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片想い
第六話
杏が演劇部室を訪れると、そこには朋也以外の誰もいなかった。室内を見回しても、整理途中で放置された段ボールや様々な道具類しか視界に入ることはなかった。
「朋也」
ややためらいがちに、杏は部室の入り口で声をかけた。そうしてしまったのは、そこでただひとり椅子に座って机の上に足を投げ出している彼の横顔が、寂しげなものであったからだ。そしてその横顔をみせるのが、この部室に出入りしているふたりの後輩が共に姿を見せないときだということを、同時に理解していた。
「……杏」
声をかけられるまで気付かなかったのだろうか、朋也はそのままの姿勢で視線を杏に向け、そして、りえとすーちゃんならまだ来てない、と横顔が見せている感情を混ぜ合わせた声質でそう告げた。
「遅いわね……どうかしたの?」
「さっき教室まで迎えに来てくれたんだけどな。どうやらあいつらのクラスの用事があるらしい。30分ほど遅れるってさ。本当は杏にも知らせたかったらしいけど、時間が無かったみたいでな」
そっか、と杏は頷き、そしていつもの指定席――お互いに向きあうように並べられた四つの机の、朋也が座っている場所から最も遠い場所に持ってきたカバンをそっと置いた。
通学用のカバンに、重箱に入ったお弁当、そして誕生日プレゼントが入ったもう一つのカバン。それだけに大きく目立つはずだったが、そんなものには興味がないというように、朋也は一瞥をしただけでそれ以上何も言おうとはしなかった。ただ、机の上に投げ出した足を床につけたことだけが、彼が杏に対して能動的に見せた行動であった。
「……今日は朋也の誕生日だから、いつもより豪勢に作ってきたわ」
室内に満ちる静寂にも似た空気が、杏の声質を控え目なものにさせていた。朋也は必要以上のことを語ろうとせず、杏にも視線をほとんど向けず、壁に掛けられた時計と、この場にはいないふたりの後輩がいつも座っている座席とを交互に眺めやり、時折視線を外へと向けて午後の本来ならば秋晴れを見せてくれる空を薄暗くさせている、空を覆う雨雲を見やっている。
「……ありがとうな、杏」
そして彼女のどこかに震えを感じさせてしまう言葉に対しても、彼女の表情を見ようともせず、ただ机の上に置かれた大きなカバンを一瞥しただけであった。小さな吐息交じりであったことが、彼の思考がこの場所にさえないことを理性の外側で気づかざるを得ない。
「それに、誕生日プレゼントもあるんだからね。誕生日おめでとう、朋也」
それでも彼女はそう言って、懸命に笑って見せた。此方を向いてほしかった。彼女の想いが届かないのだとしても、せめて笑いかけてほしかった。杏が好きだと思う、いつもの笑顔も――それでさえ、もう彼女に向けられるものではなく、この場にいない他者へと向けられるものでしかなかったけれど。
視界がほんのわずかに歪みを見せた。それが、自らの瞳に涙が浮かんだ証左であることに気づき、目を細めるようにして朋也をじっと見つめた。目をこすろうとしないのは、せめてもの矜持であったのかもしれない。彼女が彼女であるための、あるいはまだなにも終わっていないのだと自らを想いこませるための。
どうでもいい相手なら、ここまでのことはするはずもない。陽平に背中を押されたことも無論無関係ではなかったが、それでも簡単に諦められる程度の想いであるならば――あるいは恋に恋をしていただけであるならば――朋也に似合うであろうと思うプレゼントを一生懸命探したりはしなかった。
そのことを口にしたかった。それだけの想いがあるのだと知ってほしかった。
あの時からずっと好きだったのだと。
ずっと一緒にいたあの時間を宝物のように大切だと思っていたのだと。
「プレゼント……か。そういや、そういうのを貰うは本当に久しぶりだよな」
感慨深そうに、というわけではなくどこか淡々とした口調で彼は言って、それから初めて杏へと顔を向け、彼女が真摯に向ける瞳に視線を合わせた。
何かを言うべきだと、杏は思った。恋する彼が向けてくる視線には、杏への思慕の類は一切含まれていない。それでも、今こそが想いを伝えるべきときではないのか、と思えた。
りえが杉坂がここにやってくれば、朋也の意識は彼女たちへと向かってしまうだろう。それになにより、彼女たちの前で告白することは杏にはできそうにもない。彼が頷こうと断ろうと、そのいずれの方向であってもりえと杉坂は杏の想いを忖度せざるを得なくなるのだから。そうなれば、もしかすれば彼女たちは朋也の元から去ってしまうかもしれない。それを全く否定してしまうには、あの二人の後輩は優しすぎた。
朋也の見つめてくるその瞳の色と表情が、優しいものへと変化する。彼女が恋し、思い続け、脳裏に描くときにほとんど必ず浮かびあがってくるその表情が、目の前にあった。
「ありがとう、杏」
それは優しい声だった。彼女が渇望してやまない想い人の温もりを感じさせるような声だった。
心音が大きく跳ね上がった気がした。ふたりの間に机と椅子があるために手を伸ばしても届かない距離を詰めたくて、杏はカバンを机に置いたまま、椅子に座ったままの朋也に歩み寄ろうとした。
その最初の1歩を進んだとき、朋也が徐に口を開いた。
「杏と出会ってから、そういや結構経ったよな」
「そうね、もう2年くらいになるから」
杏はそう応じて、そのまま彼へと近寄ろうとした。けれど、彼が続けた言葉が、彼女の足をとめた。正確に言うならば、彼が発した言葉だけではなく、その口調とそこに込められた想いが――決して彼女に向けられているものではない――そうさせてしまった。
「俺は杏と出会えてよかったって思ってるよ。そりゃ、最初は五月蠅い奴だって思ってたけどさ。でも、杏のおかげで古河のために演劇部を作ろうと思えたんだ。杏がいなかったら、途中で止めてただろうな――でもまあ、結局は無理だったんだけど」
彼はそう言って苦笑した。そして視線をりえと杉坂が座る場所へと向け、小さく笑った。それはおそらく、杏に見せるどんな表情よりも優しく柔らかで、彼らしい、と思わせる表情だった。
「でも、この演劇部室は残ったからな。そのおかげで、まだ来てないけどりえやすーちゃんと一緒に弁当を食えるんだから」
朋也はそれからもう一度、杏を見つめた。
「杏がいなかったら、こうはならなかっただろうな」
朋也の表情はどう控え目に見ても、少なくともふたりが同級生だったころに彼が見せていたような諦念と絶望とが合わせられたような色をまったく含ませてはいなかった。未来を信じて疑わないというわけではないにしろ、その未来に何らかの期待を抱いている表情だった。
思わず杏は唇をかみしめたくなる。彼はおそらく杏の――そしてりえや杉坂の想いにも気づいていない。そして無意識に限りなく近い部分で杏ではなくふたりの後輩のいずれかにこそ想いを向けているようにしか思えなかった。
そのことを杏は知らなかったわけではない。気付かなかったわけではない。もしあのとき春原と屋上で会うことがなければ、あのまま身を引いていたであろうから。
けれど、彼女にとって心の内に秘めた恋は宝物だった。傷つくことを恐れ前に進むことを躊躇ううちに、もしかすれば朋也に永遠に見せることのなかったかもしれない大切な想いだった。
だから、言わなければいけない。今を逃せば、もう二度とこんな機会はないだろうから。
心の表面に陽平の真摯な表情が浮かんできて、柔らかく、そして苦笑交じりの笑みを浮かべた。このようなときに、という想いと共に、やっぱり、という想いもまた存在している。そのいずれもが彼女の、今この時における本心なのであるのだろう。そのことを彼女は自信を持って頷くことはできそうにもなかったけれど、杏は朋也から視線を外そうとはしなかった。
「……あたしも良かったって思ってる。朋也と陽平に出会えたこと」
「どうして? お前にしてみたら、2年生の時に俺たちの相手を押し付けられたのは結構面倒だったんじゃないのか?」
「あの時はそう思ったこともあったわよ。でもね、朋也」
杏は真摯な瞳に想いを込めて、朋也を見つめた。思わず零れそうになる想いを散りばめた透明な雫を瞳に辛うじて湛えながら、杏は柔らかく笑った――本人はそのつもりだったが、それは壊れかけた人形がたまたま笑顔を見せている、という雰囲気に似過ぎていた。
「あたしは朋也と出会えたから、知ることができた気がするから……」
「何を?」
杏の表情に何らかの想いを嗅ぎ取ってくれたのだろうか、朋也がゆっくりと立ち上がり、杏の瞳を見つめてくる。そこには戸惑いを感じることはできても、困惑などという感情を見いだすことはできず、杏は少なくともそのことには救いを覚えることができた。
手を伸ばせば届くところに、彼は立っていた。たった一歩前へ踏み出すだけで、彼の胸に身を預けることができる。
その彼の瞳を見上げるようにしながら、杏は手を胸の前でぎゅっと握った。震えそうになる声と手を意思の力で押し殺し、けれどもついに堪えきれない想いがそっと雫となって頬を伝った。
「恋の味、かな」
想いを込めて朋也を見つめながら、その瞳が哀しげに揺れる。
「あたしは、朋也が好きなの……ううん、好きでした」
やっと言えた、と杏は思う。もう届かないのだと諦めていた想いを。そして彼の心には別の少女がすでに深く根ざしているのだと知りながら。
好きだった。それを過去形で語らねばならない哀しさが、もう一筋、頬に痕を刻む。彼女の想いは恋だと理性の外側で理解した時と、今も変わらない。けれど、それはもう終わらせなければならない片想いだった。彼の想いが向かう先を理解してしまえば。
「杏……俺は」
朋也が、杏の言葉を遮るように口を挟む。あるいは最後まで言われることを恐れるようであり、そのことに杏はどうしても寂しさを感じずにはいられない。けれど、やはり最後まで伝えたかった。
「最後まで言わせて、朋也」
はっきりとそう口にしようとしたつもりだったが、声に出せたのは囁きにも似たものでしかなかなかった。溢れだしそうになる想いがそうさせてしまう。はっきりとした声を出してしまえば、それが嗚咽になってしまいそうだった。
朋也の耳にそれがはっきりと届いたのかどうか怪しいものだったが、それでも朋也は開きかけていた口を閉ざし、決して誤魔化そうとはしない瞳の色を杏に向けた。
その表情が、彼女の心を激しくかき乱す。本当は諦めたくなどなかった。全てを捨ててでも、他の夢を諦めてでも彼のそばにいたいと、そう願ってしまう。
「あたしは、朋也……あなたが好きでした。ずっと、ずっと。言いたくて、でも、あたしたちの関係が壊れてしまいそうでずっと言えなくて」
それでも、全てを捨てることなどできるはずもなかった。朋也にすべてを捨てさせることなどできるはずもなかった。
彼女が願った夢――朋也と共に歩む未来などというものは、もう遠い遠い彼方の夢でしかない。どれほど手を伸ばそうと触れることさえもできない、眩い世界。
「……杏」
「言わなくても分かってる……朋也が好きな子は、あたしじゃないって」
杏は哀しげに微笑み、そう言って朋也を見つめた。申し訳なさそうに顔をゆがませる彼をそれ以上見ていたくはなかった。
朋也には笑っていてほしかった。それが自己満足の所産であるとしても、それでも朋也にそんな顔をさせるために想いを告げたのではなかった。
「だから、そんな顔をしないで……ね、朋也」
杏は柔らかく――懸命に笑うと、そっと朋也から離れた。数歩後ろに下がり、そしてそのまま先ほど持ってきたばかりのカバンへと手を伸ばした。
「あたし、帰るね」
「杏……」
「あたしがいたら、朋也も気まずいでしょう? それにあたしも、どんな顔をしてりえやすーちゃんと話せばいいのか分からないし」
そう言いながら、杏はどうしても視線を伏せてしまう。最後は笑ってお別れがしたかった。友人としても付き合いが無くなってしまうわけではないにしても、朋也がりえや杉坂へと向ける想いを眺めて居ることはできそうにもない。
「それに……そろそろ受験に本腰入れないとダメだしさ……だから、もうここには来ないから」
受験に関することは事実だったが、結局のところそれはもはや言い訳にすぎないことを彼女自身理解していた。朋也の顔をしっかりと見つめることは、もうこれが最後かもしれない、という想いが心の中を満たし溢れだしそうになる。それが彼女の涙腺を刺激する直前に、視線を下へと向けた。朋也に、これ以上の涙を見つめてほしくはなかった。
手に持ったカバンを見下ろす。その中に入っているお弁当を食べてほしかったという願いは、結局叶えられそうにもない。そして用意したプレゼントも、受け取る相手もなくただ丁寧なラッピングの内側で虚しく時が経るのを待っている。
けれど、あるいはそういうことだったのかもしれない。虚しく時間を過ごしたのは彼女自身だった。いつかは告白しようと想いながら、ついにその機会を逸し、大切に育んできた想いのかけらだけを辛うじて伝えることしかできなかった。
「……ばいばい、朋也」
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