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 片想い




 第二話




「岡崎。たまには昼飯一緒に食べないか?」
 学校の昼休み。多くの生徒が学食や売店に向けての短いようで長い、そして険しい徒競走に向かっていく中、彼は昨年からの友人に対してそう尋ねた。
「悪いな、春原。今日も先約があるからな」
「先約か。なら仕方がないか」
 岡崎朋也が春原の誘いをにべもなく断ったにもかかわらず、誘った側の反応はいささか諦めが良すぎるものだった。いつもなら食い下がろうとする朋也にとっての悪友は、もともと朋也が応じるはずがないと分かり切ったような態度のように思えた。
 が、考えてみればそれほどおかしなことではないかもしれない。朋也がこの目の前にいる金髪の悪友と食事を共にしなくなって数カ月が経過していたし、彼がそうしなくなった理由は別に春原のことが嫌になったからではなかった――全く別の意味では嫌であるには違いないが、それは忌避という意味を余り含んではいなかった――からだった。
「先輩」
 そこにいる生徒の数を急激に減じさせつつある彼らがいる教室の扉付近から女生徒の声が聞こえてきた。
 黒く美しい髪を背中の中ほどにまで伸ばした少女、そしてやや赤みかかった髪を短く纏めている少女が、それぞれに異なる瞳の色で教室のなかを見つめてきていた。
 その教室にいる幾人かの生徒の視線がそこに向けられ、けれどすぐに興味を喪ったように視線が外されていく。そこにいる少女たち――エンブレムからひと学年下であることが示されていた――が誰を目的にここにきているのかが周知されてしまう程度には慣れた光景であったからだ。
 朋也の視線が二人を捉え、けれどもそこに二人しかいないことにどこか怪訝な様子を見せた。
「仁科さん、杉坂さん」
 そのとき教室の中にいたこの教室の学級委員長である藤林椋が、二人の元に歩み寄って行く。
 もともと面識のない彼女たちであったが、朋也とふたりの後輩が一緒に過ごす時間が増えるにつれ、面識を持つようになっていた。
 朋也と、彼を熱のこもった瞳で見つめる二人の少女の間には、本来いかなる関係性も存在しないはずだった。学年が異なり、同じ部活に所属しているわけでもなく、住んでいる地域も異なる。たまたま同じ学校に通っているというだけなのだから。
 春原も詳細を聞いたわけではなかったが――彼の悪友は自慢話をするような人間ではなかったからだ――、ふたりの少女が評判の悪い隣の学校の不良生徒たちに襲われそうになったところを、たまたま通りかかった朋也が助けたことがきっかけであるらしかった。
 そういえば彼女たちがこの教室にやってくるようになる少し前に、彼が顔のいくつかの部分を腫れさせて登校してきたことがあった。
 そのことを椋に問われて、大したことじゃない、それだけを答えたはずだ。幾ばくかの照れと、大半の本心を併せた表情を見せながら。
 考えてみれば、あの傷がその救出劇によって出来たものだったのだろう。
 彼がそんなことを考えている間にも、ふたりの後輩と椋との会話は続けられていた。
「今日はお二人だけですか? いつもならお姉ちゃんも来るはずなのに」
「そうですよね。いつもわたしたち四人でご飯を食べてるのに」
 杉坂と呼ばれた赤みかかった髪とそれと同じくらいの瞳の色を教室の蛍光灯のもと見せている少女が、少しばかり心配そうにしていた。
 その隣にいるもう一人の少女、仁科りえもまた視線を巡らせて隣の教室の方向を見つめている。
「渚先輩が病気で休学されてひとり減ってしまったから……」
 りえはそう言いながら、寂しそうな表情を見せた。演劇部室での昼食会は、その参加者が朋也を除く全員が女生徒であり、そして彼女たちがそこにいる理由は春原のすぐ傍にいる彼にとっての悪友にこそ求められることは、おそらく朋也以外の全員が想像ないし理解するところであったが、それでももし杏がこの場所に来なければ、ライバルが一人減ったなどという暗い喜びを見せるようなことはしないであろうこの少女たちは、おそらく本当に悲しく思うのだろう。春原は彼女たちのことをあまり知らなかったが、抱いた思いが間違っているとは思えそうにもなかった。
「そういや、遅いよな」
 春原はそう口を挟んだ。彼の視線は朋也に向けられていたが、その朋也は心配しているというほどではなくても、どこかに訝しげなものを浮かべていた。
 杏が――そして以前までなら渚も含めて――朋也たちの昼食に混ざっているのは、一人でいることが多く、そして立ち上げようとしていた演劇部がついに正式なものとならなかった渚の気を紛らわせようとした朋也のきまぐれ――そう言ってしまうのは薄情であるかもしれないが、冷笑的に眺めるならば確かにそう言う一面があった――、そして朋也に関することに対して敏にならざるを得ない杏の想いによってであろう。
 杏は双子の妹である椋を巻き込もうとしていたようだったが、その椋はすでに勝平という恋人がいたこともあってか、必要以上に関わろうとしなかった節があるように春原には思えた。あるいはそうすることで、杏の決意を促そうとしていたのかもしれなかった。
「……」
 続けて春原は言葉を紡ごうとして、開いた口をそのままに、何か言いにくそうにしながらポケットに手を突っ込んだ。手のひらには、薄っぺらい封筒の感触が伝わってくる。
 杏が来るならばおそらく何の価値も持たないであろうそれを、一瞬手のひらで握りつぶそうとしてしまいそうになり、けれどそれを寸前のところで止めた。
 彼女はまだ来そうにもなかった。一つ息を漏らし、決意の色を込めた色を瞳に乗せて、それから不自然に椋に向きなおり、これを、とややかすれた声を出す。そうしながらポケットから一通の封筒を差し出した。それは安っぽい封筒で、その表面には不自然なしわが浮かんでいた。それが彼のポケットにどれだけ長い間収められていたのかを、間接的に示していた。
「……なんだ、藤林にラブレターか?」
 朋也の呆れたような声が聞こえ、椋は差し出された紙を受け取りながら、ええっ、と驚いた声を出し、それから困ったようにその封筒をどうしようかと悩んだ挙句に、りえと杉坂に差しだそうとした。
「いやいや、椋先輩。わたしたちが貰うわけにはいかないでしょ?」
「そ、そうですよ……それに、その……」
 杉坂とりえがそう声を漏らし、そして視線をほとんど同時に朋也へと向ける。彼女たちの瞳には単に友人や恩人に対して向けるようなだけではない想いが込められた色が、はっきりとみることができた。
「だよな」
 そして少しばかり驚くべきことに、そんな後輩の少女たちに対して賛同の意思を真っ先に示したのは、朋也だった。
「っていうか、春原。こいつらに気があるのか?」
 怒りの感情の、その一端を見せたようなやや強い語気に、春原は苦い表情の上に辛うじての笑みを上塗りし――おそらくは朋也に向けられた彼女の想いが迎える結末を予想して――そうじゃなくて、と応じた。
「これを杏に渡せば、ここに来るんじゃないのかなって思って」
「どうして、ですか?」
 不思議そうに尋ねる椋に、春原は肩をすくめるようなしぐさを見せた。
「まあ、いい感情からじゃないだろうけどね」
「あいつの悪口は書かない方がいいぞ? 殺されるだけじゃ済まないからな」
「その点は大丈夫。あいつの悪口はどこにも書いてないからね」
 そう応じつつ、あるいはそれでも怒るかもしれない、とも思うが、それでも椋に委ねた手紙を返してもらおうとは思わなかった。
 それにあと半年もすれば、このまま状況が進めば間違いなく杏にとっての接点は確実に失われる。学校を卒業し隣町の大学に進学することを目指している彼女は、この町に残ることになるであろう朋也のそばにいること自体が難しくなるのだから。
「……それを持っていってくれないかな、椋ちゃん」
 彼はそう言って、わずかにため息にも似たものを漏らした。杏の状況は彼にとってもまた同じだった。この学校を卒業後、実家のある東北地方に戻らざるを得ないのだから。そうなれば、もう会うこともないだろうから。だからいつか、と思いつつポケットに忍ばせていたものであった。そしてそのいつか、が必要なくなるような状況を望んでいたことも事実だった。彼女の笑顔が最も輝くであろう場所は、春原の隣ではないことを、彼は気付かずにはいられなかった。
「それから」
 春原は椋の近くに歩み寄ると、彼女にだけ聞こえるような声で続けて言った。
「渡すときにこう言ってくれないかな。僕は本気だって」
「……?」
「言えば通じる……と思うんだけどね」
 苦笑気味に彼は言って、そして椋から離れる。
「……わかりました」
 ほんの数拍ほどの沈黙の後、椋は春原に柔らかい笑みを浮かべた。その笑顔がまるで彼の内心を見透かされているようで居心地が悪かったが、同時に少なくとも双子の妹に拒否されずにすんだ、ということの、証左でもあるように思えて、いつもの軽い笑顔を返す。もっとも表情の端々には引きつったようなものを見ることが出来たが、誰もそのことに気づかなかったか、気づいたとしてもそれを指摘しようとはしなかった。
「じゃあ、行ってきますね」
 椋がそういい残して隣のクラスへと向かう。その様子を眺めながら、朋也がゆっくりと立ち上がり、りえと杉坂の元へと向かっていく。三人がそのまま雑談を始めていくのを眺めやりながら、昨日まではそこに杏の姿もあったことを、彼ははっきりと記憶していた。
 もしかすればこの場所に彼女がいないのは遠慮からなのだろうか。それとも、もうすでに諦念に縛られてしまったからなのだろうか。いずれにせよ彼女らしからぬ行動のように思えた。
 そのとき朋也が、りえと杉坂に先に演劇部室に行っておこうと声をかけ、そしてそのまま教室から廊下へと移動し始めた。
「いいんですか、先輩」
「杏先輩、まだ来てませんけど」
「いいさ、そのうち来るだろうし。藤林が呼びに行ったんだしな」
「もう少しだけ杏を待ってもいいんじゃないの?」
 そのまま演劇部室に向かおうとする朋也に春原は声をかけたが、かけられたほうはわずかに首を傾げただけであった。彼女を待つ意義がないということなのか、必ず来るだろうという信頼からであるのかを春原は容易に判断し得なかった。それは彼の判断力と言う以前に、どうしても藤林杏という少女に向けられた彼の内心がかけてしまうフィルター越しに眺めざるを得なかったからであろう。いら立ちにも似たものを覚え、それを苦労して表情に映し出さないようにしていると、隣の教室から足音が聞こえてきた。昼休みに学食に向かう生徒、あるいは中庭に出て食事を取ろうとする生徒の足音に混じってさえ、その音が春原の耳にしっかりと届いた。
「……ごめん、遅くなって」
 短い距離を疾走してきた、長い髪のひと房を顔の横でレースのリボンでまとめた、隣のクラスの委員長が、顔を上気させながら――同時にどこかに硬いものを見せつつ、朋也に声をかけた。
「いいさ、来たんだし。それにしても珍しいな。杏がこんなに遅れるなんて」
「どうしても外せないクラスの用事があって……ね」
 歯切れの悪い言い方でそう応じながら、杏の視線が春原へと向けられる。
 杏が姿を見せてからずっと彼女の淡いアメジストが見せるような色を帯びた瞳を見つめていた春原だったが、けれど杏の視線はただの一度だけ春原のそれを捕らえただけで、すぐに視線は外されてしまう。
 けれど、彼女の形の良い唇には、昨日までとは異なる――あるいは希望的な想いのフィルターがそう思わせているのかもしれないが――笑みを感じられた、そんな気がした。
「ともかく、行きましょうか」
 杉坂がそう言うと、りえが頷いて見せた。
「お昼休みも限られてますしね」
 ふたりの後輩の視線が春原を、ついで杏を捉える。だが、それに対してふたりの上級生は少なくとも表面上においては何も反応を示さなかった。
 りえと杉坂はその話題に触れるべきかどうか短い時間悩んだ結果、そのことに触れないことにしたが、ただひとり春原がどこかためらいを感じさせる表情を一瞬だけ見せて、それから何でもないことのように、それでもゆっくりと紡ぐように言葉を発した。
「……僕は応援してるからさ」
「……陽平」
 春原の言葉に、杏は吐息を混ぜ合わせながら彼の名前を口にする。けれど、そこには呆れや怒りの類の感情は含まれていなかった。淡いアメジストを想わせる彼女の瞳は、もしかすれば廊下を照らす蛍光灯と窓から差し込む日光の、合成された光が見せた錯覚であるのかもしれないが、春原には潤んでいるようにも見えた。
 だが、彼女はそれ以上何も言おうともせず、先に演劇部室に向かい始めた朋也たちの後を追うようにゆっくりと歩き出す。そして春原の視界から消えるまでずっと彼を振りかえることもなかった。
「うまくいくといいんだけどね」
 春原はそう呟いた。その響きに、すぐ傍にいた椋がそうですね、と応じた。
「春原君。お姉ちゃんがすぐに来るなんて、何を書いたんですか? お姉ちゃん、手紙の内容は見せてくれなくて……怒ってなかったから変なことは書いてなかったんだと思うんですけど」
 その問いかけに、春原は微苦笑を持って応じた。それはどう答えたものかという思案の末に答えが見つからなかった彼の想いを示していたが、そのことに気づけるほど椋は春原との付き合いは深くはなかった。
「十分に変なことだとは思うよ。きっと、怒るのも馬鹿馬鹿しいことだったんだろうね」
 春原は小さく肩をすくめると、そう応じた。それは彼独特の軽い口調でありながら、そのどこかに彼の本心を感じることが出来たような気が、椋には思えた。
 何を書いたのか、気にならないわけではない。ただそれはおそらく春原と彼女にとっての双子の姉との間におけるささやかな秘密であるはずだった。
 もしどうでもいいことであるならば、杏は春原に対し辞書をもって制裁を加えていたであろうから。
 春原は杏が廊下の角を曲がって見えなくなるまでその後姿を見つめ、その彼女が時折見せる横顔にささやかな笑顔を見出すことが出来たことに満足したように、視線をそらした。
「じゃあ、僕も昼飯食べてくるかな」
 嘆息を言葉の裏側に潜ませたように彼はそう一人呟き、そしてそのまま教室から出て行った。




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