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 片想い




 第五話




 外は雨だった。朝から降りしきる雨は、時折勢いを増しながら、けれども全体としてはそれほど強く降ることもなく、しとしとと降り続いている。
 空は真っ黒とまではいかなくても、太陽の日差しを隠しこの世界を薄暗くさせるには十分な雲が空を覆い尽くしている。
 秋の長雨であろうか。その程度の知識は杏も知ってはいたが、今日というこの日――、彼女が想いを向ける彼の誕生日には似つかわしくないように思えた。
「……」
 雨は天の涙だという。もしそうであるのならば、何のために涙を地上にこぼしているのであろうか。空を見上げて、杏は吐息を漏らさずにはいられない。この空が涙するのは、杏の未来を知っているからではないのか。
 教室の窓から外を眺めやることをやめて、杏は室内に視線を戻す。
 きれいにラッピングされた、プレゼントが収められた袋と、彼女が懸命に想いを込めて作ったお弁当が収められた重箱が入った大きめのカバンが、通学用のカバンと並んで机の上に置かれている。
 受け取ってもらえるだろうか。お弁当を食べてもらえるのだろうか。
 おそらく杉坂もりえもお弁当を用意してくるに違いなかった。この日は朋也の誕生日だったが同時に授業が午前中で終了する日でもあった。だから、彼の誕生日会は演劇部の部室で行われることになったのだった。
 りえも杉坂も、想いを込めたお弁当を用意するであろうことを、杏は疑いもしなかった。お互いにライバルだと意識してどこかぎすぎすした空気に、あの演劇部室が埋められているということは、その表現のかけらさえも適当ではない。あの部室にいる三人の女子生徒がただひとりを想っているということを知っていても、お互いが友人であることを杏は信じていた。そしてだからこそ、誰も自らのお弁当を朋也に押し付けるような真似を一切しなかった。そうすることがもはや不文律のようになっているのかもしれなかった。
「全部食べて、なんて言わないけど……」
 それでも、自分の作ったお弁当をたくさん食べてほしかった。美味しいと言ってほしかった。自分だけを見つめてほしかった。彼がみせる――杏の心を浮つかせる優しい笑顔を見せてほしかった。
 時計に視線を移す。すでに時間は本日の授業を終えて少しばかり時間が過ぎていた。教室内にはあまり生徒は残っていない。
 そろそろ行かないと、と思う。行かなければ、朋也に彼女の心の最も大事な部分に根ざしているはずの想いを伝えることはできないのだから。
「朋也……」
 小さな声で彼の名前を口にする。そこに込められている恋の味は、けれど彼女に悲しみと苦みをより強く伝えてきていた。あるいは彼女自身、諦めかけているのかもしれない。それでも、伝えなければならなかった。彼女の背中を押してくれた彼のためにも。そう考え、自嘲気味に吐息を漏らす。
 あの日、陽平に屋上へと呼び出されたあの日から数日。その数日の間、杏はそれまで以上に熱心にお弁当を作り続けてきた。そして朋也のために時間をやりくりしてプレゼントを探し回ったのだ。彼の笑顔が見たかったから。
 今日こそはお弁当の感想を久しぶりに言ってくれるかもしれない、という期待を抱きながら。
 彼がりえや杉坂に向ける瞳の色と表情に込められた想いと等量の、あるいはそれ以上のものを想像して。
 そしてその期待や想像は、お弁当を用意した回数と同じ回数、叶うことはなかった。
 りえや杉坂は、杏が用意してきたお弁当の中身を確認して感嘆の声を上げ、杏がしたであろう苦労や努力を想像して、朋也にそれを告げたりもしてくれたのだが、その朋也は感心はしてくれても、それだけでしかなかった。
 それでも、と杏は思わずにはいられない。
 彼女の想いが届いてほしいと。
 ずっと片想いをしてきたのだ。朋也との出会いから。
 最初はただの不良生徒程度にしか思っていなかったにもかかわらず、気付けば朋也は、彼女の心奥深く、おそらく誰も住まわせたことのない少女が最も大切にしたいと願う場所に、その名前をはっきりと刻みこんでいた。
 朋也の顔を見るだけで心が弾んだ。たまたますぐ近くにいるだけで、嬉しかった。もっとも彼女はそんな想いを表情に出せるほど素直ではなかったが――そう考え、そしてりえと杉坂を羨ましくも思った。
 彼女たちが朋也に向ける表情は、恋する乙女そのものだった。もしかすればそれでも朋也には気づかれていないのかもしれないけれど、それでも彼女たちの素直さは眩く感じられた。
 もし杏が、そうすることができていたなら。そうすれば、もしかすれば――彼女は今頃朋也とふたりきりで誕生日を祝っていたのかもしれないのだから。
「……っ」
 その架空の世界は、今の杏にとっては余りにも眩かった。凍てつく冬の寒さの中、わずかに切れた雲の隙間からのぞく太陽のような、儚さを伴った眩さを、感じてしまう。涙をこぼしてしまいそうになるほどに魅力的で――そうであるが故に儚いものでしかない。
 もし、という言葉には魅力はあっても、それは現実にはなりえないからこその魅力でしかなかった。振り切ってしまうには甘く、直視するには切ない、そんな魅力を振り払うように杏は髪をやや荒っぽくかきあげた。
 そしてカバンを持つと、演劇部室に向かうために歩きだした。その歩みは思い人に会うというには元気がなく、躊躇いを感じさせる。これから向かう場所に眩い未来があるとまったく信じていないのではないかと思わせる。
 もし彼女の親しい友人が、そんなことを言ったならば、おそらく杏は友人に見せる態度としてはらしからぬ苦みを含めた笑顔で首肯したかもしれない。
 教室を去る直前に窓の外を眺めやった。雨がまだやみそうにもない。
 廊下を歩きながら、小さく息を漏らした。せめてため息にならないように、と願うように、杏はまっすぐ視線を前へと向けた。ふと脳裏に春原陽平の顔が浮かび上がる。
 ちょうど、朋也と春原が所属するクラスの前を通りがかった。
 一瞬だけ躊躇い、杏はクラスの中を覗き込むようにそっと確認した。朋也は教室の中にはおらず、そのことに落胆の色を見せたが、その直後に椅子に座っている春原の姿を視認し、どこか安心したような笑みをわずかに見せた。
「……杏」
 そんな彼女に気づいた春原が、それまで座っていた席から立ちあがり彼女の元へと歩み寄って来る。それは嬉々としたという表現は全く相応しくなかった。逡巡と後悔の二重奏を奏でるような足取りで、彼女の元へとそれでもやってきた彼は、やや躊躇いがちに口を開いた。
「これから、演劇部室に行くんだよね」
 その問いかけに、杏もやはり躊躇いを間髪挟んで頷いた。声に出しては何も言わず、なんとか浮かべられた笑顔を向けていた。
「うまくいくといいよね」
 そんな彼女に、春原はそう言って、笑って見せた。それが本心からだというように、彼の瞳は杏のそれを捉えて離そうとしない。
「……本気でそう思ってる?」
 杏の問いかけには、どこかに救いを求める幼児のような感情が垣間見えた。彼が、朋也のところになど行かないでほしい、と例え嘘でもそう口にすれば、それが彼女にとって後悔することになったとしても従ってしまいそうになる雰囲気を伴わせていた。それは彼女の心の水面に起こったさざ波のようなものだったのかもしれない。 
「思ってるよ。言ったろ、あの日、屋上で。あの気持ちは今も変わってないんだから」
 けれど、春原は彼女のそんなさざ波にさえ気付いたとでもいうように、ごく当たり前のようにそう頷いて見せた。あるいはそう口にすることで、杏の背中をもう一度押そうとしているのかもしれなかった。
「あんた、本当にバカよね」
 ややあって、杏は小さく笑った。もし彼が杏を求めて手を伸ばしてくるのならば、それを振り払うことを、おそらく彼女はできなかっただろう。けれどそれは彼の想いに応えることと同義ではない。心の最も大切な部分に住まう存在は、目の前にいる以前までヘタレを代名詞代わりにしていた男子生徒ではないのだから。
「今頃分かったのかよ」
 杏の言葉に、彼はいつも見せるような軽薄な笑顔を見せた。ただその瞳にだけはしっかりとした意思が込められていた。
「でも、あんたのそういうところ、嫌いじゃないわ。たぶんね」
 それはおそらく春原がこの数日で見た中では、もっとも彼女らしい笑顔だった。その笑顔が嬉しくて、春原もまた軽薄とは程遠い笑顔を表情に浮かべた。
「じゃあね、陽平」
 彼女はそう言い残して、演劇部室へと向かった。廊下の角を曲がってその姿が消えるまで彼女に視線を送りながら、彼は途中で一度声をかけようとして、寸前でそれを止めた。
 一発逆転のホームランという表現を彼は屋上で使ったが、そんなものが現実に期待できるとは思えなかった。それでも、可能性が皆無ということも、今はまだなかった。彼女の想いが――おそらくは誰にも負けない想いが、朋也の琴線に触れるのかもしれないのだから。
「……杏」
 小さな声で呟き、視線を演劇部室がある方向へと向けた。
 願わくば、と呟きかけ、けれどそれ以上は口に出して何も言おうとはしなかった。
 そして杏の姿が見えなくなってからもしばらく、彼はその方向を見つめ続けていた。




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