前進!」
「ぅおおおおおおおっ!!」
咆哮をあげ、木銃の壁は、跳躍するオオカミの群れとなった。今まで守備に転じていた亀が、牙をむいて獲物に襲い掛かる。
しかし、そのような事態を前にしても、侵入者たちはまともに対応できなかった。それは致命的だったとはいえる。
されど、彼らを責めるのは酷ともいえた。なぜならば、彼らは気がつけば一人一人と消え去っていき、そしていつの間にか背後から化け物のように強い敵が現れたのだから。
背後から来るはずないじゃないか。だってそこには杉さんやかっちゃんがいて
そうだ、あいつらどうしたんだ?林道の一番下で足止めしているはずの和馬は?バイクに乗ってる連中は?何やってやがるんだ?何?前?前がどうした?あれ、ここにも連隊の連中が……
次の瞬間、木銃が、拳が、ブーツが、所構わず襲いかかってきた。歯止めのきかない暴力の嵐に、彼らは必死になって耐える他なかった。いや、それすらも許されず、束縛され、引きずられ、纏め上げられていった。最早戦闘ではなく掃討。それが幕引きだった。
そう。
責めるのならば、それは連隊という日々修羅の訓練に明け暮れる若者を有する天栄学園を烏合の衆で攻めようと考えたこと、そしてそんな釈迦に牙を向けるような頓狂な案に乗ってしまったこと。それに尽きた。
天栄際襲撃未遂事変は、状況開始から一時間も経過せずに失敗に終わった。
* * *
「おう、様にならない顔してるな」
保健室で休んでいると(現場の二年生の命令だった)、加賀が入ってきた。
「あれ、そういや加賀先輩はどこ行ってたんすか?まさかトイレ?」
「バカヤロ、俺は栄光の特応班さ。お前らが正門辺りでごっちゃごっちゃ押しくらまんじゅうしている間に、ちょいと後ろで変なことしてた連中を締めあげてた」
「後ろ……で?」
「ああ。あのな、あそこの林道ってのは何かの時のために、中央棟の屋上からは何がどうなっているのか一目瞭然になっているって仕掛けだ。だから大方生徒会長副会長、それに幕僚長と副官殿はそこでレジャーシート広げて俺らを見ながらピクニックって具合だっただろうな」
ピクニック、ねえ?恐らくは加賀の冗談なんだろうが、誠は神谷が重箱をつつきながら正門の攻防戦を豪快に笑って見物している姿がありありと見えた。
「ああ、そうそう……トイレなんだが……」
気まずそうに保健室を見渡して、ベッドで安静を言い渡された良二と、何となく惰性でいる仁の姿を認めると、加賀はため息をついて椅子に座った。
「あのな、お前と一緒に歩哨に立ってたはずの深田優治、あいつの身柄を確保した」
「へぇ……どこで?」
「奴さん、トイレにずっと立てこもっていやがった。今事情聴取中だけどな、どうもあの連中を手引きしたの、深田らしいんだ」
それを聞いて保健室のベッドに寝転がっていた誠と良二が跳ね起き、そして窓辺に立っていた仁も表情を動かした。
「今連中と深田の関係を洗っているところだけどな……馬鹿な奴だ。もしこれが成功してたら、退学ものだぞ?未遂だったから、一応『自主謹慎』という形になりそうだが、連隊から除名は免れないな」
「除名?退部ってことですか?」
「そんな生易しいもんじゃない。まず入隊の記録は抹消だ。あと、主なメンバーや天幕からは顔を知っていたことすら否定される。つまり、いたこと自体がなかったことにされるんだ」
書類上はそうなるかもしれないが、天幕が卒業したら、OBネットワークにその噂は流れるかもしれない。つまり除名とは連隊士だったという恩恵全てを剥奪され、その上で連隊OBからは睨まれるかもしれないという、最悪の結果をもたらすことになる。
「いや、でもどうやって退学を免れたんですか?大事でしょ?」
「そこは俺らの管轄じゃねえ。その判断は学校側だ。聞いた話だと、結構前から連中に深田ってのは苛められてたそうだ。その点を教師たちは情状酌量したんだろうな」
しかし教師が許しても連隊は許さない。仲間を、苦楽を分かち合ってきた仲間を危険にさらした奴のことを許しはしない。そもそもそんな奴が連隊にいたということすら許すことはできなかった。
「深田って、どんな奴だったんですか?」
何の気もなしに、加賀に聞いてみた。
「どんなって……普通の奴だったよ。お前らよりはまあまじめだったかもな」
まじめすぎて、考えこんじまったんだろうな、と少し残念そうに加賀は呟いた。 一言でも相談してくれてたらなぁ。
「あ、そう言えば当の本人たちはどうなるんです?」
「あんまし知りたくねえな。こういうことに関しては神谷はすげえ容赦ないからな。こっちでぼこられた揚句、釈放されたら退学、しかも近郊の高校には全てブラックリストで名前が知れ渡っている、とかそんなことになりそうだし」
そこまで言うと、加賀は立ち上がった。
「ま、俺の言えるのはそれだけだ」
ドアまで歩くと、ふと思い出したように加賀が振り返った。
「そうそう、お前ら気をつけろよ?」
「え?何で?」
「いやさ、今回のでお前ら一年のくせに使えるってのが二年生の間でもっぱらの噂でな?徒手とか銃剣で我先に可愛がってやろうとか思ってる奴、多そうだしな」
それを聞いて、誠は一気にげんなりした。
「まあ安心しろ、俺もいる」
「それって、どういう意味ですか?」
「ん?いや、だからさ、俺も可愛がってやるって意味だ」
「傷口に盛り塩ですか」
「ほら、今回後ろからばっかでまともにケンカできなかったしよ」
「俺ら加賀先輩の欝憤発散マシーンですか!?」
「おいおい谷塚君、いまさら何を」
「俺を一緒にすんな。俺はとっとと早退させてもらうぞ」
「お前ら酷くね?」
誠の突っ込みは、廊下まで聞こえた。そう、丁度スタンプラリーを終えて見舞いに来ようとしていた明日華にも、その声は届いていた。明日華はふと立ち止まると、ふふ、と笑って呟いた。
「何だ、やっぱり谷塚君には向いてるんじゃないか」