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片想い
第七話
「……ばいばい、朋也」
一度目をこすり、瞳にたまった涙をすべて払う。そして朋也を見つめて、彼女は別れの言葉を口にした。笑えているだろうか、と思わずにはいられない。彼に、自らの想いを自責の念と共に思い出してほしくなかった。
何かを言いたそうに朋也が口を開く。けれど、彼の口から言葉が杏にかけられる前に、彼女は半ば走るようにして演劇部室を後にした。
諦めたくはなかった。それほど簡単に忘れられるような想いなどではなかった。
それでも、彼が悲しむ顔を見たくはなかったのだ。
「……朋也」
演劇部室から遠ざかって、それから彼女は歩みを遅めた。そして囁くように朋也の名前を口にする。その響きは今でも宝物と同義だった。大切に想うべきものであった。けれど、それはもう輝きを見せても、日没の太陽がその直前に見せる最後の余光だと、彼女には思えた。
思い切り泣きたかった。ひとりではなく、誰かの前で。そうでないと、心の奥底からの嘆きを表に出しきることができそうになかった。
「……杏?」
そのとき、彼女の名前を呼ぶ声がした。見やれば、これから帰るのだろう春原が空に近いカバンを片手に持って、見つめてきていた。
「陽平」
囁くように、彼女は彼の名前を口にした。
様々な想いが去来する。
彼の前で泣きたくはなかった。弱い部分を知られてしまうことが怖かった。
同時に、彼の前でならば泣ける気がした。双子の妹である椋とは異なった意味において、彼の前では素直になれる気がした。
「陽平……あたし」
呟くように彼女は言って、彼へと近づいていく。表情には貼り付けられたような表情――辛うじて笑顔と想像できる――を見せながら、ふらふらとした足取りは酔っ払いの千鳥足というよりも、春原に頼っていいものかどうかという苦悩を表現しているようだった。
彼のすぐ傍へと歩み寄る。彼はひとりだった。周囲にも誰もおらず、時折グラウンドで汗を流す運動部員の掛け声が鈍く聞こえてくるだけだった。
杏はもう笑おうとする努力すら放棄し、持っていたカバンを廊下に下ろした――というよりも彼女の指が唐突に力を失い、抗議の声を上げてカバンが廊下と乱暴に接吻した。
「……っ」
そして陽平が何かを言おうとする前に、杏の体が陽平に押しつけられていた。彼の肩口に顔を埋めるようにして、懸命に嗚咽を押し殺していることを、彼はややあってから理解した。
どうすればいいのか、ということを彼の知識は一切答えを出してくれそうにもなかったが、ただ本能に近い部分において彼は彼女の頭へと手を伸ばした。本当は背中に腕を回し抱きしめたかったけれど、そうしてしまえば彼女の弱みに付け込むように思えて、躊躇うようにしながら、柔らかい髪質の杏の髪をそっと撫でた。
その瞬間に、杏の体がピクリと震えた。けれど、彼女は春原を見ることもなく、彼を抱きしめることもなく、ただ声にならない嗚咽を漏らし続ける。それは押し殺されてはいても、彼女の悲嘆をこれ以上なくはっきりと示している。そしてそれが指し示す現実が理解できない春原ではなかった。
「……こういうときは、いっぱい泣いた方がいいのかもね」
呟くように彼は言い、それが彼女の耳に届いたたどうかを確認することもなく、ゆっくりと彼女の髪を撫で続けた。それ以上のことを彼はしなかったが、もし杏が抱きしめてほしいと願えば、その誘惑に抵抗できたかどうか自信を全く持てなかった。
けれども、彼はその忍耐力を試される機会をついに得ることはなかった。
杏はしばらくそのままの姿勢で嗚咽を漏らし続けたけれど、やがてゆっくりと彼から身を離した。自らの涙の痕がついた彼の制服のその部分を見つめ、そして気恥ずかしそうに、ごめん、と彼の顔を見上げて小さな声でそう口にした。
「制服、汚しちゃったから……」
本当は泣いてごめん、と言いたかった。そう言ってしまえば、自らの弱さを糊塗する程度のことはできそうだったから。けれど、彼の前ではそうはしたくなかった。自らの弱さを見せることを杏は、双子の妹以外には避けてきたけれど、彼ならばきっと受け止めてくれる、そんな気がした。
「いいよ、すぐに乾くし」
彼はそう言って涙にぬれた部分に指を這わせ、そっとなぞるようにしてから、杏を見つめた。
「僕こそ悪かったよ。僕が余計なことを言わなかったら良かったんだろうね」
屋上で彼があんなことを言わなければ、あるいはそもそもあのような手紙を渡そうとしなければ、杏はこの悲嘆を味合わなくても済んだに違いない。だが、それでも杏と朋也の関係はいずれかの時点で破たんせざるを得なかった。そしてそのことを、杏も知っていた。
「……そうね、確かにそう。あんたが余計なことをしなかったら、あたしがあんたの前で泣くこともなかったから」
だけど、と杏は涙を湛えた瞳のまま、唇だけを動かして笑って見せた。それは明らかに無理をしたものだったが、それを止めようとは春原は思わなかった。
彼女が前へと進もうとするのならば、彼にそれを止めることなどできはしない。ただ彼女が悲嘆の海に溺れそうになったこの時に、すがる藁の一本程度にでもなることができたのならば、それで十分なはずだった。
杏が笑って居られる世界をこそ、彼は望んだはずなのだから。
「これで良かったんだと思う。素直に思えるにはまだ時間がかかると思うけれど……」
いつかは失わざるを得なかった朋也への想いは今でも宝物だった。それがいつか、過去を追憶する記憶へと変化するのだろうか。ただ懐かしい記憶のひとつとして残されるのだろうか。彼女には分からなかった。未来が誰にも見通せないという意味において平等であることを示すように、数カ月後、あるいは数年後の世界において彼女が誰を想い、誰に想われているのかなど分かるはずもない。
ただそれでも、今このときに分かっていることもあった。
「あの手紙の返事はもう少し待って……あたしの受験が終わるまでは」
少なくとも目の前にいる昨年来からのつきあいを有する陽平を、彼女は嫌いにはなれそうになかった。それが恋であるのかどうかを知るすべを持たなくても、もしかすればこの感情が近い将来において本当の意味での恋になるのかもしれなかった――あのとき、朋也に対してそうであったように。
「受験って、いつ終わるのさ」
「来年の2月くらいには、終わってるはずだけどね」
「来年、ね」
春原はわずかに苦笑したようだった。そのことに杏は気付いたが、それ以上追及しようとはしなかった。
「きっとすぐに来るわよ。あたしの片想いの時間よりかは短いんだから」
ただ、彼女はそう言って笑った。やはり無理をした笑顔だったが、それでも泣き顔よりもはるかに似合う、と春原は思う。
例え彼の手紙に対する返事が、単なる義務感からもたらされるものだとしても、それでも構わなかった。
彼女がもしその返事を多少でも悩んでくれるのならば、彼のことを少しでも想い悩んでくれるというならば、断られたとしても構わなかった――あるいはそれをこそ望んでいるのかもしれない。無論、消極的な意味合いにおいて。
来年の2月、彼女の受験が終わるころ、彼がどこにいるのか、ともし問われれば、悩むまでもなく簡単に答えることができた。
冬休みを迎えると同時に故郷である東北に帰り、そこで就職活動をする彼にとってみれば、その頃も故郷にいるに違いなかった。卒業式と男子寮からの引っ越しに伴う数日を除き、彼はこの町にはいない。そして卒業してからはこの町を訪れることもおそらくないであろう。
ならば、断られたほうがいいのかもしれなかった。そうされれば、彼もまた前へと進むことができるのだろう。朋也への想いが叶わず傷つき悶え苦しみながらも、それでも前を向こうとする彼女のように。
その未来を想起したとき、それは確かに喜ばしいものではありえなかった。どれほど糊塗しようとも、彼の恋は、誰にも負けない想いだった。
それでも、杏が懸命に前へ向こうとしているように、彼もまたそうしたかった。サッカーのときにように、暗い感情だけを抱えていたくはなかった。
思わず、杏を抱きしめたくなる。手を伸ばせば届く距離に彼女がいて、春原を見つめていた。思わず腕を動かしそうになり、けれど、彼はそれを寸前で止める。
今はまだ早すぎた。あるいはすでに遅すぎたのか。
「受験、頑張れよ」
春原は、そんな内面の葛藤をまったく表情に出さず、そう言って笑ってみせた。
「あんたに言われるようじゃ、おしまいよね」
そして杏もまた、普段の彼女ならば口にしたであろうセリフを、どこか苦労しながら口にした。精いっぱいの笑顔と、零れそうになる涙を瞳に湛えたまま。
そして杏は、カバンを手にすると、またね、と残して身を翻した。涙はまだまだ枯れ切っていないようだったが、それを為すのは彼の役目ではないのだろう――今はまだ。あるいは永遠に来ないかもしれない。
それでもできることならば、春原は彼女のすべてを受け入れてあげたいと願わずにはいられない。
どのような未来が訪れるかを、この時の杏も春原もまったく想像できずにいる。そしてその未来がふたりの前に訪れるのには、なお4カ月の時を必要としていた。
あとがき
はじめまして、またはお久しぶりです。熊野日置です。
最後と言うことで是非に参加したく思いまして、シリアスっぽいSSを書いてみました。朋也or智代の誕生日イベントなのに、どちらもメインキャラではないようにしてみました。
杏の悲恋は色々なSSで描かれているので、何番煎じか分かりませんが……
楽しんで頂けましたら幸いです。
最後にこのようなSSを掲載して下さったクロイさんに心より御礼申し上げます。
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