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このSSは、誰とも付き合うことなく誕生日を数日後に控えた朋也、彼に恋する杏、そしてその杏に想いを抱いている春原のSSです。
智代はまったく出てきません。ごめんなさい。
片想い
第一話
柄にもなく緊張してるんだな、と彼は小さく一人つぶやいた。
吐息を漏らしそうになるけれど、これから彼がしようとしていることを思い浮かべ、それをこらえる。少なくとも吉兆ではないことは明らかだったからだ。
「……来るかな」
彼が通う学校の旧校舎、その屋上。空は雲に覆われ今にも雨が降りそうだった。
雨は天の涙であるという。だとするならば、彼の代わりに泣いてくれるとでも言うのだろうか。
もしかしたら来ないかもしれない。そんなできれば避けたい未来を想起しつつ、視線を空からこの屋上に唯一繋がる鉄製の扉――所々錆の浮かんだそれをじっと見つめた。
「そろそろ時間なんだけどな……」
片腕にした安物の腕時計が示す時刻は、彼の予想と大きくずれてはいなかった。今日の学校の授業が全て終わってからすでにいくばくかの時間が過ぎている。
それにしても、と彼は思う。
どうしてこんなことをしようと思ったのか。こんなことをしても、おそらく受け入れられないだろう、という程度のことは理解できていた。ただ、彼女のどこか焦っているような、それでいて諦観の念に支配されているような、そんな彼女の横顔をこれ以上見ていたくはなかった――言葉として示すならばそれが最も近いものであったろうか。それに彼自身の何物にも代えがたいだけの想いが、その背中を押したのだということを、自嘲と苦笑が相半ばする思いとともに理解せざるを得なかった。
もっとも、彼女の焦慮にも似た想いは理解できそうだった。彼女がずっと――おそらく一年以上もの間――抱き続けている片思いの相手は、そんな純粋で無垢な水晶にも似た思いのわずかなかけらにさえ気付いていなかった。
それでも彼女は諦めずに――あるいは諦めるという選択肢を放棄することで――彼のそばにいようとしていた。
彼女の意思は固く、けれど彼女の瞳が見せる色――まるで紅水晶のようなその色が、いつか思いが砕けて暗く染まってしまうことを想像してしまう。
水晶は脆いのだ。純粋で無垢で美しく、そして固い。同時に脆く、壊れやすい。
その印象を彼は変えようとは思わなかったし、変えるべき事象に遭遇しなかった。
「……来ないかもな」
続けてそう呟く。
そのとき、開けられた鉄の扉、その向こう側から小さな足音が聞こえて来ることに気づいた。
「……」
彼女が来たのだろうか。それとも、見回りの教師だろうか。
例え前者でなくても、後者であってほしくもなかった。
一世一代の大勝負というわけではなくても、彼は彼なりに覚悟とそれと等量の期待、そしてやはり同じくらいの不安、そして何よりも諦念にも似たものを抱えて、ここで待っているのだから。無論それを表情に出すほどに、彼は素直ではなかったが。
彼女が来ないならば、それはそれで仕方がない。
彼がしようとしていることの、少なくとも表面的な無意味さ、あるいはその本当の意図に気づいているのかもしれないし、ただ単に彼が差し出した手のひらをはじき返すことにさえ何らの価値を見いだしていないだけかもしれない。
ただ、できることならば差し出した手を、例え受け入れないしても一瞥程度はしてほしいと思うのだ。そのことによって何かが劇的に変化することはありえなくても、気は楽になってくれるだろうという、おそらくは淡い――そして愚かな願いがあったから。
彼が救世主たりえるとは微塵も思っていない。同時に、彼女に対して同情や憐憫の感情しか抱いていないということもありえなかった。そこまで酔狂な性格だとは思っていなかったし、何より彼女に対して無心でいられたことなどなかった。
彼女には笑っていてほしい。そう思うのだ。そしてそのささやかなきっかけになってくれれば、と願ってしまう。
彼がしようとしていることは、彼女は呆れるか、怒るか、腹を抱えて笑いだすか、いずれかの結果を彼に見せることになるだろう。
そのどれでも構わなかった。
そしてその結果ありえるだろう辞書による攻撃を受けてもよかった。
幾らかの鬱積はそれで消えてくれるだろうし、それで彼女が持つ本来の笑顔を取り戻してくれたなら、とそう思う。彼の悪友ならば、体を張ったギャグ、とでも表現して見せるだろうか。それとも、彼の真意を見抜いて苦い顔をするのだろうか。
いや、と彼は小さく呟く。そこまで鋭いのであれば、彼女の想いの、その心の水面に浮かんだ一角にさえ気づいたであろう。
誰へともなく苦笑を浮かべ、どこへ向けていいかも分からない顔を空へと向けた。そのとき、彼の顔にぽつり、と雨が落ちる。まだまだ本降りにはならないだろうと期待を抱く。その程度は、運命の女神も微笑んでくれると期待してもいいはずだから。
足音がだんだん大きくなり、視線を屋上と校内とを繋ぐたった一つの出入り口に向けた。その足音が、どういうわけか彼にとっての待ち人であるように思えた。一度目を閉じ脳裏にその表情を思い浮かべた。最初に浮かんだのは、笑顔ではなかった。
時々、彼女は彼に相談を持ちかけたりした。もっともそれは表面上、相談などというものではない。誰へと向けるべきかさえ分からない――そして言葉で表せるほど単純ではない――いら立ちや寂しさを辞書による攻撃という形で彼にぶつけてくるだけだったのだから。
それでも、それをするときの彼女は心のどこかで泣いているように思えてならなかった。
ひとつ息を吐く。そして再び目を開けた。
だから、これが彼なりの答えなのだ。
「……本当にいたわね」
彼が見つめる視線の先に、一人の少女が姿を見せていた。
長く綺麗な髪。顔の脇にかかるそのうちのひと房をレースのリボンによって飾り付けた、昨年の同級生。そして今年彼が所属するクラスにおける学級委員長の双子の姉。
「あんた、どういうつもり?」
「どうもこうも、そのままだよ。昼休み、椋ちゃんにお願いして渡してもらった手紙に書いてあっただろ?」
「……あんた、本気なの?」
はぁ、とため息を漏らしつつ彼女はそう言って、それから彼に向けて歩き始めた。
「本気じゃなきゃ、あんなこと椋ちゃんに頼まないさ」
彼、春原陽平はそう言いながら、昼休みのことを脳裏に描いていた。
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